6 最終防壁ふとん
別の小説の執筆がてら、思いついたお話です。
気まぐれに書き進めますので、気長に見守ってください。
森の相談室に行ってから数日間、ちはやはいつになく、すっきりした気分で過ごすことができた。
大学の講義も就職活動も集中して参加して、面接では自然と笑いながら話すことができた。
そうして過ごしていたある日、思いがけない手紙が届いた。それは、ちはやがダメもとで応募した出版社からで、なんと最終面接を行うことが書かれていた。
――うそ!
こんなことってあるもんなの?
その出版社は、ちはやが高校生の時よく読んでいた雑誌を発行している会社だった。ちはやが好きなモデルもよく出ていた。
最終面接を知らせる手紙は、なんの変哲もないコピー用紙だった。しかし、ちはやにとって、それは何にも代えがたい、宝石のような手紙だった。
――がんばろう。
今度こそ、がんばって合格して…
そして、ゆきに報告しよう。
私にも幸せが訪れたんだって。
ちはやは手紙を壁に貼り、スーツとシャツを点検すると、もう一度、その出版会社の資料を確認した。
その翌日は朝から講義だった。
ちはやは足取りも軽く教室に入り、教科書やノートを開いた。今日、提出するレポートもばっちり。教室の話し声、窓から見える風景。何もかもが輝いて見えた。ちはやはスマホの画面を開き、講義や就職活動の予定をチェックし始めた。
そのときだった。
ちはやの後ろの席にだれかが座り、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ホント、うれしいよ。このまま就職、決まんないまま卒業かと思ったけど、あきらめなくて良かったよ」
ちはやはどきりとして、スマホを触っていた手を止めた。
それは翔太の声だった。
「うん、私もうれしい。翔太、すごくがんばったもんね」
女の子の声が答える。
しかも、呼び捨てだった。
「これでまた一緒にいられるよな。お互い会社も近いし、仕事が終わったら、一緒にいろんなところに行けるよな」
「そうだね。私も卒業したら、翔太の家の近くに引っ越すよ。そしたら、もっと会いやすくなるよね」
ちはやは怖くて動けなかった。
その声が翔太であることは間違いないなかった。
相手の女の子がだれかはわからないけれど、言葉のはしばしから、二人がとても親しいことが伝わってきた。
――翔太…私がいるって、気づいていないんだ…。
ちはやは違う席に移ろうと思ったが、それもできなかった。
――今、席を立ったら、翔太に顔を見られちゃう。
私がいるってわかっちゃう。
ちはやはスマホの画面をめくり、必死にその文字に集中した。
「そういえば、ちはやって子、どうしてるの?連絡とかしてこないの?」
「うん。ちゃんと好きな子がいるって言ったら、連絡来なくなったよ。向こうも就職決まってなかったし、今も忙しいんじゃないかな?」
どきり。
――その通り。
私はまだ就活中。
「俺も、もやもやしてたけど、はっきり言って良かったよ。いろいろ、ああしろこうしろ、言われてめんどくさかったし、だから就職活動に集中できなかったのかもな。やっぱり合わないやつといると自分もダメになっちゃうよなあ」
「そうだよね。私も口うるさい人にいろいろ言われると、振り回されちゃってダメになる。自由にさせてほしいよね」
ちはやは呆然と二人の会話を聞いていた。
――そんな…。
そこまで言う?
私、必死だったのに。
翔太のことを思って一生懸命、考えてたのに。
…今でも、翔太のことが好きなのに…。
もう、スマホの画面を見ても何も頭に入って来なかった。
授業が始まってもときどき、二人のしゃべり声が聞こえてきて、さっぱり内容を理解できなかった。
時間が流れるのがとても遅かった。
授業が終わると、二人が席を立つのを待った。
教室を出たのはちはやが最後だった。
出しそびれたレポートは教授の部屋に直接持って提出した。
午後の授業が終わって、席を立ったときだった。
しばらく見ていなかったスマホに“メッセージがあります”と表示があるのに気がついた。開いてみると、ゆきからのメッセージだった。
“ちはる、調子どう?今日、時間があったらこの後、一緒に食事しない?”
