2-1
さまざまな場所へ道を開いているという門センターを出て、ノエルたちは二ブロックほど先にあるID管理局へ向かった。複雑な幾何学模様に石が敷きつめられた通りを、リュシアンは迷いのない足取りで進んでいく。その肩の上からノエルは我を忘れて周囲の景色に見入っていた。
(うわ、すごい……あの街路樹本物だ! 模造植物じゃない! あの街灯は……電気?)
広い道の両脇には、等間隔に広葉樹が植えられている。
その姿を側に立つ常夜灯のあたたかな光が照らしていた。角灯のなかの光はゆるやかに色を変化させながら、まるで生きもののようにふわふわと踊っている。
その大通りを挟むようにして建つのは、ウィンドウディスプレイの華やかな商店の数々。見事に飾りつけられたその品々にノエルの心は知らず浮きたった。
(わぁ……あの服かわいい! リルが着たらすごく似合いそう。あっちのバッグはこのあいだお客さんが持ってたやつかな? かなり有名なブランドだって……あっ、ピアレの絵皿! たしか店長が好きで集めてるやつ……ええっ、ティーセットもあるの!? あの作家は絵皿しかやらないって店長言ってたのに。これは教えてあげないと………わわっ)
身を乗りだしてバランスを崩したところを、リュシアンの手が危ういところでつかまえた。
「落ちるぞ」
「す、すみません………つい見入ってしまって」
縮こまって詫びるノエルを彼は無造作にコートのポケットへつっこんだ。それから顔だけ出るよう、器用につまみあげてくれる。
「……ありがとうございます」
「そんなに見入るほどのものがあるか? このあたりはブリッジと大して変わらんと思うが」
前を向いたままリュシアンが言う。ノエルはポケットの縁につかまり、はずんだ声で答えた。
「似てても全然違います。お店に並んでる商品は種類も数も豊富だし、通りも明るいし……それにわたし、本物の木を見たのははじめてで……」
ノエルは低くなった視界から街路樹を見上げた。覆いかぶさるように枝を広げた樹木の向こうに、まっすぐ空へ伸びるビルの影が見える。きらきらとネオンの明かりを――もしかしたら幻影かもしれない――灯らせて、夕闇のなかで輝いている。
そしてそのビルとビルのあいだを、光の川のように流れていく天空道路。
ただし道を形作っているのは滑空する乗り物たちだ。
「…………」
「どうした」
急に黙りこんだノエルを不審に思い、リュシアンは訊ねた。
「あ、いえ。ガーデンの空も、そんなに広くはないんだなって……」
「空? ああ……空中都市は敷地面積が限られるからな。上に伸びるか、あらたに浮かばせるかしか方法がない」
リュシアンはちらりと藍色に染まりつつある空を仰いだ。
「広い空が見たかったのか?」
「はい……昔、タワーの清掃員だったっていうおじいさんが言っていた言葉があって……」
――空は慈愛に満ちている。見上げる者の悲しみをぜんぶやさしく吸い取ってくれる。
明かりも灯らないタワーの下層。
埃と虫と動物の死骸に埋もれた廊下の片隅で、壁に背を預けるようにして誰にともなく語っていた老人。
その表情はとても穏やかで、彼が昔見た広大な景色を、ノエルはその瞳に見た気がした。
どこまでもつづく限りない鮮やかな青と、ゆったりと流れる白銀の雲。見上げるたびに違う景色を見せるけれど、太古よりずっと変わらずそこにあるもの。
空は慈愛に満ちている。見上げる者の悲しみをぜんぶやさしく吸い取ってくれる。
――けれどそれをあの都市がふさいでしまった……。
「人間の悩みなんかとてもちっぽけでつまらないものに思えてくるんだって……見てると空と一つになれた気がして、心が軽くなるって………そんな素晴らしい空を一度でいいから見てみたくて……」
でも、ガーデンにも広い空はなかった。
「……この都市で空を見渡せるのは上層くらいだ。そのなかでも一番上の――」
最高層、と彼は呟いた。
「ヘブン……?」
「一部の能力者に市長と議員……都市を牛耳っているやつらだけが住む場所だ。上層自体、入るのにいちいち申請がいる歪んだ区域だが……結局ガーデンも下界も同じということだな」
冷たく変わった口調にノエルはリュシアンを振り仰いだ。だがその顔は見えなかった。
「楽園なんてありはしない。所詮人間が作り出したまやかしにすぎない。ガーデンに夢を抱くやつらは馬鹿だ。おまえも覚えておくといい」
「……はあ」
ノエルはなんと答えたらいいのかわからなかった。ガーデンの人間がこんなことを言うとは思わなかったのだ。彼はガーデンが嫌いなのだろうか。
だが問うのもためらわれ、ノエルは腑に落ちない気分のまま、しばらく彼のポケットに揺られていた。
そうこうするうちに、目的地の管理局へと着いた。
「いいか、俺がいいと言うまで絶対しゃべるな。ここではおまえはただのネズミだからな」
三階まで吹き抜けになったロビーへ入るなり、リュシアンは短く言った。ノエルは「はい!」と力強く答えてしまい、あわてて両手で口を押さえた。
頭上でふ、とやわらかな吐息が聞こえた気がした。
(……あれ? もしかしていま、笑った?)
