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ひび割れた水道管から、水滴が滴るのが見える。
霧原智巳は、街のとある路地裏に立っていた。
壁に背をかけて、その滴る水滴をじっと見つめている。それ以外に、動くものはこの場には無い。
智巳はゆっくりと目を上空へ向けた。狭い路地に切り取られた四角い空がそこにはある。小さな白い真昼の月が、遠くに浮かんでいる。
「……いい天気だなあ」
太陽はここから見えないが、青く澄んだ空が見える。二月の空気は冷た過ぎるほどだが、日差しだけは暖かく気持ちがいい。こんな晴れた日は公園にでも行って、昼寝をすればさぞ気持ちいいだろう―――智巳はそんなことを思った。
おおきく口を開けてあくびをし、背筋を伸ばす。
自分が何故ここにいるのか―――そんな単純な理由すら、あまりに眠くて忘却のかなたに行ってしまいそうである。
腕時計を見ると、約束の待ち合わせ時間は既に三十分も過ぎていた。
正直言って、面倒臭い。先方から言い出した約束とはいえ、相手を待たせるのは失礼に当たる。そう考えて早めに到着したがこのザマである。
あの人は俺を舐めているのだろうか。そうとしか思えないのがムカツク。チクショウめ―――頭の隅で待ち合わせ相手に毒づきながら智巳はもう一度大きなあくびをした。
「時間くらい守れよな、まったく……」
ブツブツと呟く声も、静まり返った路地の壁に吸い込まれていく。
もうすっぽかして帰ってしまおうか。
智巳がそう思った時だった。
「どうせ暇なんだから構わんだろう。大学生」
路地の入り口、人々が足早に通り過ぎていく大通りを背後に、ひとつの小さな影が立った。
「一時間近くも遅れておいて、そのセリフっすか。勘弁しろよマジで」
声に反応してそちらを向いた智巳は、待ち合わせ相手の影を見つけると呆れた声を出した。うんざりした声音を自覚し、本当に自分がこの女性を苦手なのだということを再確認する。
「男が細かいことを気にするなよ。こんな美人と待ち合わせしてるんだからもう少し気の利いた科白を言ったらどうだ?」
自分が待ち合わせに遅刻したというのに、ふてぶてしい態度で女性は言う。
「ほら、定番の奴があるじゃないか」
その顔は逆光が反射して、影にしか見えない。ひどく小さな、一四〇センチあるかないかぐらいの身長だ。その小柄な人影が、三十センチ以上身長に差がある智巳に向かって下から説教を垂れている。
「定番って……なんです?」
「なんだ。知らないのか? ……こう、息を切らせながら駆けつけてきてだな。『ごめん、遅れて。……待った?』―――ってわたしが言ったら、おまえはこう返事するんだろ。
『いいや僕も今きたところだよ椿さん、全然気にすることなんてないよ』ってさ」
それが女のロマンなんだよトモミ―――とその女性、椿朱音は言った。
内心智巳は(地獄に落ちろ)と思ったが、もちろん口には出さない。
「いや、俺もう一時間も待ってるんで椿さんのくだらねー冗談に付き合う気力はないんですけども」
第一、やってきていきなり暇人呼ばわりしたのはそっちだ、と智巳は思った。馬鹿馬鹿しい事この上ない。
「くだらない冗談などではない。女のロマンだ」
「なにがくだらないかは人それぞれでしょう……」
智巳はうんざりした表情で、路地の壁から身を起こした。そんな智巳に対し、女性はあきれた顔をする。
「おまえは几帳面すぎる。怠け者の癖に真面目だといいことがないぞ?」
「マジメねえ」
自分に対する批評を鼻で笑う。
霧原智巳は別段真面目な人間ではない。彼が幼いころに自分で取り決めたルールを遵守しているだけだ。『他人には絶対に迷惑をかけず、自分の責任は自分でとる』という単純なそれは、智巳を律する唯一の行動規範である。それ以外のことに関してはたしかに怠け者だろう―――と彼は自分でも思っている。
「まあいいさ。とりあえず場所を移そう。ここは辛気臭くて仕事の話をするには不適当だ」
周囲を見渡して嫌そうな顔をする椿朱音。
「……自分で指定したんじゃないですか」
呆れてため息をつきながら智巳は彼女の後に続いた。
◆
椿朱音。
