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銃を構え、目標を狙い、引き金を絞る。


たったその三動作ではあるが、それにより放たれた弾丸は凶的な威力をもって的の中心を貫く。

鼻をつく硝煙の匂いの中、道臣は構えていた銃を下ろすと、20メートル離れた場所にある的を見つめた。

「流石ですね」

振り向くと、そこには一課の同僚であり、後輩でもある亜仁野が耳を塞ぎながら立っていた。

シューティングレンジの中は、他の警官達も射撃訓練を行っておりひどく煩い。

防音用のヘッドセットを外しながら道臣は指で外を指し示した。

―――。

「加賀さんってオリンピックにも出場していたんでしょう」

自販機で購入した缶コーヒーのタブを開けながら亜仁野は言った。

「昔のことだよ」

同じく購入したコーヒーを啜りながら、道臣は答えた。

確かにライフル射撃競技において選考されたことはある。しかしそれは過去の話だ。腕はさび付いていないと自覚はしているが、狙撃技術が捜査の役に立つことなど、ほぼない。

いまもこうして腕を磨くのは、武道と同じく、あくまで心身を鍛えるための反復訓練にすぎないのだ。

「出場したのは、たしか十年ほど前でしたよね。ちょうどほら、湊保市でマンション倒壊事件があった辺りの年」

「……ああ」

亜仁野や他の誰かに、そんなそんな過去を問われるたびに道臣は思う。当時身につけていた技術をさび付かせないということは、自分が衰えず、しかし同時に過去の時点に留まっていることを意味するのではないかと。技を磨きたいのではない。道臣にとってそれは、呪縛に囚われていることの証明でしかない。

「……それで、何か新しく分かった事は」

話を逸らすように道臣は呟いた。

「それが何も。申し訳ありません」

「いやいいんだ。自分が無理に頼んだことだ」

件の湊保市ミンチ事件の特捜部が設立されたのが三日前。

そこに捜査員として加わることはなかったが、道臣は同僚である亜仁野に頼んで捜査状況を逐一報告させていた。何も分かりません、と亜仁野は言った。

「被害者の身元は、当日にあった行方不明者の報告からなんとか判明しましたが、それも手懸かりにはなりませんでした。同刻に同じ場所へたまたま出かけていたというだけで、被害者同士の繋がりは皆無です。狙われた理由もおそらく無差別。……狙ってやったわけではない、というのが現状での推測です。十四歳の中学生から五十の会社員まで、みな、バラバラの他人です。中には死亡推定時刻の直前まで友人と携帯で話していた人物もいまして―――これはその友人の証言から判明したんですが―――まったく通常の会話で危機感も何も感じられなかったそうです。……これじゃあ、街のど真ん中でいきなり精肉機にでもかけられたとしか思えませんや。言いたかないですが、……これって本当に、殺人事件なんですかね」

 亜仁野はコーヒーを飲み干すと屑籠に放り捨てる。

その間、道臣はじっと動かずに耳をそばだてていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……事件さ。間違いなくな」

「そりゃ被害者が出ている以上、自分もそのセンで追うのが正しいと思ってますよ? しかし何というか、今回のこれは災害……と呼んだほうがしっくり来るような印象がありませんかね。や、あくまで自分の個人的な意見なんですがね」

だってありゃ人間の仕業じゃありませんぜ、と亜仁野は肩を竦めた。

「だから上もどう捜査していいのか方針を検討しかねているみたいです。地道な聞き込み以外、いまのとこ出来ることがありません。もっぱらマスコミの対応に追われていますよ」

……亜仁野の意見も、もっともだ、と道臣は思った。犯人に動機があって犯行に及んだのであれば、それがどのような内容の犯罪であれ、捜査は可能である。しかし今回の事件は違う。

犯人が、どのような動機をもって犯行に及んだのか―――その影が、まったく見えない。突如街中に出現した人間の挽肉。そんなことをしていったい誰が得をするのか? 何も見えてこないまま、既に四日が過ぎようとしている。

「……また何かわかったら連絡をくれ」

「了解です。……ところで、八木の奴はどうしてます?」

「八木……? あいつは捜査班に加わったんじゃないのか」

「ええ……その筈―――だったんですがね」

そう呟くと、苛立ちを隠すように亜仁野は頭を掻いた。

「あいつ『道臣さんがいないのであれば自分も抜ける』とか言って出てっちゃったんですよ」

「なんだと……?」

「どうやら加賀さんは捜査班に参加するものだと思い込んでいたみたいで……」

「そんな勝手が許されるものか。あの馬鹿は何をやっているんだ」

「自分に言われても困りますけどね……あいつのこと見てないんですか?」

「ああ。知らん」

まいったなあ、と眉を寄せて、亜仁野は呟いた。

「一応、自分が誤魔化して、聞き込みに出させている体裁をとっています。まあ八木のやることですから、どの道バレてもお咎めは無いんでしょうけど」

いつものことです、と亜仁野は言った。

「なんてったって、あの“八木”の御曹司ですからね。職務の邪魔にならない限りは、誰も文句言えないでしょう」

それがたとえ署長であってもね、と亜仁野は言う。

「……」

亜仁野の口ぶりは、諦めているのか皮肉っているのか、どちらともつかないものであったが、八木に対する嫌悪感は含まれていなかった。

「おまえは八木(あの馬鹿)を嫌ってはいないのか。署内で一番の厄介者扱いされているあいつを」

「そりゃ、扱いづらい人間ではありますが……自分は特に」

「……そうなのか?」

「あいつは八木財閥の末っ子ですからね。皆が煙たがるのも無理は無いでしょう。奴が父親に泣きつけば警視総監の首だって挿げ変わるかもしれない」

「……なんであんなヤロウが警察なんかに身を置いているんだか」

さあ、と亜仁野は首をかしげる。

「でもま、あいつ自身は悪い奴じゃないですよ。無能でもない。ちょっとおかしなとこはありますけどね。だからべつに嫌いではないですよ。加賀さんみたいに、奴の頭をぶん殴る勇気はありませんけど」

