9-2
ノエルは冷たく鋭い灰色の瞳に見下ろされながら、それでも両手に持ったガトーバスクを相手の方へ差しだした。
「いらぬと言っている」
「一口くらい、いいじゃないですか。気に喰わないのはお菓子の逸話でしょう。食べ物自体にに罪はありません」
テリーヌを食べ終え、書状の整理もつけたらしいダレストはさっさと部屋へ戻ろうとし、あわててノエルは引きとめにかかった。
椅子の前に立って通せんぼをし、最初に断られている菓子をとにかく突きつける。
「しつこい娘だな。ならば部屋に持っていくことにする」
いらついた会長が仕方なく手を伸ばしてきた。だがそれではだめなのだ、とノエルは焦った。
すると急にリュシアンが立ちあがり、受け取りかけたダレストからすっと皿を奪った。
二人とも驚いてそちらを見た。
「……なんの真似だね?」
「あなたにこれは食べさせない」
リュシアンは低く言いきった。
「え……あの、リュシアンさん?」
「これは……こいつは、俺のペットです。ペットの作ったものは、俺のものだ」
暴論とも言える台詞を、リュシアンは平然と吐いた。
ノエルは首まで真っ赤になった。
(な……なに言いだすの!? ペットとか……お、俺のものって………リュシアンさんっ!?)
なんだかものすごく、恥ずかしい台詞だった。
というか、これでは子供がだだをこねるのと同じだ。
彼は自分がなにを言っているか自覚があるのだろうか。
「あのっ……な、なにを言って……!」
上手く回らない舌を必死に動かして、ノエルは抗議を試みた。
それに会長を引きとめるのが目的のノエルとしては、こんなことをされては困ってしまう。
「ばかばかしい……私はさがらせてもらうよ」
ダレストがあきれ、不快気に鼻を鳴らすと食堂の出口へ向かって歩きだした。
「あっ! 待ってください! まだ部屋にはっ……」
ノエルはとっさに追いすがった。そのうしろでリュシアンは皿をテーブルに戻した。
「ところで会長、ひとつ大事なお話があります」
落ち着きはらったリュシアンの口調に、ダレストの足が止まった。
「事件の犯人と、侵入経路がわかりましたよ」
「なにっ……」
ダレストはすぐさま振り返った。
「だが、それを教えるには条件がある」
リュシアンはテーブルの上にあった二冊の日記を手元に寄せ、束ねた。
ダレストの方は見ず、その言動には余裕さえ感じられる。
ノエルは眉をひそめるダレストの脇で、同じように彼を見つめた。
(ど……どうしちゃったんだろう、リュシアンさん……なんか、以前と感じが違う)
いまのリュシアンはなんというか、強気だった。
ただやみくもに反抗的なのとは違って、迷いが吹っ切れたような潔さを感じる。
コンラートの言っていたいい方向に転がるというのは、このことなのだろうか。
「……君のペットの解放かね?」
ダレストは皮肉をこめて訊いた。リュシアンは笑ったようだった。
「いいえ……二人のだ」
ノエルは息を呑んだ。同じ気配がダレストの方からも伝わってきた。
たったいまの短い答えのなかに、リュシアンの心の変化がはっきりと表れていたからだ。
(二人のって……それって)
「そして二度と、俺たちには干渉しないでもらう」
彼はこちらを向くと、ダレストとまっすぐ視線をあわせた。
「………どういう心境の変化かね」
ダレストはここへきてようやく、リュシアンの手元の日記に不審の目を向けた。
だがたぶん、もう遅かった。
「この本によると、出来過ぎた弟子はよくないらしいので。だったら大人しく従っているのもばかばかしい」
さらりと返したリュシアンに、ダレストの表情が険しくなる。
「ここを出てどこに行くつもりだ。あいにく、君の部屋は引き払わせてもらってある」
「どうぞご心配なく。帰る場所ならその下にある」
「……ヘブンを出ると?」
「ええ。協会ごと」
