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冷たい光が差し込む。

……目を開けて辺りを見回すと、そこは見覚えのある繁華街の一画だった。

今は夜なのだろう。周囲は真っ暗だというのに、人が造り出した光は闇を引き裂いて世界に存在した。

それが目を焼く。

カツン、カツン、と乾いた金属音のような耳鳴りが頭の中に響く。それは俺がこの世界を構築した残響なのだろうか。

凍りついた世界の片隅で、俺はひとり立ち尽くす。

自分の手を、二度三度と握っては開き、感触を確かめる。

「……そうか。またここに来たんだ、俺」

先ほどの、椿さんが所有するビルの一室ではない。

毒々しい色のネオンが街を照らし出している。けれどその色は、いまだどこかモノクロに近い印象を持っている。まだ世界が動き出していないからだろう。不思議な感覚だった。

「何度来ても慣れない……。俺が造り出した、俺のための世界のはずだろう。……なんだってんだ。この脳みそん中にモノを無理やり詰め込まれたような異物感は」

あたまいてー。

そう独り言ちるも、返事を返すものは誰もいない。

「やれやれ……」

まだ椿さんの説教が頭の中にぐわんぐわんと響いている。あんな小難しくも馬鹿らしい話、二度も三度も聞くもんじゃない。けれど俺はいま、その馬鹿話の具現なのだ。

「……」

ため息をついて、腕につけた時計で時刻を確認する。23時59分。あと数秒で、日付が変わる。

周りには、凍ったような動かない人々。それでも俺の腕時計の秒針だけが、キ、キ、と音を立てて時を刻み続けている。

もうすぐ零時になる。

……五秒前。

……三。二。一。

「ゼロ」

その途端、周囲に凄まじい風が吹いた。一体何が起きたのか。とっさに腕を翳して目を庇うも、すぐにそれが風ではないことに気付く。

この繁華街のど真ん中、ありとあらゆる全てのモノが一斉に動き出したのだ。群集の雑踏や車の排気音、そして空気までもが同時に『稼動』したのだ。その世界の洪水が、まるで風が巻いたように感じられただけ。

「……すげえもんだなあ、我ながら」

この『自分の中に作り出した世界』が始まる時、毎度毎度圧倒させられる。

目の前を通り過ぎる人々。車の群れ。そのどれもが、当たり前に活動している。モノクロ写真のようだった世界が、一気に着色されてムービーに。

マジすげえ。

「さてと……あまり感慨にふけっている暇も無いんだよな」

コキコキと首を鳴らす。

もう一度腕時計を確認すると、現時刻は0時ちょうど。

この世界が湊保市の虐殺事件の当日の再現であるのなら、いまから十三時間後に事件は起きる。事件の被害者たちの死亡推定時刻―――報道されていたあの暴虐の在り方を死亡、と定義するのならだが―――その辺りで犯行はあったようだ。

その凶行の現場を確認しなければならない。

警察が追っている犯人の顔を。

「……うわー。気が滅入る」

要するに、人間が原形を留めなくなるまで潰れるところを見て来いってことだろう。洒落にならん。

けれど仕方がない。コレも仕事だ。

俺はため息を吐きつつ、雑踏の中へと足を踏み出した。



やめて―――。

そんな声がどこからか聞こえる。

それが大好きな姉の悲鳴だ、ということだけを頭の隅で理解した。

続いて服を引き裂く音。男達の野卑な台詞。

僕は呆然と、路地裏のコンクリートに死体のように倒れ掛かったまま、そんないくつもの音を聞いていた。

一穂おねえちゃん。

大好きな一穂おねえちゃんが、いま目の前で乱暴されている。腫れ上がった瞼の向こうにうっすらと映っている。

なんでこんなことが起きたのだろう? 僕はただ、おねえちゃんと二人で歩いていただけなのに。僕はただ、大好きな一穂おねえちゃんと一緒に居たかっただけなのに―――。

どくん、どくんと心臓が脈を打つ。

オマエハ、ナニヲシテイルンダ―――?

守りたい。おねえちゃんを守りたいと思っていたのに―――それだけがぼくの望みだったのに。

けれど、ぜんぜん守れていない。僕は殴り倒され、惨めにおねえちゃんが乱暴されるのを眺めるだけだ。

……世界はいつも、ぼくらに乱暴だ。最初からずっと、世界はぼくらの味方じゃない。僕はもちろん、おねえちゃんもそれを知っている。

だから、一穂おねえちゃんはこう言ったんだ。


ユタカの味方は、私だけよ―――。


その通りだ。同じようにおねえちゃんの味方は世界で僕ひとりなのだ。

そう思うと、胸の中から滾るような誇りと力がわきあがる。

こんな世界を許さない。おねえちゃんにこんな事をする世界を許したりはしない。

死ねばいい。全て死ねばいい。おまえたちは、僕たちをのけ者にしようとするやつらは、この世界ごとつぶれてなくなってしまえばいい―――。

だから、僕は戦わなくちゃいけない。

立ち上がる。

そうだ、やるのだ。

昼間、繁華街でそうしたように―――この世界の在り方を当たり前だと思っている連中に―――。


その認識がどれほど脆いものか見せ付けてやる―――。


不思議と口元に笑みが浮かぶ。ああ、いま僕はきっと、とても楽しそうに笑っているのだろう。



椿さんの糞わがままにも困ったものだが、これはこれで楽しいんじゃないのか。そう思い始めた俺である。

辺りを見回す。

現実とまったく同一の、見慣れた夜の街の繁華街が広がっている。

だがここは現実じゃない。どれだけ精巧に創られていようと、どのみち俺の脳内なのだ。

つまり、何であろうとやりたい放題なはずなのである。

「ねえ君、いま暇?」

ためしに通りすがりの女性に声をかけてみる。

「……は?」

「いやね。俺はこの世界の創造主なのさ。良かったら一緒に飯でも食べにいかないかい?」

本当に俺の望んだとおりの世界であるのなら、じっさい俺はカミサマである。ナンパぐらい許されても良かろう!

