4-2
黒地に銀灰色の縁取りがなされた大きなドアを、小さな爪が何度も引っ掻く。
硬い扉はほんのかすかにカリカリと音を立てるが、広い廊下には響かない。
ましてやなかの住人には聞こえるはずもないだろう。
「リュシアンさん、ノエルです! いま帰りました!」
声を上げてみるが応答はない。
はるか頭上のインターホンのボタンを見上げ、ノエルはため息をついた。もう十分ほど、こうしてドアを引っ掻いていた。
中層からの帰り、ヘブンの中央塔までコンラートがゲートの行き先を指定して送ってくれたが、着いてみると肝心の部屋に入れなかった。部屋の前まで来れても、ここにいることに気づいてもらえなければドアは開けてもらえないのだ。
(今夜は廊下で寝るのかな……)
下界の塔では廊下や階段で寝ることも当たり前にあったが、こんなに広々とした廊下ははじめてだ。
できたら身を隠せるようなところがあったらいいけれど、などと考えていると、急に焦ったようにドアが開いた。
「きゃっ……!」
ドアの角付近にいたノエルはその勢いに突き飛ばされ、冷たい廊下の上に転がった。
エントランスから顔を出したリュシアンが、それに気づいてあわてて膝をつく。
「すまん。調べものに集中していた………怪我はないか?」
ノエルはほっとし、首を振って立ちあがったのだった。
半日、カロンズ地区を観光しながら少年の言っていた運び屋のクライアントを探してみたが、結局ノエルたちはそれらしい情報を得ることはできなかった。
レストランや空中庭園で優雅に余暇を楽しむ貴婦人然とした女性や紳士を見かけるたび、コンラートが人当たりのいい笑顔で会話に割りこんでそれとなく訊いてみたのだが、下界のものを集めるような好事家の話は出てこなかったのだ。
まず最初にそのことをリュシアンに伝えると、彼はすでにコンラートから聞いていたようで、そうらしいなとだけ答えた。
リュシアンは部屋に入るとノエルをローテーブルの上に下ろし、その前のソファに座った。
「観光はどうだ。楽しめたか」
「あ、はい……庭つきの豪邸とか、お城みたいな図書館とか、空に浮いてる公園なんてのもはじめてで、どれもすごくすてきでした!」
答えるうちに、数時間前までの興奮がよみがえってくる。
「公園のまんなかにいると風が薫るんです。わたし、風に匂いがあるなんてはじめて知りました。やさしい花の匂いと、深みのある土の匂いと……それから噴水の近くでは水の匂いも! 花も広さも、タワーの屋上公園の何倍もあって、半日じゃ見きれませんでした。奥の方には可愛くておしゃれなお店がいくつか並んでいて、軽い食事ができるようになっていたので、そこでコンラートさんと一緒に十分くらい悩んで、シナモンのアイスクリームを買って――」
ノエルはじっと話を聞いているリュシアンに、はっとして言葉を止めた。
正面で黒い瞳が怪訝そうにこちらを見る。
「どうした」
「……いえ、その………ごめんなさい」
「なにがだ」
「……クライアントの手がかりもつかめなかったのに、わたし……」
こんなふうにはしゃいでしまって、みっともない気がした。
「観光ついでに行ったんだ。別に楽しむのは悪いことじゃない。気にするな」
「でもリュシアンさんは一人で探してくださっていたのに……」
それに「観光ついで」じゃなくて、本当は「クライアント探しのついでに」の方が正しいんじゃないかとノエルは思った。
「悪いが俺の方も収穫はない」
「え……?」
「ガキの言っていた〝酔い熊〟という名の運び屋は存在しない。ただ、働き蜂の巣の駅の利用記録を調べて、おそらくその運び屋と思われるやつの足どりはたどれた……」
リュシアンは足を組んでソファにもたれると目を閉じた。
軽く、指先で眉間を揉むような仕草をする。疲れているのだろうか、とノエルは思った。ロミスでも注文の確認や発注の際、モニターと睨めっこしながら店長がよくやっていた。
「さすがにあの路線の利用客の数は多かったが、町の特性のおかげで案外すぐに見つかった。通勤客の流れに逆流するルートはよく目立つ。足がつかないよう、キャッシュで切符を買ったのも裏目に出たな。そいつはカロンズから来て、カロンズへ帰って行った」
「カロンズから……ですか? じゃあ、もしかしてそこに依頼主がいるってわけじゃ」
「ああ、単にそいつの拠点なのかもしれない」
だから明日はカロンズを中心に、運び屋業のようなことをしている男がいないか調べてみる、とリュシアンはつづけた。
「手がかりは少ないが、ゼロじゃない。おまえも諦めるな」
そう励まされた瞬間、ノエルの胸はズキンとした。もういい、と言いたくなった。
たぶん、このほんのわずかな情報をつかむのに、彼は膨大な量の記録を調べたに違いなかった。それもきっと、ついさっきまで。
対して自分はコンラートと一緒に半日、中層の観光を楽しんだだけだ。
「夕飯は? 食べてきたのか?」
