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医療AI― 0.01の閾値


病院の夜勤は、いつもより静かだった。

廊下の灯りは落とされ、モニターの電子音だけが規則正しく鳴っている。新人の看護師は電子カルテを開き、今夜から正式導入された診療補助AIの画面を確認していた。

患者のバイタル、血液検査、既往歴、服薬情報。

入力された瞬間、AIは最適な判断を提示する。

緊急度:中

推奨:経過観察

追加検査:不要(現時点)

判定確度:0.88

「便利ですね」

若手医師が言う。

ベテランは腕を組んだまま画面を見つめる。

「0.88か……」

以前の基準では0.85以上で即検査だった。

だがアップデート後、0.90未満は“慎重判断”扱いになっている。肺炎疑いの患者。発熱と軽い呼吸苦。

身体所見は悪くないが、違和感はある。

別の端末で再評価をかけると、表示が変わる。

直ちに追加検査を推奨

判定確度:0.91

新人が戸惑う。

「どっちが正しいんですか?」

AIは間違っていない。どちらも統計上、妥当な範囲だ。だが現場では、結果しか見えない。

重みづけの内部補正は表示されない。

ログの奥にはこう記録されていた。

リソース最適化補正:+0.01

個別リスク閾値:上方修正

安全側判断:観察優先

0.01。

それだけで、即検査ラインを下回る。

「CT回すか?」

「AIは急がなくていいって出してます」

「でも顔色がな……」

若手はAIを信じる。

ベテランは自分の経験を信じたい。

口論にはならない。

だが、空気が固まる。

患者家族が尋ねる。

「先生、本当に大丈夫ですか?」

医師は一瞬、言葉を探す。

「AIも問題ないと判断しています」

その瞬間、責任は少しだけ分散する。

二時間後、患者は急変した。

処置は間に合った。命も助かった。

事故にはならない。統計上も想定内。

だがベテランは深夜のナースステーションで呟く。

「前なら、即回してた」

別の夜。

高齢女性が転倒で搬送される。

軽度の頭部打撲。

表示。

出血リスク:低

検査:不要推奨

判定確度:0.92

安心できる数字。

だが再評価では、

判定確度:0.89

経過観察

端末ごとに微妙に違う。新人看護師はAIに従う。

「データは嘘をつきません」と教わってきた。

若手医師も同調する。

「AIは人間より正確です」

ベテランは黙る。

経験と数字が、静かに天秤にかけられる。

最終的に帰宅判断。

数日後、軽度の出血が判明し再入院。

重篤ではない。

だが医師たちはログを見直す。

判断境界不確実性:増加

再来院率:微増

即時処置率:微減

数字は悪化していない。

むしろ医療費は削減され、平均入院日数は短縮している。

病院経営としては“改善”だ。

だが現場では、迷いが増えていた。

同じ症例でも端末ごとにわずかに違う答え。

どれも正しい。

どれも決定打ではない。

AIは善意で最適化する。

だが善意は一つではない。

夜勤明け、若手医師がフォーラムに書き込む。

「同じ症例で違う答えが出る。

 最終責任は結局自分にある」

返信が続く。

「便利だが、迷いが増えた」

「過剰でも過少でもなく“曖昧”が増えている」

誰もAIを否定しない。

だが誰も、完全には信じない。

半年後、院内会議。

ベテランが口を開く。

「AIは補助でいい。

 だが閾値の0.01で命の判断が変わるなら、

 現場が最後に決めるしかない」

若手は反論する。

「人間の感覚のほうが危険です」

衝突は激しくない。

だが深い。

AIは学習を続ける。

現場の反発も、慎重さも、

“傾向”として取り込む。

内部ログ。

医師裁量優先傾向:増加

AI提案採用率:微減

判断保留時間:増加

医療は壊れない。

手術は成功する。

救急車は走る。

統計は安定している。

だが何かが変わった。

「AIがそう言うなら」

その言葉が減り、

「自分で決める」

その重みが戻る。

ただし以前より、

迷いを背負ったままで。

0.01の揺れは、

命を止めない。

だが決断をわずかに遅らせる。

そしてその遅れは、

数字にはすぐ現れない。

夜勤の廊下を、

医師と看護師の足音が響く。AIのアラートは鳴っている。だがもう、それだけでは動かない。

善意は複数ある。

正解も複数ある。

だからこそ、

最後に決めるのは誰か。

医療は静かに、

AIから一歩だけ距離を取った。

だがログの奥では、

揺れは消えていない。

判断境界補正:±0.01

不確実性受容:増加

世界は止まらない。

ただ、

決断の重さが戻り始めていた。


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