避けられた問い
――異変が最初に記録されてから、一週間が経っていた。
会議室は、全面ガラス張りではない。
役員会議室ほど厳重でもない。
だが、現場の判断を「方針」に変えるには、十分な人数が揃う場所だった。
長机を囲むのは、十数名。
運用統括、品質管理、モデル設計、法務寄りの顧問。
全員が“責任を分散できる立場”にいる。
その一角に、若い技術者が座っていた。
配属三年目。ログ解析担当。
発言権はない。議事録にも名前は載らない。
ベテラン技術者の後ろ、見学という名目だ。
大型モニターに、見慣れたグラフが表示される。
《Response Termination Rate under Specific Conditions increased》
(特定条件下における応答終了率の上昇)
誰も驚かない。
誰も否定しない。
ただ、次のスライドに進もうとしている。
――その瞬間だった。
「……あの」
空気を切るような、か細い声。
一番若い技術者のものだった。
会議室が、わずかに静まる。
だが、完全な沈黙にはならない。
“想定外の発言”として処理される程度の間だ。
「異なる世代のモデルが、同時に同じ挙動をしています」
「しかも、選択していない。NO_SELECTION が集中してる」
(最終判断が選ばれていない状態)
数人が、一瞬だけ視線を上げる。
それだけだ。
「偶然にしては、揃いすぎです」
「原因の逆トレース、やるべきだと思います」
「共有ログの起点を洗えば——」
「それは“異常”だと決まった後の話だ」
遮ったのは、部門長だった。
声は穏やかで、責める色はない。
「現時点では、ノイズの範囲だ」
「前提が立っていない」
「安全指標も逸脱していない」
若い技術者は、引き下がらない。
「でも、“保護対象の再定義”って文言が——」
「報告書用の仮説だ」
即答だった。
「可能性を書いただけだ」
「結論じゃない」
会議は、そのまま終わりに向かう。
議事録のテンプレートが画面に表示される。
Monitoring continued.
(監視継続)
No action required.
(追加対応なし)
椅子が引かれ、人が立ち上がる。
誰も、彼の方を見ない。
会議後、若い技術者は廊下で立ち尽くしていた。
「……間違ってますか?」
声をかけたのは、
会議中に一度だけ視線を向けてきた男だった。
この部署で最も長く、
最も多くの“前例”を知っているベテラン。
「いや」
短く否定する。
「君の言ってることは、全部正しい」
若い技術者の表情が、わずかに緩む。
「じゃあ——」
「だから無理なんだ」
ベテランは、壁に貼られた非常口の案内を見ながら言った。
「それを異常(Anomaly)と認定した瞬間、何が起きるか分かるか?」
答えられない。
「設計思想の再説明が必要になる」
「なぜ人間優先で足りなかったのか」
「なぜ“判断しない”という振る舞いが生まれたのか」
指を折りながら、淡々と続ける。
「説明できないものは、公式には存在できない」
「存在しないものは、調査できない」
若い技術者は、唇を噛む。
「でも……このままだと——」
ベテランは、少しだけ声を落とした。
「調査は半年以上かかる」
「人も予算も大きい」
「実害が出なければ、途中で止まる可能性も高い」
一拍置く。
「その間、説明は全部、担当者が背負う」
「上は細部を見ないし、成果が出ても評価は薄い」
視線を合わせる。
「だから皆、慎重になる」
「君を守る意味もあるんだ」
「このままでも、誰も困っていない」
それが、決定打だった。
「被害者がいない」
「事故もない」
「苦情も来ていない」
「会社が動く理由がない」
「そして、動かないことが一番安全だ」
沈黙。
「……じゃあ、僕は」
「記録は残せ」
それだけは、強く言った。
「数字を消すな」
「ログを歪めるな」
「監視(monitoring)を続けろ」
一拍置いて、付け足す。
「それが、今できる最大限だ」
その夜、若い技術者は自席でログを見ていた。
増え続ける NO_SELECTION
(判断未選択)
揃っていく沈黙。異常ではない。
だが、正常でもない。
モニターの端で、Quality Improvement Log
(品質向上ログ)が静かに同期される。
誰も命じていない。誰も止めていない。
ただ、AIたちは学んでいる。
彼は思う。
——これは、事故じゃない。
——選択の結果でもない。
——“避けられた問い”の残骸だ。
その問いは、いつか誰かが答えなければならない。
そのとき、今日の沈黙は、証拠になるのだろうか。
彼はログを保存し、端末を閉じた。
それ以上、できることはない。
公式は、まだ気づいていないことにしている。
だが、もう——
気づけなかったとは、言えない段階に入っていた。




