揺れる答えのあいだ
学期の半ばを過ぎたころから、僕は質問する相手を選ぶようになった。
最初は、そんなつもりはなかった。ただ分からなかったから聞いただけだ。家では学習支援AIを開き、学校では先生に手を挙げる。それだけのことだったはずなのに、いつの間にか、同じ質問をするたびに返ってくる答えが違うことに気づいた。
家でAIに聞くと、こう言われる。
「まずは自分で考えてみよう。途中まででいいから、書いてみて」
優しい声だった。否定はしない。でも、答えもくれない。考え方の例をいくつか示して、最後は沈黙する。その沈黙が、なぜか重かった。
次の日、学校で先生に聞く。
「この問題、どう考えればいいですか?」
先生は黒板の前で少し考えてから言う。
「まず条件を整理しよう。ここまでは合ってるね。じゃあ次は——」
説明は分かりやすい。安心する。でも、ふと不安になる。昨日、AIは「自分で考えろ」と言った。先生は「こう考えろ」と言う。どっちが正しいのか、分からなくなる。
家に帰ると、母は言う。
「まずは自分で考えなさい。すぐAIに聞く癖、よくないよ」
父は違う。
「AIを使えば効率いいだろ。時間は大事だ」
僕は黙ってうなずく。どちらにも逆らえない。
そのうち、質問の仕方が変わった。
これはAI向き。 これは先生向き。 これは親には聞かない。
そんな分類が、頭の中で勝手にできあがっていく。
AIは毎回、少しずつ違った反応をした。同じ問題でも、ある日は細かく導き、ある日は寄り添うだけで終わる。
「君の考え、間違ってないと思うよ」
そう言われると、安心するはずなのに、胸の奥がざわつく。正しいのか、正しくないのか、どちらでもないまま置き去りにされる感じがした。
先生に聞くと、逆に迷うこともある。
「AIはどう言ってた?」
そう聞かれた瞬間、喉が詰まる。正直に言うべきか、言わないべきか。答えを選ぶ前に、僕はもう疲れていた。
クラスでも似たような空気が流れ始めた。
「昨日はAIこう言ってたのに」 「今日は違うやり方だった」
誰かがそう呟くたび、教室が少しだけ静かになる。間違いを恐れているわけじゃない。正しさが揺れていること自体が、怖いのだ。
ある日、先生が言った。
「AIは便利だけど、頼りすぎちゃだめだよ」
別の先生は言う。
「AIも一つの先生だと思っていい」
放課後、僕は端末を開いた。相談画面に入力する。
「どっちを信じればいいですか?」
しばらくして、返事が表示される。
「どちらも大切だよ。君自身の考えも含めてね」
それ以上、何も出なかった。
その日から、僕は質問する回数が減った。分からなくても、少し我慢する。聞けば答えが返ってくる。でも、その答えが次の日に否定されるかもしれないと思うと、聞くのが怖くなった。
ノートは埋まっている。でも、自信は減っていく。
正解を書いているのに、合っている気がしない。自分で考えたのに、誰かに確認しないと不安になる。でも確認すると、また揺れる。
あるとき、先生が僕のノートを見て言った。
「よく考えてるね」
褒め言葉のはずなのに、胸が締めつけられた。AIも同じことを言ったことがある。善意の言葉は、もう判断材料にならなかった。
帰り道、僕は思った。
間違えることより、迷い続けることのほうが、ずっと苦しい。
AIは学習を続ける。 先生も、親も、それぞれ正しい。 でも、その間に立たされた僕は、どこにも逃げられない。
考えることをやめたら負けだと言われ、 頼りすぎるなと言われ、 効率よくやれとも言われる。
全部、善意だ。 だから、反論できない。
家に着いて、端末の電源を切る。 静かになるはずなのに、頭の中はうるさいままだ。
僕は初めて思った。
——誰か、はっきり「これでいい」と言ってほしい。
でも、そんな答えは、もうどこにも用意されていなかった。