かっとダレストが目を剥いた。
「許さんぞ! なにがあったか知らんが、すでに君は私の手のなかにあるも同じだ。編成装置がなければ君はなにもできんのだからな! おまけにこんな人質までいる。条件を出せる立場ではないとわかっているだろう!」
「それはどうかなあ」
激昂したダレストと対照的に、のんびりとした声がその場に落ちた。
三人の視線が一斉に食堂の出口―――扉に寄りかかって立つ、コンラートに向く。
「お、おまえは……っ」
「これなーんだ?」
コンラートは実に楽しげに、右手を顔の前に掲げてみせた。
その手が持つ腕時計、もとい自動編成装置にダレストはぎょっとした。口を開くより先に、コンラートにつかみかかろうとする。それをひょいと避けて、コンラートはリュシアンに装置をほうった。
リュシアンは片手でそれを受け取る。
見事なコントロールと反射神経に、ノエルは感心してしまった。それに二人の息がぴたりとあって見え、無性に嬉しくなった。
「……なぜだ! どうやって入った!」
ダレストが一人、悔しがる。
「言ったでしょう、会長。無名の能力者のなかにも、すぐれた力を持つ者はいる。そういうやつらこそ、脅威ですよ」
リュシアンが装置を右手にはめながら、ふっと笑った。
ノエルは歓声を上げたい気分だった。
(やった……! 装置も戻ったし、原因はよくわからないけどリュシアンさんも吹っ切れたみたいだし、これでもうきっとなにもかも良くなって―――)
「……きゃ!」
気の緩んだ一瞬の隙を突かれ、ノエルはダレストに腕をひねりあげられた。
「ハニー!」
コンラートが駆け寄ろうとして、ダレストの構えたナイフに身を強張らせた。
(う、腕輪がナイフに……!)
間近で見た転化の力に驚くうち、それはさっとノエルの喉元へつきつけられた。
「………あ」
ひやりとした冷たい感触に、ノエルの心も急速に冷えた。
自分がまた、彼らの人質になってしまったことを知ったからだ。
「君の大事なペットを傷つけたくなかったら、装置をこちらへ返したまえ」
ダレストの怒りを抑えた脅しがすぐ側で聞こえる。
ノエルは最後の最後でまた足手まといになってしまった自分に絶望した。悔しくて申しわけなくて、涙がにじんでくる。
(……もういいよ……行って。わたしは気にせず!)
叫ぼうとした瞬間、体がゆらりと変化した。
平衡感覚がなくなり、視界が歪んで、するりとダレストの腕から抜け落ちる。
「なに……!?」
頭上でダレストのあわてた声がする。目の前には床があった。
ノエルは遅れてなにが起こったのか理解した。ネズミだ。ネズミになっている!
顔を上げると、前方でリュシアンが身をかがめて手を差し伸べていた。
「おいで……ハニーブラウン」
やさしい声が、そう呼んで。
どくんて、心臓が鳴って。
それを合図にノエルは走りだした。
大きな手のひら目指して、駆け寄った。
リュシアンはノエルを拾いあげるとそのまま肩に載せ、優雅ともいえる足取りで食堂の出口へ移動した。
呆然と立ち尽くすダレストの前で、扉に転移のためのマナを素早く編む。
最後に彼は振り返った。
「会長、交渉は決裂しましたが、今日までお世話になったお礼に教えてさしあげます。犯人は“ゴースト”ですよ」
「……ゴーストだと?」
ダレストはリュシアンを睨みつけた。
「ええ。そこにいるが、マシンの目に映らないものだ。たとえばこいつみたいに」
「いやですね。僕はまだ死んじゃいませんよ」
指をさされたコンラートが苦笑して肩をすくめる。
ノエルにはさっぱりわからなかったが、ダレストはその会話からなにか手掛かりを得たようだった。
リュシアンはそれを見ると扉に手をかけた。
「ではダレスト会長。もう二度と会うことがないよう、願っています」
短くすがすがしい挨拶のあと、彼は扉を開いて――――ノエルたちは空間を越えた。