さすがにこの年になって、部下を殴ったなんて下らない理由で首にはなりたくはありません、と言って笑う。

「もし八木がそんな舐めた真似をしやがったら、俺があいつを殺してやるよ」

「はは……頼みますよ。八木はそんなことする奴じゃないとは思いますが、あいつの手綱を握っていられるのは、ウチじゃ加賀さんだけですからね。あいつは加賀さんを慕っているみたいじゃないですか」

「お前には、そう見えるのか?」

八木が自分を慕っているだと? ありえない亜仁野の言葉に道臣は反応した。

「だってそうでしょう? 今回だって、あなたがいないから八木は抜け出してるんです。これが慕っているんのではなかったとすれば、何なんです」

「……そういうものか?」

八木が自分を慕っているのだと聞いてもピンと来ない。

確かに四六時中八木は道臣について回っているが、自分にはそのように思えない。今回のことも、どうせ不真面目なガキが我侭を言っているだけに過ぎないのだ。

「どいつもこいつも甘すぎんのさ、あの馬鹿に。ガツンと殴ってやればいいんだ」

たかが金持ちのボンボンではないか。クビが何だというのだ―――道臣は八木の締りの無い笑顔を思い出して、そう思った。

「いやあ、自分は家族があるんで……」

「そういや亜仁野は独り身じゃなかったな」

「加賀さんは結婚なされないんですか? 若い頃は相当モテたでしょう」

「そんなことはない。それに家族はだいぶ前に死んだ」

そう呟くだけで腹の奥でどす黒い感情が湧き上がるのを感じた。押さえようとしても、それは道臣の体の底で澱のように燻り続ける。

驚いたのか、亜仁野はそこに立ち尽くしていた。

「そんな顔をするな。昔の話さ」

「すみません」

頭を下げる亜仁野に、道臣は首を振った。

「十年も前の事だ。連れ合いも息子も。もう顔も良く思い出せねえよ」

「十年前……?」

亜仁野の表情がふと翳った。

「何か気になることでもあるのか」

「十年前って居やあ、さっきのオリンピックの年ですよね。それに、湊保市の事件があった―――」

そこまで口にして、亜仁野は何かに気付いたのか口をつぐむ。

道臣も、何も答えようとはしない。

亜仁野は気まずそうに、口元を押さえる。しかし一度口にしてしまった手前、最後まで言うべきだと思い直したのか、言った。

「まさかご家族は、マンションの倒壊事件で……?」

道臣は鼻を鳴らし、気にもしていないように肩を竦めた。

イエスとは言わなかったが、そのしぐさは雄弁に事のあらましを語っていた。

「そうだったんですか。知らぬこととはいえ、失礼しました」

「いいさ」

亜仁野が謝る必要などどこにもない。それは過去に起きた事実なのだ。

「……あれ? でも……、いや間違いない」

と亜仁野はなにやら思案顔で呟いた。

「あの、自分の勘違いだったら申し訳ないんですが、マンション倒壊事故と連動して解決した事件がありませんでしたっけ」

「それは湊保市強盗犯立て篭もり事件のことを、言っているのか?」

「そう、それです。あの時自分は別の所轄に回されていましたが、犯人は、たしか倒壊するマンションに巻き込まれて死亡しましたよね。その時すでに、警察は建物の周囲を固めていたと聞きましたが……。加賀さんも、その事件の解決に加わっていたと自分は聞いています」

よくもまあ、そんな昔のことを覚えているものだ。優秀な男だ、と道臣は思った。捜査本部に所属している知り合いは亜仁野のほかにもいる。その中でわざわざ彼を選んだのは、その情報処理の能力ゆえだったが。

……おそらく、いま道臣と話している内容からも、答えを導いてしまうのだろう。

「まさか」

と亜仁野は言った。

「……たぶんおまえが考えていることで間違いは無い」

道臣の応えに、亜仁野は驚いたのか顔を強張らせた。

亜仁野の想像するように、自分はその時、捜査班の中にいたし、その当日もマンションのすぐ傍にいた。突入部隊はすでに配置についていて、犯人確保も秒読みだった。道臣はライフルの腕を買われて、すぐ正面のビルに狙撃主として配備されていた。

つまり、マンション倒壊による、犯人の死―――そして、自分の妻子が死ぬ瞬間も、その目で見つめていたということだ。

「いた、んですか。その場に……」

「ああ、見ていた」

全てを。

自分の目で。

「そう……ですか」

どこか青い顔の亜仁野。けれど道臣が実際に見ていたものが何なのか。そこまではわかるまい。それは絶対に、信じられないものだ。道臣とて、十年後の今になっても、己の記憶を疑いたくなるものだ。

