Prologue/1
崩れ落ちていくマンションの一室。傍らには奇妙な形に拉げて潰れた肉の塊がふたつ。もうヒトじゃないモノ。けれどかつて両親であったはずのモノ。
遠くに、真っ赤に燃える太陽が西に沈むのが見えた。
黄昏に暮れる世界は静かで優しくて、けれど残酷なまでにすべてを紅く染め上げる。 降り注ぐ瓦礫の向こう、小さな泣き声のあるじが嗤う。
Prologue/
ゴミ捨て場に女が転がっていた。これは一体何なのだ。別に死んではいないようだが無事でもなさそうである。ズタぼろの服を体に何とかまとわりつかせてゴミ袋の山に突っ込んでいる女。酔っ払って潰れている訳でもなさそうだ。アルコールでぶっ倒れているやつ特有の、あのグニャッとしたやる気ゼロの表情とはまた違う。酔っているのなら体中の関節が蛸みたくグデングデンになっているはずだ。
けれどこの女からそんな感じは一切受けない。……顔に青痣つくって口から血を流している。
痛いのだろうか。
顔をしかめて唸っていやがる。ビリッビリに引き裂かれた服から白い肌が覗いていて、こんな状況でなけりゃ色っぽい脚じゃねーか、としばし鑑賞したいところではあるが、そうもいかないのだ。……だって太ももになんか白い粘液がこびりついてる。あれ、精液。たぶん。
「……」
これはおそらくだが、間違いはないんだろう。
この女は強姦されたに違いない。もうそこらじゅうから無茶された雰囲気が漂ってるもの。
まだ太陽も昇らない二月下旬の午前四時まえ。路地裏のゴミ捨て場の前に突っ立って、俺はどうすればいいのか迷った。正直係わり合いになんぞなりたくもないのだが、一度見てしまった以上見ぬ振りをするのもどうかと思う。
このまま放っておいたらコイツは凍死してしまうかもしれねえし。そうなったら死ぬほど後味悪いことこの上ない。どうしよう。
『強姦された女、繁華街のゴミ捨て場に遺棄され凍死』とか新聞に載りでもしたらきっと後悔するであろう自分を想像する。
「うげえ……最悪だ……めんどくせえ」
かといって、と自問する。
面倒ごとを背負い込むことに対しての嫌悪の情と、自分の中の美意識が相反する。
大股開きでパンツまるだしのままゴミ山に突っ込む女って、見ようによってはすごくシュールな光景なんだけれど、悲惨さを通り越したその滑稽さが逆に哀れをそそる。
目の前の、どうしようもない光景に硬直&思考。
ああ、くそ。仕方がない。助けてやろう……。
長考の後、不承不承そう結論付けて腹をくくり、女の肩を揺さぶった。
「おい、起きろよ」
肩を掴んで声を掛ける。かくんかくんとまるでマリオネットみたいな動きをする女の首。それを引っ掴んで顔をひっぱたく。
「おい、起きろ。起きろってば! てめ……起きろっ!」
朝っぱらからなにやってんだろう……と思わないでもない。
状況としてはこの女、ずいぶんヒサンなんだけど、なんか笑える。うー、とか、唸ってる。
……もしかするとほんとにただのヨッパライなのか?
「うー、あんた。だれ……」
「おお。起きたか! おまえさん大丈夫か? 怪我してないか?」
胡乱な顔で俺を見る。眼に生気が無い。
まだ意識が朦朧としているのか、首が据わっていない。
「こんなところで倒れてたらマジ死ぬぞ。警察呼んでやるから、保護してもらえ」
「警察は……だめ」
「なんだと?」
「警察は……だめ。糞……みんな、グッシャグシャに潰されて死んじゃえ……」
口の端から、呻きつつもおっそろしいセリフを呟くと、女はそのまま俺の胸に倒れこんできた。
「うお、汚ねえ!」
生臭い粘液がべっとり俺のダウンジャケットにひっつく。昨日クリーニングに出したばっかりだってのに、何の因果でこんな目に。
「ふざけんな、チキショウ……」
自分で勝手にはじめたことだっていうのに、何故か涙が出そうだ。
女を引っぺがして服を拭う。もうこれ取れないんじゃねえの?
