8-2
あてがわれた部屋へ帰ってくるとノエルはすべてのドアに鍵をかけた。
窓際まで椅子を移動させ、声を落として話をし、これまでの経緯を簡単に伝える。相手からも話を聞いて、ノエルは最高層のリュシアンの部屋が引き払われたことを知った。
「それとこれ、君宛に」
コンラートが持っていた小包をそのまま手渡してくる。
ノエルは開けて中身を取りだし、思わず感激の声を上げた。間違いなく母の、緋色の日記帳だった。
「よかった……! ちゃんと送ってくれたんだ…………って、あれ……もう一冊?」
包みにはまったく同じ装丁の日記が、もう一冊入っていた。
膝の上でそれらを見比べ、ノエルは困惑した。
「えっと……こっちのは、どういうことでしょう……?」
「それを僕も訊きたくてさ。悪いけど、すごく怪しい包みだったからなかをたしかめさせてもらったよ。それでわかったんだけど、もう一冊はどうやら叔母のものみたいなんだ」
コンラートはそう言って手を伸ばすと日記を開き、内表紙に書かれた文字をつついた。
「ここのメモ。『出来過ぎた愚かな弟子へ。ミレイユ・フェルマー』って……でも中身は真っ白。そして、これが一緒に入っていた」
彼は胸の内ポケットから白い一枚のカードを出して、ノエルに見せた。
そこにはプリントされた文字で、こう書かれてあった。
『実はあの館で同じ日記を発見していた。もしかしたら君が世話になっている男に関係があると思って、一緒に送る。緋色夫人』
「……どうしてこんなものが君の元へ送られるの? マダム・スカーレットって誰? 同じ日記帳ってのも気になるし……宛名だって本名だよね? さっきの……ちゃんと送ってくれたんだってのはどういうこと?」
ノエルは訊かれてはじめて、自分の失言に気づいた。
スカーレットとはお互い口外しないという約束をしていたから、先ほどの説明でもミレイユの館でのことは省いていたのだ。
だが、こうして日記もカードも見られてしまっては、隠しようがない。それにコンラートはこれまでノエルの日記探しをさんざん手伝ってくれていたのだ。
そのうえ、送られてきたもう一冊がミレイユのものなら、彼も無関係ではない。
「あの……これはわたしとコンラートさん二人だけの秘密にしていただきたいのですが……」
一応、そう前置きをして、ノエルはカロンズでの出来事を語った。
酔い熊を偶然見かけ、そのあとをつけてミレイユの館でスカーレットに会ったこと。
事情を話したら返してくれると約束してくれたこと。
「つまり、盗賊は二人組だったってことか。それで君から話を聞いたその女が、気を利かせて叔母の日記も送ってよこした………けど、なんか腑に落ちないなあ。そんな親切な盗賊、聞いたことないよ」
「……もしかしたら、読めってことかもしれません。なんていうか、スカーレットさんはお節介焼きな感じの人でしたし」
ノエルは膝の上に開いた日記を見つめた。
『出来過ぎた愚かな弟子へ』というミレイユの文字。
つまりこの日記は、リュシアン宛に書かれたものかもしれなくて―――。
「読めって……日記は白紙だよ? 書いてあるのはその内表紙のメモだけだ」
「はい……だからこのメモが、きっとパスワードのヒントなんじゃないでしょうか」
「パスワード? それロック式なの? そんな見かけで?」
「はい。内表紙はロックを解除するのためのパスワードを書くところだって……そういう珍しい日記帳なんだって、スカーレットさんが」
ノエルは母の日記を開いた。その内表紙には懐かしい文字で『最愛の娘へ』と書かれている。
ずっとただの献辞なのだと思っていた。でももしかしたら。
そう、いま思えばちょっと不自然な、あの最初の白紙のページ。
スカーレットが館で言っていた言葉を思いだす。
――パスワードによっては、そうとも限らないぞ。あとで自分でたしかめてみるんだな。
母が隠した日記を読むのはよくないと諦めた自分に、彼女はそう言った。
(もしこれがパスワードのヒントなら……娘へってことは……読んでもいいんだよね?)
