プロローグ
白塗りの扉を開いて店の外へ出ると、ノエルはケーキの入ったバスケットをしっかり抱えた。
かぶせた布の下からガトーショコラのほろ苦く甘い香りがふわりと漂ってくる。
閉店間際だから焼きたてというわけにはいかないけれど、それでも美味しそうな匂いに変わりはない。
「待ってノエル! それ届けたらそのままあがりよねっ? 今日の寝床頼んでもいい?」
店長こだわりの木製扉が閉まる寸前、滑りこむようにして一人の少女が石張りの通路へ飛びだしてきた。
Romisと店名のプリントされた白いエプロンに、淡いロータスピンクのワンピース。
ノエルの幼なじみで同僚、そして菓子店ロミスの看板娘であるリルだ。
マシュマロみたいに愛らしくて甘い顔立ちに、ゆるくうねったつやのある髪はきれいな蜂蜜色。
ノエルの髪もハニーはハニーだが、茶色の混じったハニーブラウンだ。
長さも背中まであるリルとは違って顎ラインで短く切ってしまっている。彼女のようにゆるく波うてばいいが、ノエルの髪はかなり癖があるので伸ばすとあまり見栄えがよくないのだ。
それに、ちっちゃな鼻の上に載った大きな眼鏡がどうしても全体の印象を地味にしてしまう。
目立ちたいわけではないが、ノエルはこのきらきらした飴細工みたいなリルと一緒にいると気が引けてしまうのだった。
「う、うん。今日は南館の二階下あたりにしようと思ってるの。あっちなら無人の居住フロアも多いし、いい場所みつからなくても夜、ランドリー動くから……」
「やった! あたしもそろそろ制服洗いたかったのよねえ。東は店に近くていいけど機械が気まぐれなんだもん。エプロンは手洗いですむけど、ワンピースはちょっと無理だし」
両手をあわせて喜ぶリルにノエルも頷く。
この巨大ビル――みな塔と呼ぶ――はもともと廃ビルということもあり、カフェ等のある最上階を除いて電気や水道の供給が少ない。
タワーに限らず、地上に残された建物はどこも供給不足だ。
提供側の会社がことごとく潰れる、もしくは下界から手を引いていっているのだから仕方のないことだった。
数年前に下層民保護条例ができてからは一応、時間を決めて供給されることになっているが、東館に関してはその通りに使えることの方が珍しい。
おそらく塔の持ち主の性格の問題だろう。東と南と西と、館は三つあるが西館にいたってはまったく供給がないため、ほとんど人が住んでいない。
あるのはゴミの山と物言わぬ屍。それとひと気を嫌う生業の者たちくらいだ。
「じゃあ、お願いね! 今度あたしが早番のときは部屋とっとくから。それと配達中は身なりのいい子供にじゅうぶん気をつけるのよ? 次盗られたらノエル、あとはないんだから」
「う……き、気をつける」
他意はないのだろうがリルの言葉はぐさりとノエルの胸に突き刺さった。
すでに二度、商品を奪われているため、店長から「次盗られたらクビだ!」と申し渡されているのだ。
「うん……今度は絶対盗られないようにする。ずっとこうしていくつもりなの」
両手で商品の入ったバスケットをぎゅっと抱え直すと、リルが心配気なため息をつく。
「なんだか不安ねえ。ノエルってとろいとこがあるから……園の子供の遊びに二度もひっかかってるのあんたくらいだし……まあ、悪いのはあいつらでノエルじゃないんだけど」
ノエルは曖昧に笑った。
十六年同じタワーのなかで育ち、一緒に働いているから嫌味を言う子ではないと知っている。
それでも面と向かって自分の情けなさを指摘されるとやっぱり痛い。
「リル。もうわたし行くね。ほら、お客さん待たせるといけないし」
「ああ、アイツだっけ。あの、偏屈で偉そうないけ好かない男……」
「うん。遅れるとなに言われるかわからないから。早くすませて今日休む部屋探しとくよ」
偏屈男についての悪口雑言がリルの口から飛びだす前に、ノエルは彼女に手を振って歩きだした。
