第六話
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しつこいのである。
板倉茂秋氏がである。
その財力に任せて、どこまでも追っ手を差し向けてくるのである。
幸恵には、もちろんそんな財力などはない。それに、私に執着しなければならぬ、どんな理由もない。三十八歳。まだ再婚できる程度には若い。是非再婚するように、と私も置き手紙に書いてきた。
しかし、茂秋氏は違う。
薫さんとは、えらい歳の差である。既に還暦に近いという。しかも、薫さんの美貌である。嫉妬に狂い、どこまでも追っ手を差し向けるのも、まあ無理ではない。
しかし、それではこちらが迷惑する。同じ場所に、一と月とは滞在できないのである。
そもそも、我々、私と薫さんが土地勘のある所など、たかが知れている。茂秋氏が、財力を傾けて雇う私立探偵ともなれば、私たちの居場所を突き止めるがごとき、なんの造作もないことのようである。
今、私たち二人は、琵琶湖の湖畔にある、その名も「湖畔ホテル」に着いたところである。赤煉瓦造りの、三階建ての立派なホテルで、森に囲まれている。屋根は銅で葺かれ、その銅が緑色に錆びている。
こういう高級ホテルに泊まるだけの資金はある。薫さんが、こっそり秘密の口座を作り、夫に知られぬようにお金を預けておいたのである。
だが、ここを出てしまうと、二人ともこれ以上逃走の行く当てはないのであった。
もう、私たちの逃避行も一年以上を過ぎている。既にして、時は大正五十年となり、季節もめぐって初夏である。
この逃避行は楽ではなかった。
薫さんは目立つ。東京で、できるだけ質素な身なりを整え、着替えてきても、天性の華は隠しようもない。帽子を目深にかぶり、サングラスをかけても、なかなか相手を欺くことはできない。
こっそりと、人目を避けながら住居を求めても、たちまち突き止められてしまうのである。
今、薫さんの服装は、白いブラウスに焦げ茶のスカート。首に黄色いスカーフを巻いている。私はと言えば、薄い灰色のシャツに、濃いグレーのズボン。ネクタイはしていない。薫さんの見立てである。
逃げ惑うことに疲れて、二人は、湖畔を望むバルコニーに座った。
なに、バルコニーなどと言っても、狭いものである。八畳の洋間に、大きなダブルベッド。それに付属するバルコニーであるから、ごくささやかなものなのである。
確かに、素晴らしい眺めではある。青い湖水に、何本もの松の緑が映され、バルコニーのすぐ下は往来になっていて、車馬の類が行き交っている。空を、紅に染めて、その青い湖水の中に夕陽が沈もうとしている。ちょうど、疲れ切った私たちのように、夕陽も半日の休息を欲しているのだ。
薫さんの顔には、逃亡者の疲労の色が滲んでいる。ほとんど化粧気がなくとも、透き通って白い肌は変わりがないが、目の下に青黒く隈が浮かんでいる。しかし、それがかえって凄絶なまでに艶めかしい印象を与えているのである。
私たちは、わざと電灯を消し、二人の間の小卓に置かれた洋燈を灯している。洋燈の中の蝋燭が、ゆらゆらと揺れる。と、窓から迷い込んだ蛾が、その蝋燭の火に入り込み、焼かれた。
ふと、私の頭に、心中、という二文字が浮かんだ。
そうだ、私の鞄の中には、一瓶のベロナールが入っている。私は、頑固な不眠症をかこっていたので、この睡眠薬、ベロナールでようよう眠れていた。しかし、どういう訳だか、寄居留と共に生活するようになってから、安眠が私の夜に訪れた。それで、人一人が死ねない程度のベロナールが残っている。
薫さんと、これを服用して、眠りかけた頃に湖に身を投げるのはどうだろう。貸しボート屋のボートを拝借して、薫さんが完全に眠ったのを見届けてから湖に入れ、私は、湖に身を浸して船縁に掴まる。
そうして、月光の中で、眠ってしまいさえすれば自然に手も船縁から離れるであろう。
薫さんの手と私の手を、赤い紐で結んでおこう。睡眠薬の深い眠りの中にいれば、溺れるときの苦しみも感じないことであろう。
月夜に、水のような月光の下で、私たちは北欧の湖水に抱かれるようにして、永遠の眠りにつくのだ。ああ、こう空想することのなんという甘美さであることか。
キキ、キィール、キィール。
足下で寄居留が鳴いた。
そうだ。寄居留だ。
寄居留を巻き添えにする訳にはいかぬ。
私たちが死んでしまえば、この可愛い寄居留たちはどうなるのであろう?
彼らが、そののろい鼻でいくら懸命に跛行したとしても、充分な量の新聞紙は食べられないであろう。
それに、天敵の鼠の存在を忘れてはならぬ。私と薫さんという保護者を失えば、寄居留はたちまちのうちに鼠に追われ追われて、最後には捕食されてしまうやも知れぬ。
そうでなくとも、ゆっくりと新聞紙を食していることは適わぬ。自然彼らは、餓死してしまうことは必定である。
ならば、いっそ共に湖底に沈もうか?
いやいや、それは可哀想である。私たちはいい。私たちは心中しても、この世に未練はないが、可愛い寄居留たちを道連れにする訳にはいかない。
「橋本さん」
幽けき声が聞こえた。
「はい」
「わたしたち、湖の底にでもご一緒に……」
ああ、薫さんも同じことを考えていたのだ。
「私も、そう考えておりました。でも、寄居留が……」
「あら、そうですわね。寄居留が……」
薫さんは、胸元から、寄居留を取り出した。ちらりと、豊満な白い谷間が覗いた。不意に湧きそうになるエロスの衝動を、辛うじて抑えた。
私も、懐から自分の寄居留を取り出した。
キキ、キィール、キィール。
キィール、キィール。
寄居留たちが鳴き交わす。
この逃避行の間に判明したのであるが、私の寄居留は雄であり、薫さんの寄居留は雌であった。
しかし、幸恵の「寄居留はどんどん増えるから」という言に反して、我らが寄居留たちは一向に繁殖する様子を見せないのであった。しかも、私たちの逃げる道々、そちこちで寄居留を連れ歩く人は増え、野良寄居留も確実に増えてはいるのであった。なのに、私たちの寄居留は交尾もせぬのである。
これが、私には不思議でならなかった。
また、薫さんが、私たちの子供を身籠もる、ということもないようなのであった。
薫さんが立ち上がって、テレビを点けた。
ちょうど、七時のニュースの時間であった。
「聖帝陛下即位五十周年の慶賀に当たり……」
アナウンサーの声が聞こえる。テレビには、沿道に日の丸の小旗を振るたくさんの人々が映り、その中を騎兵に前後を固められた馬車がしずしずと進んでいく様子が映っている。
そうか、今日、大正五十年七月三十日は、今上聖帝陛下即位五十周年の目出度い日だった。私も、薫さんも食い入るように画面を見詰める。かくも目出度い祝日を忘れ果てていたとは、臣民としてなんとも面目ない次第である。
日本中が、慶賀に沸き立っている。しかし、私たちだけは、明日をも知れない我が身の上を託つだけである。
私たちだけならまだしも、寄居留を、寄居留をどうしよう。
深い悩みに沈みながら、侘びしく互いの目を見つめ合う私と薫さんであった。