3-2
一人きりで放置されてみると、ノエルは時間をつぶすのに苦労した。
コンラートの言葉を思い出して夜景を見ようとバルコニーの前に行ってみたが、ぴたりと閉ざされたガラス戸に諦めざるを得なかった。
彼の話では中層は大きな円形劇場のように、外側ほど高くなる階段状の構造をしているという。
その中心には天の杖と呼ばれる公共転移機関の巨大な柱が建っていて、天空道路が何本も交わり、夜の中層はまるで光の鎖に吊るされた丸い宝石箱のようなのだとか。
ルビーやサファイア、エメラルドに琥珀……とコンラートは例えたが、ノエルにはあまりなじみがなくて想像しづらかった。代わりに浮かんだのは銀のボウルいっぱいにカラフルなマカロンやドラジェを詰めこんで、飴細工で吊るした甘くて美味しそうなイメージだ。
夜景を見るためだけにリュシアンを呼ぶわけにもいかず、しばらくノエルは夜空を見ていた。
そのうち、ガラスに映る自分に気づいた。
地味で、やせっぽちで、ゴミ捨て場をうろちょろしてるあのネズミがそこにいた。
リアルに映し出されたその姿に、愕然とする。
(わたし……こんなかっこうだったんだ)
こんなみすぼらしいネズミをペットにするなんて言って、リュシアンは恥ずかしくなかったのだろうか。
(ああ……でも、人間のときも大して変わらないか)
ノエルは冷たいガラス戸に手をついた。
人間のときだって地味だし貧相だし、ごみ溜めと呼ばれる下界暮らしだ。
(リルみたいに可愛ければガーデンの人間にももてたりもするのかもしれないけど………ってなに考えてるんだろう)
ノエルは虚しい考えに肩をすくめ、ガラス戸の前から離れた。
隣の部屋はずっと静かだ。リュシアンはいまなにをしているのだろうとぼんやり思った。
バルコニーに明かりが漏れていたので、休むといってもまだ彼が起きているのはたしかだ。
(あの子供たちのことを調べてくれてるのかな……明日ちゃんとお礼を言わないと)
別々の部屋にいるおかげで、ノエルは変な緊張をしなくてすんだ。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれないと気づき、また申しわけない気持ちになった。
そうこうしているうちに部屋の明かりが自動で消えてしまった。センサー式のため、ノエルが小さすぎて感知できなかったようだ。
暗くなると急に体が疲れを訴えはじめる。
この数時間で驚いたりショックを受けたり落ちこんだりをくり返したせいか、頭も体もそろそろ安らぎを求めているらしい。
だんだんと眠気がやってきて、ノエルはなんとかソファによじ登ると体を丸めて目を閉じた。
やわらかくて寝心地のいいソファは、すぐにノエルを眠りに引きこんだ。
―――夜中に、一度だけ目が覚めた。
何時だったかはわからない。バルコニーに誰かが立っていた。
手すり壁に肘をついて下を見下ろして、その背中を薄ぼんやりとした部屋の明かりが照らしていた。
妙に胸をしめつけられる、さびしい光景だった。
リュシアンさんだ―――と思ったとき、その背が振り向いた。
あわててノエルは目を閉じた。そしてそのまま、また眠ってしまった。
*
翌日の朝、ノエルはけたたましいベル音にたたき起こされた。
驚いて飛び起きると、ちょうどリュシアンがテレビのスイッチを入れるところだった。
透明のパネルに一人の老人が映しだされる。灰色の髪をすべてうしろへ流した厳しい面持ちの紳士で、背筋はぴんとしており、牧師のような黒い服をきっちり着こなしている。
リュシアンは相手を認めると、かなり迷惑そうな顔をした。
『私だ』
老紳士は厳然たる声でそれだけ言った。どうやらエントランスにいて、訪問客のようだ。
なんだか近寄りがたい雰囲気の人だとノエルは思った。
「……どうぞ」
リュシアンは低く答え、ドアのロックを解除した。出迎えるつもりはないらしい。
だが相手も承知しているのか、黙ってそのまま部屋のなかへと入ってきた。
「……なぜ召集に応じん」
老紳士はソファに深く腰をおろすと、持っていたステッキを脇に置いて、リュシアンを見上げた。
ノエルはとっさに隠れたローテーブルの下から、はらはらした気持ちで二人をうかがっていた。
どういう関係かはわからないが、お互いに相手が気に入らないような、怒っているような、険悪な空気をひしひしと感じたのだ。
「会議のたぐいはすべて委任すると言ったはずですが?」
リュシアンは腕組みをしてベッドルーム側の壁によりかかった。
老紳士の眉がわずかに跳ねる。ノエルの方がびくりとした。
「君も協会の会員なら、責務を果たすべきではないのかね?」
「研究成果なら毎月、報告書を上げていますが」
「研究だけが責務ではないだろう。それに君がしたのは瑣末な研究ばかりだ。ミレイユがすべてを委ねた学者がそれでいいのかね? 恩師に申しわけないとは思わないのか」
(ミレイユ……?)