びっくりして首をめぐらしたとき、受付係が近づいてきて用件を訊ねた。
「ヴィノー様ですね。―――はい、ペット登録手続きで承っております。どうぞこちらへ」
片手に持ったボードの画面をペンで操作しながら、係の女性は微笑んでリュシアンを案内した。
滅菌室での係員といいこの女性といい、ノエルには彼らの笑顔が貼りついた仮面みたいに見えて仕方がない。もしかすると彼らも、あの門番と同じドールなのかもしれない。
人口頭脳を持った優秀なドールは、ガーデンのあらゆる場面で人間と同じように働いているという。だがどんなに精巧に造られようと、やはり生身の人間の温かみには欠ける気がした。
顔は見えなくても、先ほどのリュシアンの方が全然やさしく笑ったように感じられる。
(……って、本当に笑っていたのかわからないけど)
不機嫌な印象しかないリュシアンの笑顔なんて、ノエルには想像もつかない。でも以前考えていたほど、彼が怖い人ではないらしいのは、この数十分のあいだでわかっていた。
ときどき毒を吐くみたいにさらりときついことも言うけれど、ちゃんとやさしい部分もある。
苦みと甘味があやふやに混ざりあって、それが不思議と嫌じゃない――。
(そう………まるでガトーショコラみたいな人)
くすりとノエルは笑ってしまった。
今日、届けるはずだったガトーショコラ。それがひったくられたりしなかったら、こんな彼を知ることもなかったのだろうか。
そんなことを考えていたせいか、ふいにガトーショコラの匂いが鼻孔をくすぐった。
(やだ、想像だけで匂いまで思いだしちゃうなんて……そんなにお腹空いてたかな)
ちょうどロビーからの階段を昇り終え、二階へやってきたところだった。
そこは両隣のビルと通路でつながっている空間のようで、一階のロビーよりも人通りが多い。
ぱたぱたと軽い足音がうしろを通り過ぎていく。慣れ親しんだロミスのケーキの匂いがした。
(……え?)
ノエルは振り返った。あの少年たちが駆けていく。
(あっ! あ、あーっ! リュシアンさん! リュシアンさんっ!)
ノエルは必死にリュシアンのコートを引っ張った。だが彼が気づくはずもなく、少年たちの背中はすぐに人ごみにまぎれた。ノエルは焦って少年たちとリュシアンとを交互に見た。
(どうしよう……どうしよう………ご、ごめんなさい!)
心のなかでリュシアンに詫び、ノエルはポケットを飛びだした。
その尻尾が軽く彼の手に触れる。
「……おい?」
ようやくリュシアンが気づいて足を止める。前を歩いていた係員も彼の声に振り向いた。
「待て、どこへ行く!」
リュシアンが呼んだがノエルは聞かず、通路を行き交う人々の足もとをすり抜けた。あっという間に小さな姿は見えなくなった。リュシアンと係員は顔を見あわせた。
「…………見ての通り逃げられたんだが。やはり飼うのをやめるというのはありだろうか?」
彼の問いに彼女はにっこり笑ったまま答えた。
「ええ、ヴィノー様。お飼いになるのをやめられるのは構いません。ですがお持ちこみになられた以上、責任を持って処分していただきます」