第九話
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図書館にいるのである。
薫さんはと言えば、ホテルにいる。自重しているのだ。実は、薫さんは身籠もっているらしい。ホテルでの滞在が長引きそうなので、薫さんは、事前にフロントに百万円ほど預けた。まあ、安心して腰を落ち着けられる。
私は、あちらの世界とこちらの世界の違いに関する知識を、取りあえず書物から得られるだけは得ておこうと思ったのである。
三文文士とは言え、一応物書きの端くれである。やはり、こうして膨大な書籍に囲まれていると、心が自然に落ち着いてくる。
どうやら、分岐点は今上天皇陛下、こちらで言う大正天皇にあるらしい。我々の世界では、今上陛下は、英邁な君主で、明治大帝と並び称せられ、聖帝陛下とまで呼ばれるお方である。
片や、こちらの世界では、今上嘉仁陛下は、裕仁皇太子殿下を摂政宮とし、わずか十五年で崩御せられている。
その前、明治維新や、日清、日露の戦争なども、まああちらの世界と大差はない。
いやいや、やはりその前に分岐点はあった。
いけないいけない。早とちりは禁物だ。
どうも、こちらの世界では、伊藤博文公が暗殺され、朝鮮を併合してしまったらしいのであるが……。
これはいけない。
あそこをロシアに取られたら、確かにそれはたまらん。
しかし、朝鮮は、いたって貧乏な国である。道路、学校、病院、鉄道、等々。全部作ったら、いくらかかるか想像もできない。
事実、こちらの大日本帝国は、朝鮮に毎年三千万円ほどの援助を行っていたようである。もちろん、朝鮮からの収入はゼロのようである。明治の三千万円であるから大金である。
その朝鮮への投資の代わりに、こちらの世界では東北への投資は行われなかったらしい。
そのため、一時の東北では、飢饉まで起こり、娘の身売りなどと言うことも行われたようなのである。
そして、何より驚いたのは、日本が米国と戦争をしたということである。あの、国力の化け物のような国と戦争をするなど、およそ正気の沙汰ではない。もっとも、この戦争のせいだろうか。科学文明は、おおむねこちらの世界の方が発達しているような気もする。
まあ、歴史の本に、ざっと目を通しただけではあるのだが、少なくとも日本国内では、こういう違いがある。
目を世界に転ずれば、ロシア革命以後、ソヴィエト連邦は、順調に発展し、第二次世界大戦などという剣呑なものが起こり、その後も、米ソ冷戦などというものがあったものらしい。
シベリア出兵が失敗したもののようだ。向こうでは、シベリア出兵は一度失敗したものの、ソビエト連邦成立直後、第二次シベリア出兵が行われ、ソビエト連邦はすぐに瓦解している。
もしかすると、その先にも、向こうの世界とこちらの世界との分岐の切っ掛けがあるやも知れぬが、それはおいおい調べていくこととしよう。とにかく、こちらの世界が、我々が元いた世界と根本的に構造が全く違う、などというようなことはなさそうなのでいささか安堵した。
さて、こうして、世界情勢をざっと見ただけでも、あちらの世界とこちらの世界は、似ているようでいて、細部がかなり違う。気を付けないと、狂人扱いされかねない。
さらに、どうやらこちらの世界では、個人用のコンピューターなるものが開発されているらしい。
もっと驚いたのは、携帯電話、なるものの普及率である。私が読んだ、数少ないサイエンス・フィクションの知識でも、こんなものの出現を予想したものはなかったやに記憶している。
調べ物から、目を離して、うん、と伸びをする。四日間図書館に通って、主に近現代史を中心にした本に目を通し詰めだったので、いささか草臥れた。
とは言え、本を読むのは商売みたいなものなのだから、まあさほど苦痛ではない。