――食事かあ…。
あんまり気が乗らないけど、気分転換でもしようかな…。
まだ、午前に聞いた翔太の言葉が頭から離れていなかったが、出版社の最終面接のことを思うと、何がなんでも気分を切り替えなきゃと思った。
――いつまでも翔太のことをひきずってなんかいられない。
ていうか、ゆきにはたくさん聞きたいことがある。
あの森の相談室のことを聞いておかなきゃ。
ちはやは荷物をまとめると、ゆきにメッセージを送り、急いでいつもの喫茶店に急いだ。
喫茶店には、ちはやの方が早く着いた。いつも、ゆきと座る隅っこの席に腰をおろすと、面接の受け方が書いてある本を読みながら、ゆきを待っていた。
しばらくすると、ゆきが店に入ってきた。今日も笑顔でいっぱいだった。
「ひさしぶり、ちはや。元気?」
「ひさしぶりってほどでもないじゃん。ゆきの方こそ、どう?」
一週間ほど前に会ったときとは違って、なぜか自然にゆきを思いやる言葉出た。それが自分でも不思議だった。
「うん、まあまあってとこ」
――まあまあか。
何がまあまあか知らないけど、ゆきは元気にやってるんだな。
それよりも。
「ねえ、ゆき。私、あの森の相談室、行ってみたよ。あれ何?あのうさぎとくま。あれって、中に人が…」
すると、ゆきは口に人差し指を当ててちはやを止め、辺りを見回した。
「そんな大きな声で話しちゃだめだよ、ちはや。あの相談室のことは秘密って言ったでしょ?」
ゆきは真剣な顔つきだった。しかし、あの森の二匹を思い出すと、自然と笑いがこみ上げてくる。
ちはやは声をひそめた。
「でもでも…。まさか、あんな人が待ってるなんて…。いや、人?人じゃないよね、あれ。あれって何?一体、なんであんなところで相談室なんてやってるの?」
ゆきは少し困った顔つきで、首をかしげた。。
「うーん、詳しいことは私もわからないんだけど、人じゃないことは確かだと思う。でも良い人たちだったでしょ?」
――人じゃないけど、良い人たち!
それって答えになってない。
ちはやは笑いをこらえきれず、手に口を当ててにやけていた。
ゆきは真剣な表情に戻って、ちはやを見た。
「で、どうだった?ちはやの役に立ちそう?」
「うーん、わかんないよ。まだ一回しか行ってないし。でも、楽しいことだけは確かだよね」
視線が合って、二人はくすりと笑った。
ゆきと自分、二人だけの大切な秘密。その秘密が、ゆきとの関係をもう一度、良くしてくれるような気がした。
そうしてゆきを見ていると、ふと、ちはやはゆきの様子がいつもと違うことに気がついた。
きれいに整えられた髪、なんだか高級そうな洋服…。
――あれ?いつもゆきって、こんなおしゃれな格好していたっけ?
メニューを広げたゆきの右指に、きらりと光るものが見えた。
指輪だった。
「ちはやが元気そうで安心したよ。私、明日からちょっと出かけていないの。だから、今日のうちに、相談室に行ってどうだったか聞いておきたくて」
ゆきは店員を呼ぶと、いつものメニューを注文した。
ちはやは嫌な予感がした。
「出かけるってどこに?」
「彼氏の家にあいさつに行くの。結婚はまだまだ先なんだけどね、彼氏のお母さんが会いたいって言ってるから、就職前に一度会いに行こう、っていうことになったの」
――彼氏の家にあいさつ…。
ちはやはもう一度、ゆきの右手にはめられている指輪を見た。指輪は薬指にはめてある。さりげなく上品に光るその指輪が、高級なものであることは、ちはやにもわかった。
――そうか、だから指輪なんだ。
だから髪も服もきれいにしてるんだ…。
「そっか。大変だね。うまくあいさつできるといいね」
自分の返事がなんとなく、的外れな感じがする。
ゆきは小さくはにかんで言った。
「実は、彼氏、国家公務員なんだ。だから、家族や親戚も国家公務員とか医者とかばっかりで…。なんか、私が行ってもいいのかな、って思ったんだけど、彼氏は早くあいさつしておいた方がいいって言ってて…」
――国家公務員ーー!
ちはやは愕然とした
――それって超、玉の輿じゃん。
家族も親戚も国家公務員や医者なんて、超エリート一家じゃん!
ちはやはゆきを見つめた。
まさか、ゆきが玉の輿に乗るとは思わなかった。
ゆきは大学では大人しく、友だちも少なかった。ゆきの家が貧乏だからだ。
ゆきの母親はゆきが中学生のときに離婚した。原因はゆきの父親の暴力だった。
それから、ゆきは母親と二人きりで生活し、高校に進学するとすぐにアルバイトを始めた。奨学金も受けていた。
大学にも奨学金を借りたりもらったりして進学した。ゆきの母親は自分の生活費を稼ぐのに精一杯で、仕送りはなかった。
ゆきは奨学金で足りない生活費を時間をやりくりしながら、アルバイトで稼ぎ、なんとかやりくりしていた。だから、ゆきは一度も飲み会や合コンには来なかった。そんなお金も時間もなかった。
服は近くのスーパーに入っている安い洋服屋で買っていた。ファッション雑誌は買わず、ブランドの話にもついて行けなかった。二十代の女の子のおしゃれとはかけ離れていた。
大学で仲良くしていたのは、ちはやだけだった。
ゆきの母親は毎年、ちはやに年賀状を送ってくれた。“いつも娘と仲良くしてくれて、ありがとう”というメッセージを書き添えて。
そんな事情を知っていたちはやは、まさか、ゆきが国家公務員と結婚すると思っていなかった。
――ゆきの家が貧乏だからって見くびってたわけじゃない。
でも…すごい。
うらやましい…。
ちはやはゆきとの間に大きな距離があるのを感じた。
いや、距離じゃない。
ちはやには、ゆきが遙か高見の人になってしまったような気がした。
「大丈夫、ちはや?」
急に無言になったちはやに、ゆきが心配そうに言った。
「うん」
――大丈夫なわけないじゃん。
ゆきはもう、私なんか手の届かないところに行っちゃったじゃん。
ちはやはゆきに笑って見せたが、うまく笑えているかどうか自信がなかった。
ーーていうか、そんな良い人と結婚するなら、もっと前に教えてくれたっていいじゃん。
私は翔大とつきあってることも、別れたことも、みんなゆきに話していたのに、どうして私には彼氏のこと、何も教えてくれなかったの?
