4-1
午前十時になると、ノエルはリュシアンとともにふたたび中層を訪れた。
中央塔の各階には行先指定のできる転移装置があって――見た目はエレベーターと変わらない――音声案内に従ってボタンを操作するだけで、中層の門センターに着いてしまった。
コンラートとの待ち合わせ場所は昨日ノエルが少年たちを逃がした、管理局近くのカフェテラス。
そこで先に待っていたコンラートはリュシアンの顔を見るなり彼の不機嫌を察し、さらにその原因を当ててみせた。
「あのご老体が来たんでしょう? そろそろ行くだろうなとは思ってたんですよ。なにしろいまや協会の信用はがた落ちですからね」
それで、引き受けたんですか、というコンラートの問いをリュシアンは完全に黙殺した。
ポケットからノエルを空いているテーブルへ移し、自身もどかりと椅子に座る。そのまま背もたれに寄りかかると、両手を組んで目を閉じてしまった。
コンラートは肩をすくめ、困ったようにノエルを見た。
「あの会長に会ったあとはいつもこうなんだ。嫌なら退会すればいいのにね」
ノエルはなんと答えていいのかわからなかった。
リュシアンのポケットにいるあいだもずっと今朝の出来事が頭のなかをぐるぐるしていて、気になることは山ほどあって、でもどれも訊いてはいけない気がして、所在なく黙って縮こまっていたのだ。
ミレイユ博士はなぜ自殺したのか。リュシアンは会長とどうして仲が悪いのか。
最後の方の会話は、会長たちを憎んでいるようにも聞こえた。
(協会がミレイユ博士を追いつめたみたいな言い方をしてたけど……)
彼の過去にいったいなにがあったのだろう。
自殺してやってもいいなんて、冗談でも聞くと悲しかった。
ノエルまでが黙りこむと、コンラートはやれやれと席についた。それから聞いているかどうかもよくわからない相手へ、ここへ来るまでに彼が調べたことの結果報告をしはじめた。
どうやら昨夜、リュシアンはゲートの記録から得たひったくりの少年たちの情報を彼に送っていたらしい。それをもとにすでにコンラートは少年の一人と接触し、話を聞いてあった。
「何度か見かけた顔だと思ったら、ここの居住フロアの住民でさ。せっかくだからこの制服を利用させてもらって、いろいろ訊いてきたよ」
灰色の警備員服をつまんでコンラートはノエルにいたずらっぽく笑ってみせた。彼はリュシアンに向きなおると、メモを取ったらしい手帳を開いた。
「グループはあまり大きくないみたいですよ。せいぜい五、六人といったところです。全員一般人で、スクールのクラスメイトだそうです。集めた戦利品はぜんぶリーダーの家に集めて、週に一度グループ同士で結果を競いあっているんだとか」
リュシアンは頷きもせず、無言で先をうながした。
ノエルは昨日彼が言ったとおり、まだ日記が捨てられていないことを知って安堵した。
「リーダーの家はですね、えーと……東第三区。ということはおそらく両親は共働き、ふつうなら彼もこの時間は学校でしょう」
どうしますか、とコンラートは問いかけた。リュシアンがようやく目を開ける。
「ノエル」
いきなり名を呼ばれ、ノエルは文字通り飛びあがった。
「は、はいっ!」
声は変なふうに裏返った。
リュシアンが名前を呼んだ。ただそれだけのことなのに、とてもびっくりしてしまった。
(名前覚えてくれたんだ……)
なんだか新鮮で妙に嬉しかった。
「そいつの家に、まずおまえがもぐりこめ。日記があるかたしかめたら、ガキの帰宅後に適当に理由をつけて取り戻す」
いいな、と言われてノエルはとっさに頷いた。
「適当に理由をつけてって、先生はどうおっしゃるつもりで?」
「それはおまえの得意分野だろう。その情報を訊きだすのになんと言ったんだ?」
「ゲートセンターの滅菌作業に不備があって、持ちこんだものに菌が付着してる恐れがあるからと。本当なら大騒ぎになってるはずですけど、やっぱり子供ですね。真っ青になって消毒しに行きましたよ」
「ならそれでいいだろう。案内しろ」
リュシアンは立ちあがると、コンラートの案内を待たずに歩きだした。
「あ……」