謎の女である。俺がこの人にあったのは半年ほど前の事。
まだ大学に入ったばかりで薄ぼんやりとした日々を過ごしていた頃のことだ。
―――ふうん、霧原智巳君か。じゃあ、トモちゃんだな。
と、出会い頭にこの小さな女性はそう言ったのだ。よし、と一人で納得しながら。
嫌だよそんな呼び方! さんざ喚いてトモミと呼び捨てに落ち着いたのはいいが、ニヤニヤ笑う彼女に、言い様の無い不安を感じたことを憶えている。
良い仕事があると聞いて紹介されたのがそもそもの間違いだったのだろうか? 仕事の正確な内容も教えられず数回面接を繰り返し、その結果彼女の発した言葉は「君は素晴らしい」の一言。
それが一体何を意味する言葉なのか。理解と後悔が同時に襲い掛かってきたのはその後のことである。
はっきり言って、驚いた。むしろ恐怖した。彼女の目的は、俺を使った人体実験だったのだ。
「……それで。今回はなんなんです」
正面に座ってくつろぐ椿さん。
薄暗い喫茶店の中。ここは彼女が仕事の打ち合わせをする時によく利用する店のひとつである。彼女のお気に入りなのだとか。
暗く人気のない店内は、本当に客商売をやっているのかよと疑いたくなるような薄気味悪い空気が漂っている。店のマスターはカウンターの奥でグラスを磨いているが、こちらが呼ぶまで振り向くことすらしない無愛想なおっさんである。あんなんで商売になるのかと不思議に思うが、「売り上げだけが収入源ではありませんから」と意味深なセリフを薄笑いしながら、以前、吐いていた。裏で何をやっているのか。聞きたいような聞きたくないような。
「トモミは、このあいだ起きた湊保市の大量虐殺事件を知っているか?」
椿さんはコーヒーに大量のミルクと砂糖を投入しながら言う。
「そりゃ知ってますよ。大学の通学路だから。なに。今回の仕事って、あの事件になんか関係のあることなんですか?」
つい先日、湊保市で起きたグチャグチャ事件。通称グチャグチャ事件。
見るもの全員が目を覆う悲惨さだったというけれど、次の日にケータイでニュースを確認するまで知らなかった。とんでもないことをする人間もいたものである。
「勘がいいな。そのとおりだよトモミ」
もはやカフェオレと化したコーヒーを美味そうに口にしながら、彼女は脇に置いてあった封筒をそのままテーブルに載せる。
「なんです、これ。資料?」
「見ればわかる」
封筒を開けて中のぶ厚い紙束を引っ張り出す。いったいなにが書いてあるんだ……。げげ。なんだこれは。
とりあえず見なかったことにしたい。
その紙束に印字された文字列を見て、思わず唸り声を上げてしまう。
「どうした? アホみたいな顔をして」
俺は紙束を置くと、向こうで仕事をしているマスターに気取られないように、小声で怒鳴る。
「これ、警察の捜査情報でしょう。なんでこんなもの持ってんの」
もう一度テーブルの上のそれを取り上げてページを繰る。……極秘とか書いてありやがる。これ、見つかったら捕まるんじゃないだろうか。頭が痛い。
そこには、数日前の事件の詳細が事細かに記されていた。まだ表ざたになっていない情報までばっちりである。女性三人。男二人。計五人がひき肉にされてばら撒かれたと書かれてあった。
驚く俺のことなど意にも介さずに椿さんは続ける。
「そんなに大変なものでもないだろう。いまどき警察の捜査資料なんて。ネット上にだって流出してる時代じゃないか」
「そういう問題じゃないです。こんなものどうやって手に入れたんですか」
「企業秘密だ」
呆れて声も出ない俺を他所に、気にした様子もなくコーヒーを啜る椿さん。いままで散々ヤバい仕事をやらされてきたけれど、この人は、もしかすると想像以上に不味い方面の人間なのではないのかと勘繰ってしまう。
それで、いったい俺にどうしろと言うのだ。
「仕事だトモミ」
と、こちらを見もしねえで言う。
「……仕事ってアレ?」
「そう。アレ」
「……」
俺は答えない。答えようもねえ。むしろ答えたくない。
アレというのは、椿さんが俺を実験台にした情報観測実験のことである。それは次の日まで知恵熱が出て止まらなくなる、恐ろしい代物だった。二日酔いよりも厳しい頭痛ってどんなだ。絶対やりたくねえ!