「自宅のあるマンションでの任務だなんて、よく上は許しましたね」

「俺が志願したわけじゃない。色々あったんだよ」

そう。色々あったのだ。

しかし亜仁野はそんな事を知るよしもない。

「生きていれば、おいくつぐらいになるんですか、息子さん……」

取り繕うように亜仁野は言う。

「確か、二十四だ」

「八木と同い年ですか」

「ふん。あんな野郎と一緒に……いや、まあ、似た様なもんだったな。どら息子だったよ」

思い出すように呟く。

自分の息子。自分の妻。ふたりが死んだのは、道臣が事件解決のために動いていた最中だった。

傍にいてやることが出来なかった。守ることが出来なかった。

それを思い出すだけで胸が焼かれるような思いを募らせる。十年たった今でも、それは変わることが無い。

……いや、忘れられないのだろう―――あのような、絶望とも呼べる死の光景。道臣の手に握られていたスチールの缶が、音を立てて変形した。

「加賀さん、……大丈夫ですか?」

その声に気付いて顔を上げると、亜仁野が心配そうな顔でこちらを見ていた。

「いや、大丈夫だ……なんでもない」

「……あまり無理しないでくださいね。自分はそろそろ、捜査に戻りらなければなりません」

「ああ、すまんな。忙しいところを」

「平気ですよ。八木のこと、加賀さんにお願いしていいですか」

「……わかった。俺が連絡を取ってみる。そちらも進展があったら俺の携帯に連絡を」

「わかりました。宜しくお願いします」

では、と頭を下げて亜仁野は通路の向こうに去っていった。

「また八木か」

……あの、馬鹿が。

いったいどこで何をしているのか。頭痛の種がまた増えたようで、椅子に腰を下ろしたまま、道臣はため息をついた。

「八木が俺の息子と同い年だったとはな……」

八木鼎。

警視庁一の問題児とされるあの男。八木財閥の御曹司でもあり、コネで警察に入ったのではないかとも噂されているが、そんな事は道臣にはどうでもいい。

「真一……」

失われた過去。自分は十年前の事件を追っているようで、その実、死んだ家族のことを思い煩っているだけでは無いのか?

そう思わないことも、ないではない。

だが、しかし、どちらにせよ自分の中で、過去の清算は済んでいない。

「絶対に許さん……」

道臣は呟くと、あの絶望的な光景を脳裏に浮かべ、歯を食いしばった。



八月二十四日/


10:01


まだ十時。警察の突入時刻まではあと約七時間……。

時計を眺め、太陽を見る。

中天に昇り始めた太陽は、その威容をこれでもかと見せつけ始め、気温は、道臣がビルの配置についてからも、じりじりと時を追うにつれ上がっていった。

額に汗が流れる。

上空では巨大な鳥が羽ばたくような一定の機械音。マスコミのヘリだ。その振動が、道臣が腹ばいになって構えるビルの床にまで伝わるような錯覚に犯される。

今日も暑くなりそうだな、と―――わけもなく道臣は思った。


17:06


夕刻。事件は解決を見ないまま、既に最終段階に向かおうとしていた。

「犯人達からの返答はどうなっている」

背後を取り囲むように膨れ上がる野次馬の群れ。

それを冷めた表情で一瞥すると、現場を指揮する佐々は再び目の前にある十二階建てのマンションに視線を移した。

「は。先ほどと同じ内容の繰り返しです」

「ふん。これ以上の交渉は無駄だな。……仕方がない。予定通りに作戦を行う」

湊保市における連続ピッキング強盗団が、あるマンションを占拠したことが判明したのが約十七時間前。警官隊がマンションの周囲を埋め尽くし、その交渉に乗り出したのがおよそ十六時間前。

犯行は当日の午前0時前後に行われ、犯行現場を住人に目撃されたアジア系の五人が逃走中に、ちょうどマンションの前を通りかかった二人組みの巡査に遭遇。

警官二人は「泥棒だ」とのマンション住人の声に拳銃を掲げて制止するも、周囲に遮蔽物が一切存在しなかったがゆえに、犯人グループはマンションの中へと逆走。

十二階建てのマンションが丸ごと“占拠”されるという異例の事件に発展した。

犯人グループは拳銃を所持し、三階にあるマンションの一室に立て篭もっている。構成メンバーのうち二人が別行動。一階と二階の、それぞれエレベーター前と階段の踊り場に、同じく人質を抱え篭城中。

「入れば殺す」の返事のみ、狂ったように送り続けている。

機動隊が突入すれば犯人の確保は容易ではあるが、その際の人質の命は保障できない。警察はマンションの住人達に部屋から出ないよう拡声器で呼びかけているが、最初の一時間の間に、すでに三人が拳銃で撃たれ、一人が重症、二人が死亡している。

その三名の犠牲者の搬出は、犯人側との交渉によりすでに済んでいる。

交渉は現在も続行中。犯人側は人質の解放はありえないとし、犯人の声明は先ほどの繰り返しであり、説得にも応じようとはしない。


17:15


人質を無事に救出し、その上で犯人確保をするためには、射殺もやむを得ない―――。

そのような結論が出され、狙撃班が編成される運びとなった。

本来であれば、絶対的に犯人に不利なこの状況を利用し、長時間の説得こそが得策である。だがすでに三名の犠牲者が出ている上、そのうちの二人が死亡―――という状況下では、早急な解決こそが第一に求められるものである。

