7 鈍行特急ちはや号
翌日、スマホのアラームが鳴ると、ちはやはいつもより早く起きて支度を始めた。
まだ顔がはれぼったく、頭も重かった。
洗顔にも、いつも以上に時間がかかる。ちはやは適当に着替えると、化粧もせず、無造作に髪を後ろに束ねた。
支度が済むと、自転車乗り、二十四時間営業の何でも屋に向かった。朝の店内は夜と違い人気もなく、店内放送がやけに響いていた。ちはやは二袋の鮭とばを買うと足早に店を出て、駅前近くの公園に向かった。
――鮭とばは何とかなったけど…たんぽぽが問題だわ。
駅前の公園に行くと、さんさんと降り注ぐ太陽の光に芝生のたんぽぽが輝いていた。そのそばを、無邪気な歓声を上げながら、登校途中の小学生や中学生が通り過ぎて行く。横断歩道では、蛍光みどりのジャンパーを着た白髪混じりの男性が旗を持って、笑顔で子どもたちに声をかけている。
スマホの時計は八時を示していた。
公園のたんぽぽは摘みたい放題だった。
――怪しいのはわかってる…。
でも…!
ちはやは意を決すると自転車を留めて公園に入ると、芝生で咲き乱れるたんぽぽを一心不乱に摘み始めた。
遠くに小学生の声が聞こえる。もしかしたら、自分に向かって何か言っているのかもしれない。
しかし、ちはやは顔も上げず、摘んだたんぽぽを鮭とばの袋に詰め込んだ。
――今の私は、それどころじゃないの!
たんぽぽが鮭とばと同じくらいの量になると、ちはやは脇目も振らずに自転車に飛び乗り、駅に向かった。
いつも電車に乗るホームはラッシュアワーで、隙間もないほど混んでいた。ちはやは渡り階段を通って、いつもとは反対のホームで電車を待った。ホームにはちはやの他にだれもいなかった。
向かいのホームに電車がすべり込んできた。大勢の人が次々と電車に吸い込まれていく。
その様子を反対側のホームからぼんやり見ていると、ちはやが待つホームにも電車が入ってきた。
電車にはほとんど人が乗っておらず、がらんとしていた。ちはやは数人の乗客が降りるのを見送ってから電車に乗り、鮭とばとたんぽぽが入った袋を胸に抱えて席に座った。
ホームに発車のベルが鳴り響く。
窓越しに、いつも自分が乗っている混み合った電車が見える。がたんと音を立てると、向かい電車が先に動いた。それに少し遅れて、ちはやが乗った電車がし反対方向に動き始めた。
ちはやは鮭とばとたんぽぽが入った袋をぎゅっと抱きしめて、目を閉じた。
静かな車内に、線路を進む電車の音だけが大きく響いている。
ちはやが目をつぶってじっと、その音を聞いていると、まぶたの裏に翔大とゆきの姿が浮かんだ。
二人の笑顔が胸に痛い。
“合わないやつといると自分もダメになっちゃう”
“彼氏の家にあいさつに行くの”
翔大にそんな風に思われていたなんて。
ゆきが自分より早く結婚を決めるなんて。
二人とも幸せなのに、自分一人が幸せになれない。
翔大と過ごした時間、ゆきと過ごした時間。二人と過ごした時間はちはやにとって、何物にも代え難い、大切な時間だった。二人とも大切な存在だった。
でも、それも昨日で終わった。
二人との時間は急に色あせ、存在が、ただの他人よりも遠く感じられた。
――二人にとって、私は一体、なんだったんだろう…。
悲しみと怒り。そして、寂しさ。
様々な思いが胸の奥からわき上がり、ゆきを苦しめた。そんなちはやを、電車は軽やかに運んでいった。
森の近くの駅に着いた。
ちはやはうつむいて、誰もいないホームに降りた。
前に来たときは、見慣れない景色の移り変わりを楽しむことができたが、今日は頭の中がぼんやりして、相談室への道をたどるのに精一杯だった。
小さな森に着くと、看板の案内をたどって森の小道に入っていった相談室にはすぐに着いた。ドアに、木陰が落ちている。
ちはやは急に足がすくんだ。
昨日はうさぎに話したくて話したくて、今日のこの時間が待ちきれないくらいだったのに、なぜだか中に入るのがためらわれた。
胸に渦巻く思いが、ちはやの判断を鈍らせた。
――だめだめ、今日はちゃんと相談するために、ここに来たんだ。
ちはやは深呼吸して目をぎゅっとつぶると、意を決してドアを開けた。
「お…」
ちはやが言い掛けた途端、カウンターの奥から元気な声が聞こえてきた。
「あ、ちはやさん。おはようございますー」
カウンターの片づけをしながら、くまが振り向いた。
くまは小さなちはやの側にやってくると、目を大きく、くりくりさせてちはやを見上げた。
「お、おはようございます…」
ちはやはぼうっと、くまを見下ろした。
「お早いご到着でしたねー。うさぽん先生を早めに起こしておいて、良かったですよー」
屈託なく言うと、くまはカウンターの奥に向かって大きな声で言った。
「うさぽんせんせー、ちはやさんがいらっしゃいましたよー!」
「ふえーい」
中からなんとも、気の抜けた声がした。
――ふえーい?
