5-2
着替えが済むとノエルはコンラートに中層へ連れていかれ、ふたたびあの口を挟む間のない強引さでいつのまにか眼鏡を作ってもらっていた。
リュシアンは請け負っていた仕事が終わりそうにないからと、眼鏡の代金だけ預けて一人ヘブンに残っている。そこでノエルは差し入れを兼ねてお菓子でお礼をしようと思い、コンラートに相談した。
彼は大いに賛成してくれ、二人はいま、大きな百貨店のフードマーケットに来ていた。
広い店内を小麦粉やバターといった材料を探して歩き回りながら、ノエルはすこし前から気になっていたことをコンラートに訊ねてみた。
「あの……リュシアンさんのお仕事ってそんなに大変なんでしょうか。昨日の夜もずっと遅くまでやってたみたいなんですが」
マナの研究者の仕事がどんなものなのか、ノエルには想像がつかない。
「うーん。仕事自体は大変じゃないと思うけど、先生はあまり寝つきがよくないからね。まどろむ時間が苦手なんだって。いつもぎりぎりまで仕事をして、意識を失うみたいに眠りにつくんだ。だから寝ないときもよくあるみたいだよ」
「そうなんですか……? なんだか体に悪そうです」
「だよねえ。僕もそう思うけど、眠気が来ないんじゃ仕方がないから……薬も効かないみたいだし」
ちょうど小麦粉のコーナーを見つけ、コンラートは立ちどまった。
カートの向きを変え、列のあいだに入って行く。
「それに編成の仕事は先生も好きだからね。ついつい夢中になっちゃうんじゃないの? いつも納期より先に上げちゃうみたいだし。今日みたいにあわてるのは珍しい方だよ」
(うっ………それってやっぱり、わたしのせい……?)
自分につきあってるせいで、彼は仕事のペースを崩してしまっているのだろうか。
「……その仕事って、わたしにも手伝えるものですか?」
「はは。それはちょっと無理かな。解明されてるマナの記号を組み変えるだけなら僕らにも不可能じゃないけど、そうじゃないし。だからこそ先生に仕事がいくわけで」
「マナの記号を組み変える……? あの、編成って具体的にどういう仕事なんですか?」
「そうだねえ……簡単に言うと、マナを発動させるための式作りみたいなものかな」
「式……」
「うん。たとえば夜の街を彩るネオンがあるでしょ。あれらの半分くらいはいま、マナの力の一つの幻影によるわけだけど、あれを作るとき、マナ編成の仕事が必要になる。現在ああいった幻影の力を発動しているのはマシンだからね。でもマシンはただ命令どおりにマナを編んで実行しているだけで、どういう色、形にするかといった思考はできない。人間がすべて編み方を設定しておいてやらなければならないんだ」
「その設定が……編成、ですか?」
うん。そんなところかな、とコンラートは頷いた。
彼は棚から小麦粉を手に取ると、カートのカゴに入れた。
「先生に言わせると、マナってのは見えない呪文みたいなものらしいよ」
「呪文………あっ。そういえば、ネズミに変えられたとき光の文字みたいなものを見ました」
「うん。マナが発動する瞬間、金色の光として見えることはたまにあるね………能力者はその見えない呪文を感覚で操るけど、先生はそれを常に見ることができる。だからたとえば赤い花の幻影が生まれるとき、マナがどういう呪文になっているかを見て、その通りにマナを編むことで先生は同じ現象を起こすことができるんだ。マナ自体を操ることはできないから、編成装置を使ってだけどね」
「それって……」
ふと、昨日聞いたミレイユ博士の発明のことが頭をよぎった。
「うん……叔母の発明は先生の協力なくしてはできなかった」
急に、コンラートの声が低くなった気がした。
「次はチョコレートだっけ?」
「あ、はい」
訝しむ暇もなく笑顔で問われ、ノエルは頷いた。
お礼に作るお菓子はガトーショコラに決めていた。少年たちに盗まれてしまって、結局弁償もできていないからだ。
「この裏がちょうど砂糖のコーナーになってるみたいだから、そこにいてくれる? 僕はチョコレートを取ってくるよ。場所なら知ってるから」