「ああ、もう!」
女は気を失ったのか単に眠っただけなのか、ぐったりとして動かない。もう一度ゆすってみるが、今度はびくともしなかった。
「面倒臭せーな……まったくよ。どうしよう、捨てて帰ろうかしら」
自分の眉間に皺が寄るのがわかる。あまりの厄介さにイライラしてきました。
この女は先ほど警察はダメだと言った。コイツ自身も法に触れる行いをしていやがるのだろうか。
放っぽって帰ってしまおうかと思っていったん立ち上がるも、同時に「ズルベシャ」という嫌な音を立てて路上に這いつくばるその女。
うっぜえええ。
わざとやってんじゃないだろうかコイツは。ゴミ山に突き刺さった状態ならまだ笑えたが、こんな冷たい地面に倒れ付した女を見捨てて帰るなんて、できるわけが無い。
心底うんざりして吐いた溜息さえ凍る零下の朝。
こんな極寒中でも目を覚まさないなんて、この女は相当こたえているんだろう、と脳の隅で呟く声がきこえた。
ほらーはやくー助けて、や、れ、ば? と、良心という名の悪魔が囁く。
……く。仕方がない。一度声をかけてしまった手前だ。地面から引き剥がして無理やり背中に乗せる。女の胸が俺の背にぴったりくっついて、一瞬おっと思うものの、おっぱい無い。こいつ。
「……くそ。つまらん。……しかも重い」
うぎぎと担ぎ上げて路地を出る。
爺むさい声をあげて背負い直し、ビルの隙間から上を見る。
東の空に昇り始めた太陽が街を照らしていくのが見えた。
次第に暗黒色から青と白を交えたものに塗り変わっていく空模様。
反吐とゴミにたかり始めたカラス。
今日もこの街の一日が始まるのである。目に差し込む朝陽がすごい眩しい。
俺は後ろに背負った女のツラを見る。ゲロまみれ。精液まみれ。口にはうっすら血まで滲んでいる。
……こんなん拾っちゃってどうしよう。一体どうなることやら、想像しただけでげっそりする一日になりそうだ。
/1
かき集められた血の水溜り。そこに混ざったペースト状の肉。死体、とかつては呼ばれていたはずのソレはもはや原形をとどめていなかった。
絶望的なその光景を、集まった警察官達がまるで飴玉に群がる蟻のように青いビニールシートで覆い隠していく。けれど、彼らとてその死を直視しようとはしない。
無残、というコトバでは追いつかない光景がそこにはあった。言語で表現することに限界を感じてしまうような情景がこの世には確かにあるのだ。人はそれを、時には地獄などと呼んだりする。漠然とした表現ではあるが、しかしこの眼前に広がる光景は、そう呼称するにふさわしかった。
「……ひでえ有様だな」
現場で警官たちの指揮を取っていた加賀道臣は、不快を露にして小さく呟いた。
「ええ、ひどいものです。これは一人や二人じゃきかないですね」
部下の八木は下を向いて、メモを見ながら言う。
「最低でも四人分の肉だって話です。もうグチャグチャでハンバーグにでも出来そうですが……いったい どうやったらこんな風になるんでしょうね」
八木はあきれたように、現場のほうを向いて言った。
「ひき肉料理は当分食えませんよ。僕は」
加賀さんはダイジョウブですか、とゆるい顔で笑う八木に、道臣は答えない。道臣にとってもこんな現場は初めてなのだ。
この状況を悲惨と言ってしまうのは容易い。しかしこれは、もはや人間の仕業では無いと道臣は思った。八木がひき肉と称したように、通常の殺人現場とはまったく趣の違う、ホラー映画のセットのような、演出された残酷さだと感じる。
本当にこれがかつて人間であったのか。そう疑いたくなるほどの圧倒的な暴力の痕跡だった。
"道路一面に、ピンク色のクリームが広がっていて大変なんです―――"
警察にあった連絡の第一報がそれである。
第一発見者であるその市民も、連絡を受けて駆けつけた警察官も、はじめそれがいったいなんであったのか判断がつかなかったという。しかしそこから漂う血臭と、ピンク色の水溜りのなかに、人間の爪や髪の毛が散見されることによって事態は一転する。数時間後に出た夕刊には「馬鹿馬鹿しいまでに残虐な」の文字が躍り、世間はこの猟奇的殺人事件に異様な注目を寄せている。