マスコミは、事件発生から一時間後にはすでに各社とも現場に集結しており、犯人達のときおり狂ったように放たれる威嚇射撃も生中継で報道。事件の対応に遅れた警察へのバッシングも相まって、世論は悪化の一途を辿っている。

―――犯人射殺やむ無し。

その判断が下されたのは、午前十時ちょうど。夕刻までに犯人が説得に応じない場合、強攻策に出ることが決定した。

過去、特殊捜査班に所属していた経緯と、前年のオリンピック出場の腕を買われ、適任であるとして加賀道臣は狙撃班に選出された。

そしていま、自宅のあるマンションへ向けて、ライフルを構えている―――。


17:16


道臣は汗を拭うこともなく、沈み始めた太陽の西日の下、微動だにもせず、ライフルのスコープを覗き続けた。

犯人の立て篭もる三階の一室にはカーテンが引かれ、中の様子を伺う事は出来ない。屋上からロープ伝いによる部隊突入がなされる手筈になっており、道臣の出番は、おそらくない。階段とエレベーター前の犯人メンバーは、狙撃班の別の人員が狙いをつけている。それらを狙撃すると同時に窓硝子を割りSATとSITの混成部隊が突入。さらに玄関側からも二名が突入。

道臣の役割はそのバックアップである。

自分がこの引き金を引くことは、おそらくないであろう―――。

しかし道臣は集中力を解くことなく、じっとカーテン越しの部屋を捉え続けた。

屋上にはすでに部隊が展開済みである。

報道陣のヘリが慌しく空を舞っているが、それに乗じるように警視庁のヘリから部隊を投下。

カーテンを閉め切った犯人達は、時折そっと布地の隙間から外の様子を監視しているのが、道臣にも確認できた。だが上空のヘリに注意を向けた様子は無い。

まだ、気付かれてはいない。

突入が成功すれば、おそらく人質に犠牲者は出ないだろう。内部の情報がまったく確認できない状況であっても、彼らはプロだ。人質救出を最優先に作戦を遂行すれば、如何なる状況下でもそれを完遂できる。

そのための訓練であるし、選び抜かれた優秀な人員なのだ。過去、特殊捜査班(SIT)に所属していた経験のある道臣は、身をもってその事を理解していた。

……だが殉職者は出るかもしれない。

この任務は殲滅戦ではない。

人質がどうなろうと構わないのであれば、たかが拳銃数丁を所持したピッキング犯の確保など造作も無いだろう。プロである彼ら突入部隊にかかれば赤子の手を捻るようなものだ。

だが、それでは失敗なのだ。

犯人確保も、突入部隊員の命も、何もかもを放棄してでも人質の生命は優先されねばならない。

それが警察という組織の在り方だ。

現在囚われている人質は男性が一名のみ。突入部隊五名の殉職と引き換えにしてでも、その命は守られねばならないのだ。

命の重さというものを、道臣はしばしの間考えた。人命の重さに差は無い。だが今この時、明らかにその比重は人質たった一人に傾いていた。

そう―――倫理上の問題ではなく、社会的な部分において、人命には差が存在する。犯人よりも隊員の命、隊員よりも人質の命―――。警察組織にとって、命とはその順序で重いものなのである。

道臣は膠着状態にある犯人の立て篭もる一室から、スコープを横に数センチずらした。それだけでレンズは横に三件先にある、同一の間取りの一部屋を映し出す。その一室にはカーテンは引かれておらず、室内の様子が全て見て取れた。

見覚えのある家具。少し日当たりの良過ぎるくらいのリビング。その奥にある台所。すべて道臣に馴染みのある、日常の光景。

そしてその中心に、脅えて抱き合うような形でソファーに腰を下ろす、三十代の女と、一人の子供。

道臣の家族だった。

歯を食い縛る道臣。今の自分は警察官だ。家族への情に流されて任務を疎かにする事などあってはならない。

―――家族よりも、人質の命の方が重い。

その事実は道臣をしばし混乱させた

すぐにスコープを定位置に戻して監視を再開するも、道臣の両肩には、この世界の不条理が重く圧し掛かっていた。

今すぐにでも、家族の元に駆けつけたい―――。

人質も、犯人も、何もかもを放り出して家族を守りに行きたい。

すぐにそのような考えを、頭を振って消し去ろうとする。

自分は警察官だ。

職務こそが第一なのだ―――。

眼下には司令部と、警官隊が野次馬の群れを押し返しているのが見える。

あそこには指揮官である佐々もいるだろう。信頼できる上司だ。立場は違うが、彼らも戦っているのだ。そして自分は狙撃という重要な任務を任されている。その期待を裏切るわけにはいかない―――。

その時、道臣は野次馬の群れの中に、奇妙な違和感を感じた。

警官隊に押し戻されるマスコミと野次馬の群れ。

そこからぽつんとはなれたところに、二つの人影があった。

あれは、子供……か?

