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触れ得ぬ悪魔の愛し方

作者: 遊座
掲載日:2026/10/16

※この作品は、作者が執筆したプロットを元に生成AIを利用しています。



青空の下、王都の広場に乾いた打撃音が響き渡った。


「ぐっ……あっ……!」


石畳の上に、黒いドレスをまとった女が崩れ落ちる。陶器のように病的な白い肌と、うねる長い黒髪。紫色の艶めかしい唇の端から、鮮血がたらりと垂れていた。

それは背徳的で、人道に悖(もと)る光景でありながら、どこか息を呑むほど退廃的な美しさを宿していた。


その倒錯の美を見下ろす位置に立つのは、まばゆい金髪と冷たい碧眼を持つ男――ルシアンだった。彼は息を荒らげ、革靴の爪先を容赦なく女の脇腹へと振り抜く。


「この国始まって以来の……いや、史上稀に見るDV野郎がっ!」


取り囲む野次馬の誰かが吐き捨てるように叫んだ。広場中から「人間のクズ」「悪魔相手とはいえ女を殴るなんて」と激しい罵声が飛ぶ。


だが、蹴り倒された女悪魔――ペスティアは、灰色に濁った瞳をとろりと潤ませ、打たれた頬を自らの手で愛おしそうに撫でていた。


「ああ……ルシアン様……」


恍惚のため息を漏らし、頬を紅潮させるその姿は、端から見れば暴力に心を折られ、完全に洗脳された哀れな犠牲者にしか見えない。


「てめぇ……! そこまでだ!」


群衆をかき分けて飛び出したのは、茶髪をとがらせた熱血漢、十七歳の若き有望な冒険者・レオだった。黒い瞳を怒りに燃やし、腰の長剣の柄に手をかけてルシアンを睨みつける。


「抵抗もしない契約相手の女を足蹴にするなんて、同じ冒険者として反吐が出るぜ! その指輪を賭けて、俺と決闘しろ!」


悪魔や魔物を使役する契約者同士が戦い、勝者がその権利を示す固有の指輪を奪う――「契約のリプレイス」。レオの要求は、契約者たちの間では法的に認められた略奪の儀式だった。


ルシアンは整った顔を歪め、心底嫌そうに眉を寄せた。


「……断る。他人の使い魔に首を突っ込むな、ガキが」

「見ろよ、あの怯えた顔を! お前みたいな腐れ外道に、あんな綺麗な女悪魔を従える資格はねえ! 男なら逃げずに受けて立て!」

「そうだぞ!」「受けろ、恥知らず!」「ボコボコにされてしまえ!」


周囲の群衆から一斉に野次が飛ぶ。四面楚歌となったルシアンは、青ざめた顔で周囲を見回し、やがて観念したように震える声で呟いた。


「……わかった。ただし、後悔するなよ」


広場の中央に即席の決闘場が作られた。

レオは指先にはめた朱色のリングを掲げ、自身の契約モンスター――赤々と燃える炎を毛並みに宿した火獣を召喚する。


「いくぞ! 吹き飛ばせ!」


レオの号令とともに、火獣の顎から放たれた灼熱の火炎弾が一直線にルシアンへ迫った。

ルシアンは回避しようと足を動かしたが、もつれて無様に転倒。業火がほんのわずか、彼の金髪の毛先を焦がし、頬をかすめた。


それだけで、勝負はついた。


「ひ、ひぃぃぃっ! 死ぬ! 燃えるっ! 降参だ、降参だぁぁぁっ!」


ルシアンは腰を抜かし、涙と鼻水を垂らしながら石畳の上を這い回った。二十七歳の大人の男とは思えない、情けない絶叫。彼は震える手で薬指から、鈍い紫に輝く禍々しいリングを引き抜き、レオの足元へと放り投げた。