「……糞キチガイが」
まだ見ぬ犯人に向かって毒づく。
「被害者も複数ですが、やった犯人だって一人じゃ到底こんな真似はできっこありません。数人の人間を ミンチにして、それをわざわざ人目につく路上まで運んでぶちまけたとすると……」
うーんと唸ってからお手上げですとポーズをとる。なに考えてんでしょうねえ―――と八木は女のように整った顔を傾ける。
「そんなもんは俺が知りてえよ」
苛立つ感情をそのまま口にする。この現場の惨状もそうだが、コレを見て、まったく普段と変わりのない態度の八木にも苛立ちが募る。
この八木はどこぞの金持ちのボンボンだという話だが、そいつがなぜ警察官をやっていて、しかも自分の下に配属されたのかがわからない。噂ではコネで刑事になったらしい。私大の裏口入学ではあるまいし、そんなことが可能なのかどうかは知らないが、自分にわかることは、この八木という青年が気に食わないという事実だけだ。
道臣は再び現場を見る。
すでに血溜りそのものは残っていないが、それでもかなりの範囲に渡って広がる黒い染みは、今だ消し切れずに醜く路上にこびり付いたままだ。
こんな事をしでかす人間が正常な神経の持ち主であるはずが無い。間違いなく犯人は気の狂った人間だろう、と道臣は思考を巡らせる。いったい何を正常と判断するかはともかく、まともな神経でこのような真似が出来るとは、彼には到底思えなかった。
……だが同時にその惨状を見て平然としていられる八木も、同じくらい異常であるように思える。
最近の若い者は全員このような死に鈍感な神経の持ち主なのか? 殺戮ゲームなるものがあるらしいご時勢だ。八木のような人間が量産される時代なのかもしれない―――そう思って余計に腹立たしくなる。
「……事件発生からもう六時間以上たつが、まだ何もわからない」
情報がまったく入って来ないのだ。誰がどうやってこの肉塊を衆人環視の中でここまで持ち運んだのか。その方法すらわからない。目撃証言もまた、なかった。
「第一発見者が言うには、"気付いたらそこにあった"と」
「馬鹿をぬかせ。魔法じゃねえんだ」
道臣は苛立ちのあまり奥歯を鳴らした。ギリ、という音が響き、隣に立つ八木が肩をすくませた。
「あんまり難しく考えない方がいいっすよ、シゴトなんすから」
「仕事と割り切るなら刑事なんざやってねえで別のとこで稼ぎな」
八木の真剣味の欠片も無い言葉に、道臣は冷たく突き放す。
そんな道臣の様子を見て、やれやれといった表情で八木はため息をついた。この人はいつもこうだ、と言わんばかりに。しかし八木はそんな上司の反応をいつも楽しんでいるように、道臣にはなぜか思えてしまう。それがさらに彼を不快な気持ちにさせた。
「何だその顔は」
八木の浮かべた表情に目を尖らせる。
「いえいえ、なんでもありませんよ」
チ、と舌を鳴らし背を向ける道臣に、しかし八木は変わらぬ調子で声をかける。
「で、どうするんです道臣さん。あのピンクのスープはもう回収されて鑑識に回っちまってますよ。結果待ちですか?」
「無駄だよ」
あのような状態ではマル被の人数と血液型くらいしか判別できないだろう。たとえ行方不明者の照会から身元がわかったとしても、そこから犯人が割り出せるとは思えない―――八木の存在を頭の隅に追いやって、道臣は思考を巡らせる。
かつて一度だけ、これと似た不可解な事件に遭遇したことがある。それは果たして事件と呼べるものなのかどうか、それすら定かではない異様な、いうなれば『現象』であったが、それと今回の事件には同じにおいが感じられた。
確証は無いが刑事としての勘が告げていた。
―――同一犯ではないか。
と。
「何か心当たりでもあるんですか?」
まるで心でも読んだように話しかけてくる八木。
「お前は少しその口を閉じていろ」
「またまた。いいじゃないですか。教えてくださいよ。何か捜査の手懸かりでも見つけたんですか?」
「こんな訳のわからん殺しをするやつだ。まともに捜査して見つかればそれで御の字だろうが……」
「そうはならないと?」