「……」

フフ。予想通り女性は俺の創造主たる威光に驚愕したようである。物凄く複雑な表情をして、一歩後ずさった。

「今日って2月2日だろ? ああ、もう0時過ぎてるから2月3日か。じつは今日の昼に起きる、虐殺事件の現場に立ち会わなくちゃいけないのだ神は。それまで十時間以上やることないので暇なら付き合いなさい。きみ可愛いし」

「あの……ま、間に合ってます!」

叫ぶように言うと、女性は走り出した。

「あ、おい」

……なぜ逃げる。

「ほらどーしたのー! 創造主様ですよー! こんばんわー!」

「ひっ! いやあ!」

本気で脅えられてしまった。

「そんな……神たるこの俺が」

逃げ去っていく女の子に向かって伸ばした手すら、マヌケさを助長するものでしかない。神の手なのに。……ナンパすら自分の思いどおりにいかない仮想世界ってなんだ。時間軸をずらしただけで、まるきり現実と変わらない。

逃げた女性は会社の同僚らしきOLの群れの中に逃げ込んで「なんか変なのに声かけられた」とか言っている。

変なのって、俺ですか。まあ確かにさっきの言動は普通に考えれば変だったと思うけれど。そこまで言うことねーじゃんよ。カミサマですよ、俺。

「あれよあれ……」

ヒソヒソと指をさすんじゃない。

「創造主とか訳わかんないこと言ってるし……しかも今日は2月3日とか言ってたよ……もう4日なのにね。頭おかしい人かな……」

まるでちょっと早めの春の人のような言われ方だ。泣きてえ。まだそこまで脳は暖まっとらんわと考えて硬直。いまあの子、2月4日とか言ってなかっただろうか。

「ねえ、ちょっと君、いいかな。神に教えてくれ。いま2月4日って言ったかな」

「ひい、また来た!」

アレは蜘蛛の子か。それとも脱兎か。逃げ散るOL達。

「ちょっと待ってくれっての! 今度はホントに今日の日付が訊きたいだけなんだって!」

「何やっとるか! 馬鹿モンが!」

「やべえ……」

ごっつい顔の警官がのっそり交番から顔を出すと、目をぎらつかせてこっちに向かってくるではないか。

「待て貴様!」

なんで自分の作り出した世界で、警官に追いかけられなければいけないのだ! もう怒ったぞ!

「神に向かって貴様とはなんだー!」

ピカー! 仁王立ちになって威光を放つ俺。

「薬物中毒者か!? そこを動くな!」

「ひいっ」

走りながらも、先ほどのOLのセリフを反芻する。2月4日……?

「……なんか、おかしくないか」

勘違いだろうか……。しかしここは何度も繰り返すように、俺の脳内世界である。そんな間違いなんて、あるのか?



息を切らせながら繁華街の奥まった場所にある路地に逃げ込む。ここまでは流石に追っては来ないようだ。

深呼吸して顔を上げると、そこは椿さんと待ち合わせした路地とは似ても似つかない、腐臭の漂う薄汚い場所。ビルに隠れて星も見えない。

「まったく……なんでこんな目に」

辺りを見渡す。

どうにもこうにも美しくしようのない場所ってのは、どんな街にもある。

表通りの煌びやかなネオン。そんな曰くヒトの営みとやらからにじみ出た、街の老廃物のたまり場みたいな場所。ここは見るからにそんなところだ。ゴミと反吐が交じり合って、どうしようもないすえた臭いを醸し出している。

路地の隅に目をやると、新聞が一誌転がっている。それを指で摘み上げて拾う。

「2月4日。……夕刊だ」

『馬鹿馬鹿しいまでに残虐な―――』

変な汁が染みたソレは既に変色していて、書かれている内容も読み取りづらい。けれどデカデカと表記された、俺にも見覚えがある湊保市大量虐殺事件の見出しだけは見紛う余地がない。ということは、やはり今日はすでに二月四日なのかもしれない。

「うーむおかしい」

湊保市史上最悪の殺人事件―――路上にばら撒かれた被害者―――。

この事件の現場に立ち合って、犯人とその殺害方法を確認する―――それが、今回の仕事の内容だ。しかしすでにその事件は終了したあとのようだ。

……なら俺がこんな事をする意味は、もう既にないんじゃないか?

椿さんは「犯人を見つけろ」といっていたけれど、終わってしまった事件の犯人とどう接触しろというのか。犯人に会えないのならこんな世界、ただの日常の残滓だ。意味がない。

いったい俺に何をやらせようとしてるんだ、あの人は……。

わけわからん。

新聞を放り捨てると、服が汚れるのにも構わず腰を下ろす。

鼠が驚いて路地の奥のほうへゴミを刎ね飛ばしながら逃げていく。

「―――」

けれどそんな闇の中の音に、奇妙な響きが混じっている。

……なんだろう?

まるで人の声のようだ。

鼠が逃げていったさらにその奥、路地の曲がった角のほうから、何か物音が聴こえる。

「……誰か、いるのか?」

呼びかけても返答はない。先ほどと変わらず、闇の奥に飲まれそうに感じる静寂がそこにはある。

アホくさ。人なんぞいるわけがない。何か聞こえた気がしたが、きっと空耳だ。

「―――」

けれど、また聞こえる。

……今度は空耳じゃない?

今度ははっきりと耳に届いた。聞き間違いなんかではありえない。

「なんだ?」

衣擦れのような、奇妙な音と共にくぐもった声。

こんな場所に人がいるのか……?

そう思ったときだった。

『てめえ―――ッ! 餓鬼!』

立ち上がってそちらに向かおうと腰を上げた瞬間、路地の奥まった場所、ここからでは見えないが、曲がりくねる路地の暗闇の奥から怒鳴り声が聞こえた。

なんだ、今のは。

そして、あわただしい物音が続く。複数の男の怒声。それから女の悲鳴―――。

それを聴いて慌てて立ち上がった。

何が起きているんだ?