ちはやは眉をひそめた。
カウンターの横のドアが開いて、うさぎがぴょこぴょこと出てきた。心なしか、毛がぼさぼさ気味だ。
うさぎが笑顔で言った。
「おはようございます、ちはやさん。朝早くに、足を運んでいただき、ありがとうございます」
そう言って、うさぎが頭を下げると、頭の後ろの毛がはねているのが見えた。白衣のボタンも互い違いになっている。
――このうさぎ…もしかして今、起きた?
うさぎの姿を見た途端、くまがあわてて駆け寄って言った。
「もう!うさぽん先生、ボタンがあっちゃこっちゃですよ!」
くまは手早く白衣のボタンを締め直した。うさぎは目をぱちくりさせて、くまのされるがままになっている。
「すいませんねえ、こんな先生で。これでも腕は確かですからー」
くまがちはやに愛想を振りまく。すると、ここぞとばかりに、うさぎがぼそっとつぶやいた。
「くまがくまってる」
――え?
ぼふっ!
間髪入れずくまの手首がうなり、うさぎのおでこにヒットした。
「お客様の前でふざけない!早く、部屋に案内する!」
「へへっ」
まじめなくまをよそに、うさぎはとぼけて頭の後ろ毛をなでつけると、ちはやを部屋に案内した。
「さ、ちはやさん、どうぞ、どうぞー」
「はい…」
ちはやは状況をよく理解できないまま、袋を抱えて部屋に入った。
――今の…もしかして突っ込みどころだった?
部屋に入って荷物を置き、この前と同じいすにった。うさぎも同じように小さないすに座った。
すると、さっきまでつっこみどころ満載だったうさぎが急にしゃんとして見えた。
しゃんとしたうさぎがどういうものかわからなかったけれど、とにかく今はとてもしゃんとして見えた。
うさぎは落ち着いた声で話し始めた。
「さて…今日はお急ぎのご予約でしたね。何かございましたか?」
うさぎは静かな目でちはやを見つめた。
――…そうだった。
私、どうしても話したいことがあってここに来たんだった。
でも…。
ちはやはうさぎを見つめた。
――私、何を話したかったんだろう…。
ちはやは昨日の出来事を思い出した。
翔大の本心。
ゆきの婚約。
それを知って、居ても立ってもいられなくなり、相談室に電話した自分…。
教室に響いた翔大の声と、ゆきの幸せがあふれんばかりの笑顔が、鮮やかに蘇った。
胸の奥から、深い悲しみと、激しい怒りがわき上がり、二人の姿が混ざりあって、ちはやの頭を混乱させた。
――翔大のこと?
ゆきのこと?
それとも…もっと違うことだった?
うさぎは静かに、ちはやを見守っていた。
――話せば苦しい思いが消え去るのかな?
うつむいたその先に、堅く握りしめられた自分の拳が見える。目が熱くなり、もうすっかり涙が枯れ果てたと思っていた瞳が、再びうるんでくる。
ちはやは内側から駆り立ててくる思いを必死で追い払った。そして、息を吸って拳を握りしめ直すと、顔を上げてうさぎに向き直った。
「うさぽん先生、私、彼氏が欲しいんです!」
うさぎの目が大きくなったような…気がした。
「彼氏ですか?」
ちはやは大きくうなずいた。
「そうです。私、すてきな彼氏が欲しいんです!」
部屋が急にしんと静かになった。
森の木々が風に騒ぐ音が聞こえる。
――そう、そうよ。
ちはやは昨日から考えていた悩みの答えがようやく見つかったと思った。
――私は、すてきな彼氏が欲しいのよ!
