5.特殊な個体
「本当に危険だから、もう止めてよね」
壁や天井が吹き飛んだ廃工場の前、魔法少女キリはペット用キャリーバッグから仔犬を助け出すと、その仔犬を抱き上げ撫でながら紐野繋に向けてそう言った。
その言葉には返さず、半壊した廃工場を横目で見ながら彼は、
「随分と派手な魔法を使ったじゃねえか」
とまるで感想を述べるように言う。
「逃げ回りながらずっと魔力を溜めてたのよ。この子がいるから使えなかったけど。自分でも思っていた以上に溜まっていたみたい」
恐らく溜まっていたのは魔力だけではない。怒りも相当に溜まっていたのだろう。
「仔犬を人質に取るなんてあり得ないモンスターだったわ」
忌々しげにキリはボロボロになった姿の妖獣を一瞥する。それを聞いてふと紐野は疑問を覚えた。
「人質を取る妖獣ってのは、やっぱり少ないのか?」
「少ないわよ。わたしは遭遇したのは初めて」
触手妖獣は明らかに知性を持っていた。形状はまるでイソギンチャクであるにもかかわらず。イソギンチャクは刺胞動物。無脊椎動物だ。およそ“知性”という言葉には相応しくない。ただただ反応するだけという印象だ。もっとも妖獣に通常の生物の常識が通用するとは思えなかったが。
それから仔犬が暴れて降りたがったので、キリは仔犬を撫でるのを止めて放してやった。すると仔犬は、辺りを見回してから嬉しそうに走り出した。彼女はそれを優しそうな瞳で眺めながら「後で警察にお世話をお願いしないと」と呟く。“それで保健所で処分されたら、目も当てられないけどな”と紐野は思ったが口には出さなかった。それから彼女は彼の服に滲んだ血に気が付いたらしかった。
「そう言えば、あなた、怪我をしていたわよね? 見せて」
彼はその言葉に慌てた。
「いや、大丈夫だよ」
「意地になるところじゃないでしょうよ。油断していると破傷風になるわよ?」
そう言うとキリは強引に彼を捕まえ、血が滲んでいる上着の服を脱がすと、何処から取り出したのか水筒の水で傷口を洗った。そして絆創膏を貼ると、そこに手をかざした。まるで「痛いの痛いの飛んでいけ」のおまじないをしているかのようだった。彼は嫌がったが、痛みは和らいでいった。
「治癒魔法よ。免疫力を高めて、細胞の分裂を活性化させる。でも、完璧じゃないから、家に帰ったらもう一度傷口を洗って包帯でも巻いておいて」
「ガキじゃねぇんだから、それくらい分かるって」
と彼は答えたが、包帯を巻く気はなかった。手当が終わるとキリは顔をきつくして口を開いた。どうやら説教を始める気でいるらしい。
「あなたが今回した事は色々な意味で無謀よ。どれだけ危なかったか分かっているの? 前回も危険だったけど、今回はそれ以上……」
「うるせぇな」と彼はそれを煩わしく思う。「お前だって危なかったじゃねぇか……」と言い返そうとしたが、そこでサイレンの音が響いて来た。どうやら警察が来たようだ。
触手妖獣が死んだ瞬間に結界がなくなっているのだとすれば、最後のキリの魔法の轟音は辺りに響いている事になる。それ以前に、廃工場の壁や天井が吹き飛んだ様子は遠くからでも見える。気付いた誰かが通報したのだろう。
警察を見てキリは慌てた。
「もういいわ。あなたは行きなさい。ここは誤魔化しておくから」
上から目線の態度が多少は気に食わなかったが、紐野はその言葉に大人しく従った。警察はまずい。リュックの中にはまだ爆弾が残っている。彼が去る間際、
「もう、こんな事はしたらダメだからね」
と彼女は念を押して忠告をして来た。まるで母親か姉が叱るように。“お前の言う事を聞く気なんかない!”と彼は思ったが、何も返さずにそのままその場を去った。
翌日、
紐野繋はまだ身体中に痛みを感じていた。それで体育の授業を休んだ。無理をすればできない事はなかったが、無理をする気はなかったのだ。
昼休み、教室で昼食を食べていると突然「ども」と話しかけられた。男子生徒だった。名前は知らないが、顔は知っている。同学年の誰かだ。
「何?」
素っ気ない態度で返すと、その生徒は手に持っているおにぎりを頬張りながら言った。
「体育を休んだって聞いてさ。どうしたのかと思って」
「急な坂で転んだんだよ。お陰で、全身が痛い」
彼は体育教師にも同じ嘘をついていた。
「そうかい? でも、ネットでは変な噂があってさ。
昨日、キリって魔法少女が妖獣と廃工場で闘っていたらしいのだけど、そこから紐野君みたいな少年が離れていくのを見たって証言があるんだよ」