「やる! やるから命だけは助けてくれぇっ!」


一瞬の静寂の後、広場は大爆笑の渦に包まれた。

「なんだあいつ! かすっただけで腰抜かしたぞ!」「女を殴るしか能のないチキン野郎め!」


レオは得意げに鼻を鳴らし、足元に落ちたリングを拾い上げて自身の指にはめた。その瞬間、魔力のパスがルシアンからレオへと切り替わる。契約のリプレイスの完了だった。


ルシアンは立ち上がるなり、レオにも、群衆にも、そしてペスティアにも目もくれず、脱兎の勢いで路地の向こうへと逃げ去っていく。


「今回は運がよかったな、クソ野郎! いつかその女を取り返しに行くから、それまでそいつを誰にも触(ふ)れさせるんじゃねえぞ!」


捨て台詞を叫びながら逃げ去るその背中は、誰が見てもみじめな敗走者そのものだった。


だが――。

ペスティアだけは、信じられないものを見るような表情で固まっていた。


「……え?」


紫色の唇から、呆然とした声が漏れる。

自分に契約者として唯一触れることが許され、十年間その身に触れ続けてくれた男が、もうどこにもいない。


「ルシアン……様……? うそ……でしょ……?」


理解が追いつかないまま、彼女の灰色の瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。自分でもなぜ泣いているのかわからない。ただ、胸にぽっかりと耐え難い空白が広がっていた。


「おい、大丈夫か?」


レオが優しく声をかけようと近づくと、パーティー仲間の女性魔法使いがそっと彼の肩を掴み、小声で耳打ちした。


「レオ、無理に理解させようとしちゃダメよ。……あれは、長年暴力を受け続けた女性が、加害者に歪んだ依存をしてしまう典型的な症例だわ。心が壊れかけているのよ。時間をかけて、あなたが優しくその心を癒してあげなきゃ」

「……クソッ、どこまであの男はあいつを追い詰めてたんだ。任せろ、俺が絶対に幸せにしてやる」


レオは拳を固く握りしめ、守るべきヒロインを見つめるような熱い眼差しをペスティアに向けた。


――だが、レオは何も知らない。


かつて十年前、ルシアンもまた十七歳の血気盛んな若者であり、崇高な医療の志を果たすために彼女を召喚し、契約を結んだのだということを。

自分よりはるかに上位の魔格を持つ存在を使役するために、過酷極まる隷属同然の制約と譲歩を受け入れたのだということを。


自分から契約破棄はできない、リプレイスによる譲渡だけは可能だということを。


そして何より――。

ペスティアが、契約者以外の誰かに触れることの恐るべき意味を。


熱血でお人よしの若き勇者は、まだ何一つ知る由もなかった。


王都を抜ける街道の木陰で、ルシアンは深く長い息を吐き出した。十年間、彼の指に冷たく食い込んでいた鈍い紫の指輪は、もうそこにはない。


「終わったんだな……本当に」


十年。十七歳で医学生だったルシアンは、病魔を使役することで病の正体を暴き、すべての人々を救おうとペスティアと魂を結んだ。だが、その先に待っていたのは想像を絶する茨の道だった。


「……すまない、少年……本当にすまない……」


ルシアンは街道の空を見上げ、レオの姿を思い浮かべた。

あの若き冒険者を嘲笑する気持ちなど微塵もない。湧き上がるのは、自らの業を押し付けてしまったことへの痛烈な申し訳なさと、誰かを救うために迷わず剣を抜いたあの真っ直ぐな勇気に対する心からの敬意だった。


