7-1
悩んだ末、ノエルは最高層のリュシアンの家を出て、カロンズの駅へやって来た。
残って日記を探すと、はっきり決めたわけではない。ただあの部屋でじっとしていられなかったのだ。リュシアンに対する怯えもあったかもしれない。
(あんなふうに怒鳴られるなんて、思わなかった……)
どんなに迷惑をかけても怒らなかったのに、迷惑をかけまいとしたとたん、怒るなんて。
ふつうは逆だよ……と一人で冷静になってみると、ちょっとだけ彼を腹立たしく思った。
おしゃれなレンガ造りの駅舎の入口まで来ると、ノエルは立ちどまってわずかに日の傾きはじめた空を見あげた。
黄色みを帯びた光が、空に浮く空中庭園や上層の姿を照らしている。上層は中層に比べるとはるかに小さく、形も山型をしているらしい。中心の地区ほど建築物が高くなる構造だ。
下から見上げると中層と同じく、ただの巨大な銀色のボウルの底のように見える。
(……あんなに遠い)
両手を伸ばしてかざせば、すっぽり隠れてしまいそうだ。
先ほどまで自分があそこにいたなんて、信じられない。こうして離れて見ると、リュシアンと自分が違うところに生きている人間なのだとよくわかる。
(……リュシアンさんの言うことも、わかるんだけど)
たしかに下界には、自分の殻に閉じこもって自らの不幸を嘆くばかりの人もいる。だが彼らの気持ちもノエルには理解できてしまうのだ。
園の完成以来、見捨てられてきた下界には未来への希望がない。安定しないライフラインに、地上の道を通した他市とのつながりも年々減る一方で、ガーデンへ移り住むことも絶望的な下層民は、悲観的にならない方が珍しい。
(やっぱり……ガーデンの人にはわかってもらえないのかな……)
さみしくそう思って、視線をおろした。
凝った石造りの建物に囲まれた、赤レンガの通りが正面と左右に伸びている。カロンズは利便性や機能性よりも、装飾的な美しさや景観を重視した中流クラスの地区なのだ。
とりあえずコンラートの話からカロンズへやってきてみたが、このあとどこへ行くかは決めていなかった。どうしようか考えていると、後ろから誰かがしゃべりながら近づいてくる。
振り返ると列車が到着したらしく、改札からぞろぞろと人々が流れてくるところだった。その先頭にいる男の人が、携帯電話で誰かと話していた。
ノエルは邪魔にならないよう、入口の脇によけた。そしてとうとつに、その男性に見覚えがあることに気がついた。
(……あの人………わたしを手すりに置いた人!)
はじめてガーデンへ来た日に、少年たちを追いかけていった管理局で見た男だった。
短くて少し癖のある茶色い髪に、顎には今日も無精髭を生やしたまま。丈の長いコートをひるがえすようにして、大股に歩いてくる。
「ああ、いま着いたところだ。これから向かう―――そうだな。このへんでもういいだろ。そっちは平気か?」
彼は話しながらノエルの脇を通りすぎていった。もちろん、こちらには気づかない。
「ああ……ああ、じゃあな。今度はちゃんと設定しろよ、がさつ者」
笑って電話を切り、コートのポケットへしまう。はっとノエルは息を呑んだ。
(いまの、声………)
どこかで聞き覚えがあった。
似たような言い回しで、働き蜂の巣の少年に別れの挨拶をした……酔い熊という盗賊。
まさか、と呆然としているうち、あとからつづいて出てきた人々に彼の姿が紛れはじめる。
(もしかして………あの人が?)
迷っている暇はないと思った。ノエルは足を踏み出し、思いきって彼のあとをつけはじめた。
途中、何度か見失いそうになりながらも、なるべく距離を取って尾行しつづけて十数分。
男がとある館の門へ入って行くのを見届けたあと、ノエルは隠れていた通りの角から姿を出した。駅からそう遠くない、静かな住宅街だ。
ほとんどの家が二階建ての庭つきで、一軒一軒の間隔もかなり広い。白塗りの木柵や塀の向こうには、よく手入れされた庭と趣ある屋敷の姿がうかがえた。
それらの前を通り、ノエルは周りを黒い鉄柵と広葉樹に囲まれた一軒の館の前までやってきた。臙脂色の屋根と漆喰塗りの白壁が、高く生い茂った雑草の上にのぞいている。
そこだけまるで野生の森のなかに建っているような、不思議な魅力のある家だった。
男が入っていった門の下まで来ると、錆びの目立つ門札を確認する。読みとりづらいそれをなんとか拾い読みすると、ノエルはふたたび驚いた。
「ミレ…イユ……フェルマー……?」
そこはコンラートが以前言っていた、カロンズにあるというミレイユ博士の別荘のようだった。
二年前までリュシアンが共に暮らしていた……いまは近づこうとしない館。
(どういうこと……? なんであの男の人が、この家に?)