奇妙な高揚感が、ちはやにその答えが正しいと確信させた。
ところが、うさぎの反応は鈍かった。
「すてきな彼氏ですか…」
うさぎは小さな手をあごに当てて首を傾げた。
「どんな彼氏が欲しいんですか?」
「優しくて、誠実で、礼儀正しくて、そして、将来有望な彼氏です!」
ちはやは机に身を乗り出していた。
――私、何を悩んでいたんだろう。
そうよ、すてきな彼氏ができれば、すべての問題が解決するのよ!
心に希望が満ちてくる。
それはとても素晴らしい解決策だった。
「…あの、翔大さんとは結局、お別れされたんですか?」
かっとなって、ちはやは顔が熱くなるのを感じた。
「翔大のことなんて、もうどうでもいいんです!それより私、翔大よりすてきな、将来有望な彼氏が欲しいんです」
うさぎは机の上に置いた手をもそもそ動かした。
「将来有望なとは、具体的にどういう人ですか?」
ちはやは口早に言った。
「国家公務員とか、一流企業とか、そういうちゃんとしたところに就職する人です!」
「そうですか…」
うさぎは気おされたように身を引くと、あごに手を当ててじっと考え込んだ。
つぶらな瞳がちはやを見つめている。
――あれ?
どうしたのうさぽん先生?
部屋が一層、静かになったような気がした。木の葉のざわめく音がうるさく感じる。
部屋の時間も止まったように思えてきた。
――あれ?あれ?
一体何なの?
どうして、うさぽん先生、黙っているの…?
ちはやはいてもたってもいられなくなった。
「先生、私、すてきな彼氏ができたら絶対幸せになれるんです。どうしたら、すてきな彼氏ができますか?どうやったら、すてきな彼氏と結婚できますか?」
「うーん…」
うさぎはあごから手を離すと、ちはやを見つめた。
「そうですねえ…。ちはやさんはすてきな方ですから、出会いがあればすぐにすてきな彼氏ができて、結婚されると思うのですが…」
「本当ですか!」
激しい喜びがちはやの胸を貫いた。
「はい。ちはやさんは良い大学に通ってらっしゃいますし、将来有望な方と出会う機会がたくさんおありだろうと思いますし…」
――ええ?そっち?
ちはや憮然として言った。
「大学はダメです!翔大みたいなろくでもない人ばっかりで、良い出会いなんてさっぱりないんです。私、もっとちゃんとして、良いところに就職が決まっている人が良いんです!」
「そうですか。じゃあ、どこか他のところで探すことになりますね」
うさぎは困った顔で一呼吸置いた。
「大学以外で他の人と会うとすれば、今のところ、どういうところがありますか?」
「え?」
ちはやはふいを突かれて、黙り込んだ。今まで過ごしてきた場所を振り返ってみる。
――大学以外って、高校とか…その前とか…?
ううん、それじゃ中学校になっちゃう。
頭が急に冷えてきた。
――あとは…あとは…。
前に業界勉強もかねてアルバイトしていた、小さな出版社…?
あれこれ考えたが、それ以外には出てこなかった。
また、しばらく時が流れた。
うさぎはちはやの様子を見守っていた。何も言わずに、考え込んでいるちはやを見て、小さく身じろぎすると、ふかふかの手を組み直した。
「…ところで、前回ちはやさんは就職のことで悩んでいらっしゃると仰っていましたが、就職のことはどうなりましたか?」
「え?就職ですか?」
ちはや顔をくもらせて言った。
「就職は…、まだ決まっていません…」
「そうですか」
うさぎはにこっとした。
「じゃあ、就職したらすてきな彼氏が見つかるんじゃないでしょうか。働いたら今よりずっと人間関係が広がりますし、たくさんの人に出会えるようになれば良い人と出会う機会が増えると思いますよ」
――それはそうだけど…。
ちはやは机に手をついて身を乗り出した。
「でも私、今すぐに彼氏が欲しいんです。就職した後とか、そんなに待っていられません!」
うさぎは驚いて身を引いた。
「ちはやさんは、今すぐにでも結婚したいんですか?」
「そりゃ、そうですよ。だれだって、早く良い人と結婚して幸せになりたいって思うでしょ?」
「うーん、それはそうですね…。ちはやはさんは、幸せになるために結婚するのですか?」
「当たり前ですよ。それ以外の目的ってあるんですか?」
「まあ、そうですね。では、ちはやさんは、今すごく幸せになりたいと思っているのですね?」
「そりゃそうですよ!そのためにここに来てるんじゃないですか!」
思わず声が大きくなる。
――何とぼけたこと言ってるの、このうさぎ。
コントはくまとやっててよ!