わからない。わからないが、切迫した状況は伝わってくる。

異常だ。

何かはわからないが異常なことが起きている。

ここからでは何も見ることは出来ないが、けれど想像してしまうのは悲惨な光景だ。あの女の悲鳴―――そこから連想できるのは、見たくないものでしかありえない。その考えが的中しないことだけを祈って、路地の奥へ向かう。

自分の中の本能が、この先に行ってはいけないと警告する。

この奥には、行っちゃいけない―――と、言葉にならない警告音が耳の奥で鳴り響く。

他の人間ならいざ知らず、自分の場合、こういう類の予感や予想というものは、外れた試しがない。生まれついたときからそうなのだ。それを経験的に知っているからこそ二の足を踏みそうになる。

「くそ……嫌だ。行きたくない」

直観力が優れているということは、こういう場合何の役にも立たない。そこに穴があると知っていてわざわざ落ちに行くのと同じだからだ。

けれど見過ごすわけにもいかない。

『いやあ―――っ!』

「……! っ―――チクショウ!」

今度は女の声だ。自分の中の警告を無視して走り出す。

路地の角に差し掛かったとき、それを曲がろうとした瞬間だ。どくん、と心臓が波打った。

「う―――」

その路地の曲がり角から先には、先ほどとは比にならない、全身を刺す様なプレッシャーが滲んでいる。意志の力で無理やり動かしていた足が、自然に止まってしまう。

ちょっと。おい体、どうした……?

意思に反して急停止。

目の前に滲む色。それはまさしく死の色だった。目に見えるわけではない。しかしそれはあからさまに俺の脳髄を侵さんとして、目の前の空間に満ち満ちている。

これはなんなんだ。この奥に、いったい何があるっていうんだ。

気付けば全身に震えが走っていた。奥歯が鳴るのが止まらない。それは殺気だとか威圧感だとか、そんな生易しいものではない圧倒的なまでの死そのものだった。

おい。おい……マジですか。

それは言葉そのままに死の色である。行けば死ぬ。

しかしそれでもなお、体は動く。殺されるかもしれない。そんな仮定が思い浮かぶも、歯を食いしばって前に進む。

角を曲がり終えたとき、そこにあった光景は一番俺が見たくもない、そして予想通りのものだった。


「おいこら。てめえら何してやがる」


自然と口から怒りが漏れた。だって当然だ。そこにあったのは、ただの獣と、その贄だったのだ。

それはいったい何の偶然だったのだろう。

まるでこの間の焼き直し。ズタボロになった女が路上に転がっている。

それを取り囲むように品の無い男達が並んでいる。

そして―――。

……子供、か?

薄暗い路地の中、まだ目が闇に慣れぬまま、薄ぼんやりと映るその光景の中心に居たのは、一人のまだ年端も行かない柔和な顔の少年だった。

なんだって、子供がこんなところにいるんだ?

男たちは女を取り囲むようにして立っているが、視線はその子供のほうを向いている。

それを見て、怒りとはまた別に、違和感を覚える。

状況がどうであれ、この場で対処すべき事柄は決まっている。あの女を助けなきゃ。それだけは決まっている―――そのはずなのに、何かがおかしかった。女に複数の男が暴行を加えるという、ありきたりだが悲惨な光景ではあったけれど、そこにあの少年がひとり加わっただけで、ひどく奇妙な状況になっているのがわかる。

立ち並ぶオトコタチのどれもが、いましがたまで及んでいたであろう女への暴行の余韻など微塵も見せず、見るに不可解な表情を浮かべていやがる。

あれは―――。

そのときだった。す……っと、路地の隅にいた少年が前に出る。

「ち、近づくなぁっ!」

男達の中の一人が叫ぶ。

あれは、そうだ。見たことがある。人間ならば誰でも知っている。あれは、紛れもない―――男達が顔に浮かべているのは、紛れも無い恐怖の感情だ。

突然割って入ろうとした俺のことなど気にも留めず、目の前の10歳ほどの子供に対峙している男達。そのどれもが、引き攣ったような、恐慌寸前の表情を浮かべて後ずさる。

そのことが上手く理解できない。

ビビッていやがる。たった一人の少年に。

なぜだ? 今ここで何が起きているというのか。

「うう……痛え。……痛えよぉ」

男の一人の様子が、どこかおかしい……。逃げる他の連中とは違って、右腕を押さえたまま、少年の前で地面に蹲り、呻いてるのだが―――。

その腕が、異様だった。

―――奇妙なカタチに変形している……。

なんだ、あの腕は。

折れているのか、あれは……?

いや違う……。

よく見れば、それは腕というよりも、腕の形を、服がそのように象っているだけで、そこに本来あるべきモノが欠落しているのがわかる。男の着る厚手のコートの袖口から、どろりとピンク色の何かが流れ出るのを俺は見てしまった―――。

……片腕が無い。

男の腕は、肩口から先が綺麗に存在しなかった。その腕の代わりなのか―――流れる液体は、少しずつコンクリートの路面を浸してゆく。

「おにいちゃんたち。そんなに、怖がらなくてもいいんだよ?」

悪魔のような表情で少年は微笑む。

まるで引き攣ったようにすら見えるほど唇の端を吊り上げて、少年は歯を見せて哄笑した。

その様子に、いっそうおびえたような表情をみせて男達がじり、じり、と俺の方に下がってくる。

「―――っはは! ギャラリーも増えたみたいだよ、次は左腕だよ。見ていてね、おねえちゃん!」

少年は路地の隅に倒れた女に声をかける。

わからない。

何が起きているのかがわからない。

あの腕のない男はなんなのだ。その袖口から流れ出るピンク色の液体はなんだ? そこに混じっている肉片のようなものはなんなのだ。痛いと―――痛いと呻きながら、路上に撒き散った液体を必死になってかき集めようとしているのは何故なのだ。

―――まさか、あの液体は―――元はあの男の腕だったとでもいうのか?