コンラートの話ではこの館はいま、誰も住んでいない空家のはずだ。
そんなところにいったい、なんの用があるのだろう。やはり彼は盗賊なのだろうか。
男の不審な行動に疑惑はさらに高まった。
ノエルはさっと周囲を確認した。あたりにひと気はまだない。いまならノエルも潜りこむことが可能である。
(………リュシアンさん、ごめんなさい!)
ここまで追いかけてきたのだから、毒を食らわば皿まで、とノエルは門を押し開いた。
錠前は壊れているのかもとからかけていないのか、用を成していなかった。
踏みこんだ庭はかつては明確に植えわけられていただろう植物たちが、いまやそれぞれの境界を失って自由に溶けあっている。そこに埋もれている白い石像やレンガの花壇、ガーデンアーチを横目に、ノエルは館の入口まで小走りで進んだ。
正面の扉はさすがに鍵が閉まっていた。
ノエルは足音に気を遣いながら建物の裏へまわり、そこで一階の窓の一つがかすかに開いているのを発見した。
低い出窓タイプのそれをびくびくしながらよじ登り、なかへ入る。そこは小さな書斎のようだった。左右の壁は天井まで本棚になっており、ぎっしり書物が詰まっている。
部屋は埃だらけで黴の匂いもしていたが、下界の塔と違って汚いという感じはしない。
埃の積もった白い床の上には、黒い足跡がいくつも出口の方までつづいている。下の焦げ茶の木目を映したその道をたどり、ノエルは館のなかを移動した。
廊下は薄暗かったが、目が慣れてくると足跡が二階へ伸びているのがわかる。
そして階段をゆっくり何段か上がったところで、静かだと思っていた館のなかからかすかに人の声が聞こえてきた。ノエルは立ちどまって耳を澄ませた。
(……二人いる?)
内容まではよく聞きとれないが、あの男性と誰かが話しているようだ。
向かう先にいるのが盗賊かもしれないという事実が、急に恐ろしくのしかかってきた。
(で……でも、日記のことを訊くだけだし……)
それでどこにあるのかがわかれば取り戻して、下界に帰ることができる。
リュシアンにも諦めるなと怒られたばかりだ。ノエルは勇気をふりしぼった。
細心の注意を払って階段を昇り、声のする左手側、大きく扉の開いた部屋の前まで忍び寄る。そして恐る恐るなかをのぞきこんで、目にしたありえない光景に思わず声をあげそうになった。
(な、なにあれっ………)
開け放した窓の向こうに、通路が伸びていた。
照明がまばらな薄暗い廊下が口を開け、飾り気のないドアがずっと奥までつづいている。
どこかのビルのようなそのなかを、あの茶髪の男の人が歩いて行って―――手前にいた誰かが窓を閉めた。
とたん、そこは空と庭の木々があるだけの、ごくふつうの景色に変わった。
「わ……!」
今度は声を漏らしてしまった。
窓を閉めた人物―――スーツ姿の女性が気づいて振り返る。ノエルはばっちり目があった。
「……おやおや。招かれざるお客だな」
苦笑気味に呟いたのは、鮮やかな赤毛が美しい、管理局でノエルの日記を拾いあげたあの女性だった。
彼女はヒールの音を響かせて近づいてくると、ふとおかしげに口元で笑った。
「迷い猫みたいな顔をして……君はいったい何者だ? どうしてこんなところへ?」
「あ、あなたこそ…………ここ……空家、ですよね……?」
まったく知らない相手ではないことと、女性という要素が、いくぶんノエルの恐怖心をやわらげた。
だが声は震えてしまっていて、こちらの怯えはまるわかりだ。
「はは、そうだな。お互いさまか」
女性はあっけらかんと言った。
ノエルはその態度から、いまのところは身の危険はなさそうだと判断した。
「……さっき、人が………転移、したんですか……?」
「ああ……見られてしまったか。そのとおりだよ。そこの窓はもともと転移装置になってたから、ちょっと改造してな。ときどき利用させてもらってるんだ」
簡単に説明されたが、ノエルはよけいに疑問が増えた。
ふつうの家に、転移装置なんてあるものなのだろうか………それも窓に。
(あ……でもここはミレイユ博士の家なんだっけ……)
そういえば博士は空間縫合の資性の持ち主だと、ニュースで言っていた気がする。