「わかりました」
ノエルが答えるとコンラートはくるりと背を向けて歩いていってしまった。
どことなくもやもやしたものを感じながら、ノエルはカートを押して棚の裏へまわった。
白糖に黒糖、グラニュー糖とそれぞれ数種類ずつ並ぶ品をどれがいいか眺めつつ歩いていると、ふとうしろの会話が耳に入る。
「ねえ、メーカーなんだっけ?」
「メーカーじゃねえよ。ミレーユ養蜂場からの贈り物。品名だ品名」
「えー? そこで作ってんなら一緒じゃん。てか、蜂蜜なんてどれも同じじゃない?」
「ばっか、ちげぇよ。全然ちげぇよ。ここのはなー、ほんとの蜂から採ってんだよ。味が違うんだよ」
「えー。あたしにはわかんないし。ミレーユ、ミレーユ……ねえ、最近よくテレビで言ってるミレイユって誰?」
「ああ? おまえそんなことも知らねえの? 二年前に自殺した研究者だろ。表向きは功労者って言われてっけど、裏で弟子のことずっと裏切ってたって……」
ノエルはぴたりと立ちどまった。
そろそろと振り返ると、若い男女の二人連れが蜂蜜の瓶が並んだ棚を眺めていた。
「そんときもすげー騒ぎになってたぞ。おまえすこしはニュース見ろよ」
青年の方が「あ、あった」と呟いて瓶を取る。そのまま二人とも行ってしまった。
ノエルはそちらを見つめたまま、しばらく動けずにいた。
(ミレイユ博士が、リュシアンさんを裏切った? じゃあ、博士が償おうとした罪って……)
その裏切りのことなのだろうか。それで協会から糾弾されることになったのだろうか。
次々とまた疑問が湧いてくる。
博士は都市開発の功労者で……自動編成装置の発明者で。
その装置の開発は、リュシアンの協力なしにはできなくて。
その弟子であるリュシアンを、博士はずっと裏切っていた?
(…………ううん。やめよう)
ノエルは先ほどのコンラートのようすを思いだした。
考えてみれば彼にとっても博士の自殺はショックなはずだ。無関係の自分が興味本位で訊ねたりしていい内容ではない。
二人とも下界に戻ればもう、二度と会うことのない人たちなのだから―――知る必要なんて、まったくない。
ノエルは自分に、言い聞かせた。
軽いノックのあと、コンラートはリュシアンの部屋のドアを開いてなかをのぞきこんだ。
「先生、入りますよ」
返事はなかったが、無視されるのはいつものことである。
彼はそのままバルコニー側のデスクでパソコンに向かうリュシアンのもとに歩み寄った。
「そろそろお菓子が焼き上がるみたいですけど……まだ終わらないんですか?」
「……もう終わる。いまコンパイル中だ」
コンラートはうしろからモニターを眺めた。画面には完了まであと十パーセントと表示されている。
たしかにあとは依頼主に送れば終わりのようだ。
「そんなにやっかいだったんですか、今度の仕事。半日かかりきりになるなんて」
「………打ちこみは昨日で終わっていた」
「ではなにか問題でも?」
「………目が覚めたら電源が落ちていた」
コンラートはすぐには意味がわからなかった。
黙ってつづきを待っていると、リュシアンは「だから納品済みだと錯覚した」と呟いた。
「ああ……先生って寝る前の記憶曖昧ですもんね……それでいつもの癖で証拠隠滅しちゃったと。ってことは一からやり直しですか?」
リュシアンは頷いた。
「それはご愁傷さまで………うしろ暗い仕事を引き受けると大変ですね。いいかげん、やめたらどうです? うすうす会長たちも気づいてるんでしょう? また文句を言われますよ」
「おまえには言われたくない」
「そりゃあ、僕は失うものはなにもないですから。一族からも見放されている自由な身ですし。それとも、先生は協会から追いだされたくてやっているとか? だったら応援しますけど」
「…………」
沈黙してしまったリュシアンにコンラートは肩をすくめた。――と、リュシアンの手元に置かれた白い封筒に目がいった。封は切られており、差出人の部分に会長の名前がある。
「……なんです? その封筒」