いらつくちはやの視線をこともな気に受け止めると、うさぎはひょうひょうと問いかけた。
「幸せになりたいのは良いとして…、ちはやさんは就職と結婚、一体どちらを先にしたいんでしょうか?」
「どっちって…」
――それは…。
「それは両方に決まってるでしょ!早く良いところに就職したいし、早く良い人と結婚したいし。それが何か問題なんですか?」
うさぎは小さく首を振った。
「いえ、何も問題ではありません。ただ…前回は就職活動のことで悩んでいらっしゃったのに、今回は急に結婚の話が出てきたので、ちはやさんが一体、どちらの問題を先に解決しいと思っているのか不思議に思いまして…」
バン!
ちはやは机を叩いた。
「だから、両方重要なんです!早く良いとこに就職決めたいし、早く良い結婚相手も欲しい!そうすれば私は幸せになれるし、問題も全部解決するんです!」
「全部解決するんですか…」
「そうです、全部解決するんです!」
うさぎはじいっとちはやを見つめた。つぶらな目をぱちくりさせている。
「うーん…」
うさぎは手で頬はさみ、何やら考え込み始めた。
――何、このうさぎ?私の言ってることがわからないの?
誰だって幸せになりたいじゃない?
早く良いところに就職して、良い人と結婚して。
一体何が、いけないっていうの!
二人はそのまま、しばらく見つめ合っていた。
日差しが穏やかに入る部屋に緊張した時間が流れた。
しばらくすると、ふっとうさぎが力を抜いて、静かに口を開いた。
「あの…この何日かの間に、ちはやさんの気持ちを結婚に向かわせるような出来事があったのでしょうか?」
ちはやの胸がずきっと痛んだ。
「出来事って…」
うさぎは優しく続けた。
「話しにくければ無理にお話されなくてもかまわないのですが…。急に予約を取っていらっしゃったと思ったら、今度は急に結婚の話になったので、どうも気になりましてねえ…」
一瞬、ちはやの脳裏に翔大の乾いた声と、ゆきの幸せに満ちた笑顔とが蘇った。
全身に入っていた力が鈍い感覚とともに抜けていく。昨日、もうこれ以上泣けないと思うくらい泣き倒して、そのまま眠気に誘われたときと同じ感じがした。
うさぎは微笑みながら、まじめな口調で言った。
「ちはやさん。あなたの仰ることは間違っていません。早く良い人と結婚したい。きちんとしたところで働いて、しっかり支えてくれる男性と結婚して、早く幸せになりたい。就職も早く良いところに決めて、働きたい。どれも間違っていません」
そう言うと、うさぎはもう一度ちはやを見つめ直した。
「でもね、今はまず、目標を一つにしぼってみませんか?」
うさぎは独り言のように続けた。
「ちはやさんの年頃の女性は、いろいろなことをいっぺんにやらなきゃなりまんせんよね。就職しなきゃならないし、結婚のことも考えなきゃならないし…。もう子どもを生んで子育てをしている人もいるかも知れませんね。本当に忙しい年頃だと思います。どれも女性にとって将来の幸せを左右する大きな問題ですもんね。でもね…いっぺんに解決するのはとっても大変なことだと思うんです」
うさぎはいすの上で姿勢を直した。
「急ぐ気持ちはとても良くわかりますが、どちらもとても大切なことだから、まず一つずつ、確実に解決していった方がいいと思うんです」
時計の音がコチコチとやけに大きく聞こえる。
ちはやは力なく言った。
「いっぺんじゃだめなんですか?」
「そうですねえ…。だめじゃないですし、時にはいっぺんに結婚も就職も決まることもあるとは思うんですが…、一つずつ決めていく方法もあると思うんです」
――一つずつ…。
それじゃ、間に合わない。
「それじゃ、追いつけません」
ちはやは拳を握ってうつむいた。
「それじゃ全然、遅いんです。私、置いてかれちゃいます」
「…置いてかれる?何にですか?」
「二人に置いていかれちゃうんです…!」
まだ腫れぼったさが残っている目の奥から、熱いものがこみ上げてくる。ひたひたとこぼれる涙が、強く握りしめられた拳をぬらした。
「ちはやさん」
うさぎはちはやの顔をのぞき込んだ。
「焦る気持ちはわかります。私はどちらも大切なことだからこそ、身長にいきたいんです。大切なちはやさんの人生のことですから…」
“大切な人生”
鈍く痛んだ胸に、うさぎの言葉が優しく響いた。
