38.まずは茶番から
突然に紐野繋の元へ、村上アキからスマートフォンで連絡があった。
「悪い報せなんだけどさ、魔法少女キリが男と一緒にビルに入っていったってのを見た人がいる」
時刻は19時を少し回っていた。
紐野は少し考えると尋ねる。
「ビルって?」
「ちょっと前、顔なしブロントサウルスを倒した後に君らはパーティをやっただろう? そのビルだよ。相手はその時のパーティ主催者…… えっと、なんて言ったけ?」
「根津」
「そう。その根津さんだ。あのイケメンの会社の重役」
少し考えると紐野は訊いた。
「それ、どうやって知ったんだ?」
「魔法少女ファン・コミュニティの知り合いが教えてくれたんだ。偶々街で一緒に歩いているのを見かけて、尾行けて行ったらそのビルに入っていったらしい。断っておくけど、信頼できる人だよ」
「そうか…… 分かったよ。ありがとう」
そう言うと、紐野は通話を切った。それから深く息を吸い吸い込んでゆっくりと吐き出す。
緊張をしているのだ。
“ついに来たか”と、目を瞑る。
“……多分、村上からの情報なら、僕が信頼すると思ったんだろうな”
そう考える。
これは明らかに罠だと彼は考えていた。しかし、行かない訳にはいかない。もし行かなかったら、あまりスマートとは言い難い別の方法でキリと根津の居る場所に無理矢理連れて行かれるだけだと分かっていたからだ。
それに、彼の立てた作戦は、このまま連中の罠に乗った方が実行し易い。
“嫉妬に狂うモテない男”
それが連中の筋書きでの自分に与えられた役割なのだろう。
「仕方ない。行くか」
そう気合を入れると、彼はこの日の為に作っておいた爆弾をリュックに入れて出かけた。件のビルに向けて。
紐野がビルに着いたのは20時半くらいだった。既に表の出入り口は閉まっていたが彼は慌てなかった。自分を誘っている連中がこのビルに入る手段を用意していないはずがないのだ。
裏に回ると、通用口があった。そこももちろん閉まっていたが、しばらく待つとビルから出て来る人がいたのでドアが閉まる前に入ると簡単に中に侵入できてしまった。
「治安が良い所為で、日本はセキュリティが甘々だな」
などと彼は呟く。
目的地は10階。そこには根津の所属する部署があり、彼個人で占有している部屋もあるらしい。普通、そこまでの情報はなかなか手に入れられないが、何故かネットで調べると比較的楽に見つけられた。恐らくは、紐野を誘う為だろう。
「10階か…… でも、流石にエレベーターで行くのはないよなぁ。“侵入しました”と言っているようなもんだ」
連中の罠だと気が付いていない態で彼はここに来ている。ならばこっそりと行く為に、階段を探さないといけない。既にビル内は灯りが半分ほど消えていて、人の気配は感じられなかった。きっとフロア内に入れば人がいるのだろうが、少なくとも廊下には誰もいない。気味が悪くなるくらいに清潔なビルだった。居心地が悪い。
“もしかしたら、既に連中のエリアなのかもしれないな”
緊張感を強くした彼は大きく息を吐き出す。
階段を見つけ、昇ろうとすると勝手に電灯が灯ったのでやや慌てただが、どうも赤外線センサーか何かで人に反応して灯りを点ける仕組みになっているらしい。ビルの電力消費で電灯は馬鹿にできないと聞いた事がある。だから、こういった電力消費を抑える工夫をしているのだろう。
「10階かよ。疲れるじゃんか」
階段を昇り始めると彼はそう愚痴を言った。これでは連中と闘う前に体力を消耗してしまいそうだ。何度か愚痴を言いつつも、10階にまで辿り着いた。1階よりも更に暗く、誰も人は残っていないように思えた。オフィスへの出入り口のドアに耳を澄ますと話し声が聞こえた。きっとキリと根津だ。言い争っているようだった。出入り口にはカウンターがあり、引き出しの中を探すと来客用のパスがあった。やっぱり不用心だ。それをセンサーに翳すと、あっけなくドアロックは解除された。
簡単すぎるが、連中は彼の侵入ゲームを演出したい訳じゃないのだろう。これは、この先にある絶望を彼にプレゼントする為の茶番なのだから。
ドアを開け、中に入ると、そこには暗い違和感のある空間が広がっていた。
二見愛は根津からスマートフォンに連絡があった事に驚いていた。認識阻害で、魔法少女に変身していない時は、彼女の名前は見つけられないはずなのだ。