「やだ」
「もう一度でいい。手伝ってくれたら礼は弾む」
「なんと言われようと嫌だね。普通の予想依頼だったらドンと来いだが、ヒトの脳みそ弄り回しておかしなことをさせるんじゃないよ」
「そうか? まあ嫌なら嫌で構わないが」
さして残念そうな顔もせず、あっさりと引き下がる椿朱音。
「あれ? いいの……?」
思わず眉を顰めてしまう。
彼女のことだ。強引に絡んでくると思ったが、そうでもないようだ。
「構わないよ。無理にどうこうさせようって話じゃない。ただ今回はバックがでかいからな」
意味深な表情で、ふふんと笑う。その視線は俺ではなく、俺が手に持っている警察の捜査資料のほうを向いている。
どういう意味だ、それは? ありえないと思いつつも聞いてみる。
「死んでほしい。そのバックってさ。もしかして警察?」
「さあね? どうだろうね? 少年。警察だったらどうする?」
意地悪く彼女は唇を吊り上げる。
「警察はしつこい。それはもう本当にしつこいぞ、トモミ君。素直に協力しておいたほうがいいんじゃないか」
まあ無理強いはしないが、と目をそらすが、その笑みがむかつく。
警察かどうかは知らんが、捜査情報を提供できるような連中が背後にあるのだと、無言のうちに、言っているようなものだ。でなければこんな内部資料がここにある筈がない。
そんな想像が、彼女の顔を見て思い浮かぶ。
「……ふざけんなよ? こんなもん俺に見せてどうしようっていうのさ」
目の前の椿さんを睨みつける。部外者に捜査資料を見せていいはずがないだろうボケが。
「本当ならね。捜査に協力してくれるヒトじゃあなきゃ、見せらんないんだけれどね。他意はないよ。トモちゃんはとくべつだ(はあと)」
「なにがはあとだ年増」
頬っぺたが腫れました。
「……他意があるから見せたんだろうに。あとトモちゃんって言うな」
年増は禁句らしい。
だんだんイライラしてきた。やっぱりこの人は苦手だ。自分のペースに相手を巻き込むことしか考えていない。
俺はポケットから煙草を一本取り出すと口に咥えた。
「おや。煙草は吸わないって、いつも言っているくせに。……相変わらず持ち歩いてはいるのね」
「ああ、うん。今みたいに苛ついて怒りが抑えきれないときって、少なからずあるからね」
嫌味を込めて言ってやる。
そういうとき、俺はいまみたいに煙草を一本だけ吸うのだ。部屋に友人が置いていった灰皿がそのまま捨てずにあるのも、それが理由である。
心底腹を立てたときにだけ、紫煙を肺の奥にまで送り込む。
「その資料を俺に見せたってことは。もうあんた、俺を取り込むこと前提で話を進めてるんだろ?」
あははーまさかーと彼女は嘯く。
くしゃくしゃに曲がった煙草に火をつけて、三ヶ月ぶりのニコチンを摂取した。肺の奥に染み込んでいく感覚がとても懐かしい。笑えるほどに脳がくらくらする。脳の血管が収縮して苛立ちが収まると同時に、自分の目つきまで悪くなったような錯覚を起こす。錯覚じゃなくて、純粋に怒りを外に向けられるようになっただけだろう。
「椿さん。あんたホントに最悪だよ。絶対いい死に方しないよ」
そんな言葉まで口をついて出た。
自分でも何故かは知らないが、タバコを吸うと口が悪くなる俺である。
この女に逆らっても無駄なのは知ってる。もう俺を使うことを前提で話を進めているんだろう。なら、とりあえず毒を吐いておこう。そう思う。
「……君は煙草吸うと本当に性格が変わるな」
それ、もしかしてカッコいいと思ってるのか? と椿さんは言う。
「ダサさも一周するとカッコよく見えるかもしれませんよ。まあ、でも逆らわないですよ」
以前も文句をつけたことはある。けれどそれは徒労の一言が相応しかった。
「あ、そう。素直な子は好きだよ」
にっこりと少女のような、無垢な顔で彼女は微笑む。本当、この人だけは無残な死に方で逝ってほしいマジで。それこそ、こないだの湊保市の被害者たちが霞むくらいに。
「じゃあ、協力してもらうってことで、構わないね?」
「もう逆らっても無駄でしょ。……好きにしてくださいよ」
「わあい。わたし嬉しいな。トモミ君」
くそ棒読みで。
しかし俺の承諾を受けたのがそんなに嬉しかったのだろうか。「ありがと」と言って語尾に今度はきっちりハートマークをつけて微笑む椿さん。ニコニコ微笑む姿は小柄なせいも相まってか、まるで十代の少女のように可憐である。似合うとは思うのに、同時に騙されてる感が否めない。
「もうすぐ三十路のくせになあ」
そう何の気なしに地雷まで踏んでしまう。しかし気付くのが遅かった。一瞬で天使の微笑みを修羅に変える力がその言葉にはあったようで、喫茶店を出るころには、俺の脳はグルグル揺れていた。
「次に言ったらコロスからね?」と微笑む彼女の笑みが怖い。
「知らん……首が痛い」
◇
薄暗い部屋の中で、椿さんはゆっくりと立ち上がった。
「じゃ。はじめようか」
まるで黒魔術の儀式のようだと俺は思った。毎度のことではあるが、この薄暗い空間で寝そべっていると自分がこれから解剖されるような気分になる。
俺が横たわるベッドの脇には椿さんが一人立っている。
もう何度も体験していることだというのに、これから行われることは未だに俺自身、半信半疑のある儀式だ。
「目を瞑って」
椿さんは手を俺の顔の前にかざすと、そっと横に動かした。それにあわせて目蓋が重くなるのを感じる。
まるで本当に魔法かなにかのようだ。
実際に黒フードでも被っていれば彼女の風貌にはとてもふさわしいものになるのだろうが、これから行われることは、皮肉にも魔術と大して代わりがない。どきどきする。催眠術って胸キュンなのか?
