6-2
ダレストは一瞬でその場を収め、分厚い会員たちの人垣を散らせたあと、話があると言ってリュシアンをバルコニーへ連れだした。
その言葉にリュシアンがおとなしく従ったのは、ダレストが先ほどノエルを助け起こしたときのまま、腕をつかんで放さなかったからだ。
白い手袋をした手に力はさほど入っていないが、迫力に圧されてノエルは振り払えなかった。
「さて。ようやくパーティーへ参加してくれた君をどうつかまえようかと思案していたが、考えるまでもなかったようだな。彼女に感謝しなくては」
爽やかな空を背景にダレストは微笑んだ。だが口元だけで目は笑っていない。
ノエルはその冷たい微笑よりも、自分がなにもかもの原因になってしまった事実に身をすくめた。
「……彼女を放してください」
ほかに誰もいないバルコニーでリュシアンはダレストと対峙した。声は落ち着いているが、表情は不機嫌そのものだ。
そんな彼をダレストは興味深く見返す。
「もちろん、話がすめば返すとも」
「……ならば話を」
「用件は先日、伝えてある」
ダレストの冷たい灰色の瞳がノエルを見た。まさか、とノエルは思った。
「彼女が何者かは聞かないでおこう……その代わり、事件解決に協力してもらいたいのだよ」
「……脅しですか」
「そう捉えるのは君の自由だ。だがそうなるなら、実にありがたい」
ノエルはぐいと腕を引かれ、ダレストの前に立たされた。
素肌の肩をやんわりとつかまれる。
「どうやらこの娘が君にとって特別な存在なのはたしかなようだな。ならば利用しない手はないということになる。さて……君の返答を聞かせてもらえるかね」
「…………」
黙りこむリュシアンにノエルは焦った。
「リュシアンさん、断ってください! わたしなら大丈夫ですから! これ以上は本当にもう……」
迷惑をかけたくない。
ダレストがなにをするつもり知らないが、ここで庇われなくても、もともと他人なのだから当然だ。ノエルだって受け入れられる。
ためらうことなんてなにもない。そもそも庇うほどの価値など自分にはない。
「断ってください! リュシアンさ――」
「だめですよ、先生。流されちゃあ」
突然、その場にコンラートの声がして、脇から手が伸びてきた。
そのまま腕をつかまれ、ノエルは強く引っ張られた。倒れこむようにすっぽりと誰かの胸に抱えこまれる。
ダレストが目を見張った。
「フェルマー家の……いつのまに!」
「心配して来てみて良かったですよ。結局こうやってあなたは流されるんですから……ほら、ハニーは無事です。さっさともう帰ってください」
驚くダレストを無視して、コンラートはノエルをリュシアンの前へ押しだした。
「待て、フェルマー家のできそこないが勝手な真似をするな!」
「いやだな。できそこないだからするんじゃないですか。勘当者の僕はなにをしても、あの家には関係ありませんからね。お互いもう、脅しにはならないんですよ」
口調を荒げたダレストにコンラートは馬鹿にした笑いを浮かべた。
「きさま……」
ダレストは憎々しげにコンラートを睨み、それからリュシアンに視線を戻した。
「……その娘が戻ったところで、本当にもう無事だと思うのかね」
その問いにリュシアンがちらりとノエルを見る。ノエルはすぐさま首を振った。
それなのに。
「……わかった」
「ちょっと、先生!」
「リュシアンさん! やめてください!」
「引き受けますよ。事件さえ解決すれば、あなたの気はすむんでしょう」
コンラートは額に手を当てた。
ノエルは呆然と立ちつくし、ダレストが満足気に笑う。
「物わかりのいい君は好ましいよ……まったく、いつもそうであってほしいものだ」
「ハニーが怒鳴り返したあたりまではよかったんだけどね。聞いてて気持ちよかったし」
でもやっぱり止めるべきだったなあ、とコンラートは嘆息した。
彼はバルコニーの壁に寄りかかって、窓の向こうの招待客たちを眺めた。視線の先には今後の予定を打ちあわせると言って、ダレストといったんなかへ戻ったリュシアンがいる。
「本当にごめんなさい……わたし、迷惑しかかけてない……」
ドレスの裾を握りしめ、ノエルはバルコニーの床を見つめていた。
「やだなハニー。あの場合、君だって被害者みたいなもんだろ。会長のやり方が汚いんだよ」
「でも、わたしがあんな騒ぎを起こさなかったら、こんなことにはならなかったはずです」
「そりゃあ、まあね。だけど僕は感心したし、嬉しかったよ。これまであんなふうに先生を庇ってくれる人はいなかったから。だからあんまり気に病まないことだ……といっても、ハニーの性格じゃ無理そうだなあ」
コンラートは苦笑した。
それから軽く身を起こし、ノエルの方を見る。
「ただね、ハニー。大事なのはお詫びの先の行動だよ。もし罪悪感でいっぱいなら、代わりに自分になにができるか考えてみたらいい」
ノエルはその言葉に顔を上げた。
ゆっくりと霧が晴れていくような感覚がした。