コンラートの問いにリュシアンも視線だけで手元を見た。
「パーティーの招待状だ」
「パーティー? ああ……協会設立記念の。そういえば明日でしたっけ………って、なぜご丁寧にとってあるんです? どうせ行かないでしょうに」
「今日また届いた」
「また?」
コンラートは眉を上げた。それから笑いがこみあげてきた。
「会長も健気なことをしたもんですね。どうにかして先生を捕まえたいわけだ。まあ、事件がなにも解決していないんじゃ仕方がないですが……」
そこまで言って、コンラートはそれにしても目の前の光景はおかしいことに気づいた。
たとえ今日届いたにしても、ふだんのリュシアンならそのままゴミ箱へ捨てているはずだ。
「ちょっと………もしかして行く気ですか?」
「ああ」
ためらいなく返ってきた答えに、コンラートは目を見開いた。
「どうして! 説得されに行くようなもんでしょう!」
リュシアンが不愉快そうに振り向く。
「俺はそんなに甘くない」
「甘いですよ! 結局いつも引き受けてるじゃないですか!」
この人は……とコンラートはあきれた思いでリュシアンを見下ろした。
すると彼は封筒を手に取り、コンラートの方へ差しだした。わけがわからず受け取ると、
「あいつの正体に気づかれている」
ひと言言ったきり、またモニターに向きなおってしまう。
眉をひそめながらコンラートは封筒の中身をひっぱりだした。すると招待状は二枚あり、一枚はリュシアン・ヴィノー宛て。
そしてもう一枚は、ミス・ブラウン宛になっていた。
「……そうか。会長も転化の資性の持ち主でしたっけ。昨日会ったときになにかしら感じとることができたわけだ」
それできっと調べを入れたに違いない。
もしかしたら今日、中層で買い物している姿も見られていたかもしれない。
「無視するとかえってやっかいだ」
リュシアンの言葉にコンラートは苦々しい思いで「ええ」と頷いた。
深みのあるカカオの香りが立ちのぼる。
できたての生地の表面には、ざっくりとしたひびが入っている。だがノエルは気にしない。
それはしっかりふくらんできれいに焼き上がった証拠だからだ。
上から真っ白な粉砂糖をさらさらと振りかければ、それだけでただの黒い円いかたまりは雪の降る大地みたいに姿を変えた。ノエルがお菓子を作っていて、一番好きな瞬間だ。
どんなお菓子も、たいていデコレーション前は素朴な姿かたちをしている。
そこにちょっとひと手間加えることでがらりと表情が変わり、何倍にも美しく華やかに、変身を遂げる。
だからノエルはいつも、願いをこめてひとつひとつ丁寧に飾りつけをする。
見る人の心を楽しませ、どうか美味しそうと選んでもらえますように。食べた人に幸せな気持ちになってもらえますように、と。
六等分にカットして皿に載せたあとは、ホイップしたクリームを形よく脇に添えた。
一緒に出す紅茶はケーキの濃厚でほろ苦い味にあわせて、さっぱりとしたストレートティー。
きちんとカップも温めてから淹れ、準備はすべて完璧な仕上がりで整った―――のだが。
ノエルは嫌な緊張感とともに、ソファの脇に立っていた。
というのも、リュシアンがローテーブルの上のケーキを見つめたまま、フォークを取ろうとしないのだ。
ノエルははらはらして落ち着かなかった。
(な……なにか失敗した?)
彼が凝視するケーキにはなにもおかしいところはない……と思う。
それとも、もしかしてクリームが嫌いなのだろうか。だがふつうにロミスではショートケーキも買っていた気がする。
(焼きたては苦手とか……? たしかに数時間置いた方が味がなじんで美味しいけど……)
だがそんなに待たせるわけにはいかないだろう。
荒熱はちゃんととってあるし、お店でも同じように出している。
味に関していえば材料がロミスで使っているものと異なるため、多少違いは感じられるが気になるほどのものではない。
でもそんなことはまだ、彼は知らないはず。
(……ケーキじゃないとすると、わたしの態度……とか?)
