9-1
昼食より数時間後、リュシアンとダレストはノエルによって食堂の一角にととのえられた、茶会の席についていた。
「……いったいなんの真似かね。私も彼も忙しいのだが」
ダレストは目の前で注がれていく紅茶をむすりとした表情で眺めた。
円卓を挟んだ正面には同じく不機嫌な顔のリュシアンがいる。詳しい理由も伝えずに、ただ「急いで来てほしい」と呼びだしたリュシアンは、テーブルに用意された菓子と紅茶を見るなり、なんのつもりだと怒りだした。
だがちょうどそこへ会長も現れ、彼は素早くなにかあると察したらしい。
しぶしぶといったようすでこのお茶会に応じてくれた。
「すみません。忙しいのはわかっているんです。でもこういうときこそ、休憩はしっかり取らないといい仕事はできないと思ったので……」
ノエルはダレストのカップに注ぎ終えると、テーブルを回ってリュシアンの方へ移動した。
ふたたび、少し高めにかかげたポットから紅茶を注ぐ。温かな湯気と一緒に、いい香りが立ちのぼる。この家の執事が、ノエルの焼いた菓子にあわせて独自にブレンドしてくれたものだ。
二人に注ぎ終えるとノエルはポットを脇のワゴンへ戻した。
「その一方でわたしは暇でしたから。リュシアンさんに以前、作ったお菓子を美味しいと言ってもらえたので、これで休んでいただけたらと思ったんです。それで会長もご一緒にと。不本意とはいえ一応、お世話になっている身ですから……お礼です」
最後の嘘に心臓が少し、どきどきした。
だが平静を装い、ワゴンの上からまだ切り分ける前のガトーバスクを載せた皿を取って、テーブルの中央に置く。円くて厚みのある、表面に独特の模様が刻まれたクッキー生地の焼き菓子だ。なかにはたっぷりのカスタードクリームと、ダークチェリーのジャムが入っている。
生地にはアーモンドパウダーが混ざっていて、口に含むと香ばしくて甘い香りがふわりと広がる。
ノエルも大好きなお菓子だ。
コンラートと作戦を練ったあと、ノエルはすぐに使用人にお願いして材料を集めてもらい、午後のお茶に間にあうよう、厨房を借りて作ったのだった。
「……どういう菓子だ」
リュシアンが興味を引かれたのか訊いてくる。なぜだか眩しそうな表情で皿を見ている。
ノエルは微笑んだ。
「ガトーバスクという、下界でお祝いの日などに食べるお菓子です」
この菓子はロミスでもガーデンの人間相手には売らないし、たぶんガーデンでも食べられてはいないだろう。ノエルはその表面を指差した。
「このお菓子の模様は決まっていて、いくつか種類があるんです。これは人間を表す模様。能力者でも庇護されるべき一般人でもなく、自分たちは「人間」であるという下層民の誇りを表したものです」
ダレストが小さく失笑した。
「下層民の誇りとはな。ごみ溜めにあるのは埃ばかりだと思っていたが」
「……たしかに下界はごみ溜めです。でもそんな場所でも、わたしたちは生きています。その自分に誇りを持てるのは、素晴らしいことだと思います」
臆さず真面目に返すと、ダレストは急に白けた顔をした。
「そうかね。だが私はそんなものは遠慮させてもらう」
そのまま彼は使用人を呼びつけ、別の菓子を用意するよう告げた。
それから先に言いつけてあったのか、執事が今日届いたらしい書状の類をトレイに載せてやってくると、トレイごと受け取ってその場で読みはじめた。
どうやらノエルの茶会を素直に受け入れるつもりはないらしい。だが別に彼はここにいてくれさえすればいいのだ。
(本当にこの菓子を食べてもらいたいのはリュシアンさんだもの……)
自分の居場所、生き方を自ら決める大切さを、少しでも感じてもらえたらと思い、ノエルはこの菓子を作ったのだ。
ちょうどダレストの意識が手紙の方へそれたので、ノエルはチャンスとばかりにワゴンの下段から、布にくるんであった日記帳を取りだした。
「あの、それとこれ……リュシアンさんにプレゼントです。こっちはわたし用で、こちらはリュシアンさんに」
一冊は抱え、ミレイユの日記は表紙が表になるよう、リュシアンの前に置いた。
コンラートと相談してこの日記はそのままリュシアンに渡すことに決めていた。内表紙に書かれたとおり、中身を読むことが許されるのは彼だけだからだ。
ノエルはあとで渡すつもりでいたが、最後の打ち合わせのとき、コンラートはできたらその場で先生に読ませて、と言いだした。どう結果が出るかわからないけれど、もしかしたらいい方向に転がるかもしれないから、と。
なにやら期待したようすの彼は、ノエルが理由を訊いてもまだたしかなことじゃないから、と教えてくれなかった。
リュシアンは目の前に置かれた日記を数秒眺め、それがなんなのか気づいたようだ。
どういうことだ、と鋭く見上げてくる。ノエルは慎重に言葉を選びながら、説明した。