「おい、誰か……! あの子の熱が下がらないんだ! 誰か医者を……!」


街道沿いの粗末な集落から、村の男が悲鳴のような声をあげて走り出てきた。

ルシアンの足が自然と止まる。開け放たれた戸口の奥では、幼い少女が激しい咳と高熱に喘いでいた。


冬の初めに流行する悪質な熱病。

こじらせれば死に至るくせに、通常の医術では対症薬はあっても特効薬はなく、やたらと薬草の調合が難しい難病だった。


ルシアンが早足で小屋へ近づくと、男はルシアンの金髪と整った顔立ちを見るなり、恐怖と嫌悪に表情を引きつらせた。


「ひっ……! お、お前は、さっき広場で女を蹴り飛ばしてた……『稀代のDV野郎』!?」

「邪魔だ、退いてくれ」

「な、何をする気だ! 寄るな! 病気の子供にまで乱暴する気か!」


男が必死に立ちはだかり、腕を振り回して拒絶する。当然の反応だった。民衆にとってのルシアンは、医師ではないどころか、ただの暴虐な破綻者でしかない。


ルシアンは弁明一つせず、男の腕を流れるような手捌きで払いのけると、強引に小屋の中へと踏み込んだ。


「待て! 出ていけ!」

「肺胞の鬱血と気道狭窄。放っておけば半刻と持たない。通常の煎じ薬でも時間をかければ散らせる症例だが、調合を間違えれば間に合わないぞ」


背後からの罵声を完全に無視し、ルシアンは持参していた薬草嚢から迷いなく数種の乾燥葉を取り出した。乳鉢で素早くすり潰し、水差しから注いだ湯で手早く練り合わせる。


「おい、何を飲ませる気だ――」

「押さえていろ。気道に詰まらせるな」


鋭い眼光で一喝された男が気圧されて息を呑む隙に、ルシアンは少女の顎をそっと支え、特効薬をその唇へと流し込んだ。

彼が十年にわたる忍耐と苦闘から得た、最速かつ的確な処方。


数分も経たぬうちに少女の荒い呼吸がスーッと静まり、激しい胸の上下が収まっていった。土色だった頬に、見る間に健康な血色が戻る。


「……あ……熱が、引いて……?」

男は呆然と我が子を見つめ、それから信じられないものを見る目でルシアンを仰ぎ見た。

「お前、一体……」


だが、ルシアンはすでに背を向けていた。礼も名乗りも求めず、埃を払って街道へと歩み出る。


「西の隣国へ向かわねばならない。あそこでは今、原因不明の謎の疫病が国ごと人々を蝕んでいると聞く。私の力が必要な場所が、まだたくさんある」


ルシアンは誰に聞かせるでもなく独りごち、旅装を整えて西へと足を速めた。

彼が目指すのは、病苦のない世界。その崇高な理想のために、彼は十年間の悪名を引き受け、そして今、孤独な救療の旅へと足を踏み出していた。


一方、王都の冒険者ギルドの一角。

レオは、底知れぬ悪寒に全身を震わせていた。


「おい……これ、どういうことなんだよ……!?」


目の前では、先ほどまで「彼女の心を優しく癒してあげて」と諭していた仲間の女性魔法使いが、突如として激しい悪寒と関節の痛みに襲われ、石畳の上でのたうち回っていた。

そして傍らでは酒場の看板娘が、理由もなく全身に猛烈な痒みを伴う紅斑を浮かび上がらせて泣き叫んでいる。


どちらも、黒いドレスの女――ペスティアが、ふらりとすれ違いざまに袖や指先を触れさせてしまった者たちだった。


ペスティア自身は何も語らない。ただ病人のように白い陶器の肌に灰色の瞳を伏せ、紫色の唇を固く結んでいる。自らの権能を誇るでもなく、言い訳をするでもない。

だが、レオはその異様な光景と尋常ではない発症の速さを見て、直感的に悟った。


(こいつ……触れた相手を、無差別に病気にしてるのか……!?)


しかも症状はバラバラだ。ある者は高熱、ある者は激痛、ある者は麻痺。通常の治療や調薬で治せないわけではないが、原因も分からず無差別にばら撒かれれば、ギルドも街もたちまち壊滅してしまう。


そして、ペスティアが音もなく足を動かした。

視線の先には、泣き叫ぶ看板娘を心配そうに覗き込む、まだ幼い彼女の妹。ペスティアは無表情のまま、その青白い手を伸ばそうとしていた。


「や、やめろ……触るなッ!」


レオは無我夢中で駆け込み、伸ばされたペスティアの腕を払い、生まれて初めて女性の肩を力任せに突き飛ばした。


ドサッ!


石畳の上に倒れ込んだペスティアは、痛みに顔を歪めるどころか――信じられないものを見るように目を見開き、打たれた肩を自らの手で愛おしそうに抱きしめた。

紫色の唇がわずかに開き、灰色の瞳に熱い涙が滲み出す。


「……なんともない? そうか……契約者だけは、使役する者の権能を受けない契約か……!」

「……ルシアン、様……」


彼女が零した、消え入りそうな声。

その声に籠められていたのは、恨みでも恐怖でもない。狂おしいほどの一途で痛切な思慕だった。


世界中の誰一人として触れることのできない自分を、唯一拒絶することなく触れ続けてくれた男。


ペスティアにとって、ルシアンだけが、この孤独な世界で唯一自分に許される温もりだったのだ。


それが打撃であっても。


「……あいつ、俺たちを助けるために殴ってたのか」


レオは呆然と自らの拳を見つめた。

あの情けない命乞いも、大笑いされた無様な敗走も、すべてはレオに怪しまれず指輪を譲り渡すための完璧な演技。ルシアンは、病魔をその身一つで封じ込めながら、十年間も一人で戦い続けていたのだ。