薄く閉じた目蓋の向こうで、部屋の照明がさらに落とされるのを感じる。毎度のことだが、この瞬間に慣れることはない。少し恐怖を感じてしまう。
「いいですか」
椿さんの声のトーンがゆっくりと落ちていく。しだいに、柔らかでやさしくて、とても同一人物とは思えないほどに柔らかなものに変わっていく。
その声音によって、不本意ではあるけれど、自分がひどく落ち着いてしまうのを感じる。
くやしいが、椿朱音は催眠術師としては超一流だ。
催眠療法師と呼べと彼女は怒るのだが、どちらにしても同じことだ。彼女にはその道の天才があったのか、昔習得したと言っていたけれど、最初は本当に自分があっさりかかるとは思わなかったものだ。これって悪用なんじゃないだろうか、といつも思わないではない。
空気が甘い。
香でも焚いているのだろうか。それとも、この匂いすらすでに錯覚なのか。
じくじくと、俺の精神がその香りに溶けていく。腐りかけて堕ちかけた、溶けて爛れた柑橘のような匂い。
瞑った瞳の奥深く、闇の中に小さな針で突いたような白い点がともる。
「霧原智巳。……君はいま少しずつ溶けている」
椿さんの―――透き通るような小声が耳朶に響く。彼女はきっと微笑んでいるだろう。どうにもならない俺を見つめながら、妖しい笑みを浮かべているに違いない。
俺はもう、その声には逆らえない。
「これからわたしが手を叩く。その音を聴いた瞬間君は自分の心のうちに小さな罅が入ったことを知る」
ぱん、と耳元で小さな破裂音がした。
それを聞いた瞬間に、霧原智巳の人格に亀裂が走った。
「―――君は少しずつ消えていく」
霧原智巳は、もはや霧原智巳ではない。
「硝子はいつか割れる。君が丹念に積み上げてきた心も同じように割れる。こんな些細な事で砕けて散る」
それはいったい何の暗示か。
もはや俺は自分が何者かすら判らない。俺が―――いや……彼が、霧原智巳が蒐集した記憶と経験は―――バラバラに砕けて散った。
その欠片がいま、昏い意識の海に漂っている。それはきっと彼の―――霧原智巳の記憶だ。
自分の脳に開いた小さな孔。
そこから流れ出ていく記憶の断片たち。そのうちのひとつが脳の内面に拡散し、映画のフィルムのように投影される。
◆
―――椿さん。
おそらくそれは、そのときの自分であったであろう霧原智巳の過去。
―――世界を纏め上げるっていったいなんです? わけがわからん。
椅子に座って何か書き物をしていた椿は智巳の言葉を聞くと、顔を上げて彼のほうを向いた。手にしたボールペンをくるくると回転させて首を傾げる。
―――んー。なんて説明すればいいのかな。
椿はボールペンを玩び、ぼんやりと天井を見上げた。
―――"人の意識"ってものがあるだろう? それは君、いったいどのようなものだと思うかい。
―――意識?
