第四話
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家に帰って、寄居留を撫でさすりながらつらつら考えた。どう考えても、薫さんとの出会いは、奇遇すぎる。話ができすぎているのだ。
やはり、これは寄居留の仕業ではあるまいか。
寄居留などというものは、のろい、か弱い生物である。それが、この厳しい大自然界で生き抜いていくためには、自分たちの保護者を必要とするのではあるまいか。自分たちの故郷、ハイアイアイ島から追い出されたも同然の身であればなおさらである。その保護者同士が、仲良くしていることは、寄居留にとっても利益になる。なにやら、天井をすり抜けるという超常能力を持っている寄居留のことである。寄居留たちを好むもの同士を出会わせ、仲良くさせておく程度の超常能力を持っていても、不思議ではないではないか。
こんなことを思いながら、私は、腹這いに寝転がって畳の上に置いた寄居留の、その腹を撫でつつ、シュテンプケ氏の「鼻行類」を紐解いていた。妻の幸恵が見つけ出したのである。もちろん、寄居留が鼻行類であることは、妻には秘しておいた。幸恵は、本を読む習慣がないので、すこぶる好都合ではある。
さて、シュテンプケ氏によると、本来、鼻歩き、鼻行類は繁殖力の弱い生物であるらしい。それなのに、寄居留は、妻の言によると非常に増えるとのことである。解せぬことではある。
しかし、私の興味は、とにかく寄居留が何を食べるのか、ということにあった。それが分からぬことには、飼おうにも、容易には飼えぬ。シュテンプケ氏には、寄居留に相当する鼻歩きの餌に関して明快な記述はなかったが、似たような一族がゴキブリなどを食べるとあった。
ゴキブリには、閉口した。
すると、あの薫さんが、可憐なその手でゴキブリをとらまえて寄居留に与えるのであろうか。だとしたら、ご亭主が寄居留を忌み嫌うのも無理はない。
私も、いくら寄居留のためとは言え、とてもゴキブリをとらまえる気はしない。かといって、こんなのろまな生物が、自力であのすばしっこいゴキブリを補足できるのであろうか?
寄居留のために、ゴキブリをとらまえるべきか否か。私は、しばし逡巡し、煩悶した。
と、枕元で、カサコソという微かな音がした。
ふと見ると、さてこそ、そのゴキブリであった。
厭らしい黒茶に、油光りしている。
すわ、と私は立ち上がり、傍らの寄居留のことなど失念し、脱兎のごとく卓袱台の上にあった新聞紙を持ち来たってそれを丸め、ゴキブリを打とうとした。しかし、ゴキブリめ、やはり素早い。私の努力を嘲笑うがごとく、カサコソと何処かに失踪してしまった。
しかし、まあ良い。
少しく落ち着いて、私は思った。
今は、ちょっと我を忘れてゴキブリを打とうとしたが、あれが、あの厭らしい茶色の翅で飛び上がり、私の顔めがけて飛んできたりしたら、おお厭だ。とんでもない。私はぶるぶると震え、ゴキブリが視界からいなくなったことをいいことに、また煎餅布団にくるまった。
と、キキキキ、キィール、キィールと可愛い声がする。うっかり寄居留のことを忘却していた。踏み潰したりは、していないだろうか。
私は、急に心配になって辺りを見回した。
すると、寄居留は、私が寝ている、寝室兼書斎の六畳の隅に縮こまっていた。私は安堵し、その方にいざり寄ろうとした。しかし、寄居留の方から、のたのたとこっちに戻ってきた。そして、私の方を見詰めながら、盛んにキィール、キィールと鳴くのである。はて、何か訴えかけているようでもあるが。何を言わんとしているのであろうか。とんと合点がゆかぬ。
ふと、寄居留が、私の顔を見ているのではないことに気が付いた。その視線を追ってみると……。