後ろから「頑張ってね! 配達も部屋取りも!」と見送りの言葉が投げられ、カランとドアベルが鳴って扉が閉められた。
(ふう……あぶないあぶない。リルってばあの人のことになると愚痴が止まらないから……)
人造大理石の華やかな模様の上を歩きながら、ノエルは小さく嘆息した。
脳裏に全身黒づくめで目つきの鋭い青年が浮かんでくる。
ノエルが品を届けるまさにその相手だ。
二年くらい前からときどきロミスのケーキを買いに来る、得体の知れない中層階級の常連客。
ミドルクラスというだけでもリルには気に喰わない相手なのに、口を開けば高圧的で無愛想なものだから、彼女は彼を毛嫌いしている。
だが相手がガーデンの人間なら仕方ないことなのかもしれない。
タワーのはるか上空に浮かぶ巨大都市に住む人間は、物理的にも精神的にも、下界を見下ろせる位置にいるのだ。自治区の名のもとに放置された地上、ごみ溜めとも呼ばれる下層の住民相手に、やさしくする者など滅多にいない。
唯一、ガーデンとつながりのある下層の最上部、タワーの最上階「ブリッジ」にいてさえ、ミドルクラスの人間が注文以外に声をかけてくることはないのだ。
なかには無言のまま買い物する者もいる。
(そう考えると口をきいてくれるだけましなのかも……)
日没が近づき、ちらほら店じまいをはじめる店舗の列の前を過ぎると、ノエルはフロアの東の隅、壊れたエレベーターの脇にある、屋上へ通じる階段を昇った。
今日の配達先は公園内の噴水近くのベンチだ。公園はノエルの住むタワーの屋上にある。
きれいに掃き清められた階段を昇りきり、鋼鉄の自動扉を越える。
とたん、全身をオレンジ色の西日が貫いた。
ノエルは思わず片手で顔を覆い、目をつむった。
陽の光を浴びるのなんてこうして配達に出たときくらいだった。
そろそろと焦げ茶色の目を開き、空を見上げる。
地上に屹立する超高層ビル群のさらに上。
視界に入りきらないほど、茜色のキャンバスを黒く切り取る巨大な影が広がっている。
何度見ても、その大きさに圧倒される。
いまにも落ちてきて押し潰されそうで、怖くなる。
空中都市、和の園―――三十年ほど前に完成した、新都市だ。
(誰もが憧れる豊かな暮らし、現世の楽園がある……って店長は言うけど)
ここからでは銀のボウルの底みたいにしか見えない。
だが実際、そこには何万という人間が暮らしているのだ。
都市は地上を含めて三つの層にわかれており、いま見えているのは中層にあたる部分で、さらにあの上にもう一つ、上層と呼ばれる特別区域が浮いているらしい。
そこには都市を浮かせている力の要、「能力者」しか住めないのだとか。
上の二つの層をまとめて、ノエルたち下層の人間はガーデンと呼ぶ。
都市では身分も住環境もその階層に比例していて、一番下の下層民はIDがないから中層以上には入れない。
だから同じ市民であって、市民ではない。
地上に取り残された旧都市のビル群や廃棄物と同じ、見捨てられた存在だ。
だがノエルはそれほど自分の境遇を辛いとは思わない。
幸い仕事にもつけているし、夜盗を避けて日々転々と寝床を変えるような生活だが、大好きなお菓子を作っていられればそれだけで幸せだった。
ただ、一度広い空を見てみたいと思う。
なんの隔たりもない、大きな空を。
(きっと風が気持ちよくて、空にとけこんだみたいにすがすがしくて――)
ドン、と突然横から思いきり誰かがぶつかった。
「きゃっ……」
抱えていたバスケットが宙を舞い、床に落ちる寸前で小さな手につかまれる。
その場に尻もちをついたノエルをあざ笑うように、少年の目が笑った。
「これももらってくぞ」
「へ……?」
呆然とするノエルの前で、十歳ほどの少年たちが三人、無邪気な笑い声をあげる。
レンガ敷きの床の上に落ちた、着替えや私物の入ったノエルの鞄――全財産を拾いあげて、少年たちは公園の奥へと逃げて行った。
なにが起こったのかノエルが理解したのは、その数秒後だ。