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寄居留  作者: ヒデヨシ
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第五話


 薫さんと散歩している。

「あら、菫」

 なるほど、見ると紫の菫が咲き誇っている。

 ご近所の目が気になりそうなものではあるが、薫さんは一向に平気らしい。私の方は、陶然としている自分と、幸恵やその朋輩に見つかりはせぬか、と言う恐怖感で戦々恐々としている自分が綯い交ぜになった、不思議に心臓がことことと鳴る心理状態にある。

 春から初夏にうつろう、微妙な季節である。

 山形の春は短い。昨日まで、綿入れを着て、炬燵に潜り込んでぶつぶつ震えていたかと思うと、四月の声を聞くと、いきなり単衣でも暑くてかなわない日が来るのである。まさしく、盆地の内陸性気候なのである。

 と、足下を、寄居留が一匹、のたのたと跛行していった。すわ、何か不届き者に追跡されているのか、と辺りを見回したが、どうもそういう様子もないようである。

 ふと気が付くと、そちこちに、まるで猫ででもあるかのごとく、寄居留が我が物顔に居を構えているのであった。どの寄居留も、似たような灰白色をしている。野良猫ならぬ、野良寄居留なのかも知れぬ。してみると、寄居留は、幸恵の言のごとく、この辺りでしきりに繁殖しているのやも知れぬ。

「このお店、美味しいんですのよ」

 と連れて行かれたのが、この辺りでは高級店として有名な「カフェ美学」であった。茶色の木材と、白い漆喰の壁との対照が美しい。私は、もちろんこんな高級店に足を踏み入れたことはない。蓄音機が、「田園交響楽」を奏でている。静かな感じで、好ましい。

 薫さんは、総絞りというのであろうか、何やら高級だと聞いたことのある、薄紫の着物を一着に及んでいる。着物姿なのに、髪は洋風に短く切ってある。その、少年のような髪型が、また似合っている。全体に、上品で、清楚であるが、金はかかっている装いのようだ。ただ、それを人に見せない。

 一方、私はと言えば、十年一日のごとき紺の絣の単衣である。寒くなれば、これに綿入れのどてらを羽織る。少々貧相であることは否めない。

 薫さんの勧めのままに、ダージリンのレモンティーを頼んだ。おまけに苺のショートケーキである。薫さんも同じものを頼んだ。ティーカップは、マイセンの磁器だそうである。艶々した白磁に青い線で絵付けされた、ブルーオニオンというものだそうで、大層な値段がするらしい。落としたら大変と、手が震えそうになる。紅茶も、ケーキも、家で飲んだり食べたりする紅茶やケーキと同じ種族とは、到底思われない兜率の天のじきであった。

「宅の主人は、それは横暴ですのよ」

 四方山話の後、少しく厳しい顔つきをして、薫さんはこう切り出した。こんな、男装の麗人のような表情をしても、薫さんは美しい。

 薫さんの夫、板倉茂秋氏は、山形市内に十数店舗を所有する、「八の字屋」という一大菓子舗の亭主である。とにかく世間知というものを持ち合わせない私でさえ、その名前ぐらいは知っているのである。

 薫さんの話は、こうである。

 茂秋氏は、つい先だってまでは、物わかりのいいご亭主であった。歌を歌いたい薫さんの希望を入れ、東京から高名な作曲家や演奏家を何人も呼び、薫さんが個人の独唱会を何度も開くのを惜しみなく援助してくれた。その独唱会には、余程のことがない限り茂秋氏も足を運び、薫さんの歌に聴き入った。しかも、薫さんは、これまで都合四回も東京で独唱会を開いているのだそうだ。それにも、茂秋氏は、ちゃんと上京して妻の晴れ姿を見ていたのだそうである。