―――そう。意識だ。
椿の表情は冴えない。説明の仕方を考えているのか、ガリガリとボールペンの背で頭を掻いた。
………………。
…………。
……。
「意識というものはね、とても不思議なものだ。だれもがそこにあると思いながら、しかしその何たるかを正しく定義したものはいない」
椿は手にしたボールペンをゆっくりと回し、それをテーブルの上に置くと、そのまま背をイスに預けた。
「そうなのか? 心理学ってやつは良く知らねーけど、まさに心の学問だろ。意識についての定義くらいあるんじゃないですか」
「もちろんある。だがその定義は複数だ。"これこそが人間の意識"という明確なものは―――まだない。いまだ発展途上の学問だからさ。心理学が誕生してからまだ百数十年。その全てが学問的定義とは程遠い、試金石の段階だ」
椿は立ち上がって伸びをすると、その小柄な体の間接を鳴らした。そのままオフィスの窓際まで歩いてゆく。
ここは椿が所有しているビルの最上階に位置する事務所だ。彼女はいくつもこんなビルをこの街に持っている。
「空が青い」
椿は窓の外を見上げて言った。
そこには広く晴れ渡る青い空があった。
「この様にしてわたしたちは当たり前のように外界を意識する。だがその意識とはなんだろう? 我々が主体的に持っているものだろうか。それとも違うのか? 自分の意識を内観するにしても"意識を内観する意識"というものが存在してしまう。どこまで考えても問いは尽きない。……しかしひとつだけわかることは、だ」
椿は窓際に腰を下ろし、智巳を見た。
「その正体がなんであれ、我々が意識的な存在であるということだ。"われ思う"と賜ったデカルトがその思索の立脚点に自我を置いたように、我々は意識が存在しなければ『何も無い』なんだ」
「何も無い……?」
「うん。意識がないということは、何も無いのと同じことさ。意識の消失は世界の消失。私たちは意識することによって世界を創造することが出来るし、意識しないことで世界を滅することが出来る。ひとりの人間が死んだとして、その意識の消滅はひとつの世界の死だ」
いまこの世には約六十億の世界が存在する、と彼女は智巳が耳を疑うようなことを、平然と言った。
「世界は複数ある。それは間違いない。平行世界的な意味では無くね。そしてその世界を纏め上げているのが、我々一人一人であるということが重要だ」
「世界を纏め上げているって……それは、俺もなんですか……?」
椿は頷いた。
「もちろんだろ。トモミの世界はトモミが生み出した創造物だ。神は君だ」
「……俺が神ならもっと住みやすい世界を創っても良さそうなもんなんだけどな」
「なら創ればいい。好きに世界を生み出す能力が人にはあるんだから」
それはまるで自己実現についての理想論のように聞こえたが、椿の口から当然のように聴かされると、何故だか『人はそうして当たり前』といっているように思えた。
「いまトモミが生きているこの世界は、君が最も望んだ世界だ。『そのよう』に望んだからこそ、君は今『このよう』に世界を認識している。それがもし自殺寸前の人間であっても、変わりはない。自殺するような人生を望んだ結果として、その人物はそこに立っているのだから」
「嘘をつくなよ。そんなはずないだろ」
「信じられないのであればそれも良い。それが君の望んだ世界認識のあり方なんだからな」
アホくさ、と智巳は肩をすくめる。椿朱音の戯言はいつものことだ。一々付き合っていては身が持たない。
「む、アホ臭く聞こえるか? まあいい。私が言っているのは現実的な心構えとしての認識論ではなく、本当に望む世界を生み出す方法についての話だ」
それを聞いて、ついに狂ったかと智巳は思った。アホ臭いだけではなく、狂人のたわ言になりつつある。
「好きに世界を創る、ね。それが出来たらどんなに楽かと俺は思いますよ。ぜひ金が地面から湧き出るような世界にしたいわ」
「すればいいさ。そのための方法をこれから教えてやる」
「……教えるって、そんな世界を生み出す方法を?」
「その通りさ。といってもトモミはもう体験しているだろう。居ただろう? そのゴミ捨て場の女」
「……」
「それが君の力。君の能力だ。街の片隅、朝四時の暗いゴミ捨て場に女を見つける……か」
椿はポケットから手帳を取り出すと、そこに書かれている文章を読み上げた。それは一ヶ月前の智巳が記したものだ。
いやはや素敵だ、サイコーだよトモミ―――と椿は言った。
「先ほど言った世界を纏め上げる力―――統一力とでも呼ぼうか。君はその力が著しく強く、そして同時に脆い。なかなかいないよ、そんな逸材はね」
「逸材なんて……実験動物呼ばわりしておいて持ち上げても誰も喜ばないすよ」
これでも褒めてるのに、と椿は肩をすくめる。
「統一力―――それは世界を纏め上げる、個人個人が持つ神の力だ。いま目の前にある現実を纏め上げている、我々が持つ脳の力だ。人間の脳髄は現存のスーパーコンピュータなんざ、目じゃないほどの演算処理能力を持っている。それをフル稼働させようってだけの話だよ」
