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1話 おっぱい坂の決戦

この小説はPDF化された状態が最も読みやすい状態となっています。目を大切にしたい方は画面下部のPDF化リンクを押してお読みください。



(ごめんなさい。あんまりおっぱいじゃないです。でも登場人物は全員二つずつおっぱい持っています。)

突き当たりのコンクリートは確かに壁として道を塞いでいた。路地裏にあったはずの冒険はもうどこにもなくなっていた。夏の終わりだ。

         ✩


その懐かしい事実を思い出したのもまた夏の夜。

机には、てんとう虫が描かれたコップと業務用スーパーで買った64円のボトルコーヒー、それにノートとボールペンが置いてある。

 時刻はたぶん午前0時か1時くらいだろう。僕はコーヒーを眠気覚ましに、ずっと眼前のボールペンについて考えていた。

 これはいわくつきのボールペンなのである。といっても、使った者が呪われるとか殺人事件の犯人が持っていたとか、そういう類のいわくではない。持つところのゴムが少し剥がれかけただけの、ファンシーグッズのキャラクターがプリントされた可愛らしい普通のボールペンだ。これ自体はなんの効力も持っていないはずだし、何の罪もない。

 そのいわくは、僕にだけ機能する。僕はこのボールペンを見るとたまらなく寂しい気持になり、じきに苛立ち、最終的に虚しくなる。目にしただけでそういった負の感情に到しめる嫌な思い出が、このボールペンにはあるはずなのだ。だから普段は机の奥にしまって見えないようにしているが、しかし時折机の奥から出して、眺めてしまわないわけにはいかなくなってしまう。麻薬の禁断症状をとても優しくしたような衝動が、自然に僕の手を動かし、眼前にボールペンを運んでしまうのだ。

 あるはずなのだ、というのも、僕はこのボールペンについて殆ど何も知らないのだ。いつ手に入れたのかすら覚えていない。いつの間にか机の中にあった。何故ボールペンを見るとこんな気持ちになるのかも、さっぱり分からない。つまり嫌な思い出があるという確信がありながら、それがいったいどのような思い出なのか覚えていないのだ。

見て分かるのは、まずボールペン全体にディズニーのキャラクターがデザインされている事。僕の趣味ではないので、おそらく誰かからプレゼントされたのだろう。それが誰かも分からないが、選んだのはおそらく女性だ。全体的に明るいピンク色で、男の僕が外で使うには少し恥ずかしい。

そして、上部に小さく印刷された『MADE IN JAQAN』。それ以外に文字らしき物はどこにも書かれていない。ただの印刷ミスなのかもしれないけれど、僕にはそのQがとても意味ありげに思えてしまう。QはアルファベットでPの次に並ぶ文字で、JA『P』ANから意図的にずらしたように見えるし、Qと言われて連想されるのはやはりQEUSTIONだ。最近都市伝説にはまった僕は問いかけられているような気分になってしまう。

インターネットで同型のボールペンを探そうとしたが見つからなかった。この手のボールペンは数多あるし、もう製造されていないとしたら、どこの会社のカタログにも載っていないのかもしれない。

 僕はボールペンを掌の上で転がしながら、様々な仮説を立てた。他にやることがないという訳ではない。どうせなら今日配られた夏休みの宿題をやってしまった方がいいし、早くから後輩の朝練習を手伝う約束があるのでもう眠るべきなのかもしれない。しかしそれらの事情を一旦放棄するほどに僕は焦っていた。

『はやくこのボールペンの謎を解かなければ自分は重大な何かを完全に忘れてしまう』。ここ数日、そう意味する強い警報が僕の胸で鳴り続けている。単純な好奇心だけではない、心の底からにじみ出る意志が、自分を行動させようとしているのを強く感じる。自分でもボールペン如きに何故ここまで執着しているのか説明できない。しかしどうしても、僕はこのボールペンの謎を解くべきなのだ。日に日に思いは強くなっている。家族はもちろん、学校の友人や先生、まったく関係のない女子にまでボールペンを見せて聞き回った。皆一様に首を振った。