 それが、様変わりしたのは、寄居留の出現以来であった。

 茂秋氏は、あの愛くるしい小動物を著しく毛嫌いした。

 薫さんが止めるのにも拘わらず、茂秋氏は出現してきた寄居留を、箒を持って追い回し、挙げ句の果てには私同様、ずっでんどうと倒れるのだそうである。

 それでも、薫さんの尽力で、薫さんの部屋で寄居留を飼ってはいるのであるが、茂秋氏はその部屋から寄居留が一歩でも出るのを決して許さないのであった。

 これには、私も少しく怒りの念を禁じえなかった。

 寄居留は愛である。

 この世に具現化した、愛そのものである。

 その寄居留を、こともあろうに箒で追いかけ回すとは、言語道断である。おまけに、一室に幽閉するとは。

 私は、薫さんの怒りの念に賛意を表した。

「そうでしょう? 橋本さんも、そうお思いになるでしょう?」

 薫さんが、身を乗り出してこう言う。私も頷く。

「わたし、もうこれ以上、あの家にいることは……」

 こう小さな声で言って、薫さんは言いよどんだ。私は、その顔色、口調にうろたえた。ただでさえ弱い心臓が潰れてしまうか、破裂してしまうのではなかろうか、と思うほど激しく動悸がした。

 薫さんは、眦を決して、小さな声できっぱりと言い切った。

「わたし、あの家にいることはできません」

「で、では、薫さん、どちらへ……」

「橋本さん、どこへでも連れて行ってくださいませ」

「え! そ、それは!」

 私は、少しく困惑した。愛しい薫さんから誘われて、嬉しくないはずはなかった。しかし、妻の幸恵のことを思うと、やはり混乱するのであった。

 何と言っても、十三年連れ添った、糟糠の妻である。売れない三文文士をこれまで養ってくれた恩に背くのは……。

「寄居留を連れて」

 薫さんの一言で目が覚めた。

 寄居留。

 そうだ。寄居留なのだ。

 この大宇宙は、すべからく寄居留のために存在する。幸恵も、また寄居留を忌み嫌うこと蛇蝎のごとくである。そのため、我が家の寄居留は、哀れ押し入れの中に幽閉されたもののごとくである。薫さんの家の寄居留よりも、遙かに不幸な運命を甘受せねばならぬ身の上となっている。幸恵が出かけてから、私が差し入れる新聞紙で僅かに露命を繋いでいるのだ。

 茂秋氏と幸恵は、共に寄居留の敵である。すなわち、大宇宙の摂理の敵である。

「薫さん。行きましょう。どこまでも」

「ご一緒に」

「ええ、ご一緒に」

「橋本さん。わたし、嬉しい」

 薫さんの透明な白い肌に、ぽっと、ほんのり紅が差した。

「しかし、薫さんの家には寄居留が何匹も……」

「はい。心苦しいことではございますが、一番気に入っております一匹だけを」

 そうか、気の毒で、可哀想なことではあるが、是非もない。他の寄居留は、野良寄居留にするしかないのであろう。

 カフェ美学を出て、薫さんは一台のタクシーを呼び止めた。薫さんが、こっそり私に耳打ちしたのは、ちょっと外れの山奥にある、まあ、いわゆる連れ合い宿の名前であった。

 その名前を運転手に告げるとき、私は、まるで童貞だった昔のごとく声はうわずり、掠れたのであった。

 その夜、私は、幸恵が寝入ったのを確認してから、寄居留を連れて板倉邸の門まで出向いた。ぐるりを、黒板塀が囲い、正面に武家屋敷のような門がでんと聳えている。扉は厳重に閉ざされている。

 待つことしばし。

 閂を外す音が聞こえ、黒く重々しい門扉が開かれ、薫さんが出てきた。洋装に、ボストンバッグ一つという身軽な出で立ちである。もちろん、右手に寄居留を連れている。私の方も、できるだけ荷物は減らした。

 キィール。

 私の寄居留が、微かな声を発した。

 キキ、キィール。

 薫さんの寄居留が、呼応した。

 やれ嬉しや。二人の寄居留も、それぞれ好意を抱き合っている様子である。

 足早に歩いて、県庁の前まで来た。こんな深夜でも、何台かのタクシーが流している。その一台を止めて、山形駅まで、と告げた。

 そのまま、夜行列車で私たちは住み慣れた山形を後にした。

 車内には、私たちの他にも、ちらほらと寄居留を連れた乗客がいた。

 山形の灯が遠くなっていくのを、私は、若干の感慨を持って車窓から見守った。


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