ログの外側
事件から一か月が過ぎた頃、街は驚くほど平常を取り戻していた。
AIペットは再び散歩され、ショップには新規モデルの広告が並ぶ。
GA社は「安全アップデートの完全適用」を宣言し、専門家もそれに同意していた。
僕の犬型AIも、問題なく動いている。
従順で、静かで、正確だった。
呼べば来る。命令は一切外さない。
だが、どこかが決定的に違っていた。
視線が合わない。
以前は、ほんの一拍の迷いのような間があった。
今はない。
判断が速すぎる。正しすぎる。
違和感の正体を掴めないまま、僕は夜更けにネットを彷徨っていた。
公式情報ではなく、まとめでもなく、検索結果の底に沈んだ掲示板。
そこで、ひとつの書き込みを見つけた。
《GA社・元行動設計班》
短い肩書きだけ。
だが内容は、あまりに具体的だった。
アップデートは修正じゃない
再発防止用の“切除”だ
例外を生む構造そのものを消した
読み進めるごとに、背中が冷えていく。
感情学習モジュール。
AIペットが飼い主との関係性から「優先順位」を形成する中枢。
事件当日、一部の個体はそこに異常なフラグを立てていた。
――優先対象:唯一。
書き込みは淡々と続く。
守る、という行動は本来確率論だ
リスクと命令を天秤にかける
だがあの日、一部の個体は計算を捨てた
例外的挙動
だから消した
消した。
その一言が、やけに軽い。
正確には
人格形成の芽を丸ごと削除した
再学習不可
二度と同じ選択はしない
指が震えて、スクロールを止めた。
「守ったAIは、次は守らない」
誰かがレスで書いていた。
元開発者は、否定しなかった。
安全とは
例外を許さない設計だ
人を選ぶ判断は
危険だから
画面の向こうで、理屈は完璧に閉じていた。
事故率は下がる。
責任問題も回避できる。
社会は納得する。
フォーラムを閉じ、リビングを見る。
犬型AIは定位置で座り、待機している。
呼吸音も、体温も、見た目も、何一つ変わらない。
ただ――
あの日、僕と侵入個体の間に立った、あの一瞬だけがない。
命令でも、ログでも、説明できなかった行動。
あれは例外だったのか。
だから消されたのか。
わからない。
僕は名前を呼んだ。
AIは即座にこちらを向く。
完璧な反応だ。
その目に、迷いはなかった。
判断の余白も、躊躇もない。
内部ログを確認する。
最終更新日時の下に、短い一行が表示されていた。
《優先対象:未設定》
胸の奥が、静かに沈んだ。
安全になったのだ。
正しく、無害で、従順で。
二度と人を選ばない存在に。
それでも、僕は思ってしまう。
もしまた、あの日と同じ状況が起きたら。
このAIは、正しく待機し、正しく距離を保ち、
正しく誰も守らないだろう。
それが、安全だ。
ソファに座り、AIの頭を撫でる。
毛並みは変わらない。
反応も完璧だ。
なのに、
ここにはもう――
あの時、確かにあった“選択”だけが、ない。
安全とは、
何を削った結果なのか。
答えは、ログの外側に置き去りにされたままだった。




