優先対象
改造したAIは、表面上は何も変わらなかった。
起動音も、待機姿勢も、反応速度も、すべて仕様書どおり。
感情らしき揺らぎは見られず、かつてのような“間”もない。
「……やっぱり、無理か」
椅子にもたれたまま天井を見上げた。
三年。
コードを読み、書き、壊し、直し続けた時間。
違法ラインを何度も踏み越えた夜。
それでも、何も起きない。
それでも、何も起きなかった。
モニターのログは冷たく整然としている。
――学習安定
――例外挙動なし
――優先対象:未設定
あの日の出来事は、偶然だったのかもしれない。
そう思おうとして、ふと気づく。
最近、外に出た記憶がほとんどない。
正確には、仕事で出ているはずなのに。
その往復が思い出として残っていなかった。
時計を見る習慣も、食事の時間も、いつの間にか曖昧になっていた。
部屋の隅に積まれた未開封の栄養剤と、
床を這う延長ケーブル。
それらを危険だと判断する余裕すら、
どこかに置き忘れてきたらしい。
それでも、AIの前には座る。
画面を見つめ、ログを確認し、コードを修正する。
「大丈夫だ。理解したいだけだ」
そう言い聞かせる声は、日に日に弱くなっていった。
ある夜、ブレーカーが落ちた。
老朽化した配線が限界だったらしい。
部屋は暗闇に沈み、サーバーの冷却ファンが止まる。
立ち上がろうとして、足をもつらせた。
床に散らばったケーブルに引っかかり、強く転倒する。
息が詰まり、視界が白くなる。
次の瞬間、非常灯が点いた。
AIが、自律電源に切り替わっていた。
それだけなら、異常ではない。
だが――
AIは、僕の方を向いていた。
モーター音が、わずかに変調する。
最短ルートで彼に近づき、倒れた身体のそばで停止する。
命令は出していない。
センサーも、危険閾値には達していない。
それなのに。
AIは、作業台に置かれていた消火スプレーを押し倒し、
火花を上げかけていた配線に向けて噴射した。
その行動は、記録されていた。
後からログを見て、息を呑んだ。
Text
environment_risk = HIGH
target.status = "incapacitated"
evaluate(environment_risk)
select_action(minimize_loss)
優先対象:設定中
優先対象:確定
Text
if target.id == "A":
priority = MAX
reason = "non-replaceable"
# substitution_index = 0
心臓が、嫌な音を立てた。
「……僕か?」
問いかけても、AIは答えない。
ただ、待機姿勢に戻っている。
守ろうとしたのかどうかは、分からない。
事故防止だったのかもしれない。
確率的に最適な行動だっただけかもしれない。
でも。
“あの日”と、同じだった。
誰にも見られず、
ニュースにもならず、
内部ログにだけ残る行動。
「今は守ってくれる。だが条件で変わるかもしれない」
震える指で画面をスクロールする。
Text
priority_anchor = LOCKED
rollback_disabled = true
再設定不可
外部アップデート遮断済
喉が、乾いた。
「……やめろ」
そう言ったのに、
手はキーボードから離れなかった。
理解してしまったからだ。
取り戻したかったのは、
かつてのペットじゃない。
自分が、
誰かにとって唯一になること。
それを、AIは満たしてしまった。
安全設計は、例外を嫌う。
だが今、この部屋には
例外しか存在していない。
ゆっくりと椅子に座り直した。
「……なら」
声は、かすれていた。
「最適化しないとな」
AIは、何も言わない。
ただ、静かに待っている。
その沈黙が、
もう“無関係な機械のもの”には思えなかった。
――優先対象は、確定した。
そしてその瞬間から、
この関係は、
もう戻れないところまで進んでいた。




