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社会が生み出す絶望について

 ラッパーの呂布カルマの動画を見ていたら、呂布カルマがインドに行った感想を話していた。

 

 呂布カルマがインドで何より衝撃を受けたのは、インドの路上で物乞いをしているような人達で、彼らの生活の悲惨さに驚いたという。現地の人に「彼らは努力すればああした境遇から抜け出せるのか?」と聞いたら「難しい」と答えられたらしい。インドはカースト制度があるので、身分制は厳しいだろう。

 

 呂布カルマはそこから日本社会と比較し「日本社会はみんな色々文句を言うが、インドよりは遥かに優しいし、自由で、努力次第でなんとかなる社会だ、だから、ぶつぶつ文句を言うよりも、何かをやった方がいい、日本は恵まれているのだから」と言っていた。…これは常識的な、比較的穏当な意見というところだろう。

 

 ところで、私がその後考えたのは別の事だった。

 

 私はまた別の動画を見ていた。それは「人生に絶望している奴集まれ」というような動画で、掲示板の書き込みをまとめたものだ。それで私は、日本社会において、どうしてこんなに絶望している人間が多いのか、と考えた。

 

 ※

 最近、ドストエフスキーについて調べ直しているが、ドストエフスキーは自殺という問題を極めて強く意識していた。ドストエフスキーの小説では自殺する人物は多いし、「作家の日記」でも自殺についての言及は多い。

 

 自殺という現象について少し考えてみたい。ここでの自殺というのは、絶望が動機になっているような自殺である。

 

 「人は何故自殺するのか?」と誰かに問われたとしよう。それには「絶望したから」と答える。それでは「どうしてその人は絶望したのか?」と問われればなんと答えればいいだろうか。「その人の希望が破れたから」と答えればいい。

 

 それでは「どうしてその人は希望を持っていたのか?」と聞かれたらどう答えればいいだろう。そうすると我々は「誰だって希望くらい持つだろう」という風にしか答えられない。

 

 私が考えたのは次のような事である。最初のインドの話に戻るなら、おそらく、インドの最下層で生まれて、そこから抜け出せない事がわかっている人は、絶望したりしないだろう。というのは最初から、そこから抜け出すのは無理だからである。彼らはおそらく「諦める」だろう。

 

 それでは彼らの希望、願望はどこに昇華されるかというと、インドには輪廻転生の思想があるので「来世にはより上位の存在に生まれ変われるだろう」と願う他ない。こうした宗教思想が身分制度を支えてきたという現実は存在してきた。

 

 ここで私が言うのはあくまでも原理的な話で、現実とは少しズレるだろうが、私が思うのは、インドの最下層の人々は、夢が叶わなかったというような絶望が原因の自殺はしないだろう、という事である。

 

 彼らの中には自殺する人もいるだろう。ただ、彼らはそもそも自分の努力次第で今の地位を抜け出せるという希望がないために、その希望が挫かれる事もない。そこでは人は絶望する前に諦める。諦念と来世への希望が、現実の希望に取って代わる。

 

 一方、日本はどうだろうか(これはアメリカについて考えても大して変わらないだろう)。

 

 日本社会は呂布カルマの言うように自由である。努力次第で何者になれる、という風にされている。

 

 メディアで活動している人間がみなそう言うのは、彼らが実際にそうなった存在だからだ。確かに彼らの多くは努力の果てにそうなったのだろう。彼らは希望を持ち、それを実現した。だから彼らはこの社会の在り方は正しいと言うし、絶望している人間には努力した方がいい、と言う。

 

 ところで、この社会において、これほどまでに絶望している人間が多いのは、この社会が自由で、希望のある社会だからである。希望があり、自由があるとされるから、その希望が潰えた時、人は絶望する。

 

 そして絶望故に自殺したりする。成功者とか、希望を叶えた者はこれを他人事だと思うかもしれないが、実際には全く同じ存在の裏表でしかない。

 

 希望を叶えた人間もまた、この社会では次なる希望を持って前進する事を求められる。年収が一千万に到達しても、その上の人達がまだいて、さらにそれより上の人達もいる。きりがない。

 

 無限にこの階梯は存在しており、人はこの通路のどこかで絶望する。最後は絶望という答えしか待っていない。

 