だとするとそういった仕掛けがあること自体は納得できそうだった。それがどうして窓なのかはわからなかったが。
ノエルは女性を見上げた。
年齢はたぶん、あの男性と同じくらいで三十代。
下ろせば肩までありそうな髪を、後ろで簡単にまとめて髪留めで挟んで留めている。興味深げにこちらを見る横長の目は、ノエルと同じ焦げ茶色。服装のせいか、どこか大きな会社の社長秘書といった印象だ。
「あの………あなたは、泥棒ですか?」
とりあえず確認のために訊いてみる。とたんに女性は吹きだした。
「あっはっはっは! 面白い子だね、君! くく……そうだな、緋色夫人と呼ばれてるよ。君は? 君も泥棒か?」
訊き返してきた。どうやら泥棒らしい。ノエルは正直に答えた。
「ノエルです。わたしは泥棒じゃないですけど……ある泥棒を探してます」
「本当に面白いな。泥棒を探してるだって? それで、その相手は私なのか?」
ノエルは首を振った。スカーレットは満足そうに微笑んだ。
「じゃあノエル。お互いたぶん、訳ありでこんなところにいるんだろうから、なにも訊かずなにも語らず、別れるってことでどうだろう?」
「それは……その、一つだけ訊きたいことが………さっき窓に消えていった人は……酔い熊という盗賊の方ですか?」
ノエルの問いにスカーレットが眉を上げた。
「なんだ、あいつに用があったのか?」
「そうなんですか!?」
ノエルは目を丸くして彼女に飛びついた。
誰かの個人部屋らしい先ほどの部屋で、ノエルはスカーレットと二人、アンティーク調のベッドに腰かけていた。
窓から射しこむ光は黄色からオレンジに変わりつつある。
「そうか、あの日記が……それを追って中層まで、ね。なかなか根性があるな君は」
かいつまんで事情を説明すると彼女は大して驚くこともせず、すんなりと話を信じてくれた。
床に敷かれた絨毯を見つめ、ノエルは小さく息をついた。
「でもリュシアンさんには迷惑をかけっぱなしで……だからもう、諦めて帰ろうと思ったんです。なのにそんな理由では帰さないって怒られてしまって……。どうすればいいかわからなくて、じっとしてもいられなくて、とりえあえずここまで出てきたんです」
「そんな理由では帰さない、か」
くっくっくとスカーレットは喉の奥で笑った。
「まるで熱愛中の恋人みたいな台詞だな」
「な……なに言うんですか! そんなんじゃないですっ……怖かったんですから!」
ノエルは赤くなって否定した。
どきりとしたことは事実だけれど、その直後には縮みあがることになった。
「わかったわかった。で、そうやって怒られてカロンズまでやってきて、あいつをみつけたってわけか」
「………あの日記はもう、売られてしまったんでしょうか?」
ようやく本題に戻って来て、ノエルは訊ねた。
スカーレットの方を向くと、彼女は答える前に質問をよこしてきた。
「君はあの日記のロックを解いたか?」
「……ロック? なんですか、それ」
「そうか……知らないのか。あれは見た目はただの紙の日記帳だが、ちょっと変わった品でな。持ち主が設定したロックを解除しないと、中身が見えないようになっている」
「え……でもわたし、ふつうに読めてましたけど……」
「それは直接インクで書かれたものだからだ。だが付属の特別なペンで書かれた文字は、ロックをかけると見えなくなる、つまり秘密の日記があるかもしれんということさ」
「そんな……すごいものだったんですか? なんでそんなものを下層民の母が……」
さあな、とスカーレットは呟いた。
「でも君のその正直な性格から察するに、母君も隠し事をするような人ではなさそうだな。秘密の日記はないかもしれん」
「はあ…………………あの、参考までに解除の仕方って」
「なんだ、自分の母親を信じないのか?」
皮肉っぽくスカーレットは笑った。
「い、いえ! そういうわけでは! ちょっと好奇心で……」
「ふふ、こんなことを聞けば気になって当然か。だが方法を知ったからって解除できるとは限らんぞ。パスワードは設定した本人しか知らんものだからな」
「パスワード……」
「ああ。日記の内表紙に、持ち主が設定したパスワードを書きこむんだ」
ノエルは小さく首を振った。
