3-1
リュシアンの家に着くなり、ノエルはその広さに圧倒された。
(うわあ……リビングだけでもロミスのお店が二軒は入りそう!)
キッチン寄りに置かれた白い二人掛けのテーブルの上から、ノエルは部屋のなかを見まわした。
興奮から変な緊張もひとまずどこかへ吹っ飛んでしまう。
随所に置かれた観葉植物に、明るすぎない間接照明。座り心地のよさそうなソファとアンティーク調のローテーブル。その向こうは一面ガラス張りのバルコニーになっている。
いずれの床も、濡れたように光を反射するなめらかな白い大理石だ。
(こんな豪華なところはじめて……ここに一人暮らしだなんて、やっぱりリュシアンさんはすごい人?)
彼の家は上層でも最も高い建物、通称ヘブンと呼ばれる中央塔の五十階にあった。
塔は百階建ての円柱形で、ワンフロア五戸の構造になっており、全ての部屋から外が見渡せるようになっていた。空間を贅沢に使った広い間取りは、上層のなかでも特別な者しか住めないという誇りの表れのようだ。
(こんな部屋で暮らす生活って……どんなふうなのかな)
もちろんキッチンもお風呂もトイレもあり、それらがぜんぶきちんと動くのだろうし、部屋の鍵だってちゃんとかかるから強盗に寝込みを襲われる心配もないだろう。
下界の廃墟となったタワーでは、居住フロアの使えそうな部屋はほとんど怪しげな組織の拠点になっていて、しょっちゅう腕に刺青のある強面の男たちが出入りしていた。企業のオフィスや学業施設、教会すらそうだった。
人々はそんななかで寝泊まりできそうな場所を探してタワーのなかを階から階へ、館から館へ移動する。エレベーターはずっと昔に壊れたままのため、移動手段は自分の足のみだ。
基本、奪いあいの世界だからいい場所を見つけても、ひとたび場を離れればすぐに別の誰かに奪われる。荷物を置いておくなどもってのほかだ。財産ごと奪われる。
だからタワーで生まれた子供はほとんど家なしだった。
(そういえば……リルには悪いことしちゃったな。怒ってるかな……)
ノエルは店を出るときの彼女の嬉しそうな顔を思いだした。
店閉め前にあがれる者はたいてい仲間のぶんの寝床も探す。一人でいるより複数でいた方が安全だし、場所探しも互いに協力しあえるからだ。
(ちゃんと場所取れたかな。わたしにすっぽかされて途方にくれてたり……って、そこまでやわじゃないか)
タワー育ちで十六まで生きてこられたのだ。それなりの根性と機知はある。
それに三年前まで母と一緒だったノエルと違って、彼女は早くから一人で生活してきた。ノエルがいなくなったからといって、さほど困ることもないはずだ。
(うん。リルならきっと大丈夫。問題なのはむしろわたしの方かな……)
日記をもし取り返せたとして、そのあとどうするのか。下界に戻ったところで新しい仕事などそうそう見つからないだろう。
貯めていたなけなしのお金も持っていかれてしまっている。
(店長にどこか紹介してもらうなんて………できないよね)
クビにされた人間など、紹介される方も迷惑だろう。となればもはや身一つで商売するしかない。
タワーの下層や外には娼館と呼ばれるたぐいの店がひしめくようにあふれている。
そこでは給料は出ない代わりに、住む場所と食べ物を得ることができる。
食うに困った人間はみな、最終的にそこへ落ちていくのだ。
(体を売る……かあ)
母を亡くしたときにも一度、考えたことだった。ノエルとてタワー育ちだ。それもひとつの生き方だということはわかっているし、そこで生きている女性たちを愚かだとも思わない。
でもできれば行きたくないと思うのは当然だ。
考えるほど気分が沈んでいき、ノエルは首を振った。