「あの……試してみてもいいですか」
ノエルはどきどきしながら、日記帳に備えつけられていた付属のペンを取った。
内表紙のあいているスペースに、ゆっくり自分の名前を書きこむ。
たぶん、これがパスワードだと信じて。
「……へえ」
覗きこんでいたコンラートが感心する。
書かれた文字は一瞬光り、紙に沈むようにして消えていった。ノエルはおそるおそる、ページをめくった。
空白だった紙面に、はじめて見る母の文が現れていた。
―――××年×月
あの方がお茶会に招いてくださり、この日記帳をいただいた。
出された菓子はガトーバスクだった。その心遣いに私も含め、みなが感動した。
本当に彼女は素晴らしい理解者だ。いつか娘にも会わせたい。
せっかくの機能だから使ってみたが、隠すことはなにもないと気づいた。
ロックはしないでふつうに書こう。記念までに。―――
「……あの方?」
ノエルは首を傾げた。誰だかはわからないが、その人がこの日記を母にくれたらしい。
日付は十二年ほど前で、その頃ノエルはまだ四歳だ。記憶なんてほとんど残っていない。
ただ、塔では子のいる親同士が助け合って交代で子守りをしながら働いていたから、ノエルとていつも母と一緒にいたわけではない。
(お茶会……)
ふと、ノエルは母が本当にごくたまに、おみやげといってお菓子を持ち帰ってきてくれたことを思いだした。仕事の残り物だと話していたが、いま思うと母がロミスで働きはじめたのはもっと後だ。
気になることの多い内容ではあるが、とにかくこれで日記のロックは解除できた。
ノエルは顔を上げ、コンラートに言った。
「たぶん……ミレイユ博士の日記のパスワードも、リュシアンさんの名前なんじゃないでしょうか? スカーレットさんはパスワードによっては、ロックを解除してなかを読んでも構わないんじゃないかって、そういうようなことを言っていたんです。わたしの話を聞いてから、ずいぶんリュシアンさんのことも気にしてくれていて……」
「うーん。だとしてもどうも納得いかないなあ。なんでその女は叔母の代わりみたいな――」
顎に手を添えたコンラートが、刹那、まじめな顔で黙りこんだ。
「待てよ………女? 名前がスカーレット……スカーレット……たしか緋色には、罪深いって意味があった気が……」
それを教えてくれたのは誰だったか。
顎に添えていた右手が口元を覆い、コンラートは床を凝視した。
「つまり、罪深い女…………ハニー。もしかしてそいつ、赤毛だった?」
「え、はい……きれいな緋色でした」
「年は三十代……?」
「そう思いましたけど……」
ノエルはきょとんとした。目の前でコンラートが両膝に肘をついて頭を抱える。
「あの、コンラートさん? どうかしたんですか?」
「いや…………まさか……まさか、ねえ?」
ぶつぶつ呟きながらコンラートは考えこんだ。ノエルにはわけがわからない。
もう一度呼んで訊いてみようかと思ったとき―――部屋のドアをノックする音が響いて、二人は同時に身を固くした。
結局、そろそろ昼食の用意が整う旨を戸口で伝えると、メードは部屋のなかを気にすることもなく、戻って行った。
「そうだった……ゆっくり話しこんでる場合じゃなかったよ」
ノエルが胸を撫で下ろしながらドアを閉めると、コンラートが苦笑気味にカーテンの陰から出てくる。
彼は持っていた日記をノエルに手渡すと手短に言った。
「とにかくこれでもう、君は下界へ帰れる。ここから逃げるんだ。手引きはするから」
「でも、リュシアンさんは?」
「君が逃げたことを伝えるよ。人質がなくなれば先生を縛るものはない。そうすれば――」
「だめです。それじゃ」
コンラートは言葉をさえぎられ、驚いてノエルを見下ろした。
「それだけじゃ、きっとだめです。リュシアンさんは自分を責めることやめない限り、何度でも同じことをくり返すと思います。自分から『逃げよう』って思わない限り……」
「……聞いたの」
コンラートの目つきが変わった。ノエルは頷いた。
母の日記をぎゅっと胸に抱いて、自分の思いを確認するように、ゆっくりはっきり、言葉を紡ぐ。
「わたしは……リュシアンさんが罪の意識を感じるのは理解できるし、やらされている仕事も正当なことだと思います……でもこんなふうに罪悪感を利用されて、協会に縛られているのはおかしいと思うんです。わたしはリュシアンさんに、自分の生を生きてほしい……」
「同感だね。ハニーとは気があいそうだ」
コンラートは低く笑って肩をすくめた。
「僕もね、今度ばかりは無理やりにでも、先生を協会から退会させようって思ってるんだよ。ちょうどヘブンの部屋も処分されたし、このまま中層で暮らせばいいと思ってね。けどきっと、それでもだめなんだ」