つい昨日、聞いたばかりの名前にノエルはぴくりと反応した。
(ミレイユって……あのミレイユ博士? 研究とか協会とか言ってるし……そうだよね? その人が恩師って……じゃあ、リュシアンさんはミレイユ博士の弟子ってこと?)
新事実に目を丸くする。答えないリュシアンに老紳士は鼻で息をついた。
「正直なところ、いまのままではシステムの修繕どころか問題箇所の発見も難しい。なぜ破られたのか皆目見当がつかんのだ」
「……よほど対策メンバーが無能ぞろいなのでしょう」
「学者も技術者も、みなその道の最高権威を呼んでいる! 能力者も然りだ。これ以上優秀な対策チームはないはずだ」
「偉ければ優秀というわけではありませんよ、ダレスト会長。無名な能力者のなかにもすぐれた力を持つ者はいる」
リュシアンはすっと目を細めた。ダレスト会長と呼ばれた紳士は口元で笑った。
「そうだな。まさに君がそうだった」
「……俺は能力者じゃない」
「だが君にはマナが見える。その眼が、いま協会には必要なのだ。システムのどこに瑕疵があるのか、記録をたどって破られた瞬間を見られるのは君しかいない」
「…………」
リュシアンはまた黙りこみ、バルコニーの方を向いた。
ノエルは話を聞くうちに、どうやらダレストの言うシステムが昨日ニュースで報じられていた製薬会社の倉庫管理システムであるらしいことを察した。
おそらく協会というのもミレイユ博士が所属していたという、くだんのシステムを開発した協会なのだろう。完璧なはずのシステムが破られてしまい、その対応に追われているに違いない。
「そうやっていつまで無視しつづけるつもりかね? 君のその非協力的な態度はミレイユも喜ばないのではないのかな」
「さあ、どうでしょう。博士もあまり協会との仲はよろしくなかったようですから」
「いいや。君の才能がいかんなく発揮されることを、彼女も望んでいるはずだ」
はっきり言いきるダレストにリュシアンは視線を戻した。
「たしかに、遺言には協会に推薦すると書かれてありました。だが会員になってからはどうしようと俺の勝手です」
「約束さえ守ればあともう自由だというわけかね。君はいったい、彼女がなんのために自殺したと思っているんだ?」
リュシアンの表情がこわばった。自殺という単語にノエルもどきりとする。
「罪の意識にさいなまれてか? それとも激しい非難の声に耐えきれなくて? それもあるだろう。だがミレイユは自分の財産も研究も協会内での権限も、すべて君に譲るという遺言を残した。その常識はずれな相続が可能だったのは、まさしく“遺言”だったからだ。つまり彼女は償いとして、自分の命とひきかえに、君に研究者としての道を切り開いて―――」
責めるような口調で語っていたダレストが急に口をつぐんだ。
彼はローテーブルの脚の陰から顔をのぞかせていたノエルに気づき、ぎょっとして立ちあがった。
「なんだこの汚らわしいネズミは!」
とっさに脇にあったステッキでノエルを指し示す。
突きつけられたステッキがそのまま殴りかかってくるように見え、ノエルはソファの下へ逃げこんだ。
「……いま研究中の動物ですよ」
リュシアンが壁から身を起こす。
「研究だと? どうせまたくだらないことを――」
「会長。お話はもうじゅうぶんうかがったようですので、お帰り願えませんか。答えは最初から出ている」
リュシアンは冷たく言い放ち、リビングをつっきってエントランスへの扉を開けた。
「……どうしても協力しないつもりか? いいかげん顔を出さんと君の評判はますます悪くなるぞ。噂もひどいものだ。一連の事件は君の意趣返しだと言う者もいる」
「言わせておけばいいでしょう。俺は気にしない」
もっとも協会の評判は下がるでしょうが、とリュシアンは皮肉った。
ダレストは憤り、乱暴な足取りでエントランスへ向かった。
途中、どうにも我慢ならずに見送りについてきたリュシアンを振り返る。
「システムの不備を修繕できれば、君は彼女を越えられるんだぞ! 傷ついた恩師の名誉も救える! 師を上回る結果を残すことはいい手向けにもなるのではないかねっ」
「俺はあの人を越えたいなんて、一度だって思ったことはありませんよ」
憤慨するダレストをリュシアンは冷静に見返した。
「あのままの関係で、俺はなにひとつ構わなかったんだ。それをあなた方が壊した。意趣返しをするというならこれこそがそうですよ。わかったらお引き取りください。今日はこれから用事があるんです」
「……わたしを追い返してただで済むと思うのかね」
「なにか下さると言うのなら楽しみに待っていますよ。お望みなら追いつめられて自殺してやってもいい」
リュシアンの性質の悪い冗談にダレストは心底不快な顔をした。
「なんという不愉快な師弟だ! 信じられん!」
来たときとはうって変わって、荒々しい身のこなしで彼はリュシアンの家をあとにした。