私の手にした新聞紙を、寄居留はその愛くるしい、つぶらな瞳で見つめておるのであった。私は、その新聞紙を寄居留の前に置いた。
寄居留は、キィール、キィールと喜悦の声を上げ、のそのそと新聞紙の上に這い上がった。その寄居留から、何かこう得体の知れない、芳しい香りが漂ってきた。そう、木蓮の上品な甘い匂いが、もっと濃密になったような香りとでも言おうか。
ジュルジュル、ジュルジュル。音がする。見てみると、新聞紙が溶け出している。それを、寄居留が啜っているのだ。何やら口から分泌物のようなものを出し、それで新聞紙を溶かしているものらしい。さてこそ、寄居留は紙を食して生きているのだ。草食動物であったのだ。
寄居留が新聞紙を啜り終わりそうになった頃合い、私は、その傍らに原稿用紙を置いてみた。しかし、これはどうしたことだろう。寄居留は原稿用紙には見向きもしないのであった。少々勿体ない気もしたが、本なども置いてみた。カストリ雑誌。文芸誌。立派な装丁の夏目漱石全集。だが、寄居留はやはり関心を示さぬのであった。
私は、台所に行き、古新聞を持ってきて、それを寄居留の側に置いてみた。すると、寄居留は嬉しそうに、キィキィ、キィール、キィールと鳴き、新聞紙をやはり溶かして啜り始めるのであった。
私は、少しく安堵した。どうやら、寄居留は紙一般を食すのではないらしい。新聞紙のみを嗜好するもののようである。おまけに、見ていると、与えた昨日の新聞は啜り終わらぬうちに満腹した様子で、眠ってしまってでもいるかのようである。
ならば、寄居留の餌には当分困らぬ。ますます私は、安堵した。
さて、安堵したはいいが、この寄居留をどこに隠しておいたものだろう。万が一幸恵に見つかったら、昨日同断の大騒ぎが現出すること必定である。
少し思案して、取りあえず押し入れの、幸恵の布団が入っていない方に、カストリ雑誌を積み上げて応急の寄居留の住処をこしらえた。ちょっと見た分には、奥まで雑誌が積み上がっているかのように見える。
ひとまず、寄居留をここに入れて、
「いいか、鳴くんじゃないぞ」
と言い聞かせた。何故かは知らぬが、きっと寄居留は私の言っている意味を理解できるもの、という確信があった。
そうこうするうちに、幸恵が帰ってきた。手に提げている袋を見ると、やれ嬉しや、四合瓶が一本首を出している。酒の肴も、それ相応にあるらしい。
「今日は、夜の賄いで、天麩羅が少し余ったから、貰ってきたの。それから、お刺身も少し買ってきたし、これ、この通り、これも。あなたの稿料で」
と四合瓶を上げてみせる。私は、それに、うんうん、とにこやかに頷いてみせる。
幸恵は、本来いける口である。だが、私が四合瓶では飽きたらぬくらいなので、幸恵はほんの付き合い程度で我慢してくれる。私には勿体ない、いい女房ではある。
しかし。
と私は考える。
今の私は、薫さんと、就中寄居留に心を奪われている。こんなこと、気配も悟られないようにせねばならぬ。
私は、素知らぬ顔で天麩羅を食し、山葵醤油をたっぷり付けた刺身を口に放り込み、酒を嘗めた。久方ぶりの清酒である。普段は焼酎で我慢している。私は、陶然とした。
と、むらむらと情欲が兆した。私は、そっと幸恵の膝に手を置いた。幸恵は、私の肩にしな垂れかかってきた。そのまま、私たちは、私の敷きっぱなしの煎餅布団にもつれ込んだ。目と目を合わせる必要もない、あうんの呼吸であった。
これまた久方ぶりに、私たちは身を重ねた。近年希に見る熱情的な愛撫であった。私も興奮し、幸恵もそれに充分過ぎるほどに応じたのであった。
酔いも手伝って、私は、すぐに寝る態勢になった。幸恵もさっさと布団を敷き、すーすーと寝息を立て始めた。幸い、押し入れの寄居留には気付かなかった模様ではあった。私も、普段の不眠癖もどこへやら、ぐっすりと安眠したのであった。