「どうしたんです? 先生。食べないんですか? 美味しいですよ」
コンラートも気になったのか、リュシアンの向かいからフォークを片手に問いかけた。
彼はリュシアンとは正反対に、一口ですでに半分くらい食べてしまっている。
「………マナが」
「はい?」
「……いや。いい」
彼は首を振ると、ようやくフォークを手にとった。皿を引き寄せ、ノエルとコンラートが見守る前で食べはじめる。
だが美味しいともまずいとも言わなければ、表情にも特に変化がない。
ただ黙って、義務的に食べつづける。ノエルはたまらず問いかけた。
「あ……あの! どう……ですか?」
するとリュシアンは食べるのを止めて、今度はノエルをじっと見上げてきた。思わず一歩、後退さる。
「お、お口にあわないですか!? あのっ……いつもどおりにやったつもりなんですけど、その、やっぱり材料とか違うし、使い慣れないキッチンってのもあったかもしれなくてっ」
「おまえはどうしていつもそう、おどおどしてるんだ?」
「え……」
「なぜもっと自分に自信を持たない? 誰もまずいとは言っていないだろうが」
苛立った口調で言われて、ノエルは呆然とした。
怒られているのに、焦りや怯えがどこかへ行ってしまう。
「それじゃあ……美味しいですか?」
「ああ」
そっけないけれど、はっきりとリュシアンは答えてくれた。
「本当ですかっ!?」
嬉しさのあまり声が一段、高くなる。
ノエルの興奮した問いに、リュシアンは先ほどとまったく同じトーンで、もう一度「ああ」と返事をした。
「あの、あのっ! それじゃあ明日も作っていいですか? 材料がまだ残ってるんです! これくらいしかわたし、リュシアンさんにお礼ができないですし……それにお菓子を作るのは大好きなんです! いつかお店を持ちたいくらい……あっ」
ノエルはさっと口を押さえた。
つい秘密の夢のことまで話してしまうほど、はしゃいでいる自分に気づく。そんなノエルをよそに、リュシアンはふたたびケーキを食べはじめた。
「作りたければ勝手に作れ。おまえの菓子ならまあ、毎日食ってもいい」
さらりと言って彼はケーキを口へ運んだ。ノエルはその場にかたまった。
「………? どうした、二人とも」
瞬きもできずに赤面しているノエルと、同じく額に片手を当ててなにかに悶えるようすのコンラートを訝しみ、リュシアンが訊いた。
「先生、いくら甘いものが好きだからって……それはちょっと問題発言ですよ……」
コンラートの忠告にリュシアンはむっとしてますます眉をひそめた。
「なにがだ。店を持とうと思うなら、味に対して他人の意見があった方がいいだろう」
「ええ。ええ………そうですけどね。言い方というか、意味あいというか……」
「意味あい? なんのことだ。俺はこいつの味が気に入ったから、毎日食ってもいいと――」
「わー! 変な略し方をしないで下さいよっ。わかりましたから! なんでもないです」
自分がなにを言ったのかわかっていないらしい彼に、コンラートは深く吐息をもらした。
どちらがソファで寝るか散々もめた夜の翌日、ノエルはわけもわからず白いドレスに着替えさせられていた。
昨日、コンラートがからかう目的で持ってきた、あの白いエンパイアラインのミディアムドレスだ。
大きく開いた背中で、胸下から回ったリボンを結ぶのはリュシアンが呼んだスタイリストの女性。といっても人間ではなく、ドールらしい。白い詰襟の制服を着て、あの滅菌室での男性や管理局の係員と同じ、貼りついたような笑顔を向けてくる。
「次はメイクでございます。どうぞこちらへ」
ドールはノエルをベッドへ座らせると、持参してきた道具のケースを自分の脇に開いた。
「失礼いたします、お嬢さま」
一言断ってから、ノエルの眼鏡をはずす。
お嬢さまという呼称にまた、ノエルは首筋のあたりがこそばゆくなった。
そんな身分ではないのだと説明しても、わかってもらえなかった。だが最初に呼ばれた「奥さま」よりはましだったので、仕方なくノエルはそのままにしている。
(こんなドレスを着てメイクまでして、いったいリュシアンさんはなにをする気……?)