「えっと……ずっと欲しかった本なんですけど、実はこのあいだ中層で見つけて感激して……後日届けてもらうはずだったんです。でもこんなことになってしまったので、手元に来るのが遅れてしまって。それで開けてみたら、どういうわけか送り主がもう一冊余分に入れていて……なので一冊はリュシアンさんにと」
ちゃんと伝わったか不安でリュシアンを見ると、彼はノエルの手のなかの日記帳に視線を移した。
腑に落ちない点はあるものの、彼は浅く頷いた。
「そうか………見つけられたならよかった。この本なら俺も知っている………おまえが探していたものと同じとは、思わなかったが」
ノエルはとりあえずほっとした。送ってきた相手や、みつけたのが中層のどこかなど、いま訊かれてもどう答えればいいのかわからなかった。
とにかくこのままなんとか日記を読んでもらおうと、ノエルは言葉をつづけた。
「あの……でもその本、知ってても読んだことはないんですよね? だからこの機会にぜひ、読んでみてください」
「いや。いい……せっかくだがやめておく」
リュシアンは首を振った。ノエルはその反応をなかば予想していた。
(やっぱり……パーティーの日のバルコニーでの会話は、この日記のことだった……?)
人の日記を読むことに抵抗はないのかと訊いてきたリュシアン。
その問いは裏を返せば、本当は彼も読みたかったということではないのか。
だからノエルは安心させるように言った。
「でも、この本のタイトル見たとき、リュシアンさんにはぜひ読んでもらいたいって、そう思ったんです。読まなくちゃもったいないって」
「……タイトル?」
「はい。内表紙に書いてあります」
ノエルの説明にリュシアンはあわてたようすで日記を開いた。そして彼は目を見張った。
「……この献辞……これはおまえが書いたのか?」
「え、違いますけど。本を書いた人じゃないんですか?」
「そう……だな。そのとおりだ………だが前はこんなもの……」
リュシアンは日記を凝視したまま考えこんで動かなくなった。
ノエルはとまどいつつも、あらかじめエプロンのポケットに入れておいた付属のペンを取りだした。
「あの……それでですね、お揃いの本なので、よかったらお名前を――」
そう差しだす途中で、食堂へ使用人が数人入ってきた。ノエルはびくりとしてペンを落とした。それは床の上を、ダレストの方まで転がっていった。
どうやら菓子の用意ができたらしい。
使用人たちは微塵も無駄のない動きでダレストの前に皿を置き、その脇にナイフとフォークを添え、最後に紅茶を新しいものに取り換えると、一礼してさがっていった。
「……君は読み書きができるのかね?」
テーブルの脚元に止まっていたペンを拾いあげると、ダレストが訊いてきた。
話を聞いていたのだろう。相手のからかい口調にノエルはむっとした。
「できます。母に習いましたから」
「母親にか。それはよかった……下層の教育機関は機能していないからな」
ダレストは笑い、テーブルの上のフォークを取った。
運ばれてきた四角い皿の上には、洋ナシとフランボワーズを閉じこめた、二色のフルーツテリーヌが載っている。
「悪いが、先にいただくことにするよ。マナー違反なのは許してくれたまえ。私は君と違って忙しいのでね」
「……どうぞごゆっくり」
ノエルは度重なる嫌味になんとか皮肉を返した。くるりと背を向けて、リュシアンの脇に戻る。
誰かに皮肉を言ったのなんて、はじめてだった。
「すみません。こちらもいま切り分けますね。よければ用意しているあいだにこれで名前を」
拾ったペンを差しだすと、リュシアンはためらった末に受け取った。困惑していないところを見るとロック式のことは知っているようだ。あとは彼次第だった。
ノエルは祈るような気持ちで、ガトーバスクを切り分けはじめた。
リュシアンはかすかに震える指先で内表紙の献辞をなぞった。
この日記は師が死んだとき、遺書と共に送られてきたものだった。彼女がなにかに息詰まったり落ちこんだりしたとき、よく持ち歩いて読み返していたのを知っている。
特別なものなのだとわかっていたから、死後も勝手に読むようなことはしなかった。
だがリュシアンは迷いを振りきり、ペンを走らせた。
送られた当時はなかったはずの、師の筆跡による献辞。
それがどういうことなのかたしかめたい一心で、彼は自らに課した禁を破った。
書かれた文字が淡く光り、すうっと紙に吸いこまれていく。
そうしてロックが解除されると、最初のページに年度別の選択項目が現れた。
リュシアンは二年前――一番下の項目を選んだ。そして焦った手つきでページを繰り、最後のページにたどり着く。
見つけた最初の一文に、彼は呼吸を奪われた。
『出来過ぎた愚かな弟子へ おまえの可愛らしいペットから話を聞いた。』
懐かしい筆跡が、相変わらずのぶっきらぼうな調子でそう書きはじめていた。
全身に歓喜とも、怒りとも判別のつかない衝撃が走って、日記を押さえていた手が拳をつくる。
生きていた。生きていた……!