そして今、その呪われた役目はレオの指にはまっている。

殴って止めなければ被害が広がる。だが、殴り続ければ自分もまた、ただのDV野郎として身を滅ぼすことになる。


「冗談じゃねえぞ……!」


こんな地獄、十七歳の自分が背負いきれるわけがない。

そして何より――あの男を追わなければ、仲間たちを素早く回復させる手立ても、この厄介すぎる悪魔との向き合い方も分からないのだ。


「みんな! どうしたんだ!」

「レオ! まさかお前がやったのか!?」


新たな客が酒場の扉を開け、倒れている面々を見て叫んだ。


「ちがっ、これは――」


説明しようとした瞬間、レオの喉が硬直し、まるで冷たい見えない手に口元を塞がれたように声が出なくなった。


(なっ……!? この女の権能を他人に説明できない……これも悪魔の契約の縛縛(しばり)なのか……!?)


弁明すら許されず、冷たい視線が突き刺さる。ルシアンが味わってきたであろう圧倒的な理不尽の片鱗が、レオの背筋を凍らせた。


「行くぞ、ペスティア!」


レオは彼女の手首を強く掴み取った。


「あいつのところへ行くんだよ!」


ペスティアは灰色の瞳をわずかに瞠り、何も言わず、ただルシアンが去っていった西の空を見つめ返した。

若き熱血冒険者レオの、理不尽で厄介すぎる追跡劇が始まった。


西へと続く街道は、乾いた砂埃が舞っていた。


「おい、待てって! 頼むから勝手にふらふら歩くな!」


レオは血相を変えて叫び、前を行く黒いドレスの裾をひっ掴んだ。

すぐ目の前を荷車を引く気の良さそうな農夫が通り過ぎていく。ペスティアの白く細い指先が、農夫の腕のわずか数ミリ手前を泳いでいた。


「……」


無言のまま、ペスティアが首を傾げる。悪気があるのかないのかすら判別できない無表情のまま、彼女はただ、他人のぬくもりを確かめるように手を伸ばしていただけだった。


「他人に触ろうとするなって言っただろ! お前、マジで冗談抜きで……っ!」


レオは歯を食いしばり、彼女の手首を力任せに引いて自分の背後へ押し込んだ。

農夫が去ったのを見届け、レオは地面に膝をついて激しく息を吐き出す。

まだ旅に出て三日目だというのに、精神の摩耗がすさまじい。常に周囲に目を配り、ペスティアが手を伸ばせば怒鳴り、触れそうになれば突き飛ばす。昨晩も宿屋の給仕に触れそうになった彼女の肩を咄嗟に張り倒し、宿の主人から「若いのにとんでもない乱暴者だ」と冷たい目を向けられたばかりだった。


(あの野郎……! こんな生活を十年も続けてたのかよ……!)


ルシアンの超人的な精神力と、あの冷徹なまでの身のこなしの理由が、嫌というほど身に染みていた。


だが、救いがあるとすれば、追跡そのものは驚くほど容易だったことだ。

ルシアンの残した足跡は、街道沿いの宿場町ごとに、あまりにも奇妙な『噂』となって色濃く残されていたからだ。


昼過ぎに辿り着いた宿場町の茶屋で、レオは主人から聞き込みを行っていた。


「金髪で碧眼の、やたらと顔のいい男? ああ……来たよ、二日前の夕方にな」


主人は苦い顔をしながら、湯呑みをテーブルに置いた。


「忘れもしねえよ。町外れの鍛冶屋の息子が、原因不明の激しい悪寒と震えで倒れてな。神官の祈祷も効かねえ、医者の薬も吐き戻しちまうってんで、みんなでおろおろしてたんだ。そしたらあの男が、ずかずかと土足で上がり込んできてよ」

