2 あなた人間じゃないですよね?
別の小説の執筆がてら、思いついたお話です。
気まぐれに書き進めますので、気長に見守ってください。
ちはやが待ち合わせのカフェに行くと、ゆきはいつもの隅っこの席に、ちょこんと座って待っていた。
「ちはや、久しぶり!」
ちはやが席に着くと、ゆきが満面の笑みを浮かべて迎えた。
「久しぶり」
なんとか笑顔をつくろったが、とてもそんな気分じゃない。目の前のゆきはとっても幸せそうで、その笑顔がまぶしすぎて心に痛かった。
「これ、この前、温泉に行ったおみやげ。ちはやはいちごが好きだから、いちご味にしたよ」
そう言ってゆきが差し出したものは、すでに銘菓の影も形もない、洋風に味付けられたまんじゅうだった。
「ありがとう」
ちはやは笑顔で受け取ったが、ゆきの前ではにこやかにしているのが精一杯で、それ以上、何を話していいかわからなかった。
「そう言えば、ゆきはいつ結婚式挙げるの」
本当は聞きたくないことだけど、結婚の予定があるってわかってる以上、聞かないわけにはいかない。
「うーん、わかんない。だって、お互い就職が決まったばかりだし、結婚は就職してからって決めてるから。ちはやはどう?就職活動うまく行ってる?」
“うまく行ってる?”
その言葉がちはやの胸にぐさっと刺さった。
――うまく行ってるなら、とっくの昔に就職が決まったことをゆきに報告しているよ。
ちはやはメニューを閉じて店員を呼ぶと、ゆきから視線を逸らして窓の外を見た。
「うーん、何とかね。でもなかなか、最終面接まで行けないんだ」
「そうなんだ。大変だね」
――なんと当たり障りのない返事。
大変だね、ってどこまでわかって言ってるの?
そう思って、ちはやは自分の気持ちがどんどん沈んでいくのを感じた。
――ゆきが悪わけじゃないんだけど…。
ほんの一ヶ月前までは、ここの席で、毎晩のように就職活動の話で盛り上がっていた。そして、彼氏のことや、将来の結婚のことや…。
でも、今、ちはやとゆきの間には大きな距離が開いていた。
就職と結婚。
たったそれだけのことなのに、共通の会話が見つからないなんて。
――ゆきに報告できることなんて私にはなんにもないんだよ。
ちはやが黙ってメニューを見ていると、ゆきがおもむろにカバンを開けて探し物を始めた。
「そうそう、今日はちはやにもう一つ渡したいものがあったんだ」
そう言って、ゆきがカバンの底から取り出した物は、なんの変哲もない名刺だった。
「なんか最近、ちはやが落ち込んでると思ってね。もし時間があったら行ってみたらどうかな、って思って」
ゆきが差し出した名刺を見ると、そこには“うさぎとくまの何でも相談室”と書かれていた。
「うさぎとくま?何これ?」
ちはやが名刺を見て顔をしかめていると、ゆきは臆面もなく言葉を続けた。
「あのね、ここ秘密の相談室なの。なんでも悩みを解決してくれるの」
「はあ?」
ちはやは目を白黒させた。
名刺には“うさぎとくま”の文字。“何でも相談室”と書いてあるからには、何でも相談していいみたいだけど…なんかそういう問題じゃない。
「ゆき…これってまじめな話?」
ちはやは疑いの目をゆきに向けたが、ゆきはまったく動じずにこやかにちはやを見ている。
「まじめだよ!だって、ここの相談室に行って私も悩みが解決したもん!」
ゆきの口調が強くなった。
ゆきにしては珍しい。
ゆきは大学でも大人しくて、友だちも多い方ではなかった。何より、人前で話すのが苦手で、研究発表の時も声が小さすぎて、教室の前の席に座っていても聞こえないことがあった。
そのゆきがこんなに力説する操舵室とは、どういうところなのか…。
ちはやの胸に急に興味がわいてきた。
――気分転換くらいだったら、行ってみてもいいかも…。
「これって…どこにあるの?」
ゆきがうれしそうに笑った。
「あのね、ここは秘密の相談室だから、簡単な地図を描くね。でも、だれにも教えちゃだめだよ。なんたって秘密の相談室なんだから」