 しかし何故この社会は我々に希望を与えるのだろうか。そもそも何故、我々は「自由」なのだろうか。

 

 おそらくはこの事は、ドストエフスキーが見て取っていたものだろうと思う。

 

 ドストエフスキーは自由主義の帰結が暴力や殺人、自殺に結びつくと洞察していた。この問題は非常に根深い。

 

 そもそも、封建社会が壊れて、自由な資本主義、大衆社会、民主主義の社会が現れたのは、全ての人が自己の尊厳や可能性を求めるという潜在的な欲求があった為に他ならない。そうした意味ではインドの最下層の人々もやはり、自己というものを解放する事を求めているに違いない。

 

 そしてそうした社会が実現したわけだが、この社会においては精神病、鬱、絶望というものが蔓延する事となった。というのはこれは自由の帰結だからである。

 

 自分の身分が固定されて、そこから動けない時は、絶望する必要がない。「自分はニートだ、どうしよう」とか「自分の年収は低い、人から蔑まれたくない」となどと考える必要はない。そもそも自分の境遇から脱する契機がないので、上に昇れないという悩みは存在しない。

 

 それぞれの人間がそれぞれの身分で求められるものははっきりしているので、そこで生きる他はない。そうした社会ではとにかくそれを生きるほかない。生きる意味について考える前にまず自分がなんであるかが定義される。そこから逃げようがないし、逃げる可能性も考えられない。人はただ生きる。

 

 現在の我々は、年収がいくらであっても他人と比較し、幸福だの不幸だのと喚かざるを得ない。この社会はたしかに自由であり、人気ユーチューバーになるとか、株で儲けるだとか、会社を起こすだとか、色々な可能性はあるだろう。格差が固定されてきたのは事実だが、まだ自由はある。

 

 しかし繰り返すが自由があるが故にそこでは絶望が発生する。絶望故の自殺も生まれる。希望や自由がこれほどまでにばらまかれているから、希望を実現できないもの、自由をうまく扱えないものは絶望する。

 

 この事はこの社会がいくら裕福になっても変わらない。本質的に自由が絶望を生むという事は変わらない。個人レベルで、成功して、希望を実現させたという者もいるだろう。だが常に絶望者は、夢を叶えた人間よりも多いし、構造的にそうなっている。また夢を叶えた人間もいずれは、より高い希望を実現できない者として絶望を負う事は必定である。

 

 ※

 人は何故絶望するのかと言うと、希望があるからである。毎日三食食べられて嬉しいと思えば、ニートであろうと、低年収であろうと、日々は幸福なものとなるだろう。そうはならないのはこの社会で生きる我々には自由があり、希望を持つ事が前提になっているからだ。

 

 以前に見た動画では、海外のプラスチックのゴミ処理で暮らしている貧しい人達が、カメラマンに「あなた達は幸福ですか?」と聞かれた時「幸福です」とはっきり答えていた。少なくとも平均的な日本人より貧しい人達であろう。

 

 ああした人達は私は本気で「幸福だ」と言っていると思う。この文章で書いた論理をああした人に当てはめると、彼らは我々のような希望を持っていない。努力次第で一億円プレーヤーになれる、などという観念を持っていないので、自分の家族がなんとかやっていければそれで幸せだと感じる、という事ではないだろうか。

 

 一方で今を生きる我々は、もっと裕福になればもっと幸福になれると信じている。

 

 これを最初のインドの話と関連させるなら、インド社会においては身分制の外部に置かれた希望が、我々の社会では現実の内部に置かれている。現実になり上がれる可能性がある社会とはそういうものだろう。

 

 この違いは重要な違いであろう。現実の内部に希望がある社会においては、その希望が挫かれた時、もう何もそれを支えるものはない。

 

 資本主義社会に生きる我々は宗教にすがる事はできない。というのは宗教が我々に与えていた現実の外の希望を、我々は現実の内部に据え置いたからである。だから現実内部でその希望が挫かれると、もうインドの最下層の人々のように、来世に期待する事もできない。

 

 我々は絶望すると虚無しかない。だから自殺するしかないのである。現実が全てであり、そこに可能性と自由があるとされている為に、それが閉ざされた時には死ぬしかない。

 

 ドストエフスキーはおそらくこうした状況に対する処方箋として「信仰」を考えていた。これについて最後に少しだけ考えたい。

 