椿は言った。
「君が見たその女の映像は、智巳自身が作り出したいわば幻覚だ。しかし実際にその場に行った君は女を発見している」
椿は続ける。
「いわば未来視の能力だな」
それは智巳自身が既に経験していたことだった。この椿という女は何者かは知らないが、智巳が持つ統一力の強固さと、そこに入った亀裂をどうにかして見つけ出した。
「君の世界はひどく強固で、しかし脆い。誰かが突付かなければ一生瓦解することはなかっただろう。だがわたしは君を見つけた。学校なんて閉鎖された空間でその力を使っていても、どうせいつかは誰かにバレる。そのくらい自覚していただろうに?」
智巳はむすっとしたままの表情で、椿の話を聞き流した。
彼女の言うとおり、バレたのだ。
学生の間で、試験のヤマ当てや公レースの予想、失せモノ探しなど、多岐に渡って荒稼ぎをしていた智巳に目をつけたのが、椿朱音だった。
六割以上の確率でなんでも当ててみせる予想屋―――という噂は、あくまで噂の域を出ないよう、当たっても困らない類の依頼だけを選別して、これまで上手くやってきた結果だった。
個々人の間ではそれなりに予想を的中させ、大人数が集まった時は上手い具合に外してみせる―――という仕事ぶりは、肝心なところで当たらない―――けれど、役に立たないかと問われれば、そうは言いきれない―――そんな、多少情報収集と分析が上手い、くらいの学内予想屋として、ひっそりとやってきたはずだったのだ。
それが、見つかってしまった。
この女に。
君は間違いなく逸材だよトモミ、と椿は言った。
「世にある予知能力といわれる超感覚―――その正体の何割かはこれではないかと私は思っている。この世が人の脳が見せる幻覚であるならば、過去視、未来視もまた幻覚の一種だ」
「俺は、そんな幻覚じみたモノを見る未来予測なんて、できないですよ。あくまでぼんやりと思い浮かんだ何かを元に、情報を集めて予想しているだけです。超能力なんかじゃ、ない」
外れることも多いのだ。『当て過ぎて』化け物扱いされた幼少の頃を思い出す。
「君が意識下でやれることは、その程度なんだろう。あくまで勘が鋭いくらいのものでしかないのだろう」
だが、と椿は言う。
「その幻覚は虚像ではあるが紛れもなく本物だ。まったく新しい別の世界を生み出し、それを垣間見たのと同じだ。現時点、そして現実に焦点を当てて纏め上げたのではなく、過去の時点、記憶の奥に焦点を当てて導き出した答えならば、過去にそこでなにが起きたのかを知ることも可能だ」
「めちゃくちゃ眉唾っすね。自分で体験してなきゃ唾はいて帰るとこですよ。実際いまだに信じられんもん」
「現実とはその信じられないような幻覚だと言えなくもない。存在を認識しているのか、認識のみで世界は成り立っているのか、なんてことは立証不可だからね。いま見ている光景が全部夢だと言われても否定し切ることは出来ない。……それにこれは、それほど特殊な話ではない」
「十分特殊でしょうに」
「そうでもない。トモミは幽体離脱という言葉を聴いたことはないか?」
「ああ、なんか、耳にしたことくらいはあるけど。……まさか俺が体験したことが幽体離脱現象だって言うんじゃないでしょうね」
それを聞くと椿は頬を緩ませた。
「まさにその通りだ」
「馬鹿ですか」
意地悪く笑う椿に呆れ、智巳はうんざりした声を出した。
「なにが幽体離脱だってんですか。椿さんが心霊現象を信じているとは思いませんでしたよ」
「幽体離脱は心霊現象などではない」
椿は窓際から腰を上げると、ハッキリとした口調で断言した。
「誤解があるといけないから始めに説明しておくが、幽体離脱―――もしくは体外離脱と呼ばれるそれは、不可思議な神秘体験などではなく、単純で明快なただの意識現象だ」
窓際から再び自分のデスクまで歩み寄ると、机の引き出しから煙草を取り出して火をつけた。
「幽体離脱に関する研究が始まったのは90年代も半ば頃からだ。いまでは世界中にその研究機関がある」
「そんな研究があるんですか?」
「べつに驚くに値しないだろ。インドのヨーガや中国の仙道、密教の瞑想による神秘体験などは、それだけが目的ではないだろうが、幽体離脱に関するメソッドの開発に他ならん。そこに現代の科学技術が追いついて、分析的にそれらを解明してみようと試みただけだ。宗教家ならば『神秘』と一言呼べば済むだけのものを、世の学者たちは解決すべき『問題』と捉えたのさ。彼らはその正体がなんなのか解明しようとするだろう。心理学、哲学はいうに及ばず、脳生理学的な視点からもアプローチは盛んだ」
智巳は座っていたソファーに深く身を沈めて、呆れたように言った。
「どいつもこいつも暇だ」
椿は苦笑した。智巳の言うとおり、確かに人間は暇なのだ。だから暇つぶしにここまで文明を発達させたのじゃないか。
