8-1
ダレストの自宅にノエルたちが軟禁されて三日。事態はなにも進展していなかった。
リュシアンが協力しても、破られた倉庫管理システムのどこにも異常や欠陥箇所が見つからないのだ。だが実際、倉庫からは薬品が数ケース盗まれている。
そして盗まれていった薬はいずれも新薬の開発でほとんど需要がなくなり、倉庫内で眠っていたようなものばかり。
現場に犯行声明が残されていなければ、事件自体発覚しなかっただろうと言える状況だ。
「そもそも敷地内への侵入自体、難しい造りなんだ。やはり内部犯としか思えん!」
「で、どうやって持ちだすのだ? 許可証にない行動をとればすぐにID監視センサーが反応する。在庫の保管エリア内は空間縫合の能力も使えない仕組みだぞ」
仮眠を取りに対策本部を出てそれぞれの部屋へ向かう途中、チームのあいだには鬱憤のたまった愚痴が飛び交う。リュシアンはその一番後ろを、やや遅れてついていた。
連日、機械に残るマナの記憶をたどっているせいで極端に目が疲労している。
マナを見る眼を意識的に閉じても、視界には金色の文字式がチカチカと瞬いているし、瞼をおろしてもその残像は消えない。
いまいる廊下が階段だったら確実に踏み外す自信があった。
「本当に……生体反応センサーにID照合、許可証チェック。これらのすべてを、痕跡も残さず素通りできる者などゴーストくらいですよ。やはりどこかに見落としがあるのでは?」
「ないように見せられているだけかもしれないわよ? 完璧にシステムをのっとられれば、痕跡もすべて消されてしまうでしょうし」
「だがマシンに残った記憶ではなく、マシンに起こった記憶をたどれるのはあいつしかいない」
リュシアンは不明瞭な視界のなかでも、前方の数人が自分を振り返ったのがわかった。
もう何度目かの、疑惑と不信と不満のまなざし。疲労と苛立ちでいいかげん、ため息が漏れる。
今日もずっとリュシアンは保管エリアの監視センサー、及び運搬エリアの出入荷記録と、現実に転移装置が働いた記憶を照らし合わせていたが、不審な点はなにもなかった。
だがそう言っても、それを確認できるのがリュシアンだけでは信用がない。
一連の事件は師への意趣返し、などという噂があるからなおさらだ。
「ったく……なにが『ミレイユの眼』だ。あいつが来たってなんも変わりゃしない……」
そう、小さなぼやきが聞こえた頃、各自に割り当てられた客室のドアが見えてきた。
隣の部屋のドアが閉まる音を聞くと、ノエルはベッドから起き上がった。
リュシアンの部屋へつながるドアまで駆け寄り、鍵を開ける。
そっとなかをうかがうと彼はテーブル前の肘掛椅子へ座ったところだった。ずるりと身を沈め、背もたれに頭を預けると目を閉じる。
それは今朝見た光景とまったく同じだった。またあそこで寝る気なのだ。
ノエルはパジャマの裾を両手でつかむと、リュシアンの方へ歩いていった。
ダレストが用意してくれたパジャマは――こんなものを着たのは人生ではじめてだった――やわらかいコットンのワンピースタイプで、丈がくるぶしまであるためちょっと気を抜くと裾をふんづけて転んでしまう。
「リュシアンさん。あの……ベッドで寝てください」
ノエルが声をかけると彼は目を開けた。
だが眩しそうに細め、こちらを見ることもなくまた閉じてしまう。
「まだ起きていたのか……さっさと寝ろ。日はまわってるぞ」
そう言う声がやつれていて、ノエルは胸が苦しくなった。
人質として軟禁されているノエルは、朝食後すぐに作業へ向かって夜遅くに帰ってくる彼とは正反対に、一日することがなにもない。
早く寝て早く起きても、そのぶん一日を長く感じるだけ。
「……椅子で寝るとよけいに疲れます。ベッドで寝た方がいいです」
できることといえばリュシアンの心配くらいで。
だからノエルは今朝、椅子で寝ていたリュシアンを発見したとき、今夜は待っていてちゃんとベッドで寝かせようと決めていたのだ。
こんなふうに不摂生なのは、やはり罪の意識からなのだろうか……そんなことを思ったから。
「リュシアンさん……」
呼びかけても疲れのせいか返事がない。
