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全速力のネズミというのは結構足が速いものだとノエルは身をもって知った。
それにたしかに鼻もいいらしい。深みのあるカカオの香りをたどり、隣のビルへ入ったところでノエルは少年たちの姿をとらえた。広いカフェテラスになっている空間を、彼らはくねくねと向きを変えながら駆け抜けていく。どうやら追いかけっこをしているようだ。
ロミスのバスケットはもうなく、それぞれの手には食べかけのケーキが握られていた。
(ええっ? なんて行儀が悪いの……!)
せめてどこかへ腰かけるなりして食べてほしいとノエルは思った。
一生懸命作っている側としても、食べるときはじっくりその味を味わってもらいたい。
(というか……もう食べられちゃってる!)
持っていかれてからそれなりの時間が経っているので、当然と言えば当然の結果だった。
(待って、じゃあわたしの鞄は……)
どうなったろう、と目を凝らした先で、先頭を走っていた少年が脇から来た通行人とぶつかった。
はね返るようにして尻もちをつく。
(あ! わたしの鞄!)
が床に落ちて、中身が散らばった。
「大丈夫か……?」
ぶつかられた女性が少年に手を貸して立たせる。きっちりとした黒スーツを着た、赤毛の女性だ。うしろに不精髭を生やした茶髪の三十代の男を連れている。
ノエルはまっすぐ赤茶色の日記のもとへ走った。だがたどり着く直前、それは女性の白い手に拾われてしまった。
(ああ! もうちょっとだったのに……!)
ノエルは彼女の足元に崩れ落ちた。女性は気づかず、拾った日記に眉根を寄せた。
「これは……おまえたちのものか?」
「……返せよっ!」
盗みがばれたと思ったのか、少年は急いで女性から日記を奪い取った。そして散らばった荷物を拾い上げ、一目散に逃げていく。
遅れて二人の少年たちがあとを追い、ノエルもはっとした。
その直後、背後から無精髭の男の手が伸び、ノエルは無造作につかみ上げられた。
「おいおい、こんなところにネズミがいるぞ」
(きゃ……やめて! 放して! わたしは日記を追わないといけないんです……!)
ノエルは男の手のなかでじたばた暴れた。だが無骨で太い指はびくともしない。
「そこ、大丈夫ですかー? どうしましたー?」
夢中でもがくノエルの耳に、そのとき間延びした男性の声が聞こえてきた。
立ち止まっている女性らを不審に思ったのか、壁際に控えていた警備員が近づいてくる。
「……行こう。面倒はごめんだ」
女性がくるりと背を向ける。男は警備員に向かって平気だ、と声をかけた。
「ちょっとネズミがいたんだ」
そう言って彼はノエルを吹き抜けになっている二階の端、柵の手すりの上におろした。
「おまえも捕まらないよう早く逃げろよ」
いたずらっぽく言って、足早に立ち去って行く。
(えっ、そんな……早く逃げろって………た、高い!!)
はるか下方に硬そうな一階の床と人の波が見えた。ネズミでなくても落ちたら死ぬ高さだ。
ネズミならそのうえ踏まれるかもしれない。
ノエルは狭い手すりの上でとっさにうつ伏せになった。見ているだけでめまいがし、そのまま落ちてしまいそうで怖くなったのだ。
「……なにをしている」
ぎゅっと目をつむったところに、リュシアンの声がした。
(リュシアンさん!)
救世主! とノエルは涙目で相手を仰いだ。
だがそこに眉間に深く皺の寄った表情を見つけ、ひくりと呼吸を止めた。
本当に怒っているらしいことが、ノエルにもわかった。
「なぜ急に逃げだした。見つけられたからいいものの、あのままはぐれてほかの人間に捕まったりでもしたら、本当に処分されて――」
「あれえ? 先生じゃないですかー。どうしたんです? こんなところで」
リュシアンのまじめな説教をのんきな声がさえぎった。
グレーの制服を着た警備員が歩み寄ってくる。細かく波打つ繊細な金髪に、少し大きめな空色の瞳。
ぱっとその場が華やぐような、美しい顔立ちの青年だった。
「……コンラート」
リュシアンが思いきり嫌そうな顔をした。
(……知りあい?)