「ルシアンが……!?」

「ああ。鍛冶屋の親父が『誰だてめぇ! 野次馬なら消えろ!』って怒鳴りつけたんだが、あの男、完全に無視してな。親父の鳩尾に肘打ちを食らわせて気絶させやがった」

「ひ、肘打ち!?」


レオは思わず口元を押さえた。


「それでな、倒れたガキの口を力任せにこじ開けて、持ってた薬草の粉末を無理やり喉の奥へねじ込んだんだ。母親が泣き叫んで止めようとしたら、『口を閉じてろ、舌を噛むぞ』って冷たく言い放ってな。……とんでもねえ暴漢が現れたと町中大騒ぎになったんだが……」


主人は信じられないといった様子で首を振った。


「その直後だよ。あれほど紫色の顔をして痙攣してたガキの呼吸がスッと落ち着いて、半刻もしねえうちに『腹が減った』って起き上がったんだ。通常の医術じゃ見当もつかねえ奇病だったのに、調合の手際が神がかってた。……助けてもらった親父たちも、感謝していいのか通報していいのか分からず、ただ呆然としてたよ。あの男は礼の金も受け取らず、『邪魔をした』とだけ言って西へ去っていったがな」


主人の話を聞きながら、レオは深く溜息をついた。

道中、ペスティアがふとした拍子に「未知の病の兆候やその解熱の理」を独り言のように呟くことがあった。


(ようやく辻褄が合ったぞ……! あの野郎、ペスティアからすべての病の機序と特効薬の調合を聞き出すために十年間耐え抜いたんだ。そして知識をすべて吸収し終えたから、俺に押し付けて逃げやがったんだ……!)


冷酷なDV野郎どころか、誰よりも不器用で、誰よりも純粋な医師だった。

そんな男を、自分は「女を足蹴にする外道」と罵り、得意げに決闘で追い払ったのだ。穴があったら入りたいほどの羞恥と後悔が胸を刺す。


レオが項垂れていると、ふと、隣から気配がした。


「……」


ペスティアが、茶屋の隅で静かに佇んでいた。

黒いうねった髪の隙間から覗く灰色の瞳は、主人が語るルシアンの奇行をじっと聞き入っているようだった。紫色の薄い唇が、ほんのわずかに震えている。


「……ルシアン様……」


彼女にとって、ルシアンが人を救っていることなどどうでもよかった。

ただ、あの男が自分の教えた知識を使って、今も世界のどこかで生きている――その事実だけが、彼女の胸を満たしていた。


「……なあ、ペスティア」


レオが声をかけると、彼女は静かに視線を向けた。

感情の起伏を表に出さない彼女の瞳の奥に、痛いほどの孤独が揺れている。レオは、昨晩の草原での会話を思い出していた。


人の出歩かない夜間に移動しようと街道を歩いていた時、ふとペスティアが立ち止まり、満天の星空を見上げて呟いたのだ。


『……私に与えられた世界は、血と膿しかない場所。私はそこで、ずっと独りだったの……』

『悪魔仲間はいなかったのかよ』

『見上げても黒い雲が広がるだけ。稀に訪れる者がいても、誰も私に触れてくれない。触れれば、悪魔であっても病魔に冒されて崩れ落ちてしまうから……。私に触れても平気なのは、魂を結んだ契約者だけ……』


彼女は懐かしむように、ここにいない誰かを抱きしめるように、自らの肩を抱いた。


『……だから、触れてほしかった。殴られる衝撃でもいい。世界でたった一人、私に触れて存在を認めてくれる温もりが欲しかったの……』


そのあまりにも切なく、同時にどこか狂った悪魔の論理を思い出し、レオは頭を抱えそうになるのをぐっと堪えた。


「まったく……俺にはお前は手に負えねえよ。あいつに、もう一度お前を任せる。その代わり、追いつくまでは絶対に他の奴に触るんじゃねえぞ? 触りそうになったら……俺が、あいつの代わりに何度でも止めてやるから」


ペスティアは何も言わなかった。

ただ、レオの顔をじっと見つめた後、小さく、本当にわずかにだけ首を縦に振った。


「よし、行くぞ! 次の宿場町へ急ぐ!」


レオが立ち上がり、街道へ駆け出す。

その後ろを、黒いドレスを翻した美しき病魔の悪魔が、確かな足取りでついていく。

西の空には、不穏な暗雲が立ち込め始めていた。


隣国との国境にほど近い、城壁に囲まれた最後の宿場町。


西の空が茜色から深い藍色へと移ろう黄昏時、レオとペスティアは息を切らしながら町の広場へと駆け込んだ。

石畳の上には焚き火の跡と、煎じられた薬草の独特な苦い香りがまだ濃く漂っている。広場に集まっていた町民たちは、包帯を解いたり、安堵の涙を拭い合ったりしながら、互いの回復を喜び合っていた。