(やめやめ……どうせなにも変わりはしないんだから、そのとき考えようっ)
「おい」
ちょうどそのとき、背後のカウンターキッチンの向こうからリュシアンが声をかけた。彼はキッチンの壁際にあるレンジに似た四角いマシンと向きあい、顔だけノエルの方を向けた。
「なにが食いたい」
真顔で訊かれ、一瞬ノエルは彼がなにを言っているのかわからなかった。
「夕飯だ。なにが食いたい」
「夕食……えっと、あの………ネズミのまま食べるんですか?」
「そうするしかないだろう」
彼の答えに言いしれぬ不安を覚えた。
「……あの、リュシアンさん。確認までにうかがいますけど、わたし……人間に戻れるんですよね?」
まさかずっとこのままネズミなのだろうか―――心臓が嫌なテンポで鼓動を打ちはじめる。
「おまえのマナが尽きしだい元に戻る」
リュシアンは短く答えた。
ノエルはほっと胸をなでおろした。
「戻れるんですね? よかった……でもマナが尽きしだいって、どういうことですか?」
「……転化の力はおまえに宿っていたすべてのマナを利用して実行した。その作用がどれくらいつづくかは、マナの量次第ということだ」
「……いつ尽きるかはわからないんですか?」
「人によって宿るマナの量は違う。一概には言えん。だがそうだな、すくなくとも一日はまだそのままだろう」
「一日……」
ということは、明日の夕方までだ。
「あの……いま、もとに戻していただくことはできないんでしょうか」
ノエルは恐る恐る訊いてみた。
リュシアンは繰り返される質問に苛立ったのか、ノエルから視線を外してマシン)の方に向き直った。
「俺はマナは使えるが、能力者ではない」
「……え?」
「対象物自体が持つマナを利用して現象を引き起こすだけだ。おまえのマナはすべてもう、転化の力に使われている。戻すための余力はない」
リュシアンの説明はいまいちよくわからなかった。
だが戻してもらうことができないらしい、というのは理解した。
ノエルは肩を落とし、諦めた。
(でも……マナが使えるのに能力者じゃないってどういうこと……?)
そもそもマナを使うってどういう状況なのだろう。
能力者ではないノエルにはその感覚がよくわからない。
「おい。質問に答えないと飯はなしだぞ」
じろりと睨まれ、ノエルはあわてて答えた。
「じゃ、じゃあチーズで!」
「チーズ? それだけか?」
「は、はい」
ネズミの姿で食べられるものといえば、それ以外にあまり思いつかなかった。
下界でよく見かけるのは残飯をあさっている姿だが、まさかそんなことは言えない。
ノエルの答えにリュシアンは無言で正面のマシンを操作した。ピ、ピと何度か甲高い電子音がつづく。
気になったノエルはカウンターによじ登ってキッチンのなかをのぞいた。
(うわあキッチンも広い! 使いやすそう)
シンクの脇は広々としており、パイ生地を伸ばすのも楽々できそうだ。モノトーンのシンプルなデザインで、とてもきれいにかたづいている。
隅の方にちょっと紅茶の缶があるくらいで、調味料も調理器具も見当たらない。
(オーブンはどこだろう……もしかしてあれかな?)
ノエルはリュシアンの前の四角いマシンに視線を移した。
と、同時にピピ、と先ほどとはまた違う音が鳴り、なかで明かりがついた。
「できたぞ」
扉を開けてリュシアンが皿を取りだす。
(えっ、もう!? というか、チーズができたってどういう―――)
困惑するノエルの前に、リュシアンは数種のチーズが山盛りになった皿を置いた。
ふつうの人間が食べるにしても多すぎる量だ。
(ええっ……どこから出てきたのこれ!? チーズって言ったのついさっきだよね!?)