「それは……無理そうです。それにやっぱり、母が隠したかったものなら見ちゃいけないですよね……リュシアンさんにも少し前に言われたんです。人の日記を読むのに抵抗はなかったのかって。わたし全然そういうこと考えてなくて、ちょっとハッとさせられました」
「そうか………だが、設定されたパスワードによっては、そうとも限らないぞ。あとで自分でたしかめてみるんだな」
はぁ、と返事をしかけてノエルは一瞬固まる。
「………え? それじゃあ」
「日記は君に返そう。もともと売るつもりで入手したわけじゃないんだ。ある人のものと間違えたというか……元の持ち主がこうして困っているんだから、あいつも文句は言わんだろう」
「本当ですかっ!?」
ノエルはベッドから立ち上がった。
その勢いで大量に埃が舞い、二人は共に咳こんだ。
「……す、すみません……あの……ありがとうございます。本当に」
スカーレットは笑って首を振った。
「いいさ。明日の朝、届くように送っておくよ。だがな、ノエル」
急に彼女は真面目な表情になって、人差し指をつきつけてきた。
「日記が戻ったからって、素直に下界へ帰るなよ」
「え……? なぜですか?」
「ばか。おまえ自分がいま、どんなにラッキーな状況にあるかわかってないのか? ペット用とはいえID を手に入れたんだろ。玉の輿のチャンスじゃないか」
「玉の輿……?」
ノエルは首をかしげた。スカーレットが大きく頷く。
「そうだ。そのまま残ってそのリュシアンとやらのメードにでも恋人にでもなってしまえ」
「な……変なこと言わないでください! そんなの無理ですっ。リュシアンさんはただ下層民が中層階級の子を追いかけてるのが珍しくて、協力してくれただけで……」
「要するにそいつは君を気に入ったわけだ。それなら押しかけ女房作戦でいけば、案外楽に落とせるかもしれん」
「スカーレットさん!」
ノエルはたまらず叫んだ。頬のまわりが熱くなってくる。
ついこのあいだ言われた、「おまえの菓子なら毎日食ってもいい」という台詞が、急に頭のなかで増殖しはじめた。
「そ……そんなことはありえません!」
ノエルはそれらを振り払うようにもう一度叫んだ。
スカーレットがにやりとする。
「なんだ? 急に赤くなって。なにを思いだしたんだ? 言ってみろ」
スカーレットが楽しげにつついてくる。ノエルはぶんぶん首を振った。
いつのまにか話が妙な方向へ流れていた。
「なにもないです、なにも! その……リュシアンさんはすごくやさしいです。だから、もしかしたら頼みこめば、そういうこともあるかもしれませんけど……あっ、そういうことってのはメードとか使用人ってことですよ!」
あわてて補足する。
スカーレットはにやにやしながら、とりあえず黙って聞いていた。
「でも、だからこそ、そのやさしさにつけこむような真似はしたくありません。そんな、恩をあだで返すようなことはできません」
「………君は、いい子なんだなぁ」
スカーレットが降参したようにしみじみ言った。
その声は妙にさみしげに聞こえた。
「だが……いい子すぎるのも問題だぞ。幸せになるチャンスが目の前にあるのに、頑なに欲を殺して不幸なままになる。君はもっと欲張ってもいいんじゃないか?」
「わたしはじゅうぶん幸せです」
はっきりノエルが答えると、スカーレットは虚を突かれたような顔をした。
「そうか………君は自分の幸せが何か、わかってるんだな」
「はい」
「でも……彼はどうだろうな。そのリュシアンという奴は」
「え……?」
ベッドに腰かけているスカーレットはノエルをじっと見上げた。
「そいつはもしかすると、さびしいんじゃないか? 側に誰かが必要なんじゃないか?」
「まさか!」
あの無愛想で人を寄せつけない性格のリュシアンに限って、そんなことはないはずだ。
だがノエルは、またあのバルコニーで見た背中を思いだした。
「だってそいつはわざわざ君を自分の家に連れていったんだろ? いくら協力するためとはいえ、ふつう他人と毎日同じ部屋で寝起きするのは気まずいものだ。金があるなら部屋を借りるなりホテルをとるなりできるはずなのに、それをしないってことは無意識にでも人恋しいと思ってるんじゃないのか?」
(リュシアンさんが……人恋しい……?)