――大切な、私の、人生…。
しっとりとした空気が、ちはやのまぶたを冷やしていく。熱く締めつけられた喉元が、ゆっくりとゆるんでいった。
「はい…」
納得をしたわけではなかった。
でも、なぜかうさぎの言葉がちはやの気持ちを楽にした。
うさぎはこの前と同じようにくまを呼んで、タオルにくるまれた保冷剤を持って来させた。
ちはやはそれをくまから受け取るとまぶたに当てた。ゆっくりと口から息を吐いた。
嫌な気持ちも、鈍い痛みも、息とともに体の外に出て行くような気がした。
「じゃあ、今日はここまでにしておきましょう。次回の予約を入れておきますか?」
「…はい」
ちはやは小さくうなずいた。
二人が部屋の外に出ると、細身の青年が待合室のいすに座っていた。
ちはやと同じくらいの年頃だろうか。色白で、長い手足がすらっとしている。
「うさぽん先生、トモヒロさんが来てますよ」
カウンターの奥の書類を整理しながら、くまがうさぎに向かって言った。
うさぎは青年に声をかけた。
「あらあら、トモヒロさん。よくいらっしゃいましたね」
青年は本を読んでいた顔を上げると、にっこり笑った。
「お久しぶりです、うさぽん先生」
笑顔がやけに少年っぽい。特別イケメンではないけれど、服や髪はこぎれいに整っていて、物静かな中に爽やかさもある。
「トモヒロさん、少々お待ちくださいね」
そう言うと、うさぎはカウンターの中でカレンダーをチェックし始めた。
――こんな人も相談に来てるんだ…。
ちはやがうさぎを待ちながら青年をちらちら見ていると、青年の小脇に紙袋があるのが目に入った。
「あっ!」
ちはやはあわてて、鮭とばとたんぽぽが入った袋を、うさぎの目の前に突き出した。
「これ!この前と今日の代金です!」
うさぎは目を丸くして、鼻をぴくっとさせた。
「わっ、たんぽぽがたくさん!たんぽぽがたくさん!」
うさぎはちはやから袋を受け取って、小躍りし始めた。
すると、くまが駆け寄ってきた。よってきて袋を引ったくって中をのぞき込んだ。
「わー、鮭とばもたくさん!」
「ちょっと、くまさん!私のたんぽぽ!私のたんぽぽ!」
「うさぽん先生はトモヒロさんがお待ちなんですから、そっちが先ですよ!早くちはやさんの予約を取って、トモヒロさんとお話してください!」
「ふえーい」
しゅんとしてうさぎはちはやの次回の予約を決めると、部屋のドアを開けて男性に声をかけた。
「お待たせしました、トモヒロさん。どうぞ」
「はい」
男性は紙袋を持って立ち上がった。思ったよりも背が高い。
「じゃあ、次回は水曜日の午後四時からですね。今日は私が森の入り口までお送りしますよ」
予約の日時を書いた紙を手渡すと、くまはちはやを外に出るドアに促した。
「はい」
外に出るドアに向かいながら、ちはやは少し振り返って青年を見た。青年の姿が部屋の中に消えていった。
外に出ると太陽が空の一番高いところに来ていて、光がまぶしかった。森のあちこちから、鳥のさえずりが聞こえてくる。
森の小道を歩きながら、ちはやはくまにたずねた。
「さっきの人、どういうことで相談に来てるんですか?」
くまはにこっとして答えた。
「それはお教えできないんですよ、ちはやさん。相談に来ている人の秘密は守らなきゃならないですから」
「そっか、そうですよね」
一応、うなずいたものの、なぜか青年のことが頭から離れなかった。 彼の後ろ姿を思い出していると、ふと違う疑問が浮かんできた。
「あの…くまさん」
「なんでしょうか、ちはやさん」
「どうしてお二人はここで、相談室をやることになったんですか?もっと街中とか、人の多いところでやったら、お客さんもたくさんくるんじゃないですか」
「うーん、なんていうか成り行きですねー」
くまは頭の後ろをかいた。
「なんせほら、我々こういう姿じゃないですか?こんな格好で街の中にいたら、警察に逮捕されて、動物園に入れられちゃうかも知れないでしょ?」
――え?
そこ、認識してたんだ?
「まあ、人生何が起こるかわからないもんでして。私もうさぽん先生も、まさか自分たちがうさぎとくまになるなんて思っておらず…。でも、みなさんがこうして、たくさんのたんぽぽと鮭とばを持ってきてくれるお陰で、生活できてるわけなんですよー」
「そうなんですか。はははー」
――って、え?