 僕はじっくり考えた。窓を少しだけ開けて夜の冷たい空気を部屋に入れた。眠気を感じるとコーヒーを飲み、頬を軽くつねった。

 今晩は何故か、色んな事をより鮮明に思い出せる。ボールペンを見ていても落ち着いた気持ちでいられるし、深く考え事をするのなら今日が最適なのだろう。逆に、今日を逃せばこれほど頭の冴えた日はしばらく訪れないだろうという確信もある。

 夜風の先には海があり、それよりも手前には幻想的に輝く工場地帯がある。この町に来てもう2年になる。

 夏の始まりの匂いは、終わりの匂いと似ている。気温的にも湿度的にもちょうど同じくらいになるからだろう。入口と出口は共用なのだ。そして夜風が運んだ入口の匂いを嗅いだ瞬間、深層意識が夢に映るように、脳がある夏の終わりを再生した。

 日の当たらないじめじめとした路地裏、突き当たりのコンクリートの壁の前で呆然と立ち尽くす幼い僕。蝉の鳴き声が小さく反響し、ぬるい風が頬をなでる。壁の先にある物を僕は見ていた。いや、あるいは見ようとしていた。僕はボールペンを握っている。突き当たりのコンクリートは確かに壁として道を塞いでいる。路地裏にあったはずの冒険はもうどこにもなくなっている。

 これは三元町の景色だ。僕が4歳から10歳になるまで住んでいた東北の田舎町だ。やはりあの町に秘密があるのだろう。

 僕は座ったまま背伸びをして決めた。あの町に行こう。バッグから塾の予定表をひっぱり出した。学校の夏休みは来週から始まり、ほとんどが塾でお盆に一週間だけ休みがある。その休みを使って三元町へ――あの路地裏へ行こう。スマホで三元町までのルートを調べた。地図アプリを開き、『目的地』の欄に『宮城県 三元町』と打つ。隣町にある駅までの乗換案内が表紙された。新幹線を使って、1万2千210円もかかるらしい。もっと安く行くには、やはり高速バスだろうか。

 そこまで調べると、眠たくなってきた。高速バスの事は明日調べよう。最後に思い出した記憶を詳細にノートにまとめて、布団に潜った。

     

                     ✩

 

 夏の小虫が頭上で旋回する音を聞いて目覚めた。タイマーの鳴る時間にはまだ早い。どうやら窓を閉め忘れたまま眠ってしまったらしい。他に虫が入り込んでいないか部屋を見渡したが、僕を起こした虫の姿すら見当たらなかった。

 二度寝する気にはならず、洗面台で顔を洗ってしまうとすっかり目が覚めた。とても目覚めが良い体質なのだ。

 一階のリビングに行っても、家族は誰も起きていなかった。掛け時計は午前4時を指していた。カーテンを開けると、夏だからかすっかり昼間のような太陽が空の上に一つあった。そこから漏れ出た爽やかな白い光が部屋を満たした。

 冷蔵庫を覗くと夕食の残りがあったので、勝手に電子レンジで加熱して食べた。テレビをつけるといつも見ない時間帯のニュース番組がやっていた。日本全国一週間ずっと晴れらしい。なんだかめでたいなと思った。政治家が秘書にセクハラしたニュースの続報をアナウンサーが読み上げる。60歳のなんとかという省の大臣が50歳の秘書に赤ちゃん言葉で行為を迫ったという事件だ。大臣がとても悲しそうな声色で、押しかける記者達に「そんな事実はございましぇん」と話している。夏だなと思った。

 自室に戻ると、スマホが大きな音を立てて鳴っていた。タイマーを解除し忘れた事に文句があるような鳴り方だった。しかし手に取ってみるとそれは通話のコール音だった。知らない番号だ。面倒だから無視しようかとも思った。後輩の誰かかもしれない。重要な要件なら留守電に入れるだろう。しかしやはり僕は電話に出た。