道臣はその質問に答えない。
どの道答えられる質問ではない。―――これは本当に警察の仕事の領域なのか。
道臣がかつて、十年も前に見た光景がフラッシュバックする。
それを思い出すたびに胸の奥で黒い炎が燻る様な、暗い感情がどくりと脈打った。
道臣の横顔が次第に強張っていくのを、八木は見ていた。そんな道臣を見るのが嬉しくてたまらないと言いたげな表情であった。
「なんだか楽しそうな顔じゃありませんねえ。いけませんよ道臣さん。仕事は楽しんでやらなくちゃ」
「お前はこの惨状を見て楽しめと言うのか……?」
クスクスと嗤いながら八木は言った。
「……冗談、です。そもそも道臣さんは、ちゃあんと楽しんでいるみたいですしね。憎しみや怒りに身を焦がすのが、あなた流の楽しみ方なんでしょう」
「―――」
まるで自分が心の奥底に持つ闇の感情を肯定されたような気分になって、道臣は顔をこわばらせた。
「ったぁ……なんで殴るんですか」
頬を押さえて恨めしげに道臣を見つめる。
「ちっ……くそったれが。……どいつもこいつも」
誰に言うでもなく呟いた道臣の言葉は、次第に暗くなり始めた空に、反響することなく無力に掻き消えた。
(憎しみに身を焦がす? ふざけるなよ。これは―――正義感だ)
警察官としての。
(絶対に暴いてみせる)
今回は必ず―――。
その思いを胸に、八木を無視して道臣は歩き出した。
「あ、どこに行くんですか、先輩」
もう、この場にいても意味は無い。
八木を殴りつけたこぶしを握り締めて、道臣は現場を後にした。
/
ただ酔っ払っただけのお姉さんであったならよかったのに。もしそうなら、こんな苦労をすることなく、美味しいだけの展開が待っていても不思議じゃないだろ。でもこの背負った女は服ビリビリで見るからにやばそうな雰囲気なのだ。
どうすっかな。
自室のあるアパートに到着すると、とりあえずベッドの上に転がしてみる。全然びくとも動かない女。寝息を立てて幸せそうである。くうくうと軽いいびきまで立ててやがる。
意外とタフだな、こいつ。その様子を見ているともしかして助けなくても生き延びたんじゃねえの、と思わないでもない。ヒトのベッドで、ヒトの家で……チッキショウ。俺が勝手に連れ込んだんだけどさ。くつろいでんじゃねえよ。むきー!
騒いでいると、部屋の三分の一を占めるベッドの上で、女はむっくりと起き上がった。
どうしようもなく寝ぼけなまこでちょっと可愛い。普通にしててもたぶん美人だけど、とろんとした目が子猫みたいだ。長い黒髪が乱れた服の上に垂れ落ち、露出した肌を艶っぽく演出する。うわーすげえ、エロい。
「よー。おはよう女」
「あんた誰。……馬鹿?」
「イエス。馬鹿ですたぶん。そんなことよりコーヒー飲むか」
台所から持ってきたカップを差し出すと、女は無言で受け取った。
「……で、あんた誰」
モロに不審者を見る目でこちらを睨む。そんな目で見なくても危害は加えません。
「俺の名前は霧原智巳。近所の大学に通う学生」
「きりはら―――」
「イエス」
女はまだ寝ぼけているのか、胡乱な表情のまま呟く。
「趣味はゴミ捨て場に転がってる女の収集。好きな飲み物は玄米茶。嫌いなものは煙草とコーヒーを飲むやつだよ! つまりお前だー!」
女は胡散臭そうな顔でこちらにガンを飛ばすと、胸ポケットからピアニッシモの箱を取り出して一本くちに咥える。
「……煙草吸うんだったら灰皿いるか?」
即妥協。
「あ……うん……」
あくまでしぶしぶ、押入れから灰皿を引っ張り出してきて置いてやった。俺って良い奴。ステキ。
「……煙草が嫌いなのに灰皿はあるんだね」
「友達が置いていくからな。つうか、おめーもちょっとは遠慮しろ」
「嫌よ。ひどい目にあったんだもの。煙草ぐらい吸わせてくれたっていいでしょう?」
「む。……まあいいけど」
つい唸ってしまう。やべー。忘れていたかったけど、こいつはたぶんだが強姦されてた臭いのだ。俺の性格はテキトーを寄せ集めて練り上げたようなものなので、気を使うなんて出来やしないが、しかしあまりノリに任せて突っ走りすぎるのもどうかと思いマスヨ?
