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寄居留  作者: ヒデヨシ
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第一話

寄居留



「鼠が増えすぎるとね、寄居留が落ちてきて、その辺に溜まるから気をつけてね」

 妻が言った。はあ、なるほど、そういうものか、と思いつつ、寄居留とはなんであろうか、と不審に思った。実はとんと聞いた憶えがないのだ。

「寄居留は、どんどん増えるから、面倒だから」

 と言いながら、なんだか腹立たしそうな顔色をして、妻は朝餉を運んできた。藍色の着物に白い割烹着、手拭いで姉さんかぶりをしている。衣服に異常は見当たらない。ただ、表情が少しく険しい。

 恐る恐る卓袱台に並べられたものを見てとると、朝餉は鯵の干物に目玉焼き、ほうれん草のおひたし、豆腐のみそ汁だった。瓶詰めの海苔まで添えてある。尋常な朝餉である。いや、目玉焼きがあるのであるから、いつもより多少上等なくらいである。どうやら、妻は、別段私に対して腹を立ているのではなさそうである。

 ならば方針は定まった。何も、朝からこと荒立てて波風を起こす必要もあるまい。何ごとも、妻の顔を立てて、ご機嫌をうかがうに限る。亭主たるものの、処世の知恵である。私は、箸を持ちながら、妻の話を聞く姿勢に入った。

 妻の幸恵さちえの話によると、寄居留とは、何でも鼻歩きの一族であるらしい。少しく驚いた。鼻歩きについては、いささか興味があって調べたことがあるのである。

 鼻歩きとは、正式には鼻行類という。逆立ちし、鼻で歩く哺乳類の一族である。少々面妖な生き物と言えよう。

 鼻行類は、南太平洋のハイアイアイ島に生息していた。スウェーデン人探検家、エイナール・ペテルスン=シェムトクヴィスト氏によって一九四二年、すなわち大正三十二年に発見された。その後、ドイツ人博物学者、ハラルト=シュテンプケ氏らによって詳細に研究された。

 ハイアイアイ島は、有名なガラパゴス諸島のように、完全に孤立した島であった。そのため動物相、植物相は特異な発展を遂げ、鼻行類のような珍妙な生物も生まれたのである。

 ところが、ハイアイアイ島は、一九五七年、つまり一昨年、大正四十七年にフランスが行った核実験による地殻変動で沈没してしまった。それに伴って、神秘の鼻行類も全滅したものと思われていた。

 ところが、ところがである、その珍奇な鼻行類が、なにやら、この日本の片田舎、山形県で秘かに繁殖しているらしいというのだ。

 恐らく、誰かが、こっそりと愛玩動物として日本に持ち込んだものに相違ない。それが増えたり、逃げ出したりして、こんな東北の片田舎にも棲息するようになったものなのだろう。

 その天敵が、鼠だという話である。

 鼻行類は、文字通り鼻で歩く生物である。だから、のろい。すこぶる、のろい。

 それが、すばしこい鼠に追われるのであるから、難儀なことこの上ないのだろう。自然、天井の片隅に追い込まれ、ぶるぶると震えることになる。

「それがね、変な話なのよ。天井の隅に追い込まれた寄居留が、数匹集まると、すとん、と落ちてくるのよ。ううん、穴なんて無いのよ。さあ、どうやって落ちてくるのか、私に聞かれたって分からないわ。とにかく昨日、あなたが菊池さん達と飲みに行ったとき、その片隅に固まっていたのよ。おお厭だ。思い出すだけで、ゾッとするわ」

 妻は、鯵の干物の肉を、巧みに骨から外しながら、その台所の片隅を指すのだった。

 そんな馬鹿な話はないだろう。いくら私が、妻を相手に事を荒立てないように我慢をしていると言っても、こう理不尽なことを言われてはたまらない。

 寄居留が、どのように珍奇な動物だと言っても、所詮固体であろう。かたや、我が家の台所の天井も、いくら安普請の借家とはいえ、立派な固体である。固体が固体を透過するなど、サイエンス・フィクションの世界にしかあってはならぬことである。

 妻の非合理な、横暴な理論は許してはおけぬ。断固粉砕せざるべからずである。 

 私は、憤然として立ち上がり、物干しに行って、物干し竿を手に取ると、居間にとって返した。そして、その寄居留が落ちてきたという台所の片隅に赴いた。それから、断然その片隅をつついてみたのである。

 天井からは、どしどしと埃が舞い落ち、顔にかかるのでくしゃみをしながら往生した。

 しかし、天井のその部分は堅牢な構造をしておった。いくらつついてみても、穴などは発見できなかったのである。

 私は、少しく混乱した。

 いやいや。他の隅から落ちてきて、妻が発見した片隅まで移動したのかも知れないではないか。

 そう思い当たった私は、瓦斯コンロの上や、食器棚の上になっていてつつきにくい片隅も突いてみた。しかし、徒労であった。四隅全てが、堅牢な構造をしておって穴など見当たらなかったのである。

 いや、待てよ。隅っこに拘泥するからいかぬ。台所の天井全面をつついて確かめなければならぬ。私は、一層奮起した。

「あなた、馬鹿なことはおやめなさいな。第一、寄居留が落ちてくるくらいの穴なら、私たちからも見えるはずでしょう。大きさが、もう十センチぐらいはあるんだから」

 妻が、朝餉を食しながら、呆れたように気怠そうな声で言ってきた。しかし、ここは男の意地である。今こそ、男子たるものの真面目を顕さねばならぬ。

 妻の言う、寄居留は十センチほどの大きさである、という証言を頼りに、約十センチ刻みで天井を左から右につついて歩き、行きどまると、今度は手前に十センチ移動して右から左に移動した。

 五回ほど繰り返したら、物干し竿を掲げている両腕はしびれ、萎え、額からは脂汗がタラーリタラーリと滴り落ちてきた。目は回り、動悸は速まり、息も絶え絶えとはこのことである。日頃からの運動不足がたたったのだ。情けない。

 これほどの誠意を尽くしたのに、おかしなことに、台所の天井には、何の異常も見当たらなかった。寄居留が落ちてくるべき穴など無かったのである。ここで、妻に降参して、その理不尽な理屈も肯定してしまおうか、という安易に走る衝動が湧き上がった。

 しかし、それも業腹である。

 私は、居間を見た。台所のすぐ隣の部屋が、居間なのである。妻はもう朝餉を食し終わり、私の食べかけの朝餉が卓袱台に残っていた。私は、その居間に移動した。

「ちょっと、あなた、もうおやめなさいよ。朝ご飯に埃がかかるでしょう」

 妻の抗議にもめげずに、雄々しく私は居間の天井に立ち向かった。しかし、実は、もう足は震え、手はしおたれ、眩暈はするしで、私はすでにして死にそうだったのである。

 で、どうやら、ものの二分も保たずに、私は意識を失ってずっでんどうと倒れてしまったものらしい。この後しばらくは記憶にない。


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