思いだしたようにリュシアンが言った。
「あ……はい。コンラートさんと一緒に……」
ノエルはうしろめたい気持ちで頷いた。
彼が買ったファーストフードのポテトを一つまみもらっただけだが、美味しくて楽しい食事だったことは間違いない。
「そうか。じゃあ……」
言いかけて、リュシアンは壁にかかった時計を見上げ、黙ってしまった。まだ夜に入ったばかりで、寝るというにはちょっと早い時間だ。
ふと、また気まずい沈黙が落ちる。
(どうしよう……きっとまた気を遣わせてる)
時計を見る彼の頭のなかでどんな思考が働いているのか、想像すると気持ちが焦った。
(なにか……自分からどうしたいとか、言った方がいいのかな)
でもそれが迷惑な要求だったらと思うと不安になる。もどかしい思いにノエルは両手をこすりあわせ、そのざらついた感触にぎょっとした。手足に細かい砂がついていた。
中層の公園でコンラートに下ろしてもらったときに汚れたようだ。よく見ると毛並みもかなり乱れている。
当然だとノエルは思った。なにしろ毛繕いなんてしていない。
(…………お風呂に入りたい)
急に切実にそう思った。
土足でテーブルの上にいるのと同じだし、ネズミとはいえ汚れたままの体でいるのは嫌だった。
ロミスでは食べものを扱う店のため衛生面にもちゃんと気を遣っていて、店員は店に備えられたシャワールームで毎日体を洗えたのだ。
寝起きは汚いタワーの階下で過ごしても、仕事へつく前にきれいさっぱり清められる。そんな習慣があったからこそ、よけいにいまの自分がとても汚いもののように思えた。
(手足だけじゃなくてきっと全身砂まみれだよね……毛のあいだに汚れがたまって――)
ごしごし茶色い毛を洗う想像をしたとき。
ノエルは唐突に、いま、自分が素っ裸かもしれない――という考えに思いいたった。
(っ……動物は、服なんか着ないから、あたりまえだけど……でもっ……)
変な考えだとはわかっている。だけどいったん考えだすと止まらなかった。
いつのまにかリュシアンがこちらに向き直っていて、ノエルを見ていた。かっと体の中心に火が灯ったみたいに熱くなった。
ノエルはローテーブルから跳び下りると、さっと向かいのソファの陰に身を隠した。
「……おい?」
「大丈夫です!」
なにが大丈夫なのかわからなかったが、ノエルは叫んだ。
「あのっ、わたしは大丈夫ですからっ……お気になさらず! リュシアンさんも自由にしてください!」
「……それはいいが、なぜ隠れる」
「べ、べつに、隠れているわけでは! そ、そう! 夜空でも見ようと思って!」
ノエルは今度、正面のガラス戸に駆け寄った。
真っ黒な空を見上げて、暴走気味の鼓動が早くおさまるよう、必死に胸のなかで祈る。
明らかに挙動不審だったが、リュシアンはそれ以上なにも言ってこなかった。
ただ、軽く眉をひそめた顔が、ガラス戸の向こうからこちらを見ていた。
男女が二人きりで同じ部屋にいるのは、すごくすごく、緊張する。
一時間後、ノエルはじりじりした思いで、相変わらずバルコニーのガラス戸の前にいた。
自由にしろと言ったてまえ、彼がリビングで読書をはじめても、やめてほしいとは言えなかった。そもそもノエルは居候の身であるし、それに読書といってもどうもなにかの研究のためらしく、つまりは仕事をしているようなのだ。
ロミスの店舗より二倍も広いリビングが、いまのノエルには窮屈にしか感じられない。
(……かといって、ベッドルームに入るわけにもいかないし)
ノエルは小さく、息をついた。
リュシアンは恩師のミレイユと一緒に暮らしていて、緊張したりはしなかったのだろうか。
ついそんなことを考えてしまい、そのあとで昼間のコンラートの話を思いだして、ノエルの心はすっと冷えた。
―――そう言われているね。
コンラートの静かな声が、よみがえる。
ノエルが列車のなかで、ミレイユの自殺が本当なのか訊ねたときの、彼の答えだ。
『そう言われているね』
『……言われている?』
『死んだっていう事実と、遺書しか残っていないからさ。遺体が見つかっていないんだ』
『……どういうことですか』
ノエルの問いにコンラートは視線を窓の外へ向けた。
『……二年前にね、叔母はとあることがきっかけで協会から糾弾されるはめになったんだ。それで一週間くらい、失踪した。ガーデンの人間のIDは、生きてるあいだ常に管理局へ生命信号を送りつづけるんだけど、叔母くらいの身分になるとその探索には制限をかけることができたから………そのせいで居場所がわからないまま、IDからの信号が途絶えた』
そのあとリュシアン宛に遺書が届いて、間違いなくミレイユ博士の書いたものだったから、世間は自殺と判断したという。
ノエルはリュシアンを振り返った。
ソファの背に片腕を載せて、本に向かう背中を眺めるうち、昨夜バルコニーで見たあのさみしい光景を思いだす。