「まあ元気出せよ女。落ち込むのは勝手だけど、落ち込んだって落ち込むだけだぜ。そんな破けたスーツじゃあれだろう。服貸してやっからシャワー浴びてきな? Tシャツとジーンズくらいはあるよ」
箪笥から綺麗に折りたたんだバスタオルを引っ張り出す。女はやはり無言でそれを受け取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「向こう。廊下の向こう」
シャワールームを指さして教えてやると、こっくり頷いて女は廊下に出て行った。
ドアが閉まる音に続いて衣擦れの音。ついでシャワーの水音が聞こえてきた。
……なんか可哀想だなあ。俺みたく、冗談を集めて生きている人間には想像できんほど深刻な顔をしていやがる。一見平気そうな受け答えをしていたからこそ、余計に重症である。受け答えは普通なのに、こちらを見る目が完全に死んでいた。腐った魚の目がもし人間にガンを飛ばすことが出来たら、たぶんあんな感じになるだろう。
よっぽどひどい目にあったんじゃないだろうか。
そんな事を思ってしまう。
ヘタな偽善ぶりをたまには発揮しちゃおうゼとか思ったのだが、もしかすると想像以上にヤバい女だったのかもしれない。そいつがいったいどういう人間で、どういうモノを抱えてしまっているのかは目を見れば大体判別できる。
……あの女は、きっとヤバい。俺の手には負えない。負えそうもない。
そんなイメージが湧き上がる。
……助けたのはいいけれど、このまま頼られたりしたら困るなあ。
いくら可愛い子だからって「助けて!」と言われて「よし、助けてやろう!」と返すのは不可能なのだ。生活あるし。ゲームやら映画やらの英雄と現実に生きる男子は違うのだ。魔王を倒せないどころか女の子ひとりのヤバいヤマにだって付き合っていられない。
……まあいいか。適当に誤魔化して、適当に励まして、そのあと適当にお引取り願おう。
テーブルの上には女が火をつけた煙草が吸い指しのまま燃え尽きようとしていた。コーヒーにも手はつけられていない。
まるで女が意識のないまま動作を行っていた名残のようで、そこからあの死んだ目を連想してしまい、ウンザリした溜息しか出ない。
シャワールームから出てきた女の髪を、ドライヤーで乾かしてやる。女の髪を会ったばかりの俺が何故乾かさなければならないのだろう? ふつうは男にさわられるのを嫌悪するものだろうに。ただ奉仕させられているだけな気がするが。
女も俺にドライヤーを手渡した後、怪訝な表情をしていた。『乾かして』と口にしたはいいが、何故自然にそう頼んだのか、自分でも不思議であるといったような表情だった。
『何故?』と目で訴えかけられても困る。
そんな謎な空気の中、ベッドに坐った女の髪を乾かしながら、声をかけようとして、ふと思いとどまる。……俺はまだこいつの名前を知らないのだ。俺が名乗ったのは憶えているが、こいつの名前はまだ聞いてない。何故聞かなかったんだろうか。単に聞く機会が無かっただけかもしれないな。
「なあなあ、アンタ名前はなんていうんだ?」
女はじろりとこちらを睨む。怖え。どうでもいいがやっぱり助け損だったかもしれん。
「なんであなたに名前を教えなくてはいけないの?」
「なんでって、それが礼儀ってやつじゃないか君。俺はちゃんと名乗ったぜ。『初対面のヒトにはちゃんと挨拶しましょう』。小学校の道徳の時間で習いましてよ奥さん」
「そんなもの憶えてないわ」
ゆとり教育イェーイ。
女はさっきからすごいそっけない態度だ。
「ぐっ……い、いやしかしね君。俺が名乗ったってのに、そっちだけ名無し花子さんじゃカッコつかないだろう! 主に俺が!」
「……あなたは格好をつけるために私を助けたのかしら?」
「その通りだとも」
頷く。違う。
「モチロン善意さ」
時間をすっ飛ばした風味に言い直す。人間の会話認識っていい加減なものですぜ。内容ではなく流れを押し付けるのがコツだ!
