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寄居留  作者: ヒデヨシ
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第三話


 三軒隣の、板倉さんの奥さんに会った。私は、どぎまぎしながら頭を下げたが、向こうが私を認識したものかどうかは判然とせぬ。

 なにしろ、ご近所さんとは言え、向こうは普段は高級車で送り迎えされている。その姿を、車の窓硝子越しに一方的に見ることはあっても、向こうはこちらを見ていない。それが、こんな風に一人で出歩いている所など、見たことがないのである。

 板倉さんの奥さん、薫さんといえば、私たちが山形高校生時代のマドンナであった。山形高等女学校の女学生で、紫の着物に、藍の、裾に二本の白い線の入った袴を穿いた姿は、同級生ほぼ全員の憧れの的であった。大きく、つぶらな二つの瞳。紅梅のごとく紅の柔らかそうな唇。笑うときの華やかな声。しなやかで優雅な、しかしどこか可愛らしい仕草。それなのに、颯爽と自転車に乗る快活な側面もあった。何一つとして、男心を惹かぬものとてなかったのである。

 告白すると、今でも私は板倉の奥さん、薫さんが好きである。

 いやいや、今は、青春の思い出などに浸っている場合ではない。私の目を引いたのは、彼女が胸に抱いている小動物である。

 寄居留であった。

 彼女は、半ば陶然となりながら、寄居留の腹を撫でているのであった。

 しかも、しかも、その寄居留は、あの私の寝室で私に撫でられていた、まさしくその寄居留に違いなかったのである。

「あ」

 と、私は思わず声を上げた。

 板倉さんの奥さんが、ふと、こちらを見た。臙脂の着物に、桜色の帯。年相応ではないはずなのに、やはり似合っている。私は、頬が熱くなって、またもやどぎまぎと下を向いてしまった。

「寄居留、可愛いでしょう」

 板倉さんの奥さんが、声をかけてきた。胸が騒いだ。ただ、それが、板倉さんの奥さんのせいか、寄居留のせいなのかは判然とせぬ。

「か、可愛いですね。僕も、寄居留は大好きなのです」

「でしょう。だのに、宅の主人と来たら、寄居留が大嫌いなんですの。息子の卓也も、女中の梅も、大嫌いで、家の中で、寄居留の味方は私一人」

 こう言うと、板倉さんの奥さん、薫さんは、竹久夢二の描く女性のように、儚げな風情で下を向いてしまった。

「う、家の、家の家内も寄居留が大嫌いなのです」

 私は、硬直した、留学生のようにぎごちない日本語で、こう言った。

「あら、奇遇ですわね。私たち二人、同じ境遇ですわ」

 薫さんが、相も変わらず華やかな、それでいて一抹寂しげな風情を帯びたソプラノでこう言った。

 薫さんは、女学生時代から歌が上手かった。

 一九五十年、大正四十年の四月三十日、山形高校の創立三十周年記念として、山形高女と合同で記念の音楽会を開こうということになった。山形高校の音楽の教授、栗本末吉氏によるピアノ独奏。山形高女の音楽の教諭、松沢敏子嬢によるソプラノ独唱。山形高校の寮歌と、山形高女の校歌の披露。そして、クライマックスが、両校の全生徒、学生による混声合唱であった。ピアノ伴奏を松沢敏子嬢が行い、指揮棒を、栗本末吉氏が執った。中でも、最後の「流浪の民」は、曲の難易度も高く、終わった後は、やんやの大拍手であった。

 そのとき、ソプラノの独唱をしたのが、当時の冬沼薫嬢、今の板倉の奥さんであった。「流浪の民」では、ソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれ短い独唱を歌い、次にソプラノだけが少し長い独唱を歌う。それから、また全員によるフィナーレになるのだが、薫嬢は、その長い独唱を見事に歌い上げたのである。ちなみに、そのときテノールの独唱をしたのが、恥ずかしながら、私、橋本雄高であった。忘れもしない。あの頃、一浪して山形高校に入り、二年生だった私は二十歳。薫さんは山形高女の四年生で十五歳であった。こうして見ていると、あれから二十年経ったとは、とても思われない。

「あの」

「はい」

「もしかして、橋本さんじゃありません?」

 なにか、目に真剣な表情を浮かべて、薫嬢がこう聞いた。何か、問い詰めるような感じがあった。

「はい、橋本ですが」

 含羞で、顔が熱くなる。恐らく、私は真っ赤になっていたことだろう。

「あら、あの、『流浪の民』の時にご一緒した」

「はい」

 私は喜色満面になり、上擦った声でこう答えた。その声が震えるのを、どうにも抑えられない。

「いや、覚えておいででしたか。感激です。あの時、テノールの独唱をした、橋本です」

「あら、やっぱり。ちっともお変わりにならなくて」

 いや、外見は変わらなくとも、内面は、ずいぶんと変わったのですよ、薫さん。私は、独りごちた。

「いや、薫さんこそ、ちっともお変わりになっていない」

 あの時のまま、お綺麗なままですよ。

「いやだ、私も、もう三十五の小母さんになってしまって……私」

「はい」

 答えながら、いやいや、そんなことを言えば、私などは既にして不惑、四十歳になったはずなのに、何ら仕事らしい仕事を果たしていない、不良中年なのですよ。薫さん。いやはや、面目ないことこの上ない。やはり、やはり、一日も早くあの小説を仕上げねば。