十歳くらいの女の子と、まだ幼稚園にも上がっていないくらいの幼い少年。兄弟だろうか。その少年の方が、泣いているのか。女の子は少年をあやしている様に見える。

平和な光景だ。この場にそぐわないくらい―――。

道臣はそれを見て少しほっとするような、安堵感を感じた。

自分が取り戻すべきなのは、あのような光景だ。

人質も、家族も、そしてこの社会の安心も、全て取り戻してみせる。

そう考えると、少し楽になった。

まだあと五分ある。

もう五分しかない。

突入までのわずかな時間。道臣は深呼吸すると、再びレンズの向こうに意識を集中した。


17:26


突入まで五分を切る。

現場の総指揮官である佐々の元にも、屋上からの動きは伝わってきた。

部隊の展開はすでに完了。もはや後は佐々の指示を待つのみとなった。

今回の作戦に選び抜かれたのは、警視庁の中でも最精鋭のエリート部隊である。佐々も何度か指揮を取ったことはあるが、彼らであれば任せられる―――そう考えての人事だった。

そして周囲のビルに配置した狙撃班。

一階の階段の踊り場に位置するひとり目の犯人。そしてエレベーターホールに陣取る二人目の標的。

そのどれもが、すでに狙いをつけ、スナイパーが引き金を引くだけで無力化できる。あとは敵の本陣である三階の部屋に突入をかけるだけだ。そのバックアップとして、佐々の直属の部下でもある道臣を配置してある。

「加賀に連絡を取れ」

部下の差し出した無線機を手に取る。

「佐々だ。あと四分足らずで部隊が突入を開始する。これ以上の交渉は無い。犯人側に何か動きはあったか」

無線機特有の雑音の後、スピーカーから声が伝わってくる。

『こちらC地点。……犯人側に動きありません』

「加賀。お前、目標の三件隣に自宅があるんだってな。家族もそこにまだいるそうじゃないか。何故この任務を受けた?」

『……警察は社会の安全を第一に考えるものであります。……そして、自分は警察官ですから』

生真面目な、刑事の鏡ともいえる道臣の声が雑音とともに伝わってくる。だが道臣の性格をかんがみれば、理由はそれだけではあるまい。

「ふん。……額面通りの答えだが、まあ良しとしよう。家族愛も結構だが、心配だからって突入時も自宅をピーピングしてるんじゃねえぞ」

『……了解、しました』

一瞬の間を置いて動揺したような声が流れる。

無線機を部下に戻すと、佐々は楽しげに笑いを零した。

「―――よし。……突入準備!」


17:27


佐々の突入準備の声とともに、屋上では部隊が一斉にマンションの縁へと集結する。

犯人側に対して、交渉と差し入れの提案と同時に部隊は突入する。

道臣は気を引き締めると、全身に通うあらゆる神経を研ぎ澄ました。

周囲の音が一切聞こえなくなっていく感覚に身を委ねる。

狙撃とは、技術のみで成されるのではない。努力で到達可能な技術のみで狙撃の優劣は決まらないのだ。一流とそれ以外の差は、如何に目標に対して集中できるかという才能に懸かっていると言ってもよい。

その意味で、先ほどのインカム越しの佐々の通信は、道臣に発破をかけると同時に戒めの言葉でもあった。

本来であれば、自宅が数件隣にあるという特殊な状況においては、道臣にこの役目は回されてこなかったであろう。

だが佐々はおそらくその全てを知った上で道臣をこの場所に配置した。先ほどの通信も、佐々は知らなかった振りをしてはいたが、承知の上で道臣をからかったのだろう。

余裕ゆえか。

それとも部下の緊張を解そうという上司の気遣いか。

言葉通りの忠告なのか。

そのどれもが正解でありながら、佐々の本心はおそらく違う、と道臣は感じていた。

……絶対的な信頼が、先ほどの言葉にはあった。

道臣は目標に集中しながらも、どこか脳の隅でそれを感じ取っていた。


“―――守りたい奴がいる人間が、結局のところ一番強えーんだよ”


何時だったか酒の席で佐々は道臣に向かってそう言った。

「正義感なんてのはその延長さ。誰か個人を守りたい。家族を守りたい。仲間を守りたい。社会を、国を―――ってな。……それはとどのつまり、身内贔屓なのさ。人類愛も正義感も、突き詰めれば『身内に甘い』って事でしかない。……でも俺はそれでいいと思ってる。大層なお題目だけ掲げて、好きなやつひとり守れないような奴よりかは、よっぽどな」

それは次期警視総監候補とも言われる、キャリアの中でもエリートである佐々が、酔いに任せて口にした本音であるように道臣には感じられた。

当時彼に何があったのかは知らない。

佐々はキャリアでありながら現場尊重主義であり、そして常識に囚われない性格ゆえか上層部からは疎まれているという。

実力と実績で周囲を黙らせてはいるが、他の幹部たちとの軋轢はひどいものがあるのではないかと道臣は邪推した。

「自分は佐々さんの下で仕事がしたいです」

道臣がそう言うと「じゃ、俺の昇進のために身を粉にして働いてくれよ」とふざけた調子で言った。

ある事件で佐々の指揮下に入り、それを切っ掛けにして意気投合した。

お互いに若く、そして未来があった。

……佐々はいまも順調に出世を続けている。このままいけば総監就任も夢では無いだろう。

だからこそ、彼の足を引っ張るようなことがあってはならない。それが信頼を掛けられた自分の務めだと道臣は思った。

今回の任務も絶対に全うしてみせる。

決意を新たに集中力を研ぎ澄ます。

突入まで、あと二分―――。


17:28


「―――突入用意」

指示を受けたSITとSATの混成部隊は迅速に行動を開始した。

二名が非常階段を通って三階の玄関前へ。残りの三名が住民の協力を得て、四階の部屋のベランダで待機。ここからロープ越しに三階にある目標の部屋へ侵入する。

「指示があるまであと二分待機だ」

隊員たちは銃器の安全装置を外し、その場で動かなくなる。まるで力を溜めるように、緊迫感に満ちた―――しかし全員が自信に満ち溢れた表情で、刻一刻と迫る突入の時間を待つ。