「昨日も……椅子で寝てました。それじゃあ疲れがとれないです。疲労がたまると思考力も鈍ってしまって、きっとお仕事にもよくな――」
ノエルは言葉を止めた。
自分のせいでこんなことになってしまっているのに、なにを言っているのだろうと思った。
リュシアンがふたたび目を開けて空を睨む。
「……よけいなことは気にしなくていいと言ったはずだ。早く部屋へ戻れ。俺は慣れている」
「で……でも、そのままじゃ風邪をひきます」
ノエルが食い下がるとリュシアンが鼻で笑った。嘲るような、短い笑いだ。
「ひくか……ひいたところで薬を飲めばすぐに治る。優秀な薬のおかげでな……」
事件のせいで荒れているのか、投げやりな口調だ。
だがそんなことよりも、ノエルは彼がさらりと口にした言葉にショックを受けた。
(薬を飲めば……すぐに治る……)
急に、固く瞼をおろした母の顔が浮かんできた。
最初、ただ寝ているだけだと思って何度も呼びかけた。
それまではだるそうでもうっすら目を開けてくれた母が、その日に限ってまるで意地悪しているみたいに頑なで。
体をゆすって、その硬さに気づいた。
まるで凍ったみたいに……これでは目も開けられない。これでは口も開けない。
確認するようにその顔に触れて……その冷たさに、自分の体も急速に冷えていくのを感じていた。
「そ……そうですよね。ここ、ガーデンですもんね。下界とは違っ……」
ノエルはリュシアンに背を向けた。
突然、こみあげてきた衝動に自分でもとまどう。
鼻がつんとして目がしみてくる。そんな自分に動揺する。
(へ、変なのっ。どうしていまごろ……ちゃんと受け入れていたはずなのに……)
「……どうした」
さすがにリュシアンが怪訝に思ったのか訊いてくる。ノエルは背を向けたまま首を振った。
「いえ……ちょっと、母のことを思いだしてしまって……なんでもないんです。すみません」
「……母親? 母親がどうした」
まさか訊き返されるとは思ってもいず、ノエルは言葉に詰まった。
話したら気を遣われそうで嫌だ。だが相手はじっと黙って返事を待っているようだった。
「その…………母は……風邪をこじらせて死んだから……」
「風邪で?」
ガーデン育ちのリュシアンには信じられないことだったのだろう。声は驚きを含んでいた。
それきり彼は黙りこんでしまい、ノエルは気まずくなった。
ただでさえ疲れている人に、変なことを聞かせてしまった。一度強く鼻をすすり、振り返る。
「でも、ガーデンならそんなことないですよね。安心しました」
そう言って笑うと、リュシアンが無言でじっと見つめてくる。
こちらの気持ちを見定めようとするその目に、ノエルはたじろいだ。
「あ、あの……お疲れのところお邪魔してすみません。もう戻ります。けど……慣れててもやっぱり、ベッドに行った方がいいと思います。その方がきっと起きたときの気分もいいはずですし……それじゃあ、おやすみなさい」
逃げるようにして自分の部屋へ戻り、ドアを閉める。
なんだか情けなくてため息が出た。
*
素通りしていく使用人たちを尻目に、コンラートは随所に花や絵画の飾られた廊下の端を、家の奥へ向かって歩いていった。
その身を包むのは、たまにすれ違う使用人たちと同じデザインの黒い制服。
これを入手するのに思いのほか時間がかかってしまい、彼がダレストの家に潜りこめたのはノエルたちが攫われてから四日目の朝だった。
(けど、二人とも生きていてこそ価値のある存在だし……)
遅れてしまったが、命の危険ということはないだろう。
その一方で、四日も経つのに事件になんの動きもないのがコンラートは少々気になっていた。
(先生が手を貸せばあっさり解決すると思ってたんだけどな……)
なにか事情があるのか、わざとあがいてダレストを困らせているのか。
後者ならコンラート的には感心ものなのだが、リュシアンの性格からしておそらくそれはないだろう。今回の事件で実際に被害を被っているのは各製薬会社および、その取引先の一般市民なのだ。
協力すると決めた以上は、迅速な解決を目指すのがリュシアンのはず。
(とすると必然的に前者だけど…………っと!)