「最近じゃ脳に電極を刺して刺激を与えることで体外離脱体験をさせるのに成功したとの報告もある。……だがもっとも有名なのは米国のモンロー研究所だな。ロバート・モンローという名を聞いたことはないかな」
「あー。なんか聞いたことがあるような気がする。よく憶えてないけど」
「モンローの著作の中では、幽体離脱がまるで神秘体験のような語られ方をすることが多い。人間の意識は肉体を脱し、さらなる高次元へと達することができると彼は言っている。彼は数千回にも及ぶ離脱体験から、そのことを発見したそうだ」
椿は言う。
「幽体離脱現象は宗教がらみで語られることが多いからな。どうしてもそんな風に霊的な話と繋がりやすくなる。だが逆に科学の視点から捉えたとしても、人間の精神とは何たるか、ということをまだ解明できているわけではない。にっちもさっちも行かないのさ。どちらにしても」
だから、と椿は言った。
「わからないものはわからないままにしておけばいい。解明せずともそれを立ち上げる方法さえ確立していれば良い。テレビや車と同じだな。その内部構造を把握できなくても」
車は動かせるだろ―――、と椿は言った。
「そりゃあ、まあ。極端に言えばそうなるのかもしれないけどさ。それでいいのかよ」
「わたしは学者じゃない。その何たるかを知るよりも、それがどれだけ使えるかだ。残念ながら、わたしは役に立つ立たないで世界を語りたい性分でね」
原因究明は学者先生にお願いするよ、と言って煙草をもみ消した。
「……まあ、幽体離脱に関することはだいたいわかったよ。それで、それがいったい何の関係があるんだ」
「ああ、そうか。世界を纏め上げることについて、だったな……っと」
椿はテーブルの上に腰を上げた。
「行儀が悪い」
智巳の言葉も気にせずに、椿は二本目の煙草に火をつけた。
「わたし達は今こうして意識によって世界を纏め上げ、その中心に自分を置くことによって現実を生きている。現実が今ここにあるのではなく、現実という世界を纏め上げているのではないかと仮説して、だ。その意識の焦点はいまこのとき、つまり現在にある。なら焦点を現在に当てて纏め上げるのではなく、未来や過去に意識をフォーカスすれば、過去の世界や未来の世界をも、視ることが可能なのではないか……わたしはそう考えた。初めて考えた時は、その突拍子のなさに自分で笑ってしまったがな」
「そりゃ誰だって笑う。だってあんまりにも馬鹿すぎるじゃねーか」
「わたしもそう思ったよ。……だがそれも私自身が体脱体験をするまでの話だ」
「できたことがあるんですか?」
「当たり前だろ。自分で不可能なことを他人に施そうとする馬鹿がいるもんか」
智巳の言葉が不満だったのか、椿はふくれっ面をする。小学生並みな身長の椿が机の上で手足をゆすりながら言うと、どうにも悪戯好きの子供のように見えて仕方がない。
「智巳に施すことで見せた世界はどうだったのかはわからんが、わたし自身の場合は異常なまでのリアルな体験だったよ。現実とほぼ同じ……いや現実そのものといってもいい。そこでは当たり前のように太陽が地を照らし、人が街を歩き、世界が運営されていた」
椿はそこで言葉を切って煙草の灰を落とした。
「現実と何も変わらないモノを、自分の脳内で産み出せたんだ。わたしは驚いた。夢のように不鮮明で脈絡のない世界ではなかったんだ。壁に触れればコンクリートの冷たい感触があったし、太陽の光は暖かかった。人に話しかければちゃんと会話も出来た。なによりわたしには意識があった。明晰夢のような俯瞰的で自由のない在り方とも違った。モンローやその他大勢が、この現象を『魂が体を抜け出し、現実をさまようもの』と考えたのも無理はない」
椿は煙草の煙をその薄い唇から吐くと顔をあげ、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「智巳がさっき言ったようなことも可能だったよ。地から金を湧き出させたり、空を飛んだり、好き勝手に街を破壊したり。魔法を唱えて空から隕石をバンバン召還してな。ビルを片端からぶっ壊すんだ。じつに爽快だったぞ」
智巳が呆れるのもかまわず、椿は子供のように笑った。
「幽体離脱は、いうなればリアルな空想だ。妄想ゆえに娯楽性も抜群。やりたい放題とはまさにあのことだな。やろうと思えば性交も可能だったろう」
「俺があんたに見せられた世界はそこまで自由な世界じゃなかったです。リアルというか……むしろ現実とまったく同じだったけど。だから空なんか飛べやしねえし。ましてや蛇口ひねったら金が出るなんてこともなかったです」
「それはわたしが、そのように暗示を掛けたからだ。おまえがリアルな未来を構成できるように、外部からな」
椿は云う。
「強固な現実を夢想の中で形作れるというのは、同時に、智巳固有の資質でもある。わたしが思い描く世界はあまりにも自由で突拍子がなさ過ぎた。リアルではあるが非現実的に過ぎた。……だからわたしには未来を視ることなんてできない」