私って、そんなに信用できない人間だった?
ちはやはテーブルの上の本を片付け始めた。
「ごめん、もうすぐ大切な面接があるんだ。今度は最終面接だからちゃんと準備しなきゃならないの。だから今日は早く帰るね」
「えー、来たばっかりなのに?」
「ごめんね。忙しいから。また連絡するね」
ゆきが止めるのも聞かずに、ちはやはそそくさと店を出た。
店の外に出るとまだ夕方なのにすっかり暗くなっていて、小雨も降っていた。かさは持っていなかった。
ちはやは何も考えずに、小雨が降る暗闇の中に駆け出した。
雨で服や本がぬれることも考えられなかった。
まっすぐに自分のマンションに帰って部屋に入ると、鍵を閉めて、ベッドの中にもぐり込んだ。
――…悲しい。
とっても悲しい。
だれが悪いってわけじゃない。
でも…あまりにも悲しすぎる…。
布団を頭までかぶって、ちはやは今日の出来事を思い返した。
二人の新しい人間関係の始まりが、ちはやを一層、孤独にした。
――翔大は新しい彼女を守る。
ゆきは国家公務員の彼氏に守ってもらう…。
…でも、私は?
私はだれが守ってくれるの?
みんな私の側から離れていって…私はたった一人残されて…。
守ってくれるのは、この薄い布団だけ…。
涙が頬を伝った。
さみしくて、さみしくて、どうしようもなかった。
布団から手だけを出して床のカバンを引きずり寄せると、ポケットティッシュを取り出して、あふれてくる涙や鼻水を拭いた。
そうしているうちに、ふと優しい声が思い出された。
“必ずまた、来てくださいね”
あの、うさぎの声だった。
森の出口で、そっと自分の手に触れたうさぎの手の感触がよみがえってきた。
その手は小さくて、ちはやの手を包み込むことはできなかったけれど、温かくて、とてもふわっとしていた。
――うさぽん先生…。
くまたんさん…。
くまのかわいらしい顔も思い出された。
暗闇の中で、二人が優しくちはやに笑いかけている。
ちはやは涙で重くなった体を起こして、カバンからスマホと森の相談室の電話番号が書かれている紙を取り出した。そして、スマホの画面を開くと、ティッシュペーパーで鼻と目を押さえながら、相談室の電話番号を押した。
ピロンピロン。
短いコールが切れて、すぐに屈託のない元気な声がした。
「はい、うさぎとくまの何でも相談室です」
くまだった。
ちはやは嗚咽をこらえるのに必死で、すぐに答えることができなかった。
「もしもーし、うさぎとくまの何でも相談室です。どちら様ですかー?」
ちはやはできるだけ小さな声で電話口に話しかけた。
落ち着いて話しているつもりなのに、声が震えた。
「…突然すいません。…ちはやです」
「あれあれ、こんばんは、ちはやさん。いかがなさいましたかー?」
くまは電話でもくりくりしていた。
「あの…。予約はまだ先なんですけど…、明日…明日、行ってもいいですか?話したいことがあって…すぐに話したいことがあって…」
言いたいことが言葉にならなかった。
ーーこんな急なお願いなんて、断られちゃうかも…。
ところが、くまは思いの外、あっさりとちはやの状況を察して答えた。
「わかりましたー。今、うさぽん先生に確認するので、少々お待ちくださいねー」
くりくり言うと、くまは電話の向こう側でうさぎと話し始めた。
こしょこしょと二匹の声が聞こえてくる。
子どもの内緒話のように聞こえた。
――…保留ボタンくらい押してよ…。
ちはやは涙にぬれながら苦笑した。
「はいはーい、お待たせしました。今、うさぽん先生に聞いたら、午前中なら時間が空いているということでした。明日の午前中、来れますかー?」
ちはやは布団の中で小さくうなずいた。
「はい、行けます。十時くらいでいいですか?」
「いいですよ。ちゃんとうさぽん先生を、たたき起こしておきますねー」
――くすっ。
たたき起こすって…。
頭と体が少し軽くなった気がした。
「はい…わかりました。じゃあ、十時に行きます」
「はーい、お待ちしておりますねー」
くまの返事を聞いて、ちはやは電話を切った。
布団の中で仰向けになり、ポケットティッシュの最後の一枚で、ていねいに涙と鼻水を拭いた。
深く息をつくと、急に眠気が襲ってきた。
――明日、早く起きて、たんぽぽを探して、鮭とばも買いに行かなきゃ…。
ちはやはスマホのアラームをいつもより早くセットすると、そのまま眠りに落ちていった。