「ずいぶんとせっかちだなあ。いつもはなにをするのも面倒そうなのに」
コンラートが苦笑して、おいで、とノエルに手を差し伸べる。ノエルはその手に乗るのを、一瞬ためらった。
今日の彼は手袋をしていなかった。
「どうしたの?」
「……あの」
ノエルはきょとんとするコンラートを見上げた。
「わたし、汚いかもって……。その、さっきソファの下にもぐったから……」
本当はそうじゃない。
汚らわしい、と怒鳴った会長の声がまだ少し、耳の奥に残っている。
昨夜、ガラスの上に見た自分の姿が脳裏によみがえる。
「そう? 別に汚れてないみたいだけど」
コンラートはさっとノエルをつまみあげ、目線の高さで確認した。
「コ、コンラートさんっ……」
「うん。今日もハニーブラウンのいい毛並みだよ。もしかして髪もこの色なの?」
「あ、はい……金髪よりは茶色の方が強い色あいの……」
「ふーん。見てみたいなあ。そういえば僕は、君の人間の姿を知らないからね」
言いながら彼はノエルを胸のポケットへしまった。そして見失わないうちにリュシアンのあとを追いかけた。
ネズミを素手でつかむのも衣服に入れるのも、まるで気にしていない様子だ。
そういえばリュシアンもそうだった。
(まあ、ネズミにした当の本人だけど……)
そもそも、この二人はノエルが下層民であることさえ関係ないみたいだ。
でもそんな人々が少数派だということは、ノエルもよくわかっている。
これはとてもとても、幸福な出会いなのだ。
ガーデンに来られたことよりも、一時的とはいえヘブン生活でできることよりも、ノエルは二人に出会えた幸運をそっとかみしめた。
東第三区はいわゆる庶民的な家々の集まる場所で、共稼ぎの家庭が多く、働き蜂の巣などと称されるらしい。
住んでいる人間はほとんど一般人で、みなもっと上の階に行くことを夢みてせっせと働くのだとか。
ひったくり少年グループのリーダーの家庭も、例に漏れずそのようだった。
ただコンラートの読みと違ったのはそのリーダーの少年がまだ家にいて、しかも誰かと会っていることだった。
(どうしよう……動けない)
アパートメントのドアに備えつけられた郵便受けのなかに、ノエルはいた。
外から潜りこみ、家へ入ろうとした瞬間、間近で声が聞こえたのだ。
目の前の狭いエントランスに、太い二本の足が立っている。その人物が正面にいる少年となにやら話していたのだ。相手は男で、もう帰るところのようだった。
ノエルは会長に見つかったときのことを思いだし、ゆっくりと郵便受けのなかに体を戻した。自分から相手が見えるということは、向こうからもこちらが見えるということだ。
(……いるならちゃんと出てくれればいいのに)
入る前に一応チャイムは鳴らしてあった。
応答がなかったのでリュシアンたちはノエルを郵便受けに入れ、離れた場所で待機することにしたのだ。
人の家に勝手に忍びこむ罪悪感にただでさえ緊張していたため、こんなふうに驚かされてノエルはつい恨みがましく思ってしまった。
とりあえずこの場はここでやり過ごし、男が帰ったらリュシアンたちのところに戻るしかない。
家に誰かいるならコンラートと乗りこむ作戦になっているのだ。
「じゃあな。午後からでもちゃんと学校に行けよ、不良少年」
男の声が笑い、エントランスのドアが開かれる。少年が「うるせえ」と返した。
男はふたたび笑って家を出たようだ。乱暴な勢いで少年がドアを閉め、ガチャリと鍵をかける。
すぐにその場は静かになった。
ノエルはしばらく待ってからそろりと廊下へ頭を出し、男が去ったかどうかを確認した。
「じゃあ、日記はその男が買っていったというわけかい?」
「そうだよ。なんかそういうのばっかり集めてるコレクターがいるとかで………おい、もういいだろ。それ以上消毒したらびしょびしょになっちまうよ!」
少年はコンラートの手からノエルの鞄を奪い取った。霧吹きから飛びだした最後の一吹きがむなしく空中に散る。
ここへ来る途中、コンラートが購入したもので中身はただの水である。
二人のやりとりを、ノエルはリュシアンのコートのポケットから呆然と眺めていた。