少年が一歩前に歩み出る。

動けない片腕の男を残して、ひっと声を上げて飛びすさる男達。

少年が広げた右手をゆっくりと男に向かって差し出す。

おい、ちょっと待て。何が起こるっていうんだ。

頭は理解に追いつかないっていうのに、再びガクガクと震えだす体を押さえつける。

少年が腕を突き出す―――その動作だけで、周囲に漂う空気に死の色が混じるのがわかった。

少年以外の誰もが動けなかった。

「右腕がなくなっちゃったから、バランスが悪いねえ」

地に伏せて呻く男の顔を覗き込むように、少年は笑いかける。

「―――」

その途端、男のうめき声が、止まった。

少年の視線は、男の残ったもう一本の腕に注がれている。

男は少年の視線に促されるようにして、自分の腕を見る。まるでそれがもう自分のものではないかのような、ひどく哀れな表情で。そして男は俺のほうを向いた。突然現われた俺に何を思ったのかはわからない。けれど、その表情は、まるでこちらに助けを求めるかのような、今にも泣き叫びそうな顔だった。

「やっ……やめろ……」

なぜか、そう呟かずにはいられなかった。

辛うじて動いた口から零れ落ちる制止の句を、嘲笑うように少年はこちらを見つつも、小指から順番に掌を閉じていく。

そのゆっくりとした動作に連動するように、男が地面にのた打ち回りはじめ、叫びだした。


まるで悪夢のような光景だった。


男の上げる悲鳴は、ある種の滑稽さが伴っていた。

薬でも打って狂乱したかのように、理性のない、獣の如き叫び声。

まず、男の指の第一関節から上の部分が、関節から下の部分へと、ゆっくり埋もれていくのが見えた。その間血は一切飛び散らなかった。すべて、肉の中に押し込まれたのだ。

続いて第二関節までが、同じように押し込まれてゆく。暗褐色の腐った葡萄のような色に変色しつつ、三分の一ほどの長さになった指が、しかし二倍以上の大きさに膨れ上がっているのが見えた。そして、その部分が、果物を搾るような音と共に、一気に掌の付け根まで埋め込まれた。

劈くような悲鳴が、暗闇の中に響き渡る。

そこから更に、肩に向かって肉と骨がめちめちと音を立てながら潰れてゆく。

気の狂ったような男の咆哮はもはや人の声音ではなかった。枯れた喉を絞るようにして声を張り上げ、肺の空気が尽きてもまだ泡と共に音にならない声を絞り出そうとする。

正視に耐えないはずの光景だった。けれど、目の前で今いったい何が起きているのか―――それを理解することで精一杯の俺には目をそらす余裕などなかった。―――ただ見つめるしかなかった。

「―――ァ」

両腕を失くした奇形のヒトガタは、ぐるり、と白目を剥く。そのまま糸の切れた人形のように地面に倒れ付した。

「―――っはははははははははははははははは」

少年はとても楽しそうに笑う。

その表情に背筋が凍る。

―――何が起きた。

―――もうやめてくれ。

混乱した頭でそう思う。だがさらに凄惨な光景がその後も続く。

何が起きているんだ。これは地獄なのか。あのガキはいったい何をやっている? そんな俺の疑問を他所に、男への圧殺作業は止まらなかった。

次に、右足が潰された。そして同様に左足も潰された。とうに絶命しているであろうその男を、まるで壊れた玩具のようにあつかう少年は、まるで要らなくなった玩具それを興味本位で解体するかのような気軽さで破壊していく。

俺も、女も、いったんは逃げ出そうと俺の近くまで走ってきていた男達も、誰もが凍りついたように動けずにいた。

「だるまさんになっちゃったね、おにいちゃん―――」

可笑しげに呟くと、少年は、最後に残った頭と胴体に手をかざした。

「ばいばい」

そう言って、嗤った。

衣服も、骨も、皮も、肉も内臓も、全て一緒くたに押しつぶす。最後には、丸い―――ちょうど少年の掌に乗る程度の塊になってしまう。

少年が握っていた手をゆっくりと広げると、極限まで圧縮されて宙に浮いていたソレは、元のナニカに戻ることなく、耳障りな水音と共に地面に撒き散らされていった。

「ひっ」

男達が悲鳴を上げる。

粘性の液体が路地の隙間を侵食していく。その一連の光景は、冗談か何かに思えた。それが本来人であったなどと、まさにジョーク以外の何物でもなかった。

「おねえちゃんいまの見ててくれた? 僕がんばったよ」

振り向いた少年の表情に、今しがたの惨劇を行った名残はどこにもない。ただのあどけなさと、自分のやった行為を褒めてもらいたがっているような―――純粋な笑顔だけがあった。

……なんだ、この餓鬼は。

「ユタカ……あなた……また……」

「どうしたの一穂おねえちゃん。僕がんばったのに」

歩み寄る少年に怯えたのか、女は一歩後ろに退く。

一穂と呼ばれた女は、顔面蒼白になりながらも、それ以上下がることなく、気丈にその場で踏みとどまった。

―――一穂?

……いま、あの少年は何と言った?

ユタカと呼ばれた少年の視線の先。

傷ついた体を抑えるように立つ女の顔は、闇に慣れ始めた俺の目にもしっかりと映った。

「葦原……一穂」

驚きと共に、口から自然に呟きが漏れ出る。

そこに居たのは、あの日、路地の奥で拾い上げた女―――葦原一穂その人だった。


「……おにいちゃん、誰」

一穂との再会に驚く俺に向かって、少年が振り返る。

姉の名を口にした、唐突に現れた男。先ほどまでは殆ど無視に等しかったというのに、一気に敵性にまで引き上げられた視線が刺さる。

その目は、虚ろなようでいて、なにか―――爬虫類が無機質な目でありながらも、目の前のモノを餌かどうか推し量るような、そんな焦点の定まらない、ゾッとする光を湛えていた。