しかしそれは通用しなかったようで、物凄い小馬鹿にした目でふっと笑ってみせる女。その目に生気はまだ戻っていない。ダメだな。
「善意ね。私があなたに助けられて、感謝をしながら名乗ることで何か期待してたことでもあったのかしら?」
ムカ。
「んなわけがあるかぼけ。自意識過剰だバカタレが」
つい本音が出てしまう。
むう……だが期待はしないが妄想ぐらい膨らませてもよかろう。それを理解していてわざと突っ込むなつう話である。わかっていてやる辺りが性悪だ。むかつくなこの女。ほんとに助けなけりゃ良かったかな?
「あなたがわたしを助けることなんて無かったのよ。わたしは感謝もしないし礼も言わないわ。もちろん名前だって教えない」
「……そうかい。じゃ俺がやったことはなにか。完全なお節介だったわけかー!」
手をじたばたさせて暴れる俺。
しかし女はそんな馬鹿丸出しアクションにもちっとも動じねえ。クソウ。だがムッツリ黙っていられるよりはまだマシである。この調子で攻めればいい。
「せっかく助けたのに!」
「放って置けばよかったのよ」
「倒れている女を、二月の寒空の下に放置できるわけないだろ! そんな男はダメ男!」
女は無言でこちらを見つめると、ぼそっと呟いた。
「……ヘンなやつ。見ず知らずの他人を助けるなんてどうかしてるわ」
「……うわー開いた口が塞がらねえ。半分呆れてもうどうでも良くなってきちゃったぜ?」
こいつとは助ける助けないうんぬん以前に性格が噛み合わないんじゃねーのか。思考のシステムが全然別である。フィーリングとその場のノリと正義と愛を信奉する誠実の権化たる俺様には理解不能のピー女だ! うーんどうする。もう少し押してみようか……。
「なら感謝する必要も名前をいう必要も無い。それでかまわん。ただおまえ、忘れんぞ俺は」
「……?」
何を言っているのか理解不能といった目で眉を顰める女。
「どういう意味よ」
「俺はお前のことを忘れないと言ったんだ。お前も俺のことを忘れるな。寂しいだろ、さすがに『何も無かった』じゃ。虫けらや石ころじゃないんだ。助けたことに感謝する必要なんてないから、俺と会ったこと自体は忘れるんじゃねえ」
そうでなきゃ礼を要求するぞ、と腕を組む。
「……ほんと変わってるわね、あなた」
「そうか? そんな自覚はないぜ。おまえのが、絶対変だっての。助けられて『どうもありがとう』『うふふどういたしまして』のやり取りは、古今東西行われてしかるべき予定調和だろうが」
女は俺の言葉を無視すると、手にしていた煙草を灰皿に押し付け、心底どうしようもないものを見る目で俺を見た。
「変よあなた。絶対変。……忘れないでほしいのは、『助けた』ことじゃなくて『会った』ことなの?」
「まあ……そうだ。本当なら礼を要求するのが筋なんだろうが、それはどのみち自己満足だから、別にいいや。助けたこと自体はどうでもいい」
出会ったことさえ憶えていてくれれば、それだけで助けた甲斐はあったからだ。人間ってやっぱりヒトとヒトの交わりでしょう。恩も謝も通過儀礼みたいなもので、当人が満足しているのなら必要ない。ただ一言二言、コトバを交わした事実さえあれば俺は生きていけるのだ。
「そう……じゃあわたしはあなたに『会っただけ』。それだけで。それ以上は聞かないのね?」
「ああ」
むしろそっちのが有り難い。ヘタに事情を聞いて、面倒ごとに巻き込まれて生きていけるほど、体力ないのです。
俺がそう答えると、さすがに呆れたのか馬鹿馬鹿しくなったのか、女の頬が少し揺るんだ気がした。おっし。心の中でガッツポーズ。
