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寄居留  作者: ヒデヨシ
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第七話


 ニュースの後、夕食の摂り、風呂を浴び、私と薫さんは身を重ねた。

 果てた後、薫さんは、私の左腕に頭を乗せて微笑んでいた。

 と。

 寄居留たちが、私の胸の上によたよたと這い上ってきた。

 そして。

 見よ。

 寄居留たちが、交尾し始めたではないか。

 キキ、キキ、キィール、キィール。

 盛んに鳴きながら、一心に交尾している。

 その姿は、可愛いのだが、なにがなし〝神聖〟という言葉を連想させるものだった。

 交尾が終わった後、寄居留たちは、私と薫さんの懐に入ってきた。いつものことである。こうして、私たちと寄居留は、いつも一緒に幸せな夢を見ていたのである。

 と。

 今日は、いつもと様子が違うのである。

 寄居留が、私の寄居留も薫さんの寄居留も、すぐに寝付こうとしないのである。

 いつまでも、もぞもぞと身を動かしている。

 見ていると、寄居留の鼻。いつもそれで跛行する鼻が、少しく私の胸に埋没していくのであった。

 慌てて起き上がろうとすると、体が金縛りにでも遭ったかのように動かないのであった。

 見ると、薫さんも同様に身動きできないようである。

 そうこうしているうちに、寄居留の口吻は、ほぼ完全に私の胸に埋没してしまった。

 薫さんの寄居留も同様である。

 私たちが辛うじて動かせるのは、首だけである。私と薫さんは見つめ合う。

 寄居留は、今度は体を折り曲げて、尻尾の方から、私たちの体に埋没し始めた。まるで、猫のように柔軟な体ではある。

 寄居留が、埋まっていく。どんどん埋まっていく。

 信じられないような快感が湧き起こってくる。

 まぐわいのそれなど比較にもならぬほどの喜悦。

 寄居留が、半分ほど埋没した。

 口吻は埋没しているが、その愛くるしい目は、じっと私を見詰めている。寄居留と私の間に、何か神秘的な交感があるかのような気がする。

 なんという安楽。

 恐らく、極楽浄土の住人も、これほどの法悦は知らないであろう。

 瑠璃光浄土の住人であろうが、兜率の天の住人であろうが、同断であること間違いない。

 時計が、真夜中零時の時鐘を打った。

 同時に、私たちと寄居留の合体は終了した。私たちの胸の上には、ただ寄居留のつぶらな目が覗いているだけであった。

 私と薫さんは、寄居留と完全に一体化したのだ。

 私は了解りょうげした。

 寄居留の寄とは、寄生の寄なのだ。

 私たちの胸に、寄生し、居て、留まるから寄居留なのだ。

 これを了解した後、私は、歓喜に包まれた。あのベートーヴェンの歓喜の歌を聴くような圧倒的で神秘的な歓びの念。それが、胸の奥底から、いや、我が胸に蔵した宇宙の奥底から湧き上がってくる。なるほど。バラモン教に言う、ブラフマンとアートマンとの合一、梵我一如とは、かくのごとき心境を言うのであるか。

 金縛りが解け、私と薫さんは抱擁した。

 その接吻の何と甘かったこと。

「わたしたち、寄居留と一心同体になったんですのね」

「そうです。私たちも、一心同体ですよ」

「橋本さん、私、嬉しい」

 薫さんが、その顔を私の胸に埋めた。

 そう、ちょうど、私の寄居留の目が見えているその上に。薫さんの頬の暖かさを感じて、私は限りなく慰撫された。

 私の胸は、寄居留を入れていささか盛り上がっているようである。しかし、元来虚弱で、胸の薄い私には、特段見かけが太った、というようには見えなかった。もとより、薫さんは清楚な顔立ちに似合わず胸は豊満なので、目立った変化は見られないのであった。

 と。

 日が昇った。

 おかしい。私は首をひねった。

 今は、真夜中の零時三分。

 日が昇る時刻ではない。

 第一、湖の向こうは、日本海側、西側だ。

 日が昇る道理がないではないか。いくら寄居留と合体した神秘の一夜とは言え、これはなんぼなんでも無理があり過ぎる。

 夢を見ているのであろうか。私は、頬をつねりたくなる衝動を、辛うじて抑えた。

 しかし、粛々として日は昇り、湖面上に金色の道が延びた。

 漣に揺れる湖水の上に、ちらちらと輝く帯が、真っ直ぐにこのバルコニーに向かって延びてくるのだ。

 なんだか神々しいような光景であるが、その異様さのせいで現実味が全くない。

 それでも、その宇宙の秘密に酔ったように、私と薫さんは身を寄せ合ってその帯を見詰めていた。

 不意に、御神渡り、という言葉が頭に浮かんだ。しかし、琵琶湖は凍っているわけではないのである。

 この七月に、これはどういう現象なのであろうか。

 その後、どちらからともなく、私たちは動き出した。何者かに操られるように部屋を出て鍵をかけ、ホテルを抜け出て湖畔に赴いた。私たちには、今、自由意志は存在しないもののように思われて、すこぶる困惑したのであった。