 「ねえ、今どこにいるの?」知った女の声だ。

 「沙織?」

 「うん。今どこにいるの?」

 「家だよ」

 「じゃあ今すぐ表に出て」

 僕は窓を開けて下を覗いた。確かに私服姿の沙織が玄関から三歩離れた所にいた。

 「おはよう!」と僕を見つけた沙織が叫んだ。 

 「おはよう!」と僕も叫んだ。

 「はやく降りてきて!」

 「了解!」

僕は急いで制服に着替えようとしたが、沙織が私服姿だった事を考えてやはり自分もシャツとジーンズに着替えた。財布とスマホをポケットに入れ、小走りで階段を駆け下り、適当な靴を履いて外に出た。

「どうしたんだよ」と僕は訊いた。

「ねえ、助けて」

「え?」

「いいから、助けて」沙織は苛ついた口調でそう言った。

「どう助ければいいんだ」

「どうって……、とりあえず家入っていい?」

そろそろ家族が起き始める頃だ。厳しい。しかしもしも沙織がストーカーにでも追われているのなら今すぐ匿うべきだろう。

 「今すぐ入らないとマズいならなんとかするけど」

 「別にそういう訳でもないんだけど……」と沙織は口ごもった。

 「やっぱいいわ!お腹すいた!マック行こ!」沙織は僕の手を引っ張って路地を曲がり、駅前へと続く通りを歩いた。財布を持ってきて正解だったなと思った。

 道中、手を引っ張ってグイグイ前を進みながら沙織は説明した。

 「きょーこがね、私のこと嫌いになって、私を殺そうとしているの」と沙織は言う。きょーことは確か、沙織が僕の前の前に付き合っていた晋三とかいう男子の今の彼女だ。

 「いつめん(いつものメンツ)プラスきょーこでパジャマパーティーしてたんだけど、朝方突然きょーこが私の顔ぶん殴って、枕元のスマホ踏み壊して、殺してやる殺してやるって襲いかかってきたの。すぐに理沙たちが止めてくれたんだけど、一応この場から逃げた方が良いって言うから、里美のスマホ借りて逃げてきたのよ」と、沙織は慣れた調子で淡々と言う。

 「晋三がきょーこの前で、いつも私の話ばっかりするんだって。何で今日のパジャマパーティーにはきょーこがいるんだろうって思ってたけど、最初からこのつもりだったのかしらね。あの子嫉妬深いから」

 「へえ。それで沙織は怪我とかしてないの?」

 「私?」と沙織は振り返り、

 「無傷に決まってるじゃない。あんなブスに傷つけられてたまるかっての」と得意気に微笑んだ。

 「だろうね」と僕も笑う。

 「友達は大丈夫かな?」

 「里美パパもいたし、大丈夫じゃない?そのうちラインが来るわよ」

 「ならいいんだけど」

 駅前のマックはまだ閑散としていた。端の席で太った外国人が寝ている以外には客は誰もいなかった。僕は沙織の分の朝マックセットと自分ためのオレンジジュースを買い、二階の席に運んだ。

 「あら、あなた朝ごはんもう食べたの?」

 「ずいぶんと早起きしたんで朝ごはんも早めに食べたんだ。お腹いっぱいだよ」

 「ふーん」と、沙織は興味なさそうに言った。

 「問題は今日どうするかよ。学校はきょーこが来てるかもしれないから危ないし、まあサボっちゃう事はいいとして何する?」

 つまり玄関先で彼女が言いたかったのは、「当面の問題は解決したけれどこのままじゃ暇すぎる助けて」という事だ。いいだろう。もうここまで来たら、家に戻って制服に着替え、学校に行くというのは面倒だ。