前方の廊下の角から急にメードが二人、曲がってきた。その二人と目が合う。
コンラートはわずかに緊張した。ぐっとお腹の底の方に力をこめる。
メードたちは一瞬不思議そうにコンラートを見たが、すぐに興味の失せた顔ですいと視線を外し、小声でおしゃべりをしながら脇を通り過ぎていった。
その背中を見送るうちに、ふと昔を思いだしてコンラートは苦笑を浮かべた。
父や母に無視されるのは、なんとなく理由がわかっていた。
自分ができそこないだから。なんの能力も開花せず、一族の期待を裏切ったから。
だから相手にしてもらえないのだと幼心にも理解していた。
だが使用人にまで無視されたときのショックはなかなか大きかった。家にあまり帰らなくなったのも、思えばそれがきっかけだった気がする。
子供とはいえ、自分は仕えるべき主のはずだった。それを平気でないがしろにする彼らに激しい怒りを覚えたし、そこまで見放された自分に絶望もした。
あのときはまだ、なにも知らなかったからだ。
その後、叔母のミレイユのところへ行って、そこではじめてリュシアンと出会った。あのときの自分といまの自分はかなり違う。
(でも先生は変わらないなあ……当時から無口だったし、いつも不機嫌な顔してたし)
たしか十一のときだから、リュシアンは十四だ。
冷たく凍ったガラス玉みたいな目だと思ったのを覚えている。
叔母が紹介がてら家から逃げてきたことを話すと、開口一番「馬鹿は嫌いだ」とのたまって、すぐに意識を読書へ戻してしまった。
そのあとはいくら話しかけようと冷たくあしらわれ、むかついたので逆にしつこくつきまとった。くだらないいたずらをしかけて怒った顔を見るうち、なんだか面白くなってしまった。
そして気づいたら、いつのまにかいまの自分ができあがっていた。
リュシアンはもともとコンラートのことをいたずら好きだと思っているが、実際は彼が育てあげたようなものなのだ。
(その先生はたぶん、いまごろ対策本部の方だから、まずはハニーを……)
と、思ってメードたちがやってきた角を曲がり、コンラートは思わず足を止めた。
前方から偶然にも、ハニーブラウンの頭がきょろきょろとあたりを見回しながら、やってきたからだ。
(あっちの奥は厨房に使用人部屋にランドリーなんかの雑務エリア……右に曲がると研究室の方につながってて、でもカードキーを持ってないと通れない……この廊下から手前は応接間と客室に食堂……うーん。思ったより部屋の数が多い……ぜんぶ覚えられるかな……)
先ほど出会った二人のメードから教えてもらった情報を頭に詰めこみながら、ノエルは廊下をゆっくりと歩いていた。
今朝、ノエルが目を覚ますとすでにリュシアンは部屋にいなかった。昨夜の疲労して荒れたようすのリュシアンを思いだすと、なんだかもうじっとしていられず、ノエルは部屋を出た。
自分もなにかしていなければ落ち着かなかったのだ。
それで、なにかあったときのためにこの家の間取りだけでも把握しておこうと思い、一つ一つ、部屋を確認しながら歩き回っている。一応「客人」としての扱いを受けているノエルは、家のなかなら自由に歩けたし、使用人たちも丁寧に接してくれた。
なにもせず与えられた部屋で悶々と落ちこんでいるより、よっぽど有意義だった。
ノエルは廊下の先へ視線を移した。
あのつきあたりを右に行った研究室には、破られたシステムの機材やデータが運び込まれていて、今日もリュシアンがそれらと向き合っている。
(あんなに頑張るのは、やっぱり罪滅ぼし……なのかな)
ダレストの話を聞いてからは、ぜんぶがそんなふうに思えてしまう。
たとえばノエルを助けたのも、下層民擁護派のミレイユの影響で……とか。迷惑をかけても怒らなかったのは、自分はもっとひどいことをしたと思っているから……とか。
でも、本当にリュシアンが悪いのだろうか。
こんなふうに利用されつづけなければならないのだろうか。
切なく細めたその目に、急に使用人の姿が映った。
いつの間にそこにいたのか、小包を抱えた若い使用人が、廊下の真ん中をこちらへ向かって歩いてくる。
「やあ、ハニー」
その使用人は陽気に片手を上げて振ってみせた。
ノエルは目を剥いた。ぴたりと立ち止まり、前方の人物を指差して口をぱくぱくさせる。
「しぃー……大声はだめだよ。せっかく潜りこめたんだからね」
まるで緊張感のない態度で、コンラートは口元に人差し指を立てた。
「な、な……コンラートさん? どうやって……っ」
目の前に立った人物が、ノエルはまだ信じられない。
ダレストの家のエントランスには常に門番役が立っていて、訪問者も滞在中の客人も、出入りは厳しくチェックされているのだ。ダレストに面の割れている彼が、そう簡単に潜りこめるはずがない―――。
驚きながらも小声で訊ねたノエルに、コンラートは片目をつぶって短く答えた。
「言ったでしょ。“誰にも相手にされない能力”があるって」
「……え? あの……それって冗談だったんじゃ……?」
「ふふ。ほんと冗談みたいな能力だよね。僕もはじめは気づかなくってさ………僕はね、限りなく他人の意識に残りづらい存在になれるんだ。もうちょっと格好良く言うと、透明人間てところかな。要するに目に映っても、人間として認識されないんだ」
「目に映っても、認識されない……?」
「そう。路傍の石と同じさ。きっと風景の一部にしか感じられないんじゃないかな。だからピンポンダッシュの要領で家のなかへダッシュしたってわけ。それよりハニー、こんなところで話していたらさすがに僕も見つかってしまうよ。どこか落ち着いて話せる場所はないかな?」
ノエルはハッと状況を思いだし、頷いた。
「でしたらわたしの部屋に……こっちです!」