秘密、秘密…。
その言葉が、さらにちはやの心をくすぐった。
――秘密って一体、何の秘密?単なるうさぎカフェとなそんな類だったら、笑っちゃうけど。
ゆきは持っていたノートを一枚破ると、そこにボールペンで地図を描き始めた。
「ねえ、そこってネットに住所とかのってないの?後で調べて電話してみるよ」
ちはやが言うと、ゆきは小さく首を振った。
「だめだめ、ここは本当に秘密の場所なの。だからネットにはのってないし、電話番号は行った人にしか教えてくれないの。とにかく地図を描くから、これ見て行って」
――一体どれだけ秘密なの?どこかの国の諜報機関じゃあるまいし。
少しおもしろくなってきて、ちはやはくすぐったい気持ちで、ゆきが地図を描くのを見守っていた。
「できた」
そう言ってゆきが渡した地図はなんともアバウトなものであった。最寄りの駅と簡単な道順と、数個の目印しか描かれていない。そして道の終点には、ただ一文字“森”とだけ書かれていた。
「ええ?これだけ」
ちはやは眉をひそめて地図を見た。しかし、ゆきは自信満々で付け加えた。
「大丈夫。ここは悩みがあってつらい思いをしている人は絶対行き着けるんだよ。方向音痴の私も行けたんだもん。大丈夫!」
ゆきの自信と裏腹に、ちはやは不安を感じたが、その地図を受け取ってカバンにしまった。
翌日も空がきれいに晴れていた。
ちはやは午後に就職活動の資料を整理する予定だったが、朝起きると気が重く、とてもそんなことをする気にはなれなかった。
大学の講義が終わると、ゆきからメールが届いた。
“昨日の相談室、行ってみてね”
そのメッセージと一緒に送られてきたうさぎとくまのイラスト。ちはやはそれを見て、カバンにしまっていた地図を取り出した。
――たまには現実逃避もいいかもね…。
そう思うと、ちはやは自分の家に向かうのとは反対のホームに行き、そのままゆきが地図に描いた駅に着く電車に乗った。
その駅は以外に遠かった。
スマホの時計を見ると、小一時間くらい経っている。窓の外の風景は見慣れないものになっていて、ずいぶん遠くに来たことがわかった。
ゆきが教えてくれた駅に着くと、なんの変哲もない住宅街に出た。ちはやは地図を頼りに道を歩いていった。
どこに行くにもスマホのアプリを見ているちはやにとって、ゆきの描いた地図は頼りなげな感じであった。
――まあ、行き着けなかったら帰ればいっか。
ところが、地図は意外にすんなりとちはやを導いた。
単純な道の脇に描かれている目印が、行く先行く先で見事に一致し、ついには道の終点“森”に着いてしまった。
――森。こんなところに…森!
地図の終点にたどり着くと、そこは本当に森だった。
住宅街の中にこんもりたたずんでいる緑の森。どこからどう見ても、ただの森。
――こんな地図でたどり着けるとは…。ゆきってもしかして、地図の天才?
ちはやがゆきの隠れた才能を密かに賞賛していると、森に続く道のわきに看板が見えた。
“うさぎとくまの何でも相談室はこちら”
杭に打ち付けられた板に、なんともありきたりの案内が書いてある。
――まじ?なんていう安直さ…。
一体、どこが秘密なの?
ちはやはもはや、あきれた心境だった。
昨日、ゆきがあれだけ“秘密、秘密”と連呼していた割には、なんというたどり着きやすさ、なんというわかりやすい案内板。これって、だれでも見つけられるんじゃない?
――もしかして私、ゆきにからかわれた…?
だんだん、ゆきに対する怒りがこみ上げてきた。
――やっぱり幸せ者は、考えることも幸せなのね。不幸な人間のつらさなんて、ちっともわかっちゃいない。
ちはやは引き返そうと思った。
引き返して、ゆきの家に行って、自分をからかったことを、そして自分より先に就職を決めて、結婚も決めちゃったことを、思う存分、なじって怒りをぶつけてやるんだ。
鈍い心の痛みとともに、きびすを返そうとしたとき、ふと目の隅をなにかがすぎた。
――ん?