リュシアンがミレイユを恩師と慕うのは、育ててもらった恩義があるからだという。
彼が孤児となった十歳のとき、博士がひきとって母親代わりとなったらしい。そんな大切な人が、自分の知らないところで自ら命を絶ってしまった。
(わたしのお母さんは……そばにいてくれた)
風邪をひいて、二、三日高熱がつづいて、ある朝冷たくなっていた母。
悲しいけれど受け入れられたのは、目の前に死体があったからだ。冷たくなっても自分の側にいてくれたから。でもリュシアンは…………想像すると、心が重たく沈んだ。
(それに………あの会長との会話)
リュシアンは博士を追いつめたのは協会だと思っている。そしてコンラートの話から、ノエルもそれは間違いではない気がした。
ならば協会が博士を糾弾し、失踪させる原因となった「とあること」とはなんなのか。
博士が自らの命で償おうとした「罪」とはなんなのか。
ノエルは気になったが、コンラートは言葉を濁したまま、教えてはくれなかった。
『協会って……なんなのですか?』
代わりに訊ねたノエルに、コンラートはミレイユが所属していたリース・マナ協会について話してくれた。
『マナの研究と学者の育成、技術開発と社会貢献を目的とした、その分野では最も古い協会さ。会長の座はほぼ世襲制で、現会長はダレスト・リース。歴史があるぶん、能力者主義の思想が濃い団体でね。叔母とはあまりそりがあわなかった』
『能力者主義? でも、リュシアンさんは能力者じゃないって……そういえば、どうして最高層に? 博士の弟子だからですか?』
『うん。先生は遺言によって叔母の財産、その他諸々を承継しているからね』
それは会長も言っていたことだった。だがコンラートはその遺言が本当は償いなどではなく、真の目的はリュシアンを協会から守るためだったと言った。
ミレイユ博士は自分の持つすべての権限を弟子に譲り、一人の研究者として力を持たせることで、彼の能力が会長たちの自由にされないようにしたというのだ。
『でもさ、結局はいいように利用されてるんだ。どんなに反発していても、最後の最後にはいつもあの人は会長に折れる。見捨てきれないんだよ。今度の事件だってたぶんそうだ。僕は遺言なんて守らずに、協会をやめて好きなように生きるべきだって言ってるんだけどね……』
最後の方でコンラートはさみしそうに笑っていた。
結局、詳しい事情を知らないノエルには、会長とコンラートと、どちらの話が真実かはわからない。だがどちらにしろ、博士が弟子のためにできる限りのことをしたのはたしかだろう。
そしてリュシアンが協会にとどまりつづける理由も、そこなのかもしれない。
きっと彼は、尊敬する博士の遺言を無視することなどできないのだ。
しんみりとそう思ったとき、ふと寒気を感じてノエルはひとつ、くしゃみをした。
ずっと窓際にいたせいで体が冷えたらしい。中層からの帰り際にも何度か出ていたから、気をつけないと風邪をひくかもしれない。
(やっぱり、ある意味全裸でいるから……? 昨日はそのままソファで寝ていたし……)
その話にはコンラートもあきれていた。
昨夜はどうだったの、といたずらっぽく訊かれて、「なにもありません!」とノエルは答えた。
リュシアンは部屋にひきこもってしまったからソファで寝たと説明すると、彼は「なんだつまらない」と呟き、それから部屋の空調が効いていたのか訊ねてきた。
よくわからないが明かりが消えたことを告げると、「それは切れてるよ!」と怒られた。
ガーデンは高度があるぶん、下界より寒いらしい。気をつけるようリュシアンに伝えておく、とコンラートはため息まじりに言ってくれた。
(別に空調をつけなくても、毛布とかもらえればそれで充分なのだけど……)
「寒いのか?」
いつのまにかリュシアンがすぐ側まで来ていて、こちらを見下ろしていた。
ノエルは驚いて目を見張った。
「あ……その……窓際にいたから……。でも大丈夫です! ただ、夜はこちらの部屋は空調が切れてしまうみたいなので、なにかくるまるものをいただけたら――」
話しているとちゅうで、リュシアンはノエルをつまみ上げた。
そのまますたすたとベッドルームに向かって歩いていく。
「え……? リュ、リュシアンさん? あの……っ」
とまどううちにドアが開けられ、彼の部屋へと入ってしまう。
三台の大きなコンピューターと、そこから縦横無尽に伸びる何本ものコード、山と積まれた部屋いっぱいの書物が目に入る。そのまんなかに壁に頭を向けたセミダブルのベッドがあった。
ノエルは不安いっぱいの瞳でリュシアンを見上げた。
「あ、あの!?」
「ベッドで寝ればいい」
その一言で全身が硬直する。
「でっ…………でも! リュシアンさんの邪魔になるんじゃっ!!」
顔がみるみるうちに火照りだす。
(ベッドでって、ベッドでって……一緒に寝るってこと……!?)