 貸しボート屋のボートを拝借し、湖水に漕ぎ出でた。

 そうして、金色の帯に導かれて、私はボートを漕いだ。不意に、ぐんぐんと、どこまでも漕いでいこうという意志が芽生えた。

 この、不可思議な、真夜中の黄金色をした日の光を浴びる薫さんの美しさは、喩えようがなかった。しかも、彼女は、その胸に寄居留をさえ秘めているのだ。神秘という言葉など、陳腐に聞こえてしまう。

 どれぐらい漕いでいただろう。

「あら」

 薫さんが小さく叫んだ。

 私は振り返った。

 虹色の旗のようなものが、ゆらゆらと揺れていた。この世のものとは思われない、幻想的な光景ではある。

「オーロラですわ。主人と北欧旅行をしましたときに、見たことがあります」

 なるほど。これが、写真でしか見たことのないオーロラであるのか。さてこそ、薫さんは、洋行までしているのであった。

「でも、こんな真夜中に見えるものではないと思いますけど」

 私は、無言で頷きながらボートを漕ぎ、そのオーロラの下を潜り抜けた。

 もうしばらく漕ぐと。

「あら」

 薫さんが、また小さく叫んだ。

 もう一度振り返ると、どういうことなのだろう。

 まだ対岸に着くほど漕いだとは思えぬのに、岸辺が見えてきたのだ。

 しかも。

 その岸には、私たちが出発したはずの、まさしくそのホテルが建っていたのだ。赤煉瓦造りで、緑青を吹いた銅板で葺かれた屋根を持つ、あの「湖畔ホテル」が。

 少しく驚いたりはしたものの、まあ、ここまで不思議続きだと、今更慌ててもどうしようもない。成り行きに任せようと思った。

 もう一息漕ぐと、さっきそこからボートを拝借したはずの貸しボート屋に着いた。黒いトタンの屋根。ベニヤ板に毛の生えたような情けない壁。みんな先ほどの貸しボート屋とそっくりなのであった。

 ボートを係留し、ホテルに入ると、カウンターのボーイが恭しく一礼した。どうやら、私たちを見知っているかのようである。

 真紅の絨毯を踏み、見知ったエレベーターに乗り、見知った部屋に赴き、鍵を開けると、私たちが出発した様子そのままになっていた。

 ただ、テーブルの上に新聞があった。

 これはおかしい。

 新聞は、私たちの寄居留の夕食として、もう既に消化されたはずなのだ。

 私は、その新聞を取り上げた。

 ふと日付を見て、私は混乱した。

 平成二十四年七月三十日。

 と書いてあった。

 平成?

 しかも、その脇に、二〇一二年、と書いてあった。

 どういうことだろう?

 今が二十一世だとでも言うのか? 私たちは、サイエンス・フィクションの世界にでも紛れ込んでしまったのであろうか。

 一面に、「国会を取り囲む脱原発の火」とあった。原発というのは、原子力発電所のことらしい。おかしい。欧米では、原子力発電所が運転されているが、まだ日本では運転していないはずなのだが。

 見覚えのある部屋だった。落ち着いた灰白色の壁紙に、同じ色の天井。床には、これも落ち着いた薄い茶色の絨毯が敷かれ、大きなダブルベッドには、薄い茶と濃い茶が縞模様になった布団がかかっている。

 バルコニーの方で蜂のうなり声のような音がしていた。

 行ってみると、見覚えのない白い箱があった。音はそこから聞こえているのであった。

 扉のようなものがあるので開けてみると、中に麦酒やサイダーとおぼしき飲み物の瓶が何本も入っているのであった。試しに、その一本を手に取ると、冷たかった。その箱の上部を丁寧に検分してみたが、どうも氷などは入っていないもののようだった。

 もしかすると、電気冷蔵庫ではないかと思った。

 こんな小型の電気冷蔵庫が、当たり前のように部屋に置いてあるとは。

 ふと違和感があったので、壁の方を見てみた。

 テレビのようなものがある。

 それが異様に薄いのである。

 しかし、スイッチが見当たらない。

 新聞のそばに置いてあった、ボタンが幾つも並んだ小さな箱を取り上げ、目立つ赤いボタンを押してみた。

 テレビが点いた。

 私も、薫さんも息を呑んだ。

 そのテレビは、総天然色に彩られていたのだ。


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