ノエルはそっと二人を見比べた。
背は青年の方が高かったが、言葉遣いから察するに彼の方が年下のようである。
「先生が中層に立ち寄るなんて珍しいですね。買い物ですか? あれ、なんですそのネズミ。飼うんですか?」
コンラートと呼ばれた青年は手すりの上に縮こまるノエルを見た。
「……まあ、そうなりそうだ」
不機嫌の滲んだ声でリュシアンは答えた。コンラートはふーんと鼻を鳴らしながら、白手袋をした手でノエルを持ち上げた。
首根っこをつかんで顔の前にぶらさげられ、しげしげと眺められる。
「可愛いですね。うん、きれいなハニーブラウンの体毛!」
(体毛っ!?)
たぶん、褒められたはずだがノエルはショックだった。全身むだ毛と言われたような気がした。
「ずいぶん馴れてますね。これ野生のネズミでしょう? 下界から捕って来たんですか?」
コンラートは空いている方の手でふにふにとノエルのほっぺたをいじくった。
(ふえっ! やうぇて、やうぇてくらひゃいっ……!)
ノエルは必死に手足をバタつかせた。
すると彼は「わあ、尻尾長いなあ」と感心し、今度は尻尾をつかんで逆さにした。
(きゃああああっ怖い怖い怖い! 落ちる! やめて! 痛い!)
かろうじてリュシアンとの約束を守り、心のなかで悲鳴をあげる。
少しでも動けば真っ逆さまに落ちていきそうな恐怖に、ノエルの全身はぴたりと硬直した。
「名前はもう決めたんですか?」
コンラートはノエルを逆さづりにしたまま、リュシアンに問いかけた。
「いや、決めるもなにもそいつには名前が―――」
彼は言葉を止めた。コンラートの前で死んだように大人しくぶら下がるノエルに視線を移す。
(……そ、そういえば、自己紹介してないかもっ)
ノエルも気づいた。だが一応、ロミスの制服にはちゃんと名札がついている。
お客様に名前を覚えてもらって気に入られ、あわよくばガーデンへ玉の輿を! という店長の妙なお節介心から。
「…………」
リュシアンはしばらく真剣に記憶をたどっていたが、その口からノエルの名が出ることはなかった。
(ですよね……そんな気はしてたんです)
たぶん、名札どころか顔もまともに見てなかっただろう。
「まだならハニーブラウンていうのはどうです? ほら、このふわふわした体毛の色」
コンラートはにこやかに提案しながらノエルを振ってみせた。
(きゃーーーーーっ!!)
ノエルはさすがに叫びそうになった。
(やめて! 振らないで! 落ちます落ちますっ……尻尾も痛い!)
半狂乱になり、フルーツピックのような手足をめちゃくちゃに動かした。
だがそれらはむなしく空を掻くだけで、かえって自分の体を揺らしてしまう。
「それにしても先生がペットを飼うなんて驚きですね……どういう心境の変化ですか?」
「別に……はじめから飼うつもりで連れてきたわけでは………おい、よせ。嫌がっている」
リュシアンがようやくコンラートをたしなめた。だが相手は陽気に笑った。
「大丈夫ですよ。ネズミは下水のなかでも生きるんですから! 強い動物です」
「だがそいつは特別なやつで……」
「特別!?」
コンラートの声が裏返った。
「まさか……先生の口からそんな言葉を聞けるとは思ってもいませんでしたよ! そんなにこのネズミが気に入っちゃったんですか? うーん、なんだか妬けるなあ……でもこれはいい傾向なのかなあ……」
ぶつぶつ呟きながら彼は考えこんだ。
ノエルは痛みと恐怖と、頭にのぼってきた血のせいで目が回りはじめた。
(だ、だめ……もう、限界………)
「……おい、コンラート。いいかげんそいつを放せ」
リュシアンが再度たしなめたが、彼は聞いていなかった。
「……よし、僕も先生の親友です! 喜んでこの子を歓迎しましょう。なにか手伝えることがあれば遠慮なくおっしゃってください。ところでこの子、メスですかオスですか?」
(……え)
ノエルはふと嫌な予感がした。
(ま、まさか……っ)
ぐっと顔を近づけてあらぬところを覗きこもうとするコンラートに、彼女のなかでなにかが切れた。
「や……やめてくださーーいっ!!」
とうとうノエルは声の限りに叫んだのだった。