「そうなんだ。でも、人違いだよ」
無視をするしかない。そう紐野は思っていた。その男子生徒はおにぎりを頬張りながら、スマートフォンの画面を彼に見せた。
『魔法少女キリ・ファンコミュニティ』
と、そこには書かれてあった。どこかのSNSのメンバー限定のコミュニティらしい。だから検索にはヒットしなかったのかもしれない。
“あいつ、個別のファンサイトまであったのか”とそれを見て彼は思う。
「もし、人違いじゃなくて、紐野君がキリに治療までしてもらっていたとしたら、きっと嫉妬するファンが大勢いるよ」
男子生徒の言葉には返さず、紐野は「君、魔法少女のファンなの?」と尋ねた。
「あ、僕は村上ね。村上アキ。
別にファンって訳じゃないかな? ただ、興味は持っている。そういう意味じゃ、妖獣にも興味があるけど」
「妖獣に興味?」
「ミステリアスだろう? 生物であるかどうかすら分からないなんて」
それを聞いて、紐野はこの村上という男子生徒をオカルトマニアか何かの類だろうと判断した。
「実は妖獣の死体処理のアルバイトもしていてさ。時間不定期で急に呼び出されるから不便ではあるのだけど、直接妖獣の死体に触れる機会なんて滅多にないから楽しみなんだ」
“あんな不気味なもんに触りたがるなんて気が知れねぇな”と彼は思ったが口には出さなかった。
「昨日のイソギンチャクみたいな妖獣は特に興味深かった。結界を張る珍しいタイプだったみたいだし」
その発言に彼は驚いた。
「結界について詳しいのか?」
帰ってから調べてみたが、妖獣が音を遮断する結界を張ったという話が数例報告されているらしかった。ただし、かなり不確かな情報として扱われているようだ。証拠も何も残らないから当然なのだが。
「妖獣の死体処理のアルバイトをしていると、多少はそういう情報も入って来るんだよ。昨日はいきなり爆音が響いて来たって話だから、きっと結界で音を遮断していたのだろうと思ってさ。昨日の妖獣は、過去結界を張った妖獣と共通項があったし」
「どんな?」
「おや? 興味あり?」
「いいから、教えてくれよ」
村上は軽く笑うと口を開いた。
「まず、人気のない場所に現れる。次に知性があると思われる。そして最後に醜い姿をしている。
昨日の妖獣は、犬を人質にして魔法少女キリを襲ったらしいからね。知性があると考えた方がいい。その他の点に関しては、言わずもがなだ」
それを聞いて紐野は考える。
“その前のナメクジ妖獣も条件に一致するな。知性があったかどうかは分からないが、キリが負けそうになっていたって事は或いはそうなのかもしれない。結界は張っていなかったかもしれないが”
考え込んでいる紐野を面白そうに眺めながら村上は言った。
「それを抜きにしても、昨日の個体はかなり特殊だよ。まずそもそも目的が分からない。あんな人気のない廃工場に現れて、あの妖獣は一体何をするつもりだったのだろう? 観察したところ移動手段を持っているようにも思えなかった。あったとしてもかなりのろいはずだ。口らしきものもあったけど、中には消化器官も何もなかった。ただの袋だね。もちろん、内容物もない。何かを捕らえる為の器官と言うのなら納得できるけど、それって何か意味があるのかな?」
“捕える?”
その言葉に紐野は反応する。
ナメクジ妖獣はキリを捕まえようとしているように思えた。ならば、結界を張る妖獣の目的とは、魔法少女を捕らえる事なのだろうか?
「やっぱりさ。紐野君は、魔法少女キリと何か繋がりがあるのじゃないの?」
考え込んでいる彼を見ながら、村上がそう訊いて来た。“しまった。油断していた”とそれに彼は慌てる。
「別に繋がりなんかねーよ! ただちょっと気になる事があっただけで」
「へー」と村上はそれに返す。そして、スマートフォンを操作し、魔法少女キリの特性について書かれたページを彼に見せながら言う。
「“稀に爆風魔法を使う”」
そこにはそのような一文が添えられてあった。
「最近更新されて追加されたみたいなんだけど、君、何か知らない? 僕は彼女が爆風魔法を使っているところなんか見た事がない」
村上アキは笑っていた。その笑顔を見て紐野は悪い予感を覚える。「知らねーよ!」と言って目を逸らした。
“ひょっとしたら、爆弾の実験をしていた頃に、噂になっていたのかもしれない。僕が爆弾を作っているって”
“爆弾を使ってキリを助けている”と村上が自分を疑っているのではないかと彼は不安になっていたのだ。