おまけに、私も、やはり寄居留と一心同体になってから、頭が冴えたような気がするのだ。文芸書以外は読みつけなかった私が、結構難しい本を、一日三冊程度読んでいる。
図書館を出てバスに乗り、ホテルまで帰った。さすがに、貧乏性の私には、図書館、ホテルの往復をタクシーなどという贅沢はできないのである。
部屋に帰ると、薫さんが優しく抱擁してくれた。もう、これだけで、全ての疲れが吹っ飛んでしまう気がする。
夕食をしたため、部屋で水割りを嘗める。薫さんは、アルコールは得意ではなく、ブランデーを少し垂らした、ルームサービスの紅茶で付き合ってくれる。
真夜中の零時になった。
ふとバルコニーの方を見て驚いた。
湖面の上に、オーロラが、はたはたとはためいていたのだ。
「薫さん。あれ」
私が言うと、薫さんも振り返り、
「まあ」
と小さく叫んだ。
「行ってみましょう」
私らしくもなく、即断した。向こうの世界に行ってしまって、帰ってこられなくなったら、かえって危ない。
そんな思考も働かなかった。
危ういことではある。
私たちは、フロントを通らずに、通用口から出て湖を目指した。
ボートを漕いでいると、なんだか不思議に懐かしい気持ちになる。薫さんも、夢見るような表情をしている。
オーロラの下を潜った。なぜか、このオーロラは下を潜れるのであった。
しばらく進むと、あの、私たちが泊まっていたホテルが姿を現した。あちらの世界のホテルは、この昔から建っているホテルの外装はそのままに、内装だけ刷新したもののようだ。ただし、伝統は受け継いだ。だから、見かけは内も外も瓜二つなのである。
通用口から入り、もとの部屋に戻った。
時計、その他を見て驚いた。
一九六〇年七月三〇日のままだったのだ。
つまり、あちらの世界で過ごした時間は、こちらの元居た世界では勘定されていないのだった。
次の日、私と薫さんは、こちらの世界で薫さんが使っている銀行に行った。そして、かなりの金額をおろし、その足で幾つかの宝飾店に行き、金を買った。金塊を詰め込んだバッグは重く、右腕が抜けそうだった。非力な文士は、こういうとき情けない。
「それにしても、寄居留の多いこと」
ハッ、とした。
言われてみると、そこにも、ここにも、野良寄居留がいる。
それだけではない。手に寄居留を抱いて買い物をしている奥さん、普通に通勤鞄と一緒に、寄居留の入った籠を持つ営業らしき人物などがそこかしこにいるのであった。
おかしい。
ここのホテルでは、私たちが不在だった間は、まるで時間が凍結されているかのようだった。
それなのに、一旦町に出ると、寄居留だけはやたらと増えているのである。
第一、こんなに寄居留が増えたら、新聞はどうなってしまったのだろう?
何かが、狂っている。そう思わざるを得ない。
ふと、気が付いた。
ご婦人だけではなく、妙に胸が膨らんだ男性がいるのだ。
寄居留に寄生された男だ。胸の薄い私とは違い、普通の体格の男性は寄居留が潜ったところがシャツを盛り上げているのだ。多分、ご婦人にも、寄生された人が居るのだろう。
翻然として悟った。
寄居留に寄生された者は、宇宙に愛され、時空間を歪める力を持つのに違いないのだ。私たちが、あの奇妙な二十一世紀に行ったのとは異なり、こちらの世界の寄居留に寄生された者たちは、こちらの世界の時間を狂わせたに相違ない。
ふと、その光景を見て、慄然とした。
寄居留がいた。
その寄居留は、天敵であるはずの、
鼠を、
食べていたのだ。
その分泌物で鼠を溶かし。
啜っているのだった。
そうして、もう一つの奇妙なことにも気付いた。
町を歩いている、寄生されていない人間は、みんな寄居留を抱いていた。
幸恵や、茂秋氏のような、寄居留を毛嫌いしていた人間は、どこにいってしまったのだろう。
しかし、私は、それ以上のことを考えたくなかった。