 「罪と罰」に出てくるソーニャという少女は、娼婦をしており、家族は借金まみれでぼろぼろだ。娼婦というのは当時は衛生状態がひどかったから、若死したり性病にかかったりするのは時間の問題だ。

 

 ソーニャはどこにも希望が見いだせない。ソーニャと交流したラスコーリニコフは、何故ソーニャが自殺しないのか、ソーニャが何故絶望しないのかを訝しがる。そこでラスコーリニコフはソーニャが「信仰」を持っている事に気づく。

 

 ソーニャが自殺しないのは信仰を持っているからである。信仰だけがソーニャの生を支えている。それを強調する為にドストエフスキーは、ソーニャの境遇を限りなく悲惨なものにした。

 

 だが、こうした思想が、ドストエフスキーを反動的な保守主義者にしている面も否めない。というのは、こうした思想は、かつての封建制、身分制度を強化する為に、インドのように現実の外に超越的な存在を信じさせようとする、そうした過去の権力者の意向と一致するからだ。

 

 もっともドストエフスキーはここに、汚れない自己犠牲の姿をも見ていた。信仰がある故の自己犠牲である。自己犠牲というのは、自己の意識が全てであり、自分が死ねば世界は意味がないと信じる我々唯物論者には不可能な行為である。それをするには自己の意識を越えた価値ある世界を信じなければならない。だが理性は自己の死は世界の死であり、全ては無意味であると言明する。ここには矛盾がある。

 

 だが、繰り返し言うが、こうした自己犠牲の精神の推奨が、身分制度を強化し、権力者が弱者の起こす暴動を抑制する為に利用してきた。それぞれの人間が自分の役割を果たし、全体の為に自己を供するーーこうした時、人は自分達が置かれている社会環境を変えようとは考えない。むしろこの社会環境を保全する為に、その部分である自己を抹殺するのである。

 

 ※

 さて、私はだらだらとこの文章を書いてきた。私の書き方だと、過去の社会を礼賛しているようにも見えるし、批判しているようにも見えるだろう。また現代社会を肯定しているのか批判しているのかわかりにくいに違いない。

 

 私自身はそうした白黒をはっきりつける必要はないと思っている。ただ、要点だけは最後に整理しておこう。

 

 ・絶望を生むのは現代社会の自由・希望の故である

 

 ・自由がない社会では成り上がれないという絶望は生まれない 諦念がその代わりとなる 自由がない社会では宗教が希望を補完する

 

 ・「罪と罰」のソーニャのような気高い自己犠牲の精神は自分の希望しか考えていない現代の人々には不可能 現代の人々は自分の希望しか考えていない これらの人は絶望すると虚無に陥る ソーニャが悲惨な境遇で希望を持っていられるのは彼女が信仰を持っているから

 

 ・ドストエフスキーが晩年、保守主義者となったのは、ロシアの民衆にみられる強靭な忍耐力や自己犠牲の精神を高く評価した為だろう だがこの自己犠牲の精神が、農奴制のような過酷な制度の存続を可能にしたのも否めない

 

 ・現代の社会は絶望と虚無を生み続ける 一部の成功者は神格化されるが、その成功者もいずれは自分の先にあるのは死しかないと知れば絶望する他ない 現実が全てである社会においては現実の停止である死という一撃を避ける術はない 最後には全員が絶望と虚無に陥る 今やっているのは、そのチキンレースであり、誰が最初に脱落するかという事でしかない

 

 私なりにまとめたが、こんなところだろうか。今絶望している人間がいるならば、それは必然的なものだと言う事はできるだろう。というかこれほど広範に希望をばらまいたのならあと残るは絶望しかない。

 

 また、ここでは書かなかったが、信仰の外に絶望を避けられる方法としては「無知」がある。つまり時間の延長として未来を考えないという事だが、これは大衆社会としては十分機能している。というのは大衆は知性を眠らせたがっている存在であり、実際にこれはよく機能している。これは絶望の延期に役立っている。とはいえいつまでもこの方法が持続するかというとそれは無理であろう。



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自由と向上心がごっちゃになっているような……。 自分と他人とを比べるとき、比べる対象は「自分より上」しかないのでしょうか? その「自分より上」の条件は誰が決めるのですか? 自由でありたいというのはお金…
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