けれどおまえは違ったんだろ、と椿は言った。
「未来予測なんて普通の人間には不可能だ。誇っていいことだろう。おまえが予測や予感的な能力が優れているのだって、その副産物だ。便利じゃないか」
「そういうもんかな? 気味が悪いだけですよ。昔からそうだったけど、嫌われたことも多いし。なんか改造人間になったみたいだ。最近、バッタ改造された人の悲哀がよくわかるんです、俺」
「ははは。本当に何か埋め込まれていたりしてな。じゃあそのうちトモミの脳を開かせてくれ。私は外科手術も得意だ」
恐ろしいことを言いながら椿は笑った。
しかし本当に楽しそうに笑う人間だ、と智巳は思った。むしろ楽しむことしか考えていないのだろう。
「他人事だと思ってな。まあ好きにすりゃいいです、脳は開かせないけど。椿さんが俺で楽しむのは勝手ですから。……けどあんな思いをしたんだ。金だけはちゃんと払ってもらうぜ」
「……相変わらず金と時間には煩い男だな。そんなんじゃモテないぞ? 第一トモミはまだ学生なんだから、そこまで稼ぐ必要などないだろうに。一体なにに使うんだ?」
椿は子供を諭すような口調で言う。
「お袋みたいな口を利かねーで下さいよ。俺は学費も生活費もぜんぶ自分で稼いでんの。言わなかったっけ? 俺親いないの。奨学金だけじゃさすがに足が出ますし」
あっけらかんとした様子のまま、そんなことを語る智巳。おかげで今月もピンチですよ、と言いながら、懐から携帯電話を取り出す。
「最近のケータイはほんと多機能になってます。家計簿までつけられるんだから」
「いや……おい、ちょっと待て。家計簿はおいておけ。そんなことより訊きたい事がある。いま親がいないと聞こえた気がしたんだが。……そうなのか?」
「そ。俺がガキのころに死んでんですよ。もうよく憶えてねえけども」
言わなかったっけ? と返す智巳の顔は、まるで世間話をする時とおなじままだ。
「親がいないっつっても、俺は結構イイとこの施設で育ったから、あんまり周りが言うような不幸の実感ってないんですよ。施設のセンセはいい人ばっかりだったし、友人にも恵まれてたし」
親がいなくて寂しいと思ったことはないよ、と携帯をいじりながら言う。
「……そうか」
それ以上は、訊く気が失せたのか、椿は敢えて尋ねようとはしなかった。快楽主義者である椿は、興味を持たないものにはとことん無頓着だ。
どうでもよさそうに彼女は煙草の火を灰皿に押し付けた。そんな彼女を見ながら智巳は言う。
「だけど、まあ、苦労しなかったってことはないんだけどね」
「ほお」
「だからさ」
お給金弾んでくれると嬉しいんだけどなー、と頭を掻きながら、携帯のディスプレイを掲げて見せる。
見事に真っ赤だ。
「知らないよ。苦労したんなら、世の中が甘くないことぐらいわかってるんだろ?」
見ている方が萎えてしまいそうなほど、愉快さを隠さずに、椿は笑った。
◆
………………。
…………。
……。
―――そこで、霧原智巳の記憶は途切れている。
パズルのピース。記憶のかけら。すべてが暗い海の底に落ちていく。
誰も見るものはいない。
けれど、その記憶は確かにそこにあった。ゆっくりと消えていく。
もう少し、もう少しだけと懇願する子供のように、そこに留まろうとしながらも、しかし確実に消えていく。
それを感じ取り、動けないまま、その代わりに流れ込む声を聴く。
「気分はどうかな、トモミ」
優しい声だ。聞き覚えのある音程に、どこか懐かしいと感じる。
時間の感覚がない。身体の感覚もない。
全てが動かず、しかし同時に流動的であるその場所に、自分は存在する。
「言葉が意味するものと、意味されるものに分裂して在る場所は、いったいどんな居心地かな、トモミ」
また先ほどの声が聞こえる。
それが聞こえるたびに、凪いだ水面に言葉の意味が浮かび上がる。
「君はいま、溶け切った『意味のスープ』のような状態だ。何者でもあるし、また何者でもない。そこは過去でもなく、未来でもなく、また現在でもない。蝶のさなぎを思い浮かべてみるといい。彼らは成体に変化するために、さなぎの中でわが身を溶かすだろう? ベツノモノに変化するとは、そういうことだ」
―――さあ、と声は言う。
「ここからは羽化の時間だ。過去の世界を生み出そうじゃないか」
その声は、かるく、とおく、何処へも行かないままそこに留まった。
前を向けと声は言う。
そこにあるものは混沌とした、何かが生まれつつある渦。
自分には、それが何なのかよくわかる。
あれは俺だ。
声に従い前を向く。
自我は発見するものだと確信する。
手を伸ばせば―――。
それを掴み取ればまた自分に会えるだろう。
次第に闇が晴れていく。
雲が早回しで流れるように、音もない、モノクロの世界で俺は新生する。
全ての動きが止まった時。
俺は、まだ始まってもいない世界の中心で、ひとり開始の合図を待っていた。