 「ちょっと電話するね」と沙織にことわり、後輩の鈴木に「今日やっぱ朝練いけないやごめんな」とだけ伝えて電話を切った。

 「そうだな……。朝っぱらから中学生が彷徨いてるのも、警察に補導されそうだしね。なるべく外にはいない方がいいと思う」

 「外はダメって、でもうちも無理よ?家には誰もいないだろうけど、急いで逃げてきたから、里美の家に鍵とか色々入ったバッグ置いてきちゃったもん」

 そんな状況の中スマホだけでも都合した所が、とても今時の女子らしい。しかし困ったものだ。平日の昼間に中学生の居場所はほとんど存在しないのである。沙織と付き合い始めてから何度か今日と似たような状況を体験したが、行き場所にはいつも苦難した。

 「やっぱり……、カラオケじゃないかな。あそこなら上田先輩がバイトしてるから通報されないし」

 「でもあそこ開店するの10時よね?まだ7時よ」と沙織はホットケーキを齧りながら言った。この会話も、もう何度か交わした記憶がある。

 「いつもどうしてたっけ?」

と僕が言うのも常である。

「ギリギリまでマックで粘るか……、私の家にいられる日は家にいたわね。まあそれは今日はできないけど」

店内は徐々に賑わい始めていた。すぐ近くに交番があるので、人が多いとなんとも居づらいのである。

 「家族の誰にも見られずに部屋まで行ければ、俺の家にずっといれると思う。普段から部屋の鍵閉めて外に出ることあるし、怪しまれないはず。でもキツいなあ」と僕は渋々提案した。

 「それよ!」と沙織は指を鳴らそうとした。しかし鳴らなかった。

 さっそく僕達はこそこそとマックを出て、ひそひそと家に戻った。家の鍵は僕が出た時のまま開いていた。沙織を近くの茂みに隠し、僕は自分の家に侵入した。

 リビングには誰もいない。いつもならこの時間は母が朝食をとっているはずだが、まだ寝ているのだろうか。父親はもう仕事に行ったはずだし、沙織を連れ込むなら今しかない。

 僕はもう一度外に出て沙織を茂みから引っこ抜き、共に忍者のように自室まで駆けた。部屋に鍵をかけ、完全犯罪を完遂した。

 「ふう、ヒヤヒヤしたわね」とベッドに腰を下ろした沙織は言う。

 「何か飲み物がほしいけど……ここを出るのは危険ね」

 「コーヒーならあるよ」と僕は机の上を指した。

 「頂くわ」と言って、沙織はボトルコーヒーに直接口をつけて一気に飲み干した。ぷはあと満足そうに息を吐く。

 「あ、このボールペン。あなた曰くいわくつきのあれね」

 「語呂がいいね。曰くいわくつき……」

 「はっ、つまんな」と何故か毒づかれた。

 「そうだ。思い出したんだよ、俺、昔東北に住んでいたじゃん?その町に確実に秘密が隠されている。」

 沙織は僕の目をじっと覗いた。

 「夏休みにその町に行くことにしたんだ。受験勉強の息抜きとしての旅行も兼ねてね。お年玉使ってないから旅費にはだいぶ余裕があるし」

 「あなたって変わってるわよね」

と僕の目をじっと覗いたまま、瞬き一つせずに沙織は続ける。

 「一本のボールペンに執着してそこまでするかな。まあ気持ちは分かるよ。自分でもよく分からない事に執着しちゃうこと、私もあるし」何故か少し怒っているような素振りだ。沙織は僕に怒りを向けるとき、いつも目をじっと覗いて瞬きをしない。今回は怒っているというよりは、呆れているのだろう。ここ数日、僕は沙織にしつこくボールペンの事を聞きすぎた。このボールペンの柄は沙織の趣味と合致しているのだから。

「どんな事?」と僕は訊く。

「一度間違ってぶつかってしまった物体には、わざと自分からもう一度触れるようにしているの。そうしないと、何かが吸い取られてしまうような気がしてならないの」沙織はようやく瞬きした。