「そう、ですね……おっしゃるとおりです。謝るだけじゃ、なににもならない……」
「そ。あとは早く、ハニーの日記を取り戻すことだ。僕も今後はそっち一本に集中するから」
「あの……ありがとうございます。本当に」
ノエルは心からお礼を言った。だが、ふと心配にもなった。
彼の言うそっち一本とは仕事のことだろう。いくら趣味のようなものとはいえ、生活がかかっているはずなのに大丈夫なのか。
そう思いをめぐらせたところで、フェルマー家の、という会員たちの言葉を思いだした。
「そういえば………コンラートさんの家って有名だったんですね」
やっぱりミレイユ博士の一族だから―――と何気なく呟いてから、失言だったことに気づいた。
しかもすごく嫌味っぽい言い方になってしまった。
「そうだね。優秀な能力者を多く輩出してる名家だよ。協会にも毎年多額の金を寄付してる」
コンラートは気を害したようすもなく他人事のように答えた。
「名家の誇りと規律だけで生きてるような人たちさ。だから叔母も浮いてたな……あの人は研究者のくせに性格がおおざっぱだったから。下層民擁護派だったってのももちろんあったけど。一族の誰も寄りつかないから、僕はよくそこへ逃げこんでた……」
昔を思いだしたのか、彼はくすりと笑った。
「……コンラートさんは、家を出ることに迷いはなかったんですか?」
相手があまり気にしていないようだったので、ノエルはためらいつつも訊いてみた。
日々、寝床を変える暮らしをしてきたノエルには家があることだけでも羨ましい。家族がたくさんいるならなおさらだ。
だが彼にとってそこは、逃げだすような場所だったのだろうか。
「なかったかなあ。幼い頃から自分はあの家にいる価値はないんだって思ってたし、実際そうだったからね……いるだけお互いにとって良くないとわかったから」
「価値がないってそんな―――あ……もしかしてコンラートさんは……」
言いかけてノエルは口をつぐんだ。
落ちこぼれ、という会員たちの陰口がよみがえる。
マナを扱える能力が、必ずしも遺伝するわけではないのはノエルも知っていた。
逆にまったくその血筋でない家系から能力者が出ることもあるが、ごく稀だ。そして能力者のなかには、大別された六つの資性に属さない、手品程度の力しか持たない者もいる。
そんな彼らは能力者からも一般人からも、奇術師と揶揄されるのだとか。
するとコンラートはいたずらっぽい顔をした。
「あるよ」
「え……?」
「僕に能力があるのかって訊きたいんだろう?」
「あるんですか……?」
「うん。誰にも相手にされない能力がね」
「はい?」
「素性がばれたとたん、誰も僕の配る飲み物を受け取ってくれなくてさ。まったく困ったよ」
おかげでこっちは飲み放題だけどね、と彼は笑った。
どうやら冗談らしい。ノエルはなんとも返答に困った。
決して笑える話ではないのに、当の本人のコンラートは飄々としている。だがその明るさが、おぼろに彼の過去を知ってしまったノエルにとっては救いになった。
「ああ、あっちも話が終わったみたいだ」
コンラートの言葉に会場を振り返ると、リュシアンがバルコニーへ向かってくるのが見える。
「じゃあ、僕も仕事に戻るよ。働いてるふりぐらいしないと、給料はもらえないからね」
「あ、はい………わたしも、自分にできることを探します」
ノエルは精いっぱい、明るく言った。
コンラートが微笑んで頷き、踵を返す。入れ違いのように、リュシアンがやってきた。
「……待たせたな」
いえ、と答えながら、なんだか自分たちがふつうの招待客みたいに思えてノエルは少し、気恥ずかしくなった。
「その……さっきはよく事情も知らないのに、勝手なことをしてすみませんでした。わたしのせいでこんなことになってしまって……会員の人の服も……その、お金は出せないですけど、代わりにできることはなんでもするので――」
「いい。過ぎたことだ」
最後まで言わせてもらえず、断られた。
「でも! 原因のわたしがなにも償わないわけには……」
「償いなどいらん。そんなことよりもう、よけいな真似は二度とするな」
(よけいな……真似……)
ノエルはうつむいた。
「リュシアンさんは……つらくないんですか? 誤解されたままで、あんなふうに言われて」
「どうして誤解だとおまえにわかる」
あ……とノエルは言葉に詰まった。
たったいま、詳しい事情も知らないのにと謝ったばかりだ。たしかに自分は会員たちよりも事実を知らない。彼らから漏れ聞いた言葉に、勝手に怒っているだけだ。
自分がリュシアンを、信じたいから。
「誤解じゃ……ないんですか」
そんなはずはないと思いながら、ノエルは訊いた。
だって、リュシアンはこんなにやさしい。こんなに迷惑をかけているのに、一言も文句を言わない。そんな人が、あの会員たちが言うような人間であるはずがない。
「半分は事実だ」
つま先から緊張が駆けあがってきた。じわじわと全身が硬直して、動けなくなった。
(半分って……どの、半分?)