草の影で何かが動いている。
かさかさ、かさかさ。
――げ、痴漢?
ちはやは反射的にカバンの取っ手を強く握りしめて、臨戦態勢に入った。
――そうよね、こんな森の中、痴漢の一人や二人いてもおかしくない…。
ちはやが警戒して草の陰を見ていると、なにかふさふさしたものがぴょこぴょこしている。見ていると、草の陰から突然、二本のふさふさした耳が飛び出てきた。
――えええ?なにあれ?
ちはやが驚いて見ていると、二本のふさふさした耳は草の陰をぬって、森の中に消えていった。
――ももも、もしかして、うさぎ?本当にうさぎがいるの?
その耳を見た瞬間、ゆきへの怒りがどこかに消えて、好奇心がわき上がってきた。
最近、ちはやには楽しいことが何一つなかった。
楽しみから遠のいていた心を、その耳がくすぐった。
ちはやは好奇心のままその耳を追って、森の中に続く道に足を踏み入れた。
森の中は意外に明るく、道も広かった。
――あの耳…。ウサギの耳?それにしては大きかった気がするけど…。
わくわくしながらも、どこかしっくりしない気持ちで森の中の道を歩いていくと、木でできたかわいらしい小屋が現れた。
“うさぎとくまの何でも相談室”
入り口にはこれまた、わかりやすい看板がかけられていた。
――まさか…。本当に、ゆきが言ってた相談室があるとは…。
ちはやは恐る恐る、小屋のドアをノックした。
すると中からかわいらしい声が聞こえた。
「どうぞ、お入りくださいな」
かわいい声の割には、ていねいな口調だった。
――あれれ?一体、どんな人がここに済んでいるんだろう?
ちはやはドアを開けて中に入った。
「おじゃまします」
小屋の外で見ていたよりも広かった。ドアを開けるとカウンターがあり、その上に“受付”の札がある。カウンターの奥には小さな部屋が見えたが、人影はなかった。カウンターの横を見ると、もう一つドアがあり、別の部屋に続いているようだった。
「あのう、友だちに紹介されて来たんですけど…」
ちはやはカウンターから奥に声をかけた。すると、カウンターから人影が出てきた…。
と思ったら、それは人ではなかった。
――く、く、く、くまーーー!
カウンターの奥から出てきた影…。それはなんともふさふさした毛をまとったかわいらしい、くまのぬいぐるみだった。
いや、ぬいぐるみにしては大きい。一メートルくらいある。
「あらあら、いらっしゃいませ。すみません、ちょっとお茶をしていたものですから」
ちはやは耳を疑った。
――くまが!しゃべってる!
ちはやが呆然とくまを見ていると、くまはカウンターの奥に引っ込むと、奥の隣の部屋に声をかけた。
「うさぽん先生、お客さんが来ましたよー」
――う、うさぽん先生?
ちはやが立ち尽くしていると、カウンターの横にあるドアが開き、ふさふさとした二本の耳のかわいらしいうさぎが出てきた。
「あらあら、遠いところをよくいらっしゃいました。どうぞお入りくださいな」
――うさぎも!しゃべってるーーー!
ちはやは混乱の渦の底にたたき落とされた。
――ええ?一体、何が起こってるの?
私は…。そう、私はゆきに言われて悩みを相談しようと思って、ここに来たのよね。
でも、でも…。目の前にいるのは…。
ちはやはくまとうさぎを交互に見た。
くまは茶色で、黒いシャツをきちんと来ている。うさぎはくまより少し小さかったが、清潔な白衣を着ている。毛はうすい灰色だったが、顔の半分は白かった。
二匹は目をぱちくりしながら、にこにこ顔でちはやを見ていた。
「どうされましたか、お客様?」
うさぎが言った。
なんとていねいな言葉遣い、そして発音。とてもうさぎの発音とは思えない…。
ていうか、あなたたち人間じゃないですよね?
ちはやはどうしたらいいか何も思い浮かばす、ただただ二匹を見つめていた。