「その大きさでなにが邪魔になる」
リュシアンはノエルを顔の前にぶら下げた。
冗談を言っているわけではなさそうな黒い瞳に、ノエルは必死で両手を突きだした。
「いえ、でもいいです! ソファでいいです! 毛布もなくても!」
「遠慮はいらん」
「いえ、遠慮はします!」
「……おい」
「大丈夫です! 大丈夫ですから! タワーでは廊下で寝たりとかよくあったんで、ソファなんてゴージャスなくらいでっ……」
「いったいなにが気に入らない?」
リュシアンの声に不満がにじんだ。ノエルは手を突きだしたまま、答えに窮した。
(なにがって……邪魔とか迷惑とか、そういうのの前になんていうか、男の人と同じベッドで寝るってふつう、抵抗あるよね!? そこを察してほしいのだけど……っ)
答えないノエルにふと、リュシアンがまじめな顔つきになった。
「……俺が怖いのか?」
(…………こ、怖いかも)
思ったが素直には口にできず、ノエルは固まっていた。するとリュシアンが言った。
「悪いが……愛想のない顔は生まれつきだ。怒っているように見えるかもしれんが、おまえが考えるほど俺はおまえを迷惑とは思っていない」
「え……?」
どきりとした。
「もともと他人に興味がないから、あまり気が効かないそうだ。だから、いたらないことがあれば遠慮なく言っていい。可能なことなら叶えてやるし、俺も気をつけるようにする」
眉間に寄った皺が、このときだけは困ったような表情に見えて。
「……ありがとう…ございます」
ゆるゆると、ノエルの緊張がほどけていった。
ぼうっとしたままリュシアンを見つめる。
(……どうして、こんなにやさしいんだろう)
ずっと無愛想で、苦手な人だと思っていた。
その印象が昨日からちょっとずつ、塗り替えられていく。リュシアンという人が、鮮やかになっていく。
「わかったなら寝ろ」
ノエルがおとなしくなったところで、彼はその体をベッドに下ろした。
「へ!? や、待ってください! でもやっぱりこれはちょっと!」
ノエルはすぐ我に返った。リュシアンがなんなんだ、という疲れた顔で見下ろしてくる。
(う……)
ノエルは仕方なく、正直に白状する決心をした。
「そ、そのですね……男女が同じ寝台で寝るというのはちょっと……抵抗があるというか」
リュシアンは一瞬呆けた顔をし、瞬きをひとつしたあと、はっきり言った。
「悪いが……俺はネズミを襲う趣味はない」
冷静なその返答はノエルを羞恥の極みまで弾きあげ、それから自己嫌悪の底まで突き落した。
「そっ……そうですよね!! わたしいまネズミですもんねっ……!」
ノエルは両手で顔をおさえて叫んだ。
フルーツピックのような細長い手。
その指のあいだから飛びだすピンとしたヒゲ。
ごわごわした砂まみれの茶色い体毛。
たしかにいま、自分はネズミだ。わかっている。
それはわかっているけれど、こんな状況ははじめてで。ネズミの格好をしていても、中身は十六歳の少女なわけで。
でもそんなふうに意識しているのは、どうやら自分だけのようだった。
悪いが、というリュシアンの前置きにこめられた意味を考えると、恥ずかしくて死んでしまいたくなる。
(もうやだっ……なに一人で変なこと考えてるの!?)
全身、オーブンのなかにいるみたいに熱くなって、心臓がめちゃくちゃに鼓動を打って、涙がにじんだ。
ばっと毛布の下にもぐりこみ、身を縮める。
「ね、寝ます!」
かろうじてそれだけ伝え、ノエルはぎゅっと目をつむった。