「ほう」今度が僕が不思議そうな目を彼女に向ける。

「それは――けっこう――絶対にするように心がけているわ。逆に言うと、自分に触れそうな物にはいつも注意しているの」言いながら彼女は本棚の本を漁り始めた。

「それは俺とかも?」

「今あなたに注意しなかったら他の何に注意するのよ?」彼女の苦笑いが僕にも伝わる。

沙織は本を一冊手にとりパラパラとめくった。

「ふうん。あなたってこういう本も読むのね」

僕は沙織の方に寄って彼女が何を選択したのか確かめた。それは漫画でも小説でもなく、日本史の参考書のようであった。親が買ってきてまだ手を付けていない参考書が何冊かある。そのうちの一冊だろう。 

「こういう本って……別に普通だろ?俺だって勉強くらいするさ」

「勉強ねえ……」理解できない他人の趣味に首をかしげるように、沙織は言った。そういえば、沙織が勉強しているのを見たことがない。彼女の内申点は平均より少し悪いくらいだっただろうか。授業中はいつも友達と喋っているか、スマホをいじるか、寝ている。そのわりにテストの点は悪くない。教師に嫌われるタイプだ。たぶん成績表の『関心・意欲・態度』はCだろう。僕が教師なら絶対にCにする。沙織はペーパーテストの点を重視する高校に進学する予定になっている。

「まあまだ手はつけてないけどさ。親が買ってきたんだよ、これ」

 沙織は僕の方に振り返り、笑った。

「ならあなたの親、ずいぶんテキトーに選んできたのね」

「え?ちょっと貸して」

僕は本を受け取り、表紙を見た。『わかり易い!日本史!!』。見覚えがない参考書だ。そしていつもの癖で裏表紙の表記を読んだ。編集会社の住所の下に小さく、『Printed JAQAN』と記されていた。

                


                ✩

 『JAQAN』。ボールペンの表記と同じだ。

  事実を一人で共有するのが怖くなって、僕はすぐに沙織にボールペンの表記を読ませた。彼女は首を傾げ、ふむと呟き、

 「ちょっと面白いわね……。怖いけど」と苦笑いした。

 「この本、俺もたぶん今初めて見た。今までなかったよ、こんな本」

 恐る恐る、中のページを開いた。そこに書かれていたのはデタラメな日本の歴史だった。

 桶狭間の戦いで勝利したのが今川義元で、(そもそも本当の教科書の歴史が正しいとは限らない)伊達政宗は両目視力がマサイ族並みに優れているという逸話が残っていて、天草四郎が実は豊臣家の人間で、坂本竜馬が新選組隊士で、太平洋戦争で最も活躍した戦闘機が『紫電』であるなど、学校の教科書に記載されている歴史とは全く正反対の歴史が大真面目に500ページにも渡って羅列されていた。

 「この本を作った会社を検索してみたけど、『東日本西立身編集万国万歳株式会社』なんてデタラメな会社はどこにも載ってないわ。この本のレビューとかも誰も書いてない」

 沙織は僕の手を繋いで続ける。彼女の手は少し冷たかった。

「つまり、なんとなく気になっていたボールペンの誤表記と同じ物が、いつの間にか本棚に入っていた本にも書いてあったということね。ねえ、あんたボールペンについて何か思い出したって言ってたわよね?詳しく聞かせなさいよ」

僕は昨晩思い出した景色についてまとめたノートを沙織に渡した。彼女がそれを読んでいる間、僕もこの参考書について検索してみたが、やはり関連性のありそうなデータは見つからなかった。

「ふうん。これが本当なら、幼いあなたはその路地裏の先に正体不明の何かを感じる事ができたのね」

 沙織は上を向いて何かを考えだした。何らかの数を数えているようだ。

 「ねえ、けっこう面白い夏になりそうじゃない」そしてにっこり笑い、

 「今晩深夜バスで行きましょうよ!旅費に余裕あるんでしょ?少しは私も出すし、一人増えるくらいなんともないわよね?」

 「今晩?来週には夏休みが始まるのに?」

 沙織は僕の手を握り直した。彼女の手は少しずつ暖かくなっていた。

 「テストも終わったんだし、残り一週は消化試合みたいなもんよ。それに、思い立ったが吉日って言うじゃない」

 色々な事情を放棄して、彼女とひと夏の冒険に出かける。夢のような話だ。わくわくする。しかし学校はともかく、僕は塾に通っている。塾には親が金を払っているので、サボったら物凄く怒られてしまうだろう。うちの両親はそういう両親なのだ。