人間にも戻れたし、今日ははりきって日記探しにいくつもりでいたのに。
昨日はお風呂に着替えに大騒ぎをして、眼鏡を買ったりお菓子を作ったりしているうちに日が沈んでしまい、結局日記を探すことはほとんどできなかった。
でもリュシアンの仕事は大変そうだったし、ノエルもお礼ができたから昨日はそれでよかったと思っている。
そのかわり今日は頑張ろうと思ったのだ。
なのに朝、ソファから起きたらすでにスタイリストのドールがいて、リュシアンは開口一番、「これに着替えろ」と白いドレスをつきつけてきた。
そこには有無を言わせぬ迫力があって、ノエルは説明を聞くこともできないまま、こうしてなにに向けてかわからない支度を整えているのだった。
ドールがベッドルームのドアを開けて、支度が整ったことをリュシアンに告げても、ノエルはすぐにはリビングに出ていけなかった。
(……ど、どんなふうになってるの? ドールは鏡を見せてくれなかったし……)
鏡のないこの部屋では、自分で見て確認することもできない。
ノエルはおそるおそる、ドレスの裾をつまんでみた。
やわらかくて手触りのいい、やさしい光沢のある上質な生地だった。胸のセンターにギャザーが入って、そのすぐ下から緩いドレープが膝あたりまで広がっている。
縁とギャザーの中心にはクリアカラーのラインストーンが並んで、動くたびにきらきらまばゆい光を反射した。そして首にはペンダントトップのついたシルバーのチョーカー。
実際はIDの首輪なのだが、アクセサリーをつけてうまくごまかしてくれたらしい。髪はふわふわな感じをそのままに、襟足だけ少し切って整えてくれた。
(せ、背中がスースーする……絶対こんなドレス似合わないよ……)
胸の下あたりまで開いた背中は、着る前から恥ずかしくてしかたがなかった。
「おい、どうした?」
なかなか出てこないノエルを訝しみ、リュシアンがベッドルームをのぞきこむ。
「わあっ……い、いえ! 着慣れない服だから緊張してしまって!」
さっとノエルは前を向いて背中を隠した。リュシアンが歩み寄って来て上から確認する。
「ふん………まあ、悪くないな」
「そう……ですか?」
「ああ」
いつもと変わらない表情で言われ、ノエルは逆に安心した。
変に褒められるより、悪くないという方が本音とわかったし、気分的にも落ち着けた。
「あの……リュシアンさん。今日はいったいなにがあるんですか? どうしてわたし、こんな格好を?」
訊き返した相手も気づけば黒のスーツにアスコットタイ、白のポケットチーフ、と礼装姿だ。
「パーティーに出る」
「パーティー!? なんのですか?」
「協会のだ。設立記念日に毎年やっている」
「…………えっと、あの。そこへ、わたしも行くんですか?」
「そうだ」
なんで? とは訊けなかった。
あまりにリュシアンが「当然だ」という態度だったから。
「あのう……でも日記探しは?」
「心配しなくてもコンラートが調べている。今朝もメールが届いた」
そこでリュシアンはメールの内容――カロンズにも例の運び屋は存在しないこと、代わりに少年の証言とよく似た容姿の盗賊が、最近中層によく現れていること――などを教えてくれた。
「盗賊ですか?」
「ああ。おそらく駆けだしのやつなんだろう。やつらが複数、呼び名を持つのはよくあることだ。あとはあいつに任せておけばいい」
「任せるって。でも、これはわたしの問題で……」
「こういったことはあいつの方が得意なんだ。電波にのらないネットワークもあいつの方が太いし広い」
なんだか、おまえにできることはなにもない、と言われたような気がした。
そしてたしかに、そうだった。
「……わかりました」
ノエルはうつむいて、ドレスの裾をきゅっと握った。
リュシアンが任せておけばいいと言うのだから、コンラートは本当にこういった情報には詳しいのだろう。だからきっとすぐにその盗賊の居所もわかって、日記を取り戻せて……ノエルは下界に帰れる。
そして早くそうすることが、一番、二人に迷惑をかけない方法だ。
下を向いたノエルの頭を、リュシアンは軽くつかんで上向かせた。
「おい。俺はなにもすべてあいつに任せろとは言っていない」
「は、はいっ……」
頭をつかまれたまま言われ、ノエルの背筋はぴんと伸びた。
「コンラートの奴がその盗賊と接触できたら、俺たちも向かう。だからいまは俺につきあえと言っているんだ」
「………はい」
ノエルが頷くとリュシアンは一度頭を撫でてから手を離した。
どきりとしてノエルはその手を見つめた。
「わかればいい。行くぞ」
さっと踵を返して、彼は先にベッドルームを出ていく。あわててノエルもあとを追った。
(……も、もしかして……気遣ってくれた……?)
ドールはすでに帰したらしく、リビングには誰もいない。エントランスへ進む黒い背中を見つめながら、ノエルの心はだんだん温かくなった。
履き慣れないミュールの細い踵が、大理石の床に小さく響く。
その軽くて優雅な音が、ノエルの気持ちを少しだけ華やかにしてくれた。