……その様子を、道臣はスコープ越しに反対の場所に位置するビルから見ていた。

あと二分足らず。

隊員たちは窓硝子を破ると同時にガス弾と閃光擲弾を投入、動きを封じた後にすぐさま突入し犯人達を確保するだろう。

道臣の出番はおそらく無いが、それでも万が一という事は有り得る。隊員たちの手によりカーテンが引き落とされれば、いつでもバックアップが可能なように身構えていなくてはならない。

道臣は全神経を目標の潜む部屋に集中させた。

それはだが、緊張とは程遠い、ひどく静かな感覚だった。

ゆっくりと心臓が脈打つのが感じられる。周囲の音が全て遮断され、視野が拡大していく。

ベストだ―――と道臣は思った。

こんな感覚を、道臣は過去に数度体験している。

まるで世界に自分がたった一人になったような感覚。スコープの向こうは別の世界のようであり、そしてそこに潜むのもまた、標的のみ。自分と標的がレンズ越しに隔絶して存在しながらも、その二つは一本の射線で完全に結び付けられている。

極限まで集中が研ぎ澄まされた時にのみ与えられるこの感覚。こんな時は絶対に外さない。否、外しようがなかった。

それを経験的に知っている。

目標だけでなく自分の背後にいる補助要員達の動き。突入を開始しようとする部隊員達の動き。眼下に動く野次馬の群れや、周囲に流れる空気の動き。その全てが道臣の神経へとダイレクトに接続する。

―――まだか?

自分はいつでもいける。

風の動きも、犯人達の動きも全て捉えることが出来る。

いまなら―――。

『突入三十秒前』

インカムから通信が入る。隊員たちがロープを伝い、三階のベランダへ侵入するのが見えた。下ではおそらく犯人側へのおとり交渉と差し入れの申し出が始まっているだろう。そちらに注意が向かった隙に乗じる。

だが、拡張する五感の中、道臣はマンションに対して、ふと小さな違和感を覚えた。

―――なんだこれは?

違和感の正体はわからない。しかし注意を標的の部屋から逸らすわけにはいかない。

その違和感に気付いたと同時に、道臣は緊迫感とは異なる圧倒的なまでのプレッシャーをその身に受けた。

「!?」

全神経を研ぎ澄ませていたからこそ感じ取ることの出来たその威圧感は、マンション全体を覆いつくし、更にその圧力を強めていった。

何が起きているのかわからない―――それが、その時の道臣の正直な感想だった。

まずい―――何かがおかしい―――。

違和に気付きつつも、その正体が分からない。しかし気のせいだとも言い切れない。刑事にとって最終的に頼りになるのものは、長年培ってきた経験と勘であることは熟練の者ならば誰もが知っている。

ざわつく心とは無関係に、耳に掛けたインカムから通信が入る。

『突入十秒前』

今は、この違和感を無視するしかない。突入部隊は三階の部屋に降り立ち、まさに室内へと押し入ろうとしている。

道臣は額に汗を滲ませつつも、その光景を凝視した。

『突入開始』

その声と共に、階下から二発の銃声が鳴り響いた。おそらく踊り場とエレベーター前の犯人を狙撃した音だろう。野次馬の悲鳴と報道カメラマン達のフラッシュ音が聞こえる。

同時に窓ガラスが叩き割られ、部隊が突入した。

素晴らしい手際だと言わざるを得ない。

一瞬にして犯人達を無力化し、床に拘束する様子が道臣の側からも確認できた。カーテンは突入時に大きく開かれ、そこから内部の様子が見て取れる。

人質も無事であるようだ。

その様子を確認し、道臣は内心でほっと息をついた。何も問題は無い。全て予定通りに事は運び、作戦は無事終了した。

自分の感じていた違和感は気のせいだったのだろう。

そう思い、肩から力を抜きかけた。

その時だった。

犯人達の様子がどこかおかしい事に、道臣は気がついた。

部隊突入にあわせて投げ込まれた閃光弾とガス弾にやられたのか、床に這ったまま呻いている犯人達。それが、次第に尋常で無い暴れ方を見せ始める。

―――なんだ?