 などと、愚痴っぽいことを考えていると……。

「私……」

 薫さんは、さらに消え入りそうな声で、呟くように言葉を発するのだった。私は、よく聞き取ろうと身を乗り出して耳を傾けた。

「私、実は、橋本さんのことをお慕い申し上げておりましたのよ」

「え」

 驚天動地とは、このことである。

「そ、そんな。僕こそ、初めて薫さんとお目にかかって以来、ずっとお慕いして、眠られぬ夜を過ごしたものです」

「まあ」

 薫さんは、ぽっと頬を染めた。私は、感激のあまり、胸がじーんと痺れてしまった。多分、腑抜けたような間抜け面で、薫嬢を見詰めていたに違いない。(薫さんは、私の胸の中では、永遠の薫嬢だったのだ)。

「あ、そうだ、寄居留」

 私は、夢から醒めたかのように、慌てて言った。

 そうだ。寄居留なのだ。肝心なのは。

「触ってもいいですか」

 おずおずと問いかけると、

「ええ、どうぞ」

 と、天上で蓮の花が開くときに、その花がたてる微かな音のように可憐な声が答えた。私は、その蓮の花が咲き乱れる天が目の前に広がっているような心持ちになった。

 私は、おずおずと手を伸ばし、寄居留に触った。

 キィ、キィ、キィールキィール。

 寄居留が鳴いた。

「あら、寄居留鳴くのですね」

「ええ、寄居留は鳴きますよ。いい声でしょう」

「本当に、なんて可愛らしい声」

 薫さんも、一生懸命寄居留を撫でた。しかし、寄居留は一向に鳴かない。

「あら」

 薫さんは不思議そうな顔をした。

「どれ、貸してご覧なさい」

 こう言うと、私は無遠慮に寄居留を取り上げた。そして、その腹を撫でた。

 キキキキ、キィ、キィ、キィールキィール。

 寄居留が、喜ばしげな声を上げた。

「あら」

 薫さんが手を伸ばして、今度は私に抱かれている寄居留を撫でさすった。しかし、薫さんが撫でても、寄居留は一向に鳴かなかった。薫さんは、不服そうに、その可愛らしい頬をぷっと膨らませた。

「まあ、ちっとも鳴きませんわ」

「この寄居留は、最初僕の家にいた寄居留ですから、僕に馴れているんでしょう」

 私は、少しく薫さんが気の毒になりながら、こう言った。

「あら、この寄居留は、最初はお宅にいたんですの?」

「ええ、そうです。それを、細が追い出してしまって」

「お宅はどちらですの?」

「ええ、すぐそこの借家です」

 私は、恥ずかしさに消え入りそうになりながら我が家を指差した。板倉邸は、この辺りでもよく知られた豪邸である。どっしりとした灰色の瓦で葺かれた屋根。総檜造りだと言われてもいる。それが、いくら三件隣とは言え、私の借家は、見窄らしい黒いコールタールを塗られたトタン屋根で、同じ木造とは言え、雑木で造られた、今にも倒れそうなぼろ屋である。実際のところ、今年の豪雪で、我が家は少し傾いている。多分、板倉邸には、我が借家が二十軒は入るであろう。

「あら、そこですの。本当にすぐ。近いのですねえ」

 薫さんは、そう言いながら、嬉しそうに頬をほころばせた。

「これなら、いつでもお会いできますわ」

 こう言って、薫さんは、ぽっと頬を染めた。私は、動顛して、今にも倒れそうになった。

「そ、そうですね。本当に、いつでも会えます」

 かろうじて、そう言うのが精一杯だった。到底、自分の方から誘ったりするような大胆な真似はできなかった。

「あの」

「はい」

「この寄居留、なんだったら橋本さんがお飼いになったら。宅には、まだたくさん寄居留がおりますもの」

「え、いいんですか」

 天にも昇る心地とは、このことであろう。寄居留が嬉しいのか、薫さんの好意が嬉しいのか、我ながら判然としないのが情けない。

「それでは、私行くところがありますので」

 こう言って、薫さんは一礼した。そのすぐ後で、こう言った。

「あの、明日の今頃、ここで……」

 最後は消え入りそうな声であった。

「は、はい。明日の今頃、ここでお待ち申しております」

 私は、大将に出会った、二等兵のようにしゃっちょこばって答えた。

「あの……、そのときお茶でも……」

「は、はい」

「寄居留をお連れになっちゃいやよ。二人だけで……」

「は、はい」

 薫さんは、また一礼して、去っていった。私はと言えば、もう動顛しまくったあまり、その場に卒倒しそうだったのであった。


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