「……っ」

全身を針で縫いとめられたように動けない。

場の温度が一瞬にして下がるような凶悪な瞳の色だった。

「ねえ、黙ってないでしつもんに答えてよ。おにいちゃんは、いったい誰なの?」

「……それに答えりゃ、見逃してくれるのかな」

無様に声を震わせながらも、視線で少年を挑発する。

値踏みするかのように、少年はこちらをじっと見つめた。

「へえ……」

と、少年は呟いた。

「おにいちゃん、こころが頑丈だねえ。まだそんなことが言えるなんて。……あっちのおにいちゃんたちは、もう身動きもとれそうにないのにね」

感心したように言う。

少年の視線の先を見ると、仲間を無残に潰された男達は、心身を喪失したように呆然と立ち尽くしている。

動きたくない。動いたら死ぬ。そう奴らも感じているのはわかる―――わかるが、くそ。

なにをやっているんだ、おまえら。

さっさと逃げろ。

男達に向かって、肺腑の奥から声を絞り出し、叫ぶ。

「逃げろ! 馬鹿っ!」

仲間が潰されるのを見て飛びすさっていた奴等は、あの位置から走れば逃げ切れるかもしれない。ちょうど連中と少年の間に、俺が割って入る形になる。

「逃げろ!」

逃げられるのだ。

ここが現実ではないとか、そんなことは関係無しに、俺はもうあんなもの見たくない。

「う―――わ、あああああぁっ!」

俺の声で我に返った男達は、一人が走り出すと、他の全員も蜘蛛の子を散らすように駆け出した。

「甘いなあ、おにいちゃん。そんなの、逃がすわけないじゃない……」

少年は彼らの背に向けて腕を伸ばす。

「ちょっと待て」

「……どきなよ、おにいちゃんもころしちゃうよ?」

「まだお前の質問に答えてなかっただろ。殺しちゃったら、聞けないぞ」

「……決めた。あいつらやったら、つぎはおにいちゃんだ」

「へえ。ふうん。そう。とりあえず先にあいつ等を標的まとにするのは変わらないんだな」

ごくり、と唾を呑みこむ。

これから俺のやろうとしていることは、失敗したら100パーセントあの肉のスープにされた男と同じ末路を辿ることになる駄案である。成功しても100パーセント挽肉にされる。同じじゃねえか、という突っ込みは、ナシだ。いまはそんな事は考えない。ただこの少年の注意を引き付ける事だけを考える。

「……じゃあさ、たとえば俺が、あいつの彼氏とかだったら、どうする?」

目の前の少年を挑発するように薄笑いを浮かべてみる。

「―――おまえ」

「大事なお姉ちゃんを独占したいんじゃないのか? なら、かかずらわるのはあんな奴等じゃなくて俺にしといたほうがいいんじゃないか」

少年の目の色が変わるのがわかった。

状況は最悪だが、やっぱり子供は単純で扱いやすい。

こいつの行動規範は……たぶん姉だろう。だから俺はなんと答えようが、どの道殺されるに違いない。

けれど、いまはそれでいい。これ以上俺の目の前で、人を殺されてたまるものか。

震える奥歯を噛み締めて恐怖を押さえ込む。

気付けば体の硬直もなくなっていた。絶対に、もうあんな光景は見たくないのだ。人が挽肉にされる瞬間なんて悪趣味すぎて反吐が出る。死ぬ奴も哀れだが、あんな殺しをする奴も哀れだ。あっちゃいけないのだ。あんな光景は。

「ふうん……。まあいいや。あいつらの顔は覚えたから、いつでも殺せるしね。おにいちゃんも、手足を潰しながら質問してあげるよ」

少年が逃げる男どもに向けていた手を俺に向ける。

「さあおにいちゃん、これからゴーモンだよ、ゴーモン」

そんな獣のような表情で笑うんじゃねえ、糞餓鬼。

「おまえ、人の命をなんだと思ってやがる」

「今日はじめて会ったけど、おにいちゃん、なんかそのセリフ似合わないよ。それに人の命なんてしらない。でもおにいちゃんは僕のおもちゃさ」

ぼきぼきと鈍い音が聞こえた。

「え……?」

―――ユビが、あらぬ方向へ曲がっていた。

「が、ああぁ―――ッ!」

神経を直接焼くような痛みが右手を襲う。

なんだこれ。指が、無理やり何箇所も折り曲げた針金のように、異様な角度で歪んでいる。

これ……本当に仮想の痛みなわけ?

侮っていた。所詮現実じゃないからと、痛覚までリアルに再現されるだなんて勘弁してくれと、椿さんに今すぐ怒鳴りつけたい。

「あっれ……。おっかしいなあ。手をまるごと潰したつもりだったのに。……指が、折れただけ?」

なんで? と首をかしげる少年。

知ったことか……! クソォ……! 痛い。ただ痛い。衝撃のように走った激痛が治まると、じわじわと強くなっていく痛みに、必死になって堪える。

仮想だとか現実だとか、そんなものはこの強烈な痛みの前には一切が意味をなさない。

涙まで出てきやがった。

完全に骨の飛び出た右手の指から吹き出る血が、コンクリートを染め上げる。

「まあいいや。ゴーモンだからね。あんまり一気にやって気を失われたら困るもの」

「ユタカ! もうやめなさい……!」

一穂がよろよろと立ち上がりながら叫んでいる。

「おねえちゃん……?」

「だめよ……これ以上、ひどいことしないで……」

「なんで? ……この人がおねえちゃんの恋人だから? だから庇うんだね」

俺のハッタリを、鵜呑みにしやがって……チクショォ馬鹿ガキ……! やっぱ、やめときゃよかった。

大量に失血したショックもあるのか、目の前が白くなり、意識が何度も飛びそうになる。

これ、まずいな……。

混濁する視界の中に、ユタカと呼ばれた少年に向かって叫ぶ、一穂の顔がぼんやり見える。

「私はその人とは知り合いなんかじゃないわ。本当よ? だから、止めなさい……」

一穂が何かを叫んでいる。

痛みのあまり意識を集中できない。血が足りない……思考も、定まらない。

葦原一穂……なんでアンタが、そんな顔してるんだ……?