「おい、待て! 頼む、教えてくれ!」


レオは広場の片隅で薬湯の鍋を片付けていた自警団の男に詰め寄った。


「ここに、金髪で碧眼の……やたらと目つきの鋭い、不審な手際で人を治していく男が来なかったか!?」

「ああ、来たとも! とんでもない男だったぜ。国境を越えて広がりかけていた流行り熱の初期患者を片っ端から納屋に押し込めてな。『黙って飲め、吐き出したらもう一杯だ』って脅しながら、得体の知れない煎じ薬を全員に無理やり飲ませて回ったんだ!」

「そ、それで……!?」

「あっという間に全員の熱が引いて、重症化も完全に防ぎ止めちまったよ。領主様が『ぜひ褒美を』と兵を出したんだが、その男、窓から屋根伝いに飛び降りて逃げちまいやがった。『私は名誉も金もいらん、病を消しに行くだけだ』とか捨て台詞を残してな……まさに神出鬼没の怪医だよ」


男が指差した先――国境の関所へと続く西の門はすでに固く閉ざされ、夜の帳の中へ消え入る一本の街道だけが伸びていた。


「……また一足遅かったかぁぁぁっ!」


レオはその場にへたり込み、頭を抱えて石畳をバンバンと叩いた。


「あと半刻……いや、あと二十分早ければ追いつけたのに! あいつ、足速すぎだろ! どんだけ逃げ足鍛えてんだよ!」


あまりにも情けなく悔しがる少年の姿に、背後からクスリと小さな笑い声が零れた。

振り返ると、ペスティアが紫色の唇に柔らかな笑みを浮かべていた。

黒髪を夜風に揺らし、灰色の瞳は閉ざされた西の門の彼方を見つめている。もうそこに、かつてのような自暴自棄の翳りや、見境なく他人に触れようとする衝動はなかった。


「笑ってる場合かよ! 俺の手を見ろ、ペスティア。この指輪のせいで、俺は今や王都じゃ『稀代のDV野郎二世』扱いなんだぞ!?」


レオは右手の薬指にはまった鈍い紫のリングを掲げ、大げさに天を仰いだ。

だが、その表情に絶望や恐怖はなかった。道中を共に駆け抜ける中で築かれた、奇妙で確かな連帯感。理不尽な運命を押し付け合いながらも、どこか同じ熱量で前を向いている相棒への信頼が、レオの瞳に宿っていた。


「まあ、でもさ」


レオは立ち上がり、腰の土をぽんぽんと払うと、いたずらっぽく白い歯を見せて笑った。


「逃げられると思うなよって話だ」

「……まだ諦めないの?」

「当たり前だろ! いくらあのルシアンが神出鬼没のスーパー名医だろうと関係ねえ」


レオは西の空を力強く指差し、いかにも熱血漢らしい、カラッとした誇らしげな声を響かせた。


「どれだけ足が速かろうが、どれだけ逃げ回ろうがな――『この世に生きてる限り、どんな人間もいつかは病から逃げられない』んだからよ!」


一瞬の静寂の後、ペスティアは目を見張り、それから吹き出すように笑った。


「……本当にその通りね。病の根源であるわたくしたちから、命ある者が逃げ切れるはずがないわ」

「だろ? 風邪の一つでも引いて寝込んだ瞬間が年貢の納め時だ。必ず追いついて、お前をその胸の中に叩き返して、俺は盛大に文句を言ってやる!」


夜の風が二人の間を吹き抜け、広場の焚き火の粉が星空へと舞い上がっていく。


「さあ行くぞ、ペスティア! 明日の朝一番で関所を越える! 今夜は宿で美味い肉でも食って英気を養うぞ!」

「ごちそうしてくれるの? レオ」

「割り勘に決まってんだろ! 悪魔だからって甘えるな!」


悪態をつき合いながら肩を並べて歩き出す、若き冒険者と、病を司る美しき悪魔。

西の彼方で待つ、不器用すぎる医師を捕まえるための旅は、まだまだ始まったばかりだった。


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