初めは最後の悪足掻きで暴れているだけかと思ったが、どこか様子が違う。

あれは―――痛みで苦しんでいるものの暴れ方ではないのか。

隊員たちも困惑した表情で、それを取り押さえようとしている。

その隊員の手が犯人に触れた瞬間、二人いた犯人の腕が、奇妙な方向へ折れ曲がった。

驚いたように飛び退く隊員。

それはまるで見えない何かに咀嚼されているような光景だった。

犯人達の手足が、その付け根に向かって消えていく。消えていくたびに残っている部分が青紫色に膨れ上がり、その中に失われた肉や骨が押し込まれているのが見てわかった。

道臣は息を呑んだ。

理解できない光景だった。

押しつぶされるようにして、半ば原形を留めながらも、犯人はそこに絶命した。

何が起きた―――。

道臣は動けなかった。

常識のはかりを超えたその光景に釘付けにされるように、隊員たちもその場で硬直していた。

道臣にできることは、その状況を下に通信することだけだ。

「……本部。―――本部ッ! 応答してください!」

かたかたと自分の指が震えているのを道臣は自覚した。

『―――何があった』

聞きなれた佐々の声に一瞬安堵する。だが、それよりもまず、今あったことを伝えなくてはならない。

「……犯人が、……たったいま全員死亡しました」

「―――!? なんだと? 何かの間違いではないのか!?」

慌てたように怒鳴る佐々の声。それすらも日常から遠く離れたこの光景には、非常を訴える響きとならず、どこか遠い平和な日常からの音に聞こえてしまう。

「……間違いありません。犯人は全員死亡……隊員たちも今動いています。おそらくそちらに連絡を―――。……!? これは……!?」

『加賀? 何があった―――。加賀ッ!』

無線の通信から伝わる怒号。しかしそれよりも、道臣の意識はレンズの向こうに映る異形の肉の動きに囚われていた。

『おい、何があった。応答しろ!』

隊員たちが同じように苦しみ始め、いま―――たったいま、道臣の見るその向こうで、弾け飛ぶように爆散した。

巨大な力で押しつぶされたように拉げる隊員たちの防護ヘルメット。

部屋の中は阿鼻叫喚どころではなく、もはやひとつの悲鳴も残らぬ血の池と化していた。

「馬鹿な……」

それ以外に、言葉が出ない。

圧倒的な殺戮の後が刻まれたその部屋は、隊員も人質も犯人も一緒くたにして、もう全てが同一の肉のスープとなっている。

「―――ッ! っはぁ―――ッ! が―――ッァ!」

胃から内臓ごと競りあがるように酸が漏れる。口からそれをげえげえと無様に吐き出しながら、道臣は呻いた。

『加賀! 現状を報告しろ―――!』

インカムから伝わる声に我を取り戻す。今のは何かの間違いでは無いのか。スコープで覗き見れば、また、無事に任務を終えた隊員たちの姿が見られるのではないか―――。

佐々の声に応えるべく―――いや、現状を確認し、いまのが夢であってほしいとの願いが成就することを想いながら、道臣はスコープに再び目を―――。

どくん、と心臓が脈打った。

この悪寒。この圧迫感。

何が起きたのか、その正体はわからずとも、道臣は全神経をもってそのプレッシャーの在り処を特定した。

これはさっきと同じ感覚だ。

あれが―――今と同じ惨事の前兆が―――。

もはや道臣に信じられるのは自分のその感覚だけだった。佐々の声も何もかもをかなぐり捨てて、自分の勘が叫ぶ場所へとスコープを向ける。

ここではない。あそこでもない。

狙撃体制に入っていたあの時よりも―――オリンピックに出場し、国の期待を一身に背負っていたあの時よりも―――。もっと、もっとだ。全感覚を総動員してこのプレッシャーの出どころを特定しろ。

その時、道臣の指はライフルの引き金に架かっていた。もちろん安全装置も外されている。

撃つつもりだった。

もしもこの状況を作り出している存在が人なのであれば、迷わずそれを撃ち殺す覚悟が道臣にはあった。

「あれか―――!」

スナイパーにとって、狙撃対象は狙い打つ的以外の何者でもない。それがなんであれ、いったん狙撃体制に入った射手には一切の関係が無い。ただ、撃つだけだ。そのはずだった。

