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宿の内部捜索は、張り詰めた緊張感の中、極めて組織的に進められていた。
捕吏たちは無駄口を一切叩かず、静かに、そして迅速に動く。
薪置き場から二階の客室に至るまで、あらゆる隅々を徹底的に調べ上げたが――
疑わしき者の痕跡は、ついぞ一つとして見つからなかった。
捕吏隊長・南虎は、店の中央に静かに立っていた。
鋭く光るその眼差しは微動だにせず、しかし目に見えぬ重圧を帯びて空間を支配している。
片手は相棒である霊獣・黒影の頭に置かれ、
黒影は低く喉を鳴らしながら、警戒の唸り声を漏らしていた。
――本能が告げている。
敵は、まだ近くにいる。
それも、極めて近くに。
「報告します、隊長!」
二階から駆け下りてきた捕吏が声を上げる。
「客室はすべて空でした。痕跡もありません。
残るは――廊下の突き当たり、最後の物置部屋のみです」
南虎はゆっくりと頷いた。
「……行くぞ。疑念は残すな」
一行は音もなく階段を上った。
足音はほとんど聞こえず、ただ黒影の爪が床板を掻く微かな音だけが、規則正しく響く。
やがて、廊下の最奥――最後の物置部屋の扉の前に立った、その時。
――ギィ……
かすかな軋み音。
扉の向こう、部屋の中からだ。
黒影の琥珀色の双眸が大きく見開かれ、牙を剥いて唸り声を上げる。
「中にいる!」
南虎が叫び、即座に手で合図を送る。
――だが、扉を破るより早く。
フッ!
異常な速度で何かが動いた気配。
続いて、木窓が激しく打ち破られる轟音が響いた。
「逃げるぞ!」
「突入!」
南虎は躊躇なく叫び、鍛え抜かれた体で古い木扉に体当たりする。
扉は粉々に砕け、彼は中へとなだれ込んだ。
目に飛び込んできたのは、漆黒の外套を纏った男の背。
男は窓枠の上に立ち、振り返って一瞬だけこちらを見た。
差し込む光が、その左眉を貫く長い傷痕を鮮明に照らし出す。
――無面影!
賊は嘲るように笑い、次の瞬間、鳥のように窓外へと飛び出した。
「追え!」
南虎は窓辺に駆け寄り、眼下を睨みつける。
無面影の身体は地面へ落ちることなく、
まるで空を滑るかのように数十メートルを“飛翔”し、
別の家屋の屋根へと音もなく着地すると、そのまま前方へ疾走した。
(この軽さ……この速さ……間違いない)
南虎は歯を食いしばる。
(霊力持ちだ。しかも、風属性を強化する霊獣を従えている……!)
ドン! ガン!
屋根の上で激しい追撃音が鳴り響き、
近隣の住民たちは驚き、家から飛び出して四散した。
その頃――宿の裏、洗い場では。
大鍋を洗っていたムーランが、二階からの轟音に顔を上げた。
そして次の瞬間、彼女は口を開けたまま凍りつく。
黒衣の男が――
二階の窓から、“宙を舞って”現れたのだ。
鷹のように優雅に空を切り、
人々の悲鳴の中、向かいの屋根へと柔らかく舞い降りる。
ムーランの瞳は、眩いほどに輝いていた。
恐怖は一切なく、ただ圧倒的な驚嘆と憧れだけが胸を満たす。
(あんなに……跳べるんだ……)
(まるで鳥みたい……私も……あんなふうに跳べたら……)
気づけば、彼女は立ち上がっていた。
屋根上の追走劇に目を奪われ――
迫り来る巨大な黒い影に、まったく気づかぬまま。
黒影だった。
主を追い、全神経を敵の匂いに集中させたまま、
一直線に走り抜ける。
――ドンッ!
「きゃっ!」
ムーランの小さな体は激しく弾き飛ばされ、
洗い桶へと顔から突っ込んだ。
――バシャッ!
汚水が四方に飛び散る。
「けほっ……けほっ!」
ずぶ濡れになって顔を上げるムーラン。
髪は顔に張り付き、頭には野菜くず。
目に入ったのは、闇へ消えていく黒狼の背中だけだった。
先ほどまでの感動と夢想は、一瞬で霧散する。
残ったのは――
痛みと、怒り。
ムーランはふらつきながら立ち上がり、腰に手を当て、
狼の消えた方向を睨みつける。
そして、肺いっぱいに息を吸い込み――
「このクソ犬ーっ!」
その頃、屋根の上では追撃が続いていた。
無面影――夜盗は、鬼のような俊敏さで環境を利用し、
納屋から柵へ、柵から藁山へと飛び移り、
南虎たちとの距離を着実に広げていく。
狙いは、集落の果てに広がる原始林。
そこへ入られれば、追跡は格段に困難になる。
最後の家屋の屋根を越える際、
彼の視界に、道の突き当たりにぽつんと建つ小さな木造家屋が映った。
縁側には、日向ぼっこをする老夫婦。
(……都合のいい囮だ)
凶悪な笑みを浮かべ、
彼は音もなく地に降りると、二人を避けて家の裏へ回り込み、混乱の中へ姿を消した。
ほどなく、南虎たちが地上へ降り立つ。
「消えた……!」
「隊長! あの家です! 森へ向かう最後の家!」
南虎は即断した。
「包囲しろ! 一匹たりとも逃がすな!」
捕吏たちは瞬時に家を取り囲み、
目を覚ました老夫婦は恐怖に震えた。
南虎は容赦なく詰め寄る。
「今しがた、黒い外套の男を見なかったか!」
二人は怯え、必死に首を振る。
「答えろ!」
「盗賊を匿えば、七族皆殺しだ!」
老婆は泣き崩れ、老爺はただ否定を続ける。
南虎は舌打ちし、命じた。
「家の中を洗え! 隅々までだ!」
捕吏たちは家を荒らし尽くした。
米は撒き散らされ、野菜籠は蹴飛ばされ、
寝床は引き裂かれ、ムーランの衣が収められた木箱も投げ倒される。
――だが、その頃。
家の裏の薪小屋では、夜盗が荒く息をついていた。
彼は黒い絹袋を取り出し、薪の奥深くに押し込み、巧妙に隠す。
(見つかるものか……)
そして窓を破り、森へと消えた。
「隊長! 裏だ!」
「追え! 必ず捕らえる!」
捕吏たちは森へ走り去り――
残されたのは、荒れ果てた家と、震える老夫婦。
彼らは知らなかった。
今この時、
自分たちの家の裏、薪の下に――
一つの“災厄の宝”が眠り、
最愛の孫娘の運命を揺るがす、
巨大な嵐を待っていることを。