自らの内に湧き起こる激しいおののきを感じながら、リュシアンは先を読み進めた。
『たぶんいま、さぞ驚いているのだろうな。その顔を見れないのがちょっと悔しい。
こうなった経緯については色々詳しく書いていたが、読み返すと恥ずかしかったので書き直す。
簡単にまとめると、私は自殺を装って下界に下った。
あの日、議会にも協会にも失望して、下界を歩きながら今後のことを考えていた。
日が暮れたのも気づかず、門を使わずに来ていたから護衛もつけずにだ。
結果、暴漢に襲われて最終的に撃たれた。
幸い助けてくれたやつらがいて三日後に意識を取り戻したが、そいつらがなかなか面白くてな。
下界の奇術師を寄せ集めたような組織なんだが、目的が下層環境の改善だというんだ。
彼らと話すうちに意気投合して、私は妙案を思いついた。』
それが前述の自殺偽装らしい。
曰く、奇術師も工夫次第では能力者をしのぐ力を発揮するそうで、おかげでIDの除去ができたという。
さらりと書いてあるが、驚くべき事実だ。
そして彼女はガーデンの根強い下層民差別の体制に見切りをつけ、下界で生きる決意をした。
だが弟子までつきあわせるつもりはなく、とはいえ放っておけば協会に利用されることはわかっていたため、ならばあえて会員に推薦し、自分の財産も権限もすべて譲る遺言を書いた。
そしてリュシアンにだけわかる方法で、真実を記した日記と共に送った。
どうするかははじめからリュシアンの自由だった。
協会への推薦はあくまで推薦であって、強制ではない。
だが、リュシアンは日記を読まなかった。
『……本当はもう、とっくに見ていると思っていたんだがな。見た上で協会にいるのだと思っていた。
そうでなかったと知ったいま、おまえがどんな気持ちでそこにいるのか考えると辛い。
私におまえを愚かと呼ぶ資格はないが、そう思ってしまうくらいに、おまえはばかだ。
この日記の仕組みくらい、おまえには見えていたはずだろう。パスワードも。
ためらう必要などなかったんだ。
だが、二年も協会に縛りつけたことは本当にすまなかったと思っている。
きっとおまえのことだから自分を責めただろう。長いあいだ苦しませて、悪かった。
今後おまえがどうするかは自由だ。もうミレイユ・フェルマーはいない。
あとは自分で考えて、自分で望む道を行け。
これを読んだ今日、おまえは生まれ変わるんだ。私もそれを望んでいる。
どうか、勝手な師を許せ。おまえは私には出来過ぎた弟子だった。だが最高の弟子だった。
おまえの幸せを、地上から祈っている。 緋色夫人』
一気に読み終えると、リュシアンはしばらく放心状態になった。
安堵すべきか怒るべきか、わからない展開だ。
だがこうして真実を知ってみると、実にミレイユらしいとも思った。
(師匠はいま、下界にいる……)
ぼうっとした頭が現実を理解すると、ふとある疑問が浮かんだ。
日記はずっと、カロンズの館に置いてあったのだ。それに彼女はノエルとも会っていたらしい。
(もうIDのない師匠がどうやってガーデンへ……?)