(また日記が持ってかれちゃった……ついさっき、ほんの少し前まで、ここにあったのに)
それが持ちだされるのを、自分は郵便受けのなかでただじっと待っていたのだ。
知らなかったとはいえ、ノエルは自己嫌悪に陥った。
「そいつの行き先とかわからないかなあ? 持っていかれてしまった日記も消毒しなくちゃいけないんだけど」
戦利品が並べられていたフローリングの床に正坐していたコンラートは、少年を見上げてもう二、三吹き消毒した。
「うわっ、つめてえっやめろ! 知らねえよ!」
「本当に?」
「訊いたって教えてくんねーよ! 相手は運び屋だぞ!」
「運び屋、か………もしかして空間縫合の能力者ですかね」
コンラートはエントランスの戸にもたれて立つリュシアンを振り返った。
「さあな。どちらにせよ、いまから追うのが困難なことにかわりはない」
リュシアンは冷めた声で言いきった。
機嫌が悪いせいかその声はいつもより数倍無愛想に聞こえ、ノエルはポケットのなかでいたたまれなさに小さくなった。
今日もしっかり、自分はリュシアンに迷惑をかけてしまっているようだ。
そのあとコンラートが少年からその運び屋の名前と周旋屋の情報を聞きだして――どうやらこうして戦利品を売るのははじめてではないらしい――ノエルたちはアパートをあとにした。
「にしても、下界の日記を集めるコレクターが本当にいるとは驚きだね。運び屋を雇ってまで手に入れたがるなんて、いったい君のお母さまの日記はどんなシロモノだったんだい?」
コンラートは閑散とした住宅街を歩きながらノエルに訊いた。ベッドタウン的な位置にある東第三区は、昼間はまるで人通りがない。
「どういうって……緋色の革の表紙でしっかりした作りの、厚いものです。全然ふつうの日記帳でしたけど……」
ノエルこそ、あんなものに価値があったことに驚いていた。ただ、母が大事にしていただけあって装丁も美しく、それなりの値段がするようには見えた。
(たしか……大切な友だちにもらったものだって嬉しそうに話してたっけ……)
夜、寝る前のほんのわずかなあいだ、母は蝋燭を灯して日記をつけていた。
温かな火に照らされた穏やかな顔や、さらさら滑るペンの音はよく覚えている。嬉しいことや特別なことがあった日にちょっとずつ書いて、そうやって十年以上、母はあの日記帳を持っていた。
「うーん。コレクターと僕らの価値観は違うってことかね……まあ、そういう人間の手に渡るならまず捨てられる心配はないだろうから、その点は安心できるよ。あとは周旋屋に当たって運び屋を見つけだし、依頼主から買い戻そう」
コンラートに励まされ、ノエルは少しだけ気持ちが軽くなった。
「あの……本当にありがとうございます。リュシアンさんも、コンラートさんも。なんてお礼を言ったらいいか……お二人ともお仕事があるはずなのに」
「はは、二人とも仕事は趣味みたいなものだから気にしなくていいよ」
「勝手におまえと一緒にするな」
それまで黙っていたリュシアンが不愉快そうに口を挟んだ。
「おや、先生だって最近は娯楽的なマナの編成法ばかり研究なさっているじゃありませんか。一番最近の研究は『蟻と対話する方法』でしたっけ? そんなマナの開発がいったいなんの役に立つんです?」
「別に蟻に限ったことではない。最初に目についたのが蟻だっただけだ。やつらが空に浮くガーデンにどうやって侵入して来るのか興味があった」
「それを訊くためにわざわざ?」
学者の考えることはわからない、とコンラートはぼやいた。
そうこうするうちに中層を巡っている列車の駅が見えてくる。ひしめく団地やアパートメントに埋もれるようにして、ひなびた石造りの駅舎が建っている。
ガーデンはマナによる公共転移装置の普及が進んでいるものの、完璧に網羅されているわけではなく、こうした旧式の移動手段も数多く残っているらしい。
列車は円形劇場の座席のように、階段状になった中層の各階層の縁をなぞるように走り、主要な駅からは上下の階層の駅へ転移できるようになっていた。