「よくわからんから適当に注文した。好きなやつだけ食えばいい」
驚いてかたまっているノエルに言うと、リュシアンは今度、自分のぶんを注文した。扉脇のパネルを何度かいじるとまたピピ、と音がしてなかの明かりがつく。
そうして次に出てきたのは、蜂蜜たっぷりの焼きたてハニートーストのようだった。
リュシアンとの二人きりの夕食は、このうえなく気まずいものになった。
まず、会話がない。
彼は必要最低限のこと以外、ほとんど口をきかないので、ノエルが話しかけない限りいつまででも沈黙がつづいた。
次に、そんな状態の二人が向かいあわせで食事をとっていた。
ノエルには否応なしに正面のリュシアンが目に入り、どうしても落ち着かない。山盛りのチーズは見ただけでもお腹いっぱいなのに、この重たい沈黙と窮屈な空気でさらに食欲は減退した。
(なにか……話しかけた方がいいのかな)
チーズの山に隠れるようにして、ノエルはこっそりリュシアンをうかがった。
彼自身は沈黙を気にするようすもなく、黙々と食事を進めている。きっと気まずいなどとは思っていないのだろう。
ノエルがいてもいなくてもリュシアンには関係ないのだ。
いつだって彼は彼らしくあるに違いない。
(話しかけたら逆に迷惑かも……それになにを訊いてもなんだか苛立たせてしまいそうだし)
ご飯も宿も提供してもらっている身だから、なるべく迷惑はかけたくない。
助けられてばかりでお礼をしたいとも思うが、ノエルにできることといえばお菓子作りくらいで―――だがそれもネズミの姿では不可能だった。
(そういえば、せっかく広いキッチンなのに全然使われてないみたい……)
先ほどきれいにかたづいていると感じたのはほとんど使われていないせいのようだった。
あの四角い魔法のレンジのようなマシンが、食べたい料理をできたての状態で出してくれるため、いちいち料理をする必要がないのだ。あの箱一つあればなんでもできてしまう。
すごく便利だが、それゆえになにかものさびしい。
温かみがないというか人の温もりがないというか、そんな感じがする。
この広い部屋もそうだった。一見豪華だけど、しばらく経ってみると生活感が極度に欠けていて、妙によそよそしく見えてくるのだ。
いつも狭い場所で、同じような子供たちと身を寄せあうようにして過ごしてきたノエルは、特にそう感じた。
(こんなところに一人で暮らしていて、リュシアンさんはさびしくないのかな……)
などとぼうっとしていたら、そのリュシアンと目があった。
びくりとして尻尾と耳がぴんと立つ。
「なんだ? これが食いたいのか?」
リュシアンはトーストのかけらをフォークで持ち上げて訊いてきた。
どうやら彼が問いかけてくるほど、じっと見つめてしまっていたようだ。
「い、いえ! 違うんです……あのっ」
恥ずかしくなってノエルは必死に首を振った。
たしかに彼のハニートーストは美味しそうだったが、そもそも食欲があまりない。
「えっと、その……だからつまり……そう! あの壁のパネル! あれはなんだろうって」
ノエルはとっさに彼のうしろの壁にかけられている、透明な長方形の板を指差した。
「あれはテレビだ」
「テレビ……?」
リュシアンは黙って右腕の時計を操作した。
すると透明だった板にぱっと映像が映る。美人の女性キャスターがその日のニュースを報じはじめた。
タワーの気まぐれに映る旧タイプのテレビとはもちろん違い、格段に映像はきれいだった。なによりこんなに薄い、しかも透明のテレビなど見たこともなく、ノエルはしばし視線が釘づけになった。
リュシアンは黙ってまた食事に戻った。
『では次のニュースです。先日の事件に引きつづき、またしても製薬会社で盗難事件が起きました。昨夜、クライズ製薬の倉庫管理システムが何者かに破られ、前件同様、数種類の薬剤が盗まれていたことが判明し――』
キャスターはよどみなくすらすらとニュースを伝えていく。ノエルは耳に心地いいその声に聞き入った。