たとえ空間縫合の能力者でも、外からのガーデン進入は不可能なはずだ。
都市には特殊な結界が張られていて、私的な空間縫合で外に出ることはできても、なかへ入ることはできないようになっている。事実、リュシアンはミレイユが部屋の窓から帰ってくるのを見たことがない。
もしかしたらそれも、工夫された奇術師の能力なのだろうか。
たしかに資性に属さないからこそ、資性を超えた能力が発揮できるとも考えられる。
実際、ミレイユのIDは取り除かれているのだから。
(だとしたらすでに下層民もガーデンに来ている可能性がある……)
それはちょっとした危機ではないのか。
もしなにかしら事件を起こす目的で来ていた場合、彼らを見つけることは困難だ。IDのない下層民は照合にかけて探すことができない。
彼はハッと視線をあげた。ケーキを切り分けるノエルをじっと見る。
(そう……こいつはIDがないから、動物の姿にすればガーデンに入れられると思った……)
滅菌室でのセンサーは、そこに在るIDに対して反応するものだから。
そうか、とリュシアンは突然、ひらめいた。盗難事件の謎が解けた気がした。
なぜ犯人は保管エリアでセンサーに見つからず、商品を盗めたのか。
(そいつは……IDがなかったからだ。つまり、ゴースト)
ガーデンにIDのない人間はいない。そういう前提であらゆるものが造られ、管理されている。
その裏をかかれたのだ。
めまぐるしく、リュシアンの頭のなかで事件の真相が組み立てられていった。
倉庫の運搬エリアでは常に荷物が転移装置で出入りしている。運搬業者の人間を買収するなり、幻覚か言霊の能力で操るなりして転移で「IDのない人間を詰めた荷物」を搬入する。
生体反応センサーがあるのは倉庫入口の門だけだから、ここでゴーストが見つかる心配はない。
そのまま許可証の通りに保管エリアへ荷物を運べば、準備は簡単に整ってしまう。
あとは倉庫の閉まった夜、ゴーストが自分のいたケースへ商品を詰めこみ、犯行声明を残してまたなかに戻る。翌日、それを仲間が出荷する。
おそらくはそんな筋書きなのだろう。
つまりこの事件には、空間縫合の能力者と下界の人間が関わっている。
(まさか………師匠?)
自然と思考はそこへ向かった。
誰よりもあの管理システムの仕組みを知っているのは、作った本人のミレイユだ。現場に残されていた犯行声明も、あの人ならやりかねない。
(だとしたらその目的は……)
もう一度ノエルを見ようとしたとき、ちょうど彼女が菓子を切り分けた皿を脇に置いた。
「はい、どうぞ……本当は二、三日置いた方が美味しいんですけど」
小さく笑って、今度はダレストにも取り分ける。
断られるとわかっているのに、あえて挑むらしい。
リュシアンは昨夜の彼女との会話を思いだし、睫毛を伏せた。
不用意な質問をして彼女を傷つけたのは明らかだった。
風邪で人が死ぬということが、自分には想像できなかったのだ。
ワクチンも薬剤も供給の乏しい下界なら、当然ありうることだったのに。
下界ではいつだって薬が不足している。
そして今回の事件で盗まれたのは、新薬の開発でほとんど需要のなくなった軽病向けのもの。だが下界ではのどから手が出るほどに、欲しているもの。
(そういうことですね………師匠)
全ての問題の答えを見つけると、リュシアンは日記に視線を戻した。
何気なくページを繰って―――偶然、彼はもう一つの書付を見つけた。
『 追伸
大事なことを書き忘れた。おまえの可愛いペットに関してだ。
言いたいことは一つ。〝一度飼った生き物はちゃんと最後まで面倒を見ろ〟
実を言うと私も熊と暮らしている。
なかなかに幸せだ。おまえもそうなるよう願っている。』
リュシアンはまず眉をひそめ、しばらくののち、ふっと笑った。
そして日記を閉じると、ようやく考えるのをやめにして、ノエルの焼いた菓子を食べた。
ほど良くさっくりとした食感を残す生地からは、ほのかにアーモンドの香りがした。
そこへまろやかなカスタードが溶けこみ、濃厚な味をしつこすぎないよう、チェリージャムの酸味が品よく整える。素朴だが家庭的で、やさしい味のする菓子だと思った。
なんとなく作った者の雰囲気と似ている。
(……下層民の誇りか)
ずっとおどおどしていてはっきりしなくて、びくついた印象の強い娘だった。
だがいまの彼女は違った。
ダレスト相手にもはっきりものを言い、めげずに立ち向かう。
軟禁される前、叶わない夢は見ないと言った彼女は、もしかしたら下層民である自分を諦めているのではなく、受け入れているのかもしれない。それは似ているように見えて、まったく正反対の選択だ。
自分の居場所を自分で決め、生きていく誇り。
きっといまの自分に一番必要なことだと、リュシアンは強く感じた。




