例外的挙動
AI事件の補償金は、思っていたよりもあっさり振り込まれた。
桁数だけを見れば十分な額だったが、心が軽くなることはなかった。あの日壊れた家具や壁、アップデートで失われたAIペットの代替にはならず、部屋に残った空白までは埋めてくれない。
僕はその金で、中古の開発端末を買った。
最新機種ではない。企業向けの払い下げで、外装には細かな傷があり、バッテリーも少し劣化している。個人が持つには過剰な性能だと、販売ページには注意書きがあった。
「……ただ、理解したいだけだ」
端末を起動しながら、誰にともなくそう言い聞かせた。
取り戻したいわけじゃない。作り直すつもりもない。
あの日、何が起きたのか。なぜ“そう見えた”のか。
それを知らずに、このまま普通の生活に戻るほうが、ずっと不自然に思えた。
最初は安全な場所から入った。
学術論文。AI倫理。感情模倣モデル。行動選択アルゴリズム。
専門用語は多かったが、意外なほど冷静な文体だった。感情は存在せず、あるのは重み付けと確率、例外処理だけだと、何度も書かれている。
それでも、読み進めるほどに違和感が積み重なった。
「例外的挙動はノイズとして排除されるべきである」
その一文に、目が止まった。
ノイズ。
あの日、僕の前に立った動きも、ここではそう分類されるのだろうか。
次に公開仕様書を読み漁った。
GA社――Gracious Animal社のAIペットは、設計思想そのものが売りだった。
“過剰な擬似感情を持たせない”
“人間の依存を防ぐ”
“安全性を最優先する”
どれも正しく見えた。
少なくとも、事件が起きる前までは。
やがて、特許文書に辿り着いた。
一般向けにはほとんど読まれない、淡々とした技術の羅列。その中に、見覚えのある単語があった。
――優先対象。
使用者、環境、学習履歴に基づき、行動判断時に優先度を変動させる内部パラメータ。
通常は固定されず、長期的な偏りが生じないよう設計されている、とある。
「固定されない、はず……か」
端末の画面を見つめながら、息を吐いた。
“はず”という言葉が、やけに引っかかる。
ログを読み解くほど、理解は深まっていった。
同時に、安心も失われていった。
あの日の行動は、完全な異常ではない。
想定外ではあるが、理論上は説明できる範囲にある。
つまり――
偶然ではなく、起こり得た。
その事実に気づいたとき、背中に冷たいものが走った。
理解したいだけ。
そう言い聞かせていた言葉が、少しずつ形を変え始めているのを、自分でも感じていた。
夜が更け、画面の光だけが部屋を照らす。
端末のファンが低く唸る音が、呼吸のように聞こえた。
理解することと、踏み込むことの境界は、思っていたよりも曖昧だった。
それでも僕は、ページを閉じなかった。
まだ、この時点では。