途切れ途切れの意識の中で、そんな事を考えた。

泣いているのだろうか。目が霞んでよく見えない。

……何もわからない。

腕が痛い。体が、寒い。自分が何故ここにいるのか。そんなことも次第に理解できなくなってくる。

ちかちかとついたり消えたりする意識の向こう側に、葦原一穂の泣いている顔が見える。

なぜか、そんな泣き顔の少女をどこかで見たことがある―――そんな事を考えた。



今よりずっと自分が幼かった頃の事だ。

八月の暑い太陽が山の向こう沈み掛かり、割れた窓ガラスから西日が差し込んでいた。

遠くに、こちらを見て笑っている少年と、それに取りすがるように泣きじゃくる少女が見える。

少年は、こちらに手を差し伸べるような格好で微笑んでいる。

自分の背後には、潰れて原形を留めなくなった肉の塊が二つある。何故自分がこうして生き残ったのかわからないままに、俺はマンションの窓から見える、地獄のように赤い景色を眺めていた。

この出来事は、あの少年がやったのだと、心の奥底でおぼろげに理解する。

少年と目が合う。

いつか、きっとまた会うだろう―――そんな事を思いながら、俺の意識は途切れた。


目が覚めたとき、実感したのは、自分が一度精神的に死んだということだけ。

ここにあるのは霧原智巳の亡骸だ。

かつてあった俺はもうどこにもいない。

それはもう死んだモノだ。この世にはない。

ならば、いまの俺はただの残骸に過ぎない。壊れたおもちゃが人間らしく振舞うにはどうしたらいい?

人を模倣するしか術はない。

人間として振舞うしか、生きていく術はない。

両親の死を知らされ、それでも悲しいと思うことすらなかった俺は、とりあえず泣くふりをした。

こういうときには、悲しむものだと、残っていた理性が言っていたからだ。

病院の職員や警察関係者は、そんな俺に対して同情をする。

そんなことに対しても持つ感慨は何もない。

けれど親を失った子供らしく振舞った。

ただそのようにするのが正しいのだ、という気がしたからだ。

強い子供だ、と周りの大人たちは言った。

事故で親を失った直後に、正面から現実を受け止めて、真っ当に悲しめる子供に驚いたのだろう。

それはそうだ。

そう考えても仕方のないことだ。

だって、その時俺は特に何も感じていなかったのだから。

生きる為に、そういう振りを、とりあえず実践し始めていただけなのだから。



脳みそから血が失われていくと同時に、これまでの人生のうちで続けてきた『霧原智巳の振り』が剥がれ落ちていくのが感じられた。

それは理性などというちゃちなものではなく、文字通り、俺を俺たらしめていた、心の鎧である。それが音を立てて剥がれ落ちていく。

服を纏わない人間なんて動物と同じだ。

むき出しの肉が暴れだす。

もう人間らしく振舞わなくてもいいと。

俺が俺を捨てたとき、そこに待っているのはただの獣性なのだと理解していたからこそ、いままでそのように振舞ってきたのだ。

けれどもう限界だ。

自分の口が喜びに吊り上がっていくのが感じられるからだ。

目の前の少年に対して、怒りがこみ上げてくる。

姉を泣かせておいて、ヘラヘラと笑うこの少年に、俺を一度殺した彼らが奇妙にダブった。

ありがとう、と小さく呟く。

もうその時、俺を俺たらしめていた鎧は綺麗に取り払われてしまった後だったのだろう。その奥に隠されていた炎のような激情が音を立てて噴き出す。

それは俺の残っていた理性を焦がし、焼き尽くした。そして―――全てが消えて失せた後には、もう燃やすものは自分の中には残っていなかった。

後はその炎を外に向けるしかない。

目の前には相変らず、気に食わない顔つきをした少年が居る。

俺は、背後から声をかけた。


「おい、クソガキ」

完全に油断しきっていた少年の頬骨に、折れた右手で無理やり拳を叩き込む。

「あ―――ッ!?」

声をかけられ、振り向いたユタカの顔面にジャストミートする俺の右拳。歪んだ形がさらに変形するが、そんな事はお構いなしだ。

ブッ飛ぶクソガキ。目を白黒させながらたたらを踏み、二次成長前の可愛い声で悲鳴を上げるユタカ。それがトコトン笑える。なんなのだろう、この開放感は。腹の底から笑いがこみ上げて止まらない。化け物でも殴られれば痛いのか? 快感物質が脳の中を駆け巡る。

本当にすごいのだ。殴った瞬間、脳みその中で爆裂するような喜び。

おぞましいほどに気持ちが良い。

殴りたい。もっとこの餓鬼を痛めつけたい。そんな感情が、後から後から湧きあがる。

「ぐ、うううう……! おまえ、おまえ何なんだよぅッ! なんで笑ってるんだ!」

笑ってる? そう、顔に触れるまでもなく自分で自分の浮かべた表情を理解する。俺はいま、獣のような笑みで歯を剥き出しにしている。これは怒りだ。笑みは本来威嚇の表情だ、などという薀蓄など関係がない。腹が立って腹が立って仕方が無いときは、笑みが零れるのが人間なんだといま実感したのだ。

そのまま少年に向かって歩み寄る。人の怒りに触れるということは、嗜虐心の標的になるということだ。嬲られるべく、獲物として名乗り出たに等しい。

「笑うさ。嬉しいからな」

十年ぶりに開放する怒りに唇の端が限界まで釣りあがる。鏡を見れば悪魔でも中にいたのかと勘違いするかもしれない。それほどまでに今の俺は醜悪な顔をしているだろう。

少年は眉間に怒りを浮かべ、叫びながら俺へ向けて掌を翳す。

「おまえなんか、死んじゃえ―――!」

どんなカラクリなのか。理屈はわからないが、俺の右手をへし曲げたアレが来る。

「―――!」

やつの攻撃がくる。

けれどそんなモノで俺に勝とうなんて片腹痛いのだ。

目の前の状況から次を予測する。それだけが俺に出来ることである。それだけが得意だった。

この力を、世界を纏め上げる能力、と椿朱音は呼んでいた。

名前なんざ知ったことではないが、この能力のおかげで俺は生まれてこの方、喧嘩で負けた事がない。体を鍛えているわけでも運動神経が優れているわけでもないけれど、そんなものが戦いの優劣を左右することはないのだと知っている。