一気に頭のなかがいくつもの台詞でうめつくされる。
師が弟子の研究を自分名義で―――ずっと弟子を裏切ってたって―――今は弟子が師を食い物に―――案外あいつがやったのかも―――。
ノエルは唾を飲んだ。
(それとも…………ぜんぶ?)
「で、でも……リュシアンさんが博士を殺したわけじゃ、ないですよね……?」
顔を上げたノエルの問いに、リュシアンは答えてくれなかった。
否定も肯定も、しなかった。しばらく沈黙がつづいて、
「………読んだのか」
「え……?」
彼は正面の空を見つめながら呟いた。
「探している……母の形見だという日記。おまえは読んだのか?」
脈絡のない問いにノエルは混乱した。なぜここでそんなことを訊くのだろう。
だがリュシアンは遠い空を睨んだまま、ノエルと目をあわせてくれない。
「えっと……何度かは。嫌なことがあったりとか、心がくじけそうなときに………母が恋しくなったときも、ですけど」
仕方なく正直に答える。
いまは手元にない、大事な日記。でも中身は覚えている。
嬉しいことや、楽しいことがあったときにつけていた母の日記は、読んでみると必ずしもそういうものばかりではなかった。あの一冊のなかに数年分の思い出がぎっしり詰めこまれていて、「ああこんなこともあったな」とか、逆に「そんなことがあったの?」とか、懐かしかったり新しい発見があったりで……そのどれもが自分に身近で。
いかに母がいつも自分を見ていてくれていたのか、そのまなざしがどんなに温かかったか、知ることができた。
そうしてときどき泣かされながら、励まされた。
「だが人の日記だろう。抵抗はなかったのか」
「それは……自分の母のものでしたし……日記でしか、母の思いに触れることはできなかったので。それに読んでみるとわたし宛の手紙みたいなところも結構あって、嬉しかったです」
「手紙……」
リュシアンはなにかを深く考えるように目を細めた。
そしてそれきり、なにも言わなかった。
パーティー会場からリュシアンの家へ帰ってくると、ノエルはすぐに着替えて昨日買った材料の残りでクッキーを作りはじめた。
オーブンにもなるという自動調理機の前で、ぼうっとしながら焼き上がりを待つ。
頭はずっと一つのことを考えていた。
バルコニーでリュシアンに日記のことを訊かれたあと、ふと思いだした母の一節があった。
『……下界に生まれた時点ではじめから多くは望んでいない。自分がなにに喜びを見いだせるか、それだけわかっていればじゅうぶん豊かだ。高望みは人生を貧しくする……』
それがずっと、頭から離れない。
コンラートに言われた言葉とからまりあって、ノエルに一つの答えを提示する。
(わたしはやっぱり、ここにいちゃいけない……)
いまさらだけど、たぶんそれが一番いい。
これ以上リュシアンに迷惑をかけないために、母の日記を諦める。
(わたしはお菓子を作っていられれば、それだけで幸せだもの……)
そもそも、下層民の自分は中層階級の人間に奪われたものを取り戻せるなんて思っていなかった。
だから返ってこなくて当たり前。
リュシアンの申し出はきっと、百年に一度の奇跡みたいなもので、それに出会えただけでも自分はかなりの果報者だ。
おかげでガーデンに来れたし、ふつうなら絶対に見れない世界を見ることができた。いまいるここはガーデンのなかでも一番上のヘブンだ。
日記を取り戻せなくても、おつりがくるくらい、すごい体験をしている。
(……だからもう、わたしの都合でリュシアンさんを振り回しちゃいけない。恥をかかせちゃいけないよ……)
決心したところでちょうど、焼き上がりを告げるマシンのアラームが鳴った。
ローテーブルの上に紅茶とクッキーの用意を整えると、ノエルはベッドルームのドアをノックした。
時刻はそろそろガーデンの人間がお茶を楽しむのにちょうどいい時間帯。
「あの、リュシアンさん。ちょっといいですか……?」
すると思ったよりも早くそれは開き、なかからコートを抱えたリュシアンが出てきた。
「どうした」
「はい、実はお話が…………あ。えっと、もしかしていまから出かけるところですか?」
コートと一緒にアタッシュケースも持っていることに気づいて、ノエルは訊ねた。
「ああ。今日のうちに一度、対策本部の方へ行くことになっている。それで話とは――」