どこへいたって、リュシアン自身が変わらなければ安らぎは得られない。
「あの……わたしになにかできることはありませんか? リュシアンさんの気持ちを変えるとまではいかなくても、下界へ戻る前に、あの人ためになにか手伝えることは……」
ノエルは縋るようにコンラートを見た。
「迷惑をかけないためには、帰るのが一番だってことはわかっているんです。でも、リュシアンさんの事情を知ってしまって、このままなにもせず自分だけ助かっていいのかなって……」
「うん。ハニーが迷う気持ちはわかるし、嬉しいとも思うよ。でも、無事帰れるときに帰った方がいい。誰も恨んだりはしないから」
「わたし……下界に戻ってももう、仕事がないんです。あとはたぶん、身を売るくらいしか」
うつむいたノエルに、さすがにコンラートが黙りこんだ。
「だったら帰る前に、こちらでできることをしておきたい。手伝うことでリュシアンさんを助けられることがあるなら、協力したいんです。だめでしょうか……?」
「………わかった。そういうことなら……手伝ってもらおうかな」
ノエルが顔を上げると、コンラートが少し困ったように笑った。
「といっても、先生を変えるようなことじゃないんだけどね。僕もハニーが協力してくれるなら助かることがある……それでもいいかい?」
「もちろんです! お二人には本当にお世話になりましたから。なんでも言ってください」
「じゃあとりあえず……先生の居場所はわかるかな?」
コンラートが訊ね、二人はふたたび窓際の席で向かいあった。
「はい。いまは研究室の方にいるはずです。でもそちらへ行く途中の扉には鍵がかかっていて通れません……だけど寝起きにはちゃんと自分の部屋に戻ってきます。部屋はこの隣です」
「食事は? さっき昼食がそろそろって言ってたけど、こっちに食べに戻ってくる?」
「戻ってくる方もいますけど、リュシアンさんはあちらで食べてます。でもみなさん、それぞれ自由に休憩を取っているみたいなので、呼んでもらって会うことは可能だと思います」
「それは好都合だ。それじゃあ、編成装置のありかは知っている? たぶん奪われてるはずなんだけど」
「編成装置……あの時計ですよね?」
「そう。あれは取り戻しておきたいから」
「たしか……初日にダレスト会長がとりあげて、机の引き出しにしまっていました」
「それはどこ? ここから近い?」
ノエルは先ほど探検してきた記憶を手繰った。使用人たちに聞いた話もあわせて判断する。
「会長の部屋です。近いですけど、最近はずっと会長は部屋で仕事をしているそうで……それに鍵がかかっています」
鍵環から一つ選んで閉めたのを見ているからたしかだ。
「それはふつうの鍵? こう、手で回すような」
「はい。そう見えました」
「なら、時間さえ稼げれば開けられるかも……」
そういった道具は持ち歩いているからね、とコンラートは上着の胸ポケットから針金を出して見せた。
どうも彼はこういうことに慣れているらしい。貸衣裳屋にもよくお世話になっているようだし、いったい何者なのかと勘繰ってしまう。だがいまはそれが頼もしくも感じられた。
ならば彼が確実に作業できるよう、援助するのがノエルの仕事だ。
「どれくらい稼げばいいですか?」
「そうだな。部屋の鍵も閉まってる場合を考えると……うーん。十分くらいってとこかな」
「十分……」
(仕事中の会長をつかまえて、十分……そんなに引き止めておけるかな)
まずどんな口実にするかが問題だ。
リュシアンのことに対する抗議などでは、おそらく適当にあしらわれてしまう。それに話をするだけなら部屋から連れだすこと自体が難しい。
(声をかけるなら昼食に出てきたところだけど……………そうだ!)
自然、うつむきがちになった視界に膝の上の日記が映る。
ノエルはもう一度日記帳を開いた。
内表紙の下の最初のページを見る。だがいったん閉じたせいか、母の文字は消えていた。
それでも内容は覚えている。
(たしかお茶会に招かれたって……そう、お菓子はガトーバスクで……)
「ガトーバスク……」
ノエルの頭にまた一つ、いい考えがひらめいた。
「わかりました、コンラートさん。わたし、やってみます!」
「なにかいい方法を思いついた?」
「はい。お菓子を作って、休憩時間にお茶会を開きます。リュシアンさんをねぎらうという口実で。たぶん本当にあの人は休んでないと思いますし……そこへ会長も招待するというのはどうでしょうか? 少々強引で突発的かもしれませんが……」
ノエルの提案に、コンラートはとても満足そうな顔で「いいや」と首を振った。
「予想外の行動の方が、相手の判断力を鈍らせる。きっと怪しんでのってくるに違いないよ。そうと決まれば善は急げだ!」