途切れがちな下界のテレビではこうはいかない。
どれほどキャスターがなめらかに話そうと、ぶつ切りでしか聞こえてこないのだ。
ニュースは最近中層で連続している薬剤盗難事件について伝えていた。
なんでも、それまでは完璧と謳われていたセキュリティシステムがやすやすと破られたために、結構な騒ぎになっているらしい。
犯人は同一とみられており、倉庫内にはもはやこのシステムは完璧ではないとの挑発的な犯行声明が残されていたという。
『破られたシステムは二年前に亡くなった都市開発功労者の一人、ミレイユ博士の発案によるもので、博士の資性である空間縫合を効率的に組み込んだ仕組みとなっており――』
(あ……ミレイユ博士って知ってる! たしか下層民保護条例を最初に提唱した人だってお母さんが……)
能力者のなかではめずらしく下層民擁護派の人間で、下界でも彼女を支持する者は多くいた。ノエルの母もその一人だ。
下界から失われつつあるライフラインの再生を訴え、物資の援助にも力を貸していたという。
(でもいま、亡くなったって言った……? たしかまだすごく若かったはずだけど……)
そんなこと、全然知らなかった。
いつもテレビのある場所で過ごせるわけではないし、途切れがちな内容ではきっと聞いていてもわからなかったろう。
それに母が死んでからはその日を生きるのに必死で、他人の、それもガーデンの人間のことなんてノエルの目にも耳にも入ってこなかった。
(二年も前に亡くなっていたなんて……病気? それとも事故にでもあったのかな……)
数少ない理解者の、それも早すぎる死に、しくりと胸が痛む。
キャスターはノエルのそんな思いを知るはずもなく、この一連の事件が博士、もしくは博士の所属していた協会側――システムの開発を手がけたらしい――に恨みを持つ者の犯行とみられていることを報じた。
盗まれた薬剤が特に希少でも高価なものでもなく、ありふれた平凡なものであること、破られているシステムがいずれも博士の携わったものであることなどがその理由らしい。
『また、ミレイユ博士は急進的な下層民擁護派の研究者としても知られており、学会や協会内での対立も絶えなかったことから、捜査当局ではこれらの事情も考慮に入れ』
フッと突然映像が消え、テレビはまたもとの透明パネルに戻った。
(あれ? 故障……?)
と思う間にリュシアンが立ちあがった。
「食事は終わりだ」
「あ……は、はい!」
ノエルはあわててつかんでいたチーズから手を放した。見れば彼の皿は空になっている。
リュシアンはそれをシンクへかたづけると、リビングの隣にあるベッドルームへ向かった。
その扉を開いて、ノエルに背を向けたまま立ち止まる。
「……門の通過記録は調べておく。明日は午前中にコンラートのやつと合流して、おまえの日記探しにつきあってやる。それまではここで自由に過ごすといい。なにかあれば声をかけろ。俺は先に休む」
一気にそこまで言い、彼は返事も待たずに部屋へひっこんでしまった。
(あれ……なんか、怒ってる?)
急に態度が冷たくなった気がした。
またなにか気に障るようなことをしてしまったのだろうか。
(もしかして、あんまり食べなかったせい……?)
せっかく出してくれたのに、ノエルはほとんどチーズに手をつけていなかった。そういえばちゃんとお礼も言っていない。
思い返すと自分でも失礼なやつだと思った。
(最低だ……わたし)
迷惑をかけたくないのに、最初からこれだ。ノエルはテーブルの上にぺたんと座りこんだ。
リュシアンの消えた扉に向かって、ごめんなさいと小さく呟いてみる。
それから傍らのチーズに手を伸ばし、苦労してひとかけらもぎ取った。
齧ってみるとマイルドな食感と濃厚な香りが口いっぱいに広がる。文句なしに美味しい。
ただ、しっかりきいた塩味がなんだか涙みたいに思えて、悲しかった。