リュシアンはソファの方へ移動し、テーブルの上に用意された菓子を見つけて、言葉を止めた。
「あっ、いいんです! これは……勝手に用意しただけなので、あとで片づけますからっ」
あわててノエルが言うと、リュシアンは「すまん……」と短く詫びた。
ソファにアタッシュケースを置き、コートを羽織る。
「……それで、話とはなんだ?」
「あ、はい……その」
こんな出がけに話していいものか迷ったが、伝えるなら早い方がいいと思いなおす。
「わたし、やっぱり下界へ帰ろうと思って……」
コートのボタンを留めていたリュシアンの手が、ぴたりと止まった。
「ヘブンにまで連れてきていただいておいて、本当に申しわけないのですけど……これ以上ここにいて、リュシアンさんにご迷惑をおかけしたくないんです。日記は大切なものでしたけど、なくちゃ生きていけないようなものでもないですし、わたしが諦めれば――」
「俺は迷惑とは言っていない」
低くリュシアンが遮った。
「ですけど……現にこうして、無理やり協力させられています。それにその……わたしがペットとか、リュシアンさんにとって不名誉なことにもなってしまって……」
「会長のやり方はいつも似たようなものだ。おまえの存在は関係ない。不名誉かどうかも、俺が決めることだろう」
「でも、どちらもわたしがいなければ――」
「おかしなやつだな、おまえは。俺よりおまえ自身は悔しくないのか? ペットだドールだと言われて、下層をあからさまに見下すやつらを目の前にして、なにも感じなかったのか?」
リュシアンの黒い瞳が見つめてくる。ノエルは視線をそらして下を向いた。
「だって……わたしは慣れてますから。下層の人間がガーデンの人間の前で恥ずかしい思いをするのはいつものことです。それも、こちらへ来てからは仕方ないと感じました。下界の生活ではふつう、ブリッジにでもいないかぎり毎日お風呂に入るなんて無理だし、服だって何日も同じものを着ていて平気なんです。汚らわしいと思われるのも当然のことで――」
ダンッ、と耳のすぐ脇で大きな音がした。
びくっと肩を震わせて仰ぐと、すぐ目の前にリュシアンがいた。右手を壁について、ノエルは閉じこめられるような格好になっていた。
「リュ……リュシアンさん……?」
「仕方ない……?」
リュシアンの目が据わった。ぞくりとノエルの背筋が冷えた。
「下層民は汚らわしくて当然……? おまえは本気で、そんなふうに思っているのか?」
冷たく睨まれ、ノエルは恐怖を感じた。はじめてリュシアンを怖いと思った。
「だ、だって……生きてる環境が……違いすぎます」
「違いすぎるからなんだ。貧しい暮らしをして、汚れた服を着ていたら、それは人間じゃないのか?」
「別にそこまではっ……わたしはただ、自分がどうあがいたってガーデンに行けないのはわかっているから……自分が下層民だってことは、わかってるから……叶わない夢は見ないだけで」
言いながらどんどん鼓動が速くなってくる。
喉がからからになって、声が震えてしまいそうになる。
(なんで……? どうしてそんなに怒るの?)
「つまりおまえは、下層民だから諦めるのか? 下層民のおまえは、上層の人間に迷惑をかけるわけにはいかないから? 諦めて下界に帰ると?」
「そう、です……わたしなんかのために、リュシアンさんが不快な目にあう必要はないから……」
「だめだ」
「え……?」
「そんな理由では帰さない」
(か、帰さないって……)
とまどいとともに、妙な動悸に襲われた。だがそれもすぐに凍りついた。
「俺は、自分で自分を貶めてなにもかも諦めてるやつが大嫌いなんだよ。自ら不幸に入り浸って自分はかわいそうだと泣いている、そんなやつらを見てると胸クソ悪くなる」
吐き捨てるように言うとリュシアンは壁から手を離した。
「だがおまえは違っただろう。おまえはあの中層のガキどもを追いかけてきた。だから俺は手を貸したんだ。一度追いかけたものを簡単に諦めるな。よけいなことは気にせずおまえは形見を探せ!」
そう怒鳴ると、リュシアンはアタッシュケースを取ってリビングから出ていった。
ほどなくしてエントランスのドアが閉まる音がする。ノエルはずるずるとその場に座りこんだ。口元を押さえた両手が小刻みに震えていることに気づいて、ぎゅっと握りしめる。
しばらくはなにも考えられなかった。どうしたらいいのか、わからなかった。




