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5

ムーランは、ゆっくりと解けていく人だかりの中で、なおも呆然と立ち尽くしていた。

彼女の視線は「月満ちる宿」の扉に釘付けになったまま、決して離れようとしない。

頭の中には、あの気高く漆黒に輝く霊狼の姿が焼き付いていた。


本来なら、今すぐ中へ入って皿洗いの仕事を始めなければならない。

だが、その思いは胸を突き上げるほどの興奮と、抑えきれぬ好奇心に完全に飲み込まれてしまっていた。


――見たい。

――もっと、知りたい。


ムーランは決意した。

それは、普段の彼女なら決してしないことだった。


彼女は宿の脇へと忍び寄り、古びた木窓のひび割れから、そっと中を覗き込んだ。


中の空気は、彼女が知るいつもの宿とはまるで別物だった。


沈黙が、空間の隅々まで支配している。

まだ残っている二、三卓の客たちは、茶を啜りながらも誰一人口を開かない。

茶碗を持ち上げる音すら、極限まで抑えられていた。

全員の視線が、同じ一点へ――緊張と畏怖を帯びて注がれている。


店の中央に立つのは、漆黒の革鎧に身を包んだ壮漢。

高く逞しいその体からは、目に見えぬ威圧感が放たれ、周囲の者たちの呼吸を無意識に浅くさせていた。

彼こそが、今しがた踏み込んできた捕吏隊の長である。


そして、その傍ら――

あの漆黒の霊狼もまた、微動だにせず立っていた。


鋭い爪が、木の床板にしっかりと食い込んでいる。

琥珀色の双眸が、ゆっくりと店内を掃くように見渡していく。

その視線の一つ一つが、冷静な判断と分析に満ちていた。


――働いている。

ムーランは直感的にそう感じた。


「この店の主は……いるか?」


男の声は低く、重く、抗いがたい力を帯びていた。


その言葉が終わるや否や、「梅おばさん」が慌てて奥から駆け出してきた。

顔色はやや青ざめているが、必死に愛想のよい笑みを作っている。

丸い手で前掛けを何度も拭いながら、深々と頭を下げた。


「は、はいっ! ただいま!」

「わ、わたくし梅清と申します。この宿の主でございます……」

「都からお越しの捕吏様、何かご用件がございましたでしょうか?」


捕吏の長は小さく頷き、鋭い視線で彼女を頭の先から足元まで測った。


「俺は南虎。州城黒虎捕吏隊の隊長だ」

「商いの邪魔をしに来たわけではない。職務のために来た」


「職務……でございますか?」

梅は困惑を隠せない。

この静かな辺境の村で、黒虎捕吏隊が動くような事件など、聞いたことがなかった。


南虎は答えず、傍らの霊狼に視線を送る。

霊狼――黒影ヘイインは主と目を合わせ、低く喉を鳴らした後、店の一角へ歩み寄り、床を嗅ぎ始めた。


「黒影……俺の相棒だ」

「こいつが追ってきた賊の匂いが、この宿で途切れている」


「ぞ……賊!?」

梅は思わず声を上げた。顔色が一気に悪くなる。

「そ、そんな……! ここは村人ばかりで、怪しい者など……!」


「追っているのは、ただの盗賊ではない」

南虎の声は冷え切っていた。

「“無面影むめんえい”。官が長く追っている強盗殺しだ」

「三日前、豪商の隊商を襲い、護衛五名を殺した。今は州城近辺に潜伏している」


その名が出た瞬間、宿の中の空気はさらに凍りついた。

“無面影”――その悪名は、国中に知れ渡っている。


「匂いはまだ新しい」

南虎は懐から巻紙を取り出し、広げて見せた。

左眉に走る長い傷が特徴の男の素描。

「ここ数日、この顔を見た覚えはあるか?」


梅は必死に思い出そうとし、やがてゆっくり首を振った。


「……申し訳ございません。確信は持てませんが……見覚えはないかと……」


「そうか」

南虎は紙を仕舞った。

「宿内を捜索させてもらう。客にも話を聞く」


「ど、どうぞ……!」

梅は慌てて道を開けた。店を荒らされる方が、賊に関わるよりは遥かにましだった。


――その様子を、ムーランは息を詰めて見守っていた。


心臓が破裂しそうなほど高鳴る。

物語の中の出来事が、今まさに目の前で起きている。

霊戦士と霊獣が、賊を追っている――。


黒影が真剣に床を嗅ぎ回る姿は、畏敬すら覚えるほどだった。


彼女は瞬きも忘れ、その光景に見入った。

朝に芽生えたばかりの小さな夢――

この広大な世界の一部になりたいという想いが、はっきりと形を帯び始めていた。


――だが彼女は知らなかった。

この黒虎捕吏隊の来訪が、単なる賊探しで終わらないことを。

それが、彼女の平穏な日常を吹き飛ばす大きな嵐の始まりであることを。


その頃――

宿の裏口から、がっしりした体格の料理人、張大兄ジャンが籠を抱えて戻ってきた。

中には新鮮な白菜、大根、香りの強い青葱がぎっしり詰まっている。


「さて……今夜は何を作るか……」

「大根と骨の澄まし汁か……それとも……」


ふと、彼の視線が止まった。

見慣れた小さな背中が、窓の前でこそこそと動いている。


(あれは……ムーランか?)


普段なら洗い場にいるはずの少女が、まるで盗み見をする猫のようだ。

張の口元に悪戯な笑みが浮かぶ。


彼は音を立てぬよう籠を置き、忍び足で近づいた。


ムーランは、迫る“危険(だが愛情深い)”にまったく気づいていなかった。


――そして、その瞬間。


「こら、この悪童! 仕事をさぼって何してる!」


雷鳴のような怒声が耳元で炸裂した。


「きゃあっ!」


ムーランは飛び上がり、心臓が喉まで跳ね上がる。

振り返って相手を認識すると、安堵と同時に怒りが湧いた。


「張兄ちゃん! びっくりするじゃないですか!」


彼女の拳は、猫が虎を叩くほどの威力だった。


「ははは! 隠れてるお前が悪いんだろ!」

「で、何をそんなに覗いてるんだ?」


ムーランは慌てて口に指を当てた。


「しーっ! 静かに! 気づかれます!」


張は怪訝そうに覗き――

その瞬間、笑顔が消えた。


捕吏たちと、巨大な黒狼。


「……州城の捕吏隊か」


「“無面影”を追ってるんです!」

ムーランは興奮気味に囁いた。

「この狼、すごいんですよ!」


張は苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。


「ムーラン……これは子供の見るものじゃない」


彼は彼女を抱えて引き離す。


「洗い場へ行け。今すぐだ」


「でも……」


「だめだ。命に関わる」


饅頭の一言で、ムーランは渋々頷いた。


彼女の背中を見送りながら、張は深く息を吐いた。


(どうか……何事もなく終わってくれ……)


そして再び籠を持ち、厨房へと消えていった。


――残されたのは、なお続く捕吏たちの捜索と、静かに高まっていく不穏な気配だけだった。

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