「なによそれ。偽善者ってヒト? 本当に変わってる。あなたと話していると、気を張っているわたしの方が馬鹿みたいに思えてしまうわ」
「べつに馬鹿じゃないだろう。ただ気を張ってたって犬のうんこ踏むときはしっかり踏んじまうのが人生ってだけじゃん」
「……そうね。それは今日嫌というほど思い知ったわ」
今朝の記憶が蘇ったのか、脇にたたんであった自分の破れた服をじっと見つめる。そこにはこびりついた汚れがまだ残っていた。
「ただ、悔しかったのよ」
小さな声で呟く。
辛かったのではなく悔しかったのだと女は言った。
そんな女にかける言葉なんて俺は持っていない。失敗した。ここで思い出させるなんてマヌケにもほどがある。
女は、ベッドの上で静かに涙を流した。
嗚咽だけが狭い部屋に響いた。触れるものを切るような声が、次第に大きくなっていく。
ああ、くそ。なんで俺までこんなに悲しくなるんだっての。
女が「悔しい」と言ったからなのか。辛かったのならただ自分のために泣けばよかっただろうに。涙を流しながら、それでもなお―――こいつは自分の誇りを保つために涙を流してるように見える。この女は自分の疵を舐めようとしていない。その強さは、けれどはひどく痛々しいものに俺には思えた。
◇
「なら―――名前以外は訊かないって言うのなら、それくらいなら教えてもいいかな、霧原智己さん」
それは、俺が始めてみた女の笑顔だった。あんな腐った目をしていないで、笑うほうが似合っている。思ったとおり、美人さんじゃないか。
「どういう心境の変化だ? それ」
「単純に気が変わったのよ。それだけよ」
そう女は言った。
「わたしの名前は葦原一穂」
ちゃんと憶えておいてね―――。彼女、葦原一穂はそう微笑んだ。
う、くそ。やっぱり可愛い。べつに惚れたわけじゃないけれど、確かに俺はあの朝靄の中、ゴミの山の中でぶっ倒れていたこの女を確信をもって拾い上げたのだ。それはこいつが、きっと笑うと綺麗だろう、と思ったからだ。
もう明け方だが、疲れたと言う女にベッドを貸し、俺は空いているソファーに横になる。
二月の早朝は寒くて、暖房をつけていてもソファーで仮眠するには少し辛い。
けれどなぜか俺は、その日ずいぶんと暖かな夢を見た気がする。まるで幼い日の事の様。暖かい日の光に照らされたような安心感に包まれた、そんな夢を見た。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋に差し込む光がまぶしい。ソファーから起き上がると俺は部屋の中を見回した。
あの女はどこにもいない。
今朝は確かにこの部屋の中にいた。ベッドを貸して、俺はソファーで寝たのだった。
一穂が寝ていたはずのベッドはもぬけの殻で、その代わりにやつが被っていたはずの毛布が俺にかぶせてあった。
どうりで途中から暖かくなったはずだ。
テーブルの上を見ると置手紙がある。そこには小さく「ありがとう」と、一言だけ書かれていた。
あのアマ、礼は言わないと自分で言っていたくせに。どうせなら最後まで気丈を演じていきやがれ。
そのメモを置くと俺は窓際に向かい、カーテンを開けて窓を全開にした。二月の冬の寒さが部屋になだれ込んで、同時に部屋に残った奇妙な女の煙草のにおいも流し去っていった。
……なんだか最後までよくわからん女だった。
唐突に、もう少し話をしてみたかったな、と思えた。それは寂しさでも人恋しさでもない、何かべつの、あのへんな女に対する気持ちだった。
まあいい。縁があればまた合えるだろうし、縁でもなけりゃもう一回こんな気苦労をするのは簡便なのだ。
仕事にはまだ時間が有る。
もう一眠りしよう。
起きたらまた、かわり映えのしない日常が待っている。