「子供……」

子供だ。

そこにいたのは、紛れもなく二人の子供でしかなかった。

何かの間違いではないのか。

自分の感覚にそう問いかける。

しかし道臣の勘が、あれが元凶であると強く、強く果てしなく強く訴える。

まだ言葉も拙い頃であろう少年。その表情は禍々しく、この世のものとは思われぬ笑みを顔に浮かべていた。

「冗談じゃない……なんでこんな……」

それしか呟く事が出来ない。もはや道臣には何も信じられなくなっていた。自分の感覚を疑えばよいのか。それとも常識を疑えばよいのか。

子供を撃ち殺す? ありえない。それこそ馬鹿げている。マンションの住人が一瞬にしてひき肉にされたなどというよりよほど―――。

その時、その小さな怪物は右手を大きく掲げ、マンションに向けて手を開いた。

閉じる。

その手が何をしたのか道臣には分からない。だが、遠く離れていたはずの、マンションの一室―――犯人が立て篭もっていた部屋の隣の窓が大きく音を立てて叩き割れた。

「!?」

慌てて狙いをそちらに向ける。部屋の中は嵐が拭き去った後のような惨状で、そこにはひとりの老婆が倒れていた。

そこで何が起きるのか―――道臣には分からなかった―――いや分かりたくもなかった。

そこで老婆が押しつぶされるなどあってはならない。しかし―――。

思わず目を背ける。

しかし数秒後、そこには紛れもなく、轢死体のような老婆の亡骸が転がっていた。

「ぐっ―――」

まさか、本当に奴がやったのか。

戸惑いながらも再びライフルを眼下の少年に向けて構える。肉眼でも確認できるその様子は、ひどくちっぽけで、とてもではないがこの凶状を創り出した者とは思えなかった。

スコープ越しに、少年と目が合った―――ような気がした。

否、笑ったのだ。

少年はこちらを見ると明らかにその表情に笑みを浮かべ、歯を剥き出しにして高らかに笑った。

そして手を―――再びゆっくりと持ち上げる。そして開き―――閉じた。

恐るべき想像が道臣の脳内を駆け巡った。

少年に合わせていた狙いをすぐさま戻し、今しがた死亡した老婆の隣室に照準を当てる。

「―――空き家」

そこは空き部屋だった。

ならば少年の掲げる手の先はどこに向かっているのか。

まさか。まさか―――。

「うおああああああああああああああああああああッッ!!!!」

圧倒的な殺意が道臣を塗り潰した。

そこにいるのはすでに警察官などではなく、人間でもなく、ただの一匹の獣であった。

スコープをずらした先―――道臣が帰るべき場所。そこには人の営みはすでになかった。ただの二つの肉の塊が無残に転がっているだけだった。

もう何もかもがわからなかった。

その光景を見た道臣に理解できたのは、自分の中にどす黒い炎が宿り、もう二度と消えることが無いということだけだった。

証拠も理由も要らなかった。ただ、あの少年の笑みをこの世から消すことのみに意識が集約されていく。

その道臣の異常に気付いた補充要員が後ろから羽交い絞めにする。

「加賀さん! なにやってるんですか!」

錯乱したとしか思えない道臣の様子を見て、必死で取り押さえようとする。

「黙れ! 貴様も殺すぞ!」

道臣も自分の脳に魔がとり憑いたかのような錯覚と共に、激情が体を突き動かすのを押さえ切れなかった。

肉眼で視認できるその位置に悪魔がいる。そいつが再び腕を上げる―――。今度は誰を殺す気だ―――その前に俺が貴様を殺してやる―――!

道臣を押さえつける男を跳ね飛ばし、構えを取る。

しかしその少年はすでに右手を掲げたあとだ。もう遅い。今撃ったとしても弾丸が届くのは0.5秒後である。致命的なまでの遅れを、射撃主としての本能が通告する。

だが構わない。もう少年を止めるという名分は失った後だ。彼が最も守りたかった人達は既にこの世にはいないのだから。

殺したいから殺す。

「死ね―――!」

引き金を絞ろうとした時、突き飛ばした男が再び背後から覆いかぶさる。

「止してください、加賀さん!」

その様子を見たのか。

少年は嘲笑うかのように道臣を見上げた。

そして。

そして。

「や―――」

道臣の声は届かなかった。

ゆっくりと手を閉じる。

それに合わせて巨大な圧迫感が中空に展開し、めきめきと奇怪な音を立ててマンションを押しつぶした。

割れるような悲鳴がマンション全体から響いた。

否、悲鳴ではなく、窓ガラスが凄まじい音と共に全てはじけとび、それが地上にいる警官隊に降り注いだのだ。

パニックだった。

野次馬やマスコミが我先にと逃げ惑う。

それを道臣は呆然と見ていた。

マンションのきしみはいまだ収まらず、まるでそこだけ巨大な地震に見舞われているかのように、振動と地響きを伴いながら、少しずつ形を変えていった。

巨大な腕がそれを覆うように道臣には思えた。錯覚ではなかったのかもしれない。白い、半透明な巨人の手がマンションを包み込んだような印象を道臣は持った。

割れた窓ガラスの向こうには、人々が音を立てて潰れていく光景が遠目からでも確認できた。

部屋の中や、カーテンにどす黒い染みが満ちていく。

今しがたの作戦成功への喜びはどこへ言ったのか。

全てが轟音と共に失われていくその奇妙な風景は、道臣の網膜にはっきりと映り、もう二度と消えることはないように思われた。

「嘘だろう……」

こんなモノは、何か冗句の類でしかありえない―――。

道臣は呟いた。

呆然とした自失の状態の中でも、研ぎ澄まされた道臣の神経は、それを捕らえる。

マンションの、中ほどにある部屋。

犯人達が立てこもっていた一室の数階上にあるその場所に、一人の少年が立っていた。年のころは道臣の息子と同じくらい。

生存者が、いた。

少年は窓際に立ち、何を思っているのか、茫然とした表情で外の景色を眺めている。

はやく助けなければ―――。

その思いが一瞬にして道臣に宿る。警察官としての職務。

自分を羽交い絞めにする男を跳ね除け、ライフルも放り出し、マンションに駆けつけようと走り出したその時だった。

ごっ、と何かが崩れるような音が背後で響いた。

そこにはまるで圧搾されるように罅が入り、押し潰れようとするマンションの姿があった。

「―――!」

まるでダイナマイトの発破による建造物解体のように、ずぶずぶと音を立ててマンションが崩れていく。

そこには道臣が見た生存者の少年の姿ももはやなく、圧倒的な破壊と瓦礫流だけがあった。

「―――! 佐々さん! 逃げてください!」

気付いた時にはもう道臣は叫んでいた。

マンションの真下。人質を救出すべく、設立していた仮設本部。そこには多くの警官達と、そして自分の上司である佐々が―――。

マンションの上部が中ほどからぼっきりと割れ落ち、下にいる警官達の群れの中へと叩きつけられた。

「佐々さん―――!」

土煙と壮絶な破壊音。怒号と阿鼻叫喚の渦の中で、道臣は一歩も動けないまま、その光景を眺め続けた。


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