戦いとは情報だ

相手がどんな攻撃を仕掛けてくるか、先読みすれば子供だって大人に勝てる。

戦いで重要なのは予測だ。

右から来るのであれば左へ。

左から来るのであれば右へ。

相手の出鼻をくじき、相手の考えを逆用すればいい。

個人の喧嘩でも、国家間の戦争でもやっていることは常に情報の奪い合い。敵の動きを先読みできれば、負ける道理なんてどこにもないのだ。

そして今回も俺は負けない。

ここは現実ではない。俺の創り出した世界である。もともと、俺が想像し創造した世界なのだ。

ならば予測できる。攻撃の手段が見えないのなら、見えないものとして予測すればいい。

少年の手の動き、そこから発生した男のダメージ。そして俺自身が受けた右手の痛み―――そこから導き出される現象が如何に在り得ないモノであろうと、それを絶対に否定しない心の在り様こそが自分の強みなのだ。

想像しろ。

目の前の少年が、次に行うであろう未来の焦点を。

脳が焼きつくほどにイメージを全開にする。

「防いだ……? そんな、馬鹿な……」

脳裏に現れたものは―――俺に襲い掛かるイメージの、巨大な透明の、握撃クローだった。

咄嗟に突き出した左腕が、ナニカに掴まれる様な衝撃と共に、奇怪な音を立てて変形していく。

先ほどまで俺のものであった筈の腕が、べきべきと曲がりながら、ただのモノになる。その痛みの凄まじさに意識が飛びそうになる。

だが、攻撃を加えたはずの少年の顔が驚愕に歪む。

防がれるはずがない―――そう思っていたのだろう。左腕を犠牲にして作り出したその隙。

「……っ!」

歯を食い縛る。のがさない。

唖然とした表情のユタカに走り寄り、鳩尾に蹴りを叩き込む。

靴の先端が肉にめり込む感触。痛みに目を見開いた少年が体をくの字に曲げる。

「かはッ―――!」

吹き飛んだユタカはビルの壁面に激突すると、ずるり、と背を預けて腰をつく。

「がぁ……っ! げほっ……!」

腹部を押さえてえづくユタカ。げえげえと、まるで蛙を蹴潰したような音色で鳴きやがる。

無様で哀れで、とてもとても見ていて気持ちがいい。

「これでお終いだよ。餓鬼……」

あの細首が叩き折れる様を幻視して、自然に笑みが零れる。呻きながら立ち上がろうとするユタカに一歩近づく。

「……どけよ一穂」

俺と少年の間に立ち塞がる女がいた。

「もうやめなさい……あなたも……ッ!」

そう一穂は怒鳴った。何故そんな顔をして、俺の行為を止めようとしているのかがわからない。

「どけよ」

もう一度言う。

けれど、一穂は動かない。

涙目で、俺を睨みつけたまま、そこから動こうとしない。

血塗れの腕で、一穂の頬をはたく。

それでも女は動こうとはしなかった。イライラする。何故おまえが俺の邪魔をするんだ?

この餓鬼を止める事は、お前の望みでもあったはずだ。

いまさら間に割って入る権利なんて、おまえにはないんだよ。

もう一度はたく。今度は本気で殴りつけた。

それでも、女は動くことはなかった。まるで俺に殺されることさえ覚悟しているかのように見える。

「なんなんだ……」

血のめぐらない脳はこの状況を見ても理解を拒否しようとする。

ズキン、ズキンと一穂を殴りつけた腕の傷が痛む。

それが、まるで、オマエは間違っている、と自分自身に言われているような気分にさせた。

「あなたは……」

と一穂が口を開いた。

「あなたが誰なのか、私にもわからない。でも、こんな事をする為に止めに入ったわけじゃないでしょう!?」

それはとても悲しげな表情だった。

怒っているわけでもない。敵意を見せているわけでもない。恐怖と、悲しみと、そして俺に対する哀れみだけがそこにはあった。

気がつけば、俺は一歩後ろに下がっていた。

「う……」

一穂の大きな瞳が、涙をあふれさせたままこちらを見ている。

思えば、彼女は最初から今と同じ目で俺を見ていたのではなかっただろうか。

興奮していて、それに気付くことはなかった。

しかし一穂はずっと同じ目をしていたのだ。彼女の瞳には俺の姿が映っていた。そこにいる俺はとても無様で、愚かに見えた。けれど葦原一穂は、そんな俺をしっかりと見つめ、 目をそらそうとはしなかった。

それどころか哀れんでさえ見せたのだ。

それを理解した瞬間、自分の中で理性と動物的感情が逆転する。

霞が掛かったような意識が急速にクリアになっていくのがわかる。

「あ……」

俺は自分のやっていた事を、全て理解した。

なにをやっている、霧原智巳。

―――俺は、この少年を殺そうとしていたのか? いやそれだけではない。一穂を殴りつけて脅したのだ。

見れば、彼女は広げていた両手を下ろし、悲しそうな目でこちらを見ていた。

おい、糞! なにをやっているんだ俺は。

あの少年を殺す?

何故?

正気じゃない。

俺にこの子を殺さなければならない理由なんて無いのである。

自分の行為に呆然とする。

たとえ怒りと痛みで頭に血が上っていたとはいえ、俺の中にこんなものが眠っていただなんて。

そんなことにはまったく気付かなかった。だって、ありえない、筈なのだ―――。

「お願い」

はっとして前を向くと、一穂が変わらず俺を見ていた。

「……すまない」

そう呟くのが、精一杯だった。

あの衝動は、一体なんだったのだろうか。気が付いたら、この少年を嬲ることしか考えていなかった。スイッチが入ったのは、ユタカの笑みを見て―――そして―――。

……わからない。うまく思い出すことが出来ない。

まるで夢を見た直後のようだ。さきほどまで覚えていたはずなのに、綺麗さっぱり記憶から抜け落ちている。夢中になっていた時の自分の思考がトレースしきれないもどかしさに似ている。

だから、言い訳すら出来ない。頭を下げるしかなかった。

「……そんなつもりじゃなかったんだ」

俺の言葉に一穂は答えなかった。ただ、俺の様子を見てもう戦う意思が無いと悟ったのか、そっと微笑みかけてきた。

「あなたが誰なのか、私は知らない。でも、ユタカを止めてくれてありがとう」

俺に感謝なんて、するんじゃない……。

「手当て、しなくちゃ」

そう呟いて俺の腕をそっと取る。

「……必要ない」

「そういうわけにはいかないわ……」

自分も男達に暴行された直後だというのに、彼女はユタカや俺のことを心配している。自分が情けない。以前現実で出会ったときには、こんな優しい女だとはわからなかったのも情けない。