 「俺はともかく、沙織は何日も家を開けたらマズイんじゃないかな?流石に女の子なんだし、旅先で何があるか分からないし」

 「あのね、私は彼氏の家に1ヶ月住んでいたことだってあるのよ?うちの親ももう全然気にしないわよ。昨日だって里美の家に泊まること言ってないし。それに、何かあった時には私の直樹が守ってくれるんだもん。全然問題ないわ」

 「でも――」

 僕の言葉を遮って、彼女は僕を抱きしめた。そして耳元で「ねえ、いいでしょ?」と囁き、にっこり笑ってキスした。沙織はこの手段で男という男から金品を巻き上げているらしい。恐ろしい女だ。

 「あの……。やっぱり夏休みに行こう。君は親にしっかりと話を通してから行くべきだ」

 僕がそう言うと、彼女は目を流してとてつもなく甘えた声で「ねえ……」と言った。奥の手を使おうとしているのだ。奥の手を使われたら僕としても承諾せざるを得なくなってしまう。なんとしても阻止せねばならない。

 「ダメだ!だめ!」

 僕は目を閉じて断固拒否した。

「うわあ、ケチな小っせえ男だなあ」と沙織は僕を侮蔑した。

 その時だった。

ドンドンドンドンドン!とドアが外から叩かれた。暴力的な強さとリズムだ。今にも突き破られそうに、ドアがめりめりと音を立てて凹む。

 「ひえええ」と沙織が僕の背中に隠れた。しかし僕の方こそ彼女の背中に隠れたいくらいだった。

 家族だろうか?

 確かに僕達は大きな声で話していたような気がする。家族の誰かが「あの野郎、ついに女を連れ込みやがったな」と気づいたのかもしれない。しかしこういう事態の時、こんなにも強くドアを叩く者が僕の家族にいただろうか?それに向こうからは何も言ってこないのが不気味だ。玄関に鍵はかけていない。数分前の僕達のように、不審者がこの家に侵入するのは容易い。

 「怖いよお」

後ろを見ると、沙織が泣いていた。寝不足からか、僕はなんだか腹が立ってきた。なんで朝っぱらから女の子が泣くくらいドアを叩かないといけないんだ?

 「沙織、ベッドの下に隠れてろ」

 「え、な、何するつもり?」

 「文句言ってやるのさ」

 沙織はベッドの下に潜ろうとした。以前来た時はすんなり入れたはずなのに、今回は中々苦労している。太ったな。

 僕も手伝ってやっと彼女はベッドの下に潜る事ができた。というよりは無理やり挟まった形だ。

 「が、がんばってね」

 潰れた顔の沙織が不安げに言った。泣いているのも相まり、中々衝撃的な顔だ。

 「おう」

 僕は何か武器になりそうな物を探した。ハサミ、エレキギター、プラモデル用の小さなナイフ。それだけだった。

 「なあ、ハサミとギターと小さいナイフ、どれがいいかな?!」

 「ぎ、ギター!」

 やはり沙織はそう叫んだ。こういう時、最近の若者は鈍器を求めるのだ。僕としてはどうしてもギターだけは避けたかった。傷一つつけたくない。しかしプラモデルの表面をツルツルにするためだけに買ったナイフは刺さった所であまりダメージにならなそうだし、幼稚園の時から使っているハサミは殆ど錆びかけだ。戦えそうな物はギターしかない。

「これ、一応持ってろ」と沙織にカッターを渡し、

「うおおおおお」と言葉にならない叫びを上げながら愛おしいギターを撫でた後、

「ちくしょおおおお!!」とドアを開いた。

 恐ろしい悪魔がそこにいたので、僕の意識は確かに一瞬飛んだ。

                    


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