第八話
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朝食に降りて、戸惑った。洋食らしいが、料理が壁に沿ってずらりと並べられているのである。他の客の様子を見ると、どうやら、各自が皿に取り分けるらしい。
「最近、帝国ホテルのレストランで始めた、バイキング方式、というものだと思いますわ」
薫さんは、こう言うと、さっさと自分の皿を取り、料理を取り始めた。その見よう見真似と、薫さんの忠言を入れて、私も料理を取った。和食も、相応にあったので随分と助かった。
「この様子だと、我々が持っている紙幣は、多分使えませんね。硬貨も駄目でしょうし」
乏しい、サイエンス・フィクションの知識を総動員しながら、私がこう言うと、薫さんは真剣な顔をして頷いた。
部屋に戻ると、薫さんは、ボストンバッグを開けて、小箱を取り出した。
「これが、役に立ってくれそうですわ」
こう言って、薫さんが箱を開けると、私は思わず息を呑んだ。宝石の填った指輪や金色の首飾りが幾つも幾つも入っているのであった。随分と高級なものらしく、私など目が回りそうなのである。
「ユダヤ人の知恵に習ったのですの。これを売れば、当座の費用には堪えると思いますの」
私は、こういう場合の女性の靱さに驚いた。
「なんだかわたし、寄居留と一体になってから、頭が冴えたような気がしますの」
いやいや。私なんぞは、一向に冴えないのですよ、薫さん。
とにかく、この〈世界〉のお金は持っていないのであるから、乗り物には乗れない。幸い、近くに小さいながら町があるので、そこまで散歩がてら偵察した。
「良かった。多分、服装の流行が一回りか二回りしたのですわ。わたしたちの服も、そんなに変ではありませんもの」
そう言われて町を歩く人々の服装を見ても、なるほど、私たちと大差ないように見える。
「でも、やっぱり微妙に違うようですわ。早く、こちらでの服を買いませんと」
はあ、そう言うものか。さすがに女性の観察眼は違うものだ、と感心することしきりである。それにしても、薫さんはどうやら〈異世界〉にやってきた、ということを平然と受け入れているようである。まごまごと戸惑っている自分が情けない。
しかし、元いた世界の町とは、町並みは随分と違う。ほとんど山形市と東京並みの違いと言ったらいいだろうか。多分、商店を建造している素材そのものが違うのだと思うが、一々建物の発色が鮮やかなのだ。看板の派手さが、印象的である。
そうやって町の中を歩くと、原田宝飾店、という看板が目に入った。
薫さんは。すたすたとその中に入っていった。
「これを手放したいのです」
薫さんは、ハンドバッグから、多分、ダイヤの指輪を取り出した。
中年で、少し太りじしの女性の目が輝いた。鑑定用の眼鏡を目に当て、よく調べてから、その女性が言った。
「大変結構なものでございます。三百万円でお譲り頂けたら、有り難いのですが」
「はい。それで結構です」
三百万円!
とんでもない金額ではある。家が一軒建ちそうな塩梅である。しかし、薫さんはその金額を当たり前のような顔をして受け取っている。いやはや、向こうの世界でも、二、三年前に一万円札が発行されたとは聞いていたが、私なぞ、お目にかかるのは初めてである。
その、生まれて初めての一万円札が、三百枚である。目も回ろうというものである。
さて、薫さんと、町の商店街をひやかして歩いた。ウィンドウ・ショッピングというのだそうである。
そうやって、店の飾り窓を見て、私にもどうやら呑み込めてきた。ものの値段が、向こうの〈世界〉と違うのである。おおよそのところ、こちらの値段は、あちらの十倍といったところか。一万円札の価値も、軽いものらしい。
目についた鞄屋に入って、薫さんは私用に小さなバッグを買った。一万六千円ほど。いくらこっちの値段が高いことを頭では承知していても、やはり手は震える。
「これで、小銭ができましたから、少し大きな街にタクシーで参りましょう」
「え、どうして大きな街へ?」
「この原田宝飾店で、わたしの持っております宝石を全部処分してしまいますと、目立ってしまいますから。処分する宝飾店を、分散させたいのですの。主人の目が、ここまで届かないという保証はありませんもの」
なるほど。さてこそ山形高女一の秀才、才色兼備の誉れ高い理想のマドンナだけのことはある。かたや、私は、薫さんに頼りっぱなしである。情けない。己を嘆くことしきりである。
タクシーを呼び止め、大きな街へ行った。とは言うものの、あちらの世界では小さな町と大きな街は別の市町村だったのだが、どうやら今は目玉焼きのようにくっついてしまったもののようだ。むしろ、市の外れから、市街地に出かけた、と言う方が正解に近いようではある。
さて、市街地に着いた。タクシー代が、三千八百円。目の玉が飛び出そうな気がしたが、ここでは物価が十倍だと思い出し、卒倒することをどうにか免れた。
まず、最寄りの百貨店に立ち寄り(みんな、看板にデパートと書いてあった。中には、不愉快なことに横文字の看板まであった)、衣服を整えた。薫さんは、何を着せても似合い、売り場の売り子も、品物の勧め甲斐があるもののようだった。今までよりも、少し派手めなスカートやブラウスを買う。何しろ、こちらの世界では、茂秋氏の追っ手を警戒する必要があまりない。(もっとも、もちろん油断もできないのだが)。
一方、私の方も、さほど流行は変わっておらないようだった。薫さんの主導で、無難なズボンとジャケットを二着揃え、シャツ、ネクタイなども新調した。ズボンの丈は、無理を言って割増料金を払い、今すぐに詰めて貰った。
こうして姿が決まると、薫さんはぶらぶらと街を歩きながら、三軒の宝飾店を見つけ出し、宝石を売って都合一千五百万円を手にした。
札束は、全部、さっき私用に買った小さなバッグに詰めた。なるほど。このためにバッグを購ったのであるか。私は、一人深く納得した。
さて、それからも大仕事であった。薫さんは、八面六臂の大活躍である。
銀行を四件回り、新しく口座を作り、そこに三百万円ずつ預けた。どの銀行でも、定期預金にしないかと勧められたが、薫さんは全部普通預金にした。まさか、ここまで追っ手は来ないだろうと思いたいが、やはり油断は禁物であろう。
私の小さなバッグと、薫さんのハンドバッグには、当座の資金として会わせて二百万円弱のお金がある。こちらの世界で、どのぐらいこれで暮らせるか分からないが、まあこれでやっていこう。
日が暮れると、街は華やかなネオンサインと電飾に彩られた。銀座よりも賑やかに見えて、目が回りそうである。
タクシーでホテルに戻り、部屋に入って一息つくと、薫さんが言った。
「宝飾店でお気づきになりまして?」
「え、何をです?」
「どうも、こちらでは、金の値段が異様に高いのですの。さっき、純金のネックレスを売ったとき、向こうでの三倍はいたしました。代わりに、銀が安いんですの。もう少し、金製品を持っておくんでしたわ」
そう、悔しそうに言うが、まあそんなことは、神ならぬ身の知る由もない。私など、そんな観察をしている余裕はなかった。薫さんの度胸に舌を巻いた。
その晩は、久方ぶりに、追っ手を気にせずに、心ゆくまで薫さんと二人きりの夜を楽しんだ。