“うさぎとくまになった”って、もしかして、前は二人ともうさぎとくまじゃなかったの?
ちはやは先を歩くくまの後ろ姿を真剣な眼差しでじっと見た。
気配に気づいて、くまが振り向いた。
「どうかしましたか?ちはやさん」
「いえ、なにも…。ははは…」
二人は森の入り口に着いた。
くまは小さな手でちはやの手をきゅっと挟んだ。
「じゃあ、ちはやさん、たんぽぽと鮭とば、ありがとうございました。お気をつけてお帰りくださいね」
「はい。今日はありがとうございました」
問題は解決しなかった。
何気に大きな疑問もできた。
でも、帰り道は体も軽く、いろいろな街の色が鮮やかに映った。
駅に着くと、ホームは来たときと同じようにがらんとしていて、ちはやの他にだれもいなかった。
――私の大切な人生か…。
ホームのベンチに座って、ちはやはうさぎが言った言葉を思い出した。そして、ふと待合いにいた青年の姿を思い浮かべた。
――あの人は、どんなことで悩んでいるんだろう…?
そのとき、ちはやのスマホがメッセージの着信を告げた。
画面には“南星書房・綾瀬”と表示されている。
――綾瀬さん。
ちはやはスマホのロックを解除すると、メッセージを開いた。
“ちはやさん、お久しぶりです。お元気ですか?就職は決まりましたか?もし、今人手が足りなので、もしお時間があったら、近い内にまたうちでアルバイトしませんか?お返事お待ちしております”
メッセージを読み終えると、ちはやはすぐにスマホの電源を落として、カバンにしまった。
――私、それどころじゃないもん。
南星書房は専門書が多い、お堅い小さな出版社だった。出版社に就職を希望していることを相談した大学の先生が、アルバイトを勧めてくれたところだった。
でも、そこにはちはやが心ときめくものはなかった。
古ぼけたオフィスで、華やかさの欠片もない社員が、写真の一つもない本を黙々と作っている様子が目に浮かんだ。
――私はもっと違う出版社に行くんだ。
そして、美しいモデルやきれいな洋服に囲まれて仕事をしたいの。
ちはやは返事の文を考えることもせず、面接の手引書を読みながら電車を待った。
その日もちはやは不思議な夢を見た。
ちはやは夢の中で、うさぎとくまと一緒に電車に乗っていた。
向かい合わせの四人席。
ちはやの向かいの席に、うさぎとまが、お弁当のかばんを抱えてにこにこしながら座っている。三人しかいなかった。
――こうして見ると、二人ともホンとぬいぐるみみたいでかわいいな。
あ、二人じゃなく、二匹だっけ。
そんなことを考えていると、車掌のアナウンスが聞こえてきた。
「今日も鈍行特急ちはや号をご乗車いただき、誠にありがとうございます。次はチョコレートの国、チョコレートの国」
アナウンスを聞いた途端、うさぎとくまははしゃぎだした。
「チョコレートの国だって!チョコレートの国だって!」
「楽しみ、楽しみ!たくさんチョコレート買おうね!これで今日のデザートは決まりだね!」
ちはやは苦笑いした。
――やめてよ、そんなことで騒ぐのは。
私はもっとすごいところに行きたいの。
すごいところに行って、だれよりも広い世界を見てみたいの。
二人はまだはしゃいでいる。
どうしてチョコレートくらいのことでこんなに二人がはしゃげるのか、ちはやにはわからなかった。
ちはやは何の根拠もなく、この列車がきらきらとしたファッションショーの会場に着くと信じていた。
――きっとそこには、ずっと思い描いていた、夢のような人生が待っているんだわ。
窓の外に鮮やかな花畑が通り過ぎていく。
太陽はさんさんと輝き、世界の何もかもが美しかった。
二匹がお弁当を差し出した。
ちはやはそれを受け取らなかった。
車掌のアナウンスが再び流れた。
「本日も鈍行特急にご乗車いただき、ありがとうございました。間もなく、チョコレートの国、チョコレートの国。三番線に入ります」
ちはやは小さくため息をついた。
――もう、さっきから聞いていると、何この矛盾?
この列車急いでいるの?それとものんびりしてるの?
その辺、はっきりさせてよね…。
数日後。
とうとう、念願の大手出版会社の面接日がやってきた。
その日は、とてもきれいに晴れ上がり、ちはやの行き先を祝福しているようだった。
あの夢の中で見た風景のように。