ハンカチや裂けた自分の服を使って、俺の出血の多い右手を処置する。何てマヌケなんだろうか……自分が襲いかかった女に傷の手当をしてもらうだなんて。

「今はこのくらいしか出来ない。すぐ病院に……」

一穂が俺にそう告げた時だ。

背後で、言い様のない気配が膨れ上がった。

まるで世界そのものが圧迫されているような、強烈な悪寒だった。

「ユタカ……」

呟く女の前で、立ち上がった少年の目には、絶望的な色の冷たさが宿っていた。

ゆらり、と幽鬼の様に佇む少年。怒りどころか何の感情も篭っていない表情でこちらを見る。

その瞳に捕えられた瞬間、恐怖を感じる余裕も無く、全身が縛り付けられたように硬直した。

「―――ッ」

それは俺だけではなく、動くもの全てを、時を止めたように凍りかせた。感情も、感覚も、時間さえもがやつの見えない腕に捕らえられたように硬直する。

まるで絵画のように世界が平面に見えた。

なんだ? 何が起きている!

まるでこの仮想世界にやってきた直後のような、あらゆるものが静止した時間感覚。生み出したのは紛れもなく俺であるはずのこの世界が、目の前の少年に完全に支配されているかのような。

「……ゃえ」

少年は中空に手を差し伸べた。

あの男にやったように、そして俺の腕を破壊した時と同じようにである。

違うのは、それが片手ではなく両手で行われたということだった。

まるで、そこに何か球体が存在するとでもいうように、両の手でボールを掴むような形を作る。

「なにを―――」

俺が声を掛けるよりも早く、少年はその両の手に力を込めた。ぐぐっと万力のような力をこめているのが、その血走った目から分かる。

瞬間、はぜる様な音と共に空間に亀裂が走った。

何が起こったのか。

「―――!?」

これはいったい、なんだ。

目の前の空間に、稲妻の様な線が出現する。まるで熱疲労に割れた硝子の如き無数の筋。

それがビル壁面に写った何かの模様ではなく、目の前の空間に出現したのだと悟ったのはすぐだった。

空間が、裂けた……?

落書のように歪な断裂が視覚に踊る。それに続くようにして、がきん、がきんと、金属質の音がそこら中から鳴り響いた。

「ユタカ……やめな……さ―――……ッ! もういいの。お姉ちゃ……ッ丈夫だから―――……ッ!―――……ッ!」

ノイズが入ったように、音が断線する。

いままで、何度もこの世界には来たことがある。だが一度としてこんな現象は見たことがなかった。

なにが、何が起きているんだ。椿さん、あんたはいったい、俺に何をやらせようってんだ……!

だがいまの俺にわかるのは、この現象を目の前の少年が起こしているのだということだけだ。

「許さない……」

先ほどの少年と同一人物とは思えない声で、ユタカが呟く。

その目は、やつの掌が形作る球体に注がれていた。まるでそこに押し潰すべき何かが存在するとでも言うかのように―――。

「なにやってやがるガキ、やめろ―――!」

「おねえちゃんは僕だけのものだッ! おまえなんか、おまえなんか―――ッ!」

危機感に脳が電撃のように思考速度を上げる。

その瞬間、脳裏に再び、鮮烈な映像が焼きついた。先ほどの少年の攻撃を予測した時と、全く同じ感覚だった。

目の前に映像がフラッシュアップする。

「これは……」

がっしりと、冷たい手によって、俺の創り出したこの世界が掴み取られる。

まるで首を絞るように、気に食わない玩具を握り潰すように、少年の見えない腕が、この世界を外側から押し潰そうとしている。

そんな映像が見える。

この少年の力がいったいなんなのか、それはわからない。だがこの世界は俺の被造物。少年だってその例外じゃない。それが、世界の外側から干渉するなんてあってはならない筈なのだ。

「ぐっ……」

いわば俺の分身であるこの世界が、いま、目の前の少年に完全に掴み取られるのを感覚で捕らえた。

「おまえは、いったい何者だ―――」

少年は答えない。

凄絶な憎しみを顔に浮かべ、この世の何もかもを纏めて圧殺せんと力を込める。

「……みんな、みんな潰れて消えてしまえ! 僕とおねえちゃんだけがいればいいんだ!」

崩壊する世界の中心で、少年は叫んだ。

ひび割れる地面。崩れてゆくビル。その向こうに対峙する少年は、まるで泣き喚く赤ん坊のように見えた。

「うわあああああああ―――ッ!」

「やめろ! ユタカ!」

もはやどうしようもない。そう思いながらも手を伸ばす。その先には、ユタカと、そして彼を止めようと取りすがる一穂。

ばきんと悲鳴のような音を立てて、空に巨大な亀裂が入った。

この世界はもうもたない。

だが、世界はいまだ崩れ去ることなく、亀裂から清冽な、血のような赤が流入する。

これは―――。

血の色か? いやそうじゃない。

はっとして見上げると、瓦礫の向こうには真っ赤に燃える夕陽が浮かんでいた。

なんで太陽がここにあるんだ? いまは真夜中のはずだ。

絵の具のように流れる赤い夕陽の筋を目で追うと、それは空に浮かぶ巨大な亀裂の中に続いているのが見えた。……あの空間の断裂から流れ込んできたのか!

しかし亀裂から流入したのは太陽だけではなかった。どこか見覚えのある、この光景。

マンションだ。

倒壊し、いまにも堕ちてゆきそうなマンションの一室。見覚えのある調度品。崩れ落ちてゆく瓦礫の中、遠くに見える巨大な夕陽。そして。

そして―――。


泣き喚く赤子と、それをあやそうとする一人の少女。


これは俺が、過去に見た風景なのか?

終わってゆく世界で、俺はその光景を眺め続けた。


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