駅舎の造りは各駅さまざまで、無駄な装飾のないビルのようなデザインのところもあれば、意匠を凝らした城館のようなところもある。地区によって町の雰囲気が違うため、それにあわせているらしい。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街に、あらゆるショップが軒を連ねたネオン瞬く歓楽街。
レンガ敷きの通りに、庭付き一戸建てのおしゃれな家々が集まる高級住宅街など、階層によって変わる景色を列車の窓から楽しむこともできるのだとか。
「そうだ。せっかくガーデンに来てるんだし、少し観光していく?」
働き蜂の巣の駅の前まで来ると、コンラートが思いついたように言った。
「え……観光、ですか?」
思いがけない提案にノエルはリュシアンを見あげた。
興味はあるが、そんな悠長なことをして彼の機嫌を損ねるわけにはいかない気がする。
そのリュシアンはコンラートの話を聞いていなかったのか、ほかにひと気のない駅構内を見まわし、右腕の時計で時間を確認した。そして券売機の一台に歩み寄ると、黙ってしばらく画面を見つめつづける。
「あの……リュシアンさん?」
ノエルが声をかけると、彼はなにかを見極めるように目を細め、呟いた。
「カロンズ……」
「ああ、いいですね! カロンズ地区なら町並みも美しいし、食事も美味しい店が多い。それに先生、あちらにある館をもうずっと放置してるでしょう? たまには見ないと傷みますよ」
「心配ならおまえが見ればいい」
リュシアンはコンラートの言を一蹴すると、ポケットからノエルをつまみあげた。
「観光ならこいつとカロンズへ行け。静かで落ち着いた町だ。近くに空中庭園もある。半日過ごすにはちょうどいいだろう」
ノエルはコンラートが伸ばした両手の上に置かれた。
「で、でもリュシアンさんは……?」
「俺は先に戻って運び屋について調べる。どうやらそいつもカロンズへ行ったようだから」
「記憶がたどれたんですか? でもよく特定できましたね」
「ベッドタウンなのが幸いした。この数時間、駅の利用者は一人だ。二十分ほど前にカロンズ行きの券を買っている」
「そうか……たしかにあの町ならそういった好事家はいそうだなあ。わかりました。じゃあ僕らはカロンズで観光がてら、クライアントの情報を集めてみます」
コンラートが言うとリュシアンは頷いた。ちょうどホームへ列車が滑りこんできて、彼はそちらへ向かって歩きだした。ノエルは焦って声をあげた。
「あの、でもお昼くらい一緒に……!」
リュシアン一人に運び屋探しを任せておいて、自分たちは遊び半分なのは気が引ける。だが彼はノエルの呼びかけに足を止めることもなく、やってきた列車に乗りこんでしまった。
(……無視……された?)
「実を言うとね、先生はカロンズ地区が苦手なんだ」
コンラートが静かに言った。振り向くと青い瞳が困ったようにノエルを見る。
「できればそろそろ、ふっきってもらいたいんだけどね……。先生にとってはまだつらい場所みたいだ」
彼は発車する列車を見送った。
隠すそぶりではない口調に、ノエルは思いきって訊ねた。
「あの………館って、なんですか」
もしかしてカロンズが苦手なのと関係があるのだろうか。ただの勘だが、そんな気がした。
「カロンズにある先生の家だよ。もともとは僕の叔母の別荘なんだけどね」
コンラートは答えながら、自分たちも列車に乗るべくホームへと移動した。
「二年前まで先生はそこで、叔母と二人で住んでたんだ。彼女が亡くなってからは最高層に移って、いまは使われていない」
やっぱり、とノエルは思った。
「あの、コンラートさんの叔母って……もしかしてミレイユ博士ですか?」
「うん、そう。先生は叔母の研究の手伝いをしてたんだ」
「そっか………だからお二人は親しいんですね」
マナの研究者と警備員という二人にはあまり結びつきが見いだせず、いまいちどういう関係なのかよくわからなかった。だがそういうことらしい。
一つ疑問が解決してみると、ノエルはさらに訊いてみたくなった。
リュシアン本人には訊けないけれど、気になっていること。もしかして彼なら――。
「あの、コンラートさん……」
ノエルはためらいがちに切りだした。