想像したら、なぜか自分が恥ずかしくなった。
「や、やめてください! スカーレットさん! 帰ったとき、変に意識しちゃうじゃないですかっ……そんなこと、ないですよ。ただリュシアンさんはちょっと変わってるだけです。ホテルとか手配するのが面倒だったんです。きっと……きっとそうです」
「だけどもし本当に彼の望みがそうだったら、君はどうする? 君なら、そいつの望みを叶えてやれるんじゃないか? 彼を幸せにしてやれるぞ」
ふたたびにやりとスカーレットが笑う。
半分はからかっているとわかって、ノエルはむっとした。
「もう、変なふうに気持ちを誘導するのはやめてください! 幸せになるかどうかは本人次第です。無意識の望みを叶えてもらったって、幸せだなんて感じないでしょう。ちゃんと自分で望んで動くから、喜びも幸せも自覚できるんですっ」
「はは、ごもっともだ。そうだな……君は自分の望むようにすればいい。そいつも……そうなるといいが」
最後に小さく呟いて、ようやく彼女は妙なお節介をおしまいにした。
からかわれるのは困ったが、話に聞いただけの人間をこうまで心配できる彼女は、どうやらそんなに悪い人ではなさそうである。
ノエルは改めてもう一度スカーレットに礼を言うと、ミレイユの館をあとにした。
――去っていく少女の背中を二階の窓から見送りながら、スカーレットは自嘲のため息をついた。
「自分で望んで動くから……か。まったく、まさにあいつに聞かせてやりたい言葉だな」
呟きながら、彼女は傍らの机に視線を移した。
左端の引きだしを開けて、なかから緋色の日記帳を取りだす。
机の上に置いて、その表面を爪の先で何度か叩き、
「さて……こうなったからにはなんとか、こいつにも頑張ってもらわんとな」
目を細めて思案しはじめた。
ガーデンの一般的な企業の終業時刻を過ぎると、門センターは帰途につく人々であふれ返る。
ヘブンへ帰るためにその混雑のなかを「乗り場」の方へ向かっていたノエルは、うしろから誰かに肩をたたかれて足を止めた。
振り向くとかしこまった装いの、見知らぬ老紳士が立っていた。
襟をきっちり締めた白シャツにベスト、その上に丈が長めの黒ジャケット。そして手には白手袋。小さな丸い眼鏡の向こうから、感情の読めない目がノエルを見る。
「突然お引き止めして申しわけありません。ミス・ブラウン」
「えっと………はい?」
一瞬、人違いと思ったが、ハニー・ブラウンのことだと遅れて気づいた。
(あれ……? でもこの姿でわたしのことその名前で呼ぶって……)
どういうことだろう、と思ったときには、手袋をした手がノエルの額に触れていた。
「失礼―――貴女は沈黙し、わたくしについてくる」
相手の声が耳に届いた瞬間、ノエルの全身を異様な感覚が駆けぬけた。
(な、なに……? なにをしたのっ……?)
白い手が離れていく。ノエルは急に不安になった。
「(あの……)」
問いかけようとして、声が出せないことに気づかされる。驚いて喉に手を当て、紳士を見た。
焦って口を動かし、必死に説明を求めると、
「旦那さまが貴女を夕食に招待したいと申しております。わたくしと共においでください」
表情一つ変えず、用件だけを述べてきた。
そしてノエルを追い越し、先に歩きだす。
(えっ、えっ? ちょっと待って……!)
一方的な展開についていけず、ノエルは混乱した。
そのとき、ノエル本人の意思の外で、勝手に体が紳士のあとを追いかけはじめた。
「(うそっ、なんで!? なにこれ)」
(………あ! まさか)
ノエルは強制的に歩かせられながら、紳士の背中を凝視した。
(………言霊の、能力?)
ようやく答えに思い至る。
だがそれがわかったところでノエルにはもう、どうすることもできないのだった。