それはちょうど、高校が終わって帰宅し、彼女がネットで紐野繋の情報を検索して調べている時の事で、彼の評判を目にした彼女は彼の将来を深く憂慮していた。
簡単に言ってしまえば、紐野繋の評判は悪かった。もちろん、味方も多いのだが、魔法少女に混ざって活躍している男の彼を許せないファンもいるらしく、粘着的な酷い悪口がたくさん書き込まれてあったのだ。
“繋君自身はあまり気にしていないみたいだけどねぇ”
溜息を漏らす。
最も彼を攻撃しているのが自分のファンだと彼女は分かっているだけに、より心境は複雑だった。
『なんで爆弾を使っているのに、警察に捕まっていないんだよ? 反社会的な爆弾魔が!』
特に問題があるのは、彼が爆弾を使っている事へのそんな批判だった。他はまだ見逃せても、これは彼の将来に暗い影響を与えるだろう。例えば就職を難しくしてしまうかもしれない。いつまで彼や自分が妖獣退治に勤しんでいるかは分からないが、妖獣退治から卒業した後に、ネット社会が彼を忘れてくれるとは思えなかった。爆弾魔というレッテルは残ってしまうだろう。つまりは、デジタルタトゥーというやつだ。
だからこそ、根津からの連絡に彼女は喜んでしまったのだ。
『紐野君は、高校を出たらどうする気でいるのか知っていますか?』
と、彼は尋ねて来た。
「いえ、多分、進学すると思いますが」
きっと就職はその先だろう。
『そうなのですか。実は紐野君をうちのグループの何処かで雇いたいと思っているのです。創意工夫でオリジナルの爆弾を作れる研究力は素晴らしいし、妖獣との戦闘においての作戦立案能力も申し分ない。良ければ、話を聞きたいのですがね…… 彼の電話番号はまだ知らなくて、それでまずは君に連絡をしたのですがね』
「本当ですか?!」
根津の企業で雇ってくれるというのなら、かなりの厚遇になるかもしれない。もし就職できるのなら安心できる。
思わぬ僥倖に興奮した彼女だったが、直ぐに冷静になった。
“あいつ…… 面倒くさい性格しているから、絶対にこーいう話は嫌がるわよね”
そう考え、こう根津にお願いをした。
「あの…… 彼に話をする前に、まずわたしが話を聞く訳にはいかないですか? 上手く伝えますから」
紐野にいきなり話をしたら突っぱねられてしまうかもしれない。だからまずは自分が話を聞いて、それから巧く説得しようと考えたのである。
『本当ですか? 助かります。実は初めからそのつもりだったんですよ。君の言う事なら、彼も聞くと思うから。お願いできますか?』
それを聞いて彼女が「はい。ありがとうございます。……じゃ、あの、どうしましょう?」と話を進めると根津はこう返して来た。
『日中は時間がないですね。少し遅くなりますが、夕刻に私のオフィスで説明させてくれないですか? 資料も見せたいから』
「はい。分かりました。大丈夫です」と、彼女は元気よく返事をする。上手くいけば、これで紐野の将来の心配はなくなるかもしれない。
まさか正体の女子高生の姿で根津に会う訳にはいかない。二見は魔法少女キリに変身して根津に会いに向かった。魔法少女の恰好で街を歩いたので大いに目立ってしまった。どうも妖獣が近くにいると周囲の人々に勘違いをさせてしまったようだ。何か物凄く恥ずかしくなった。やっぱり妖獣退治以外の時になる姿ではないのだ。
彼女が待ち合わせ場所に着いた時には、既に根津は来ていて、彼女が声をかけるなり「もう夕刻だから」と食事に誘われた。断る理由は見つからなかった。両親にも外で済まして来ると言って家を出ている。
案の定と言うか何と言うか、根津が入ったのは高級な店だった。肉の専門レストランで様々な種類の肉があり、ジビエ料理としてアナグマの肉が出て来たのにはビックリした。しかも、とても美味しい。脂身が多いのに、まったく気にならない。
ただ、魔法少女の姿はやはりレストラン内でかなり浮いていて、それが恥ずかしかったが。
レストランを出ると、以前にパーティを開いたビルに向かった。同じビルにある彼のオフィスで紐野の就職に関する資料を見ながら話したいとの事だった。既に終業後で、帰宅する人々と入れ違いにエレベーターに乗り込む。自分の異様な魔法少女の姿とも相まって、何か現実に反しているような気がした。
10階にある彼の働くオフィスには、まだ何人か人が残っていた。彼女の姿に社員達は驚いていたが、根津の自然な様子を見てか“この人ならやりかねない”といった表情を浮かべただけで特に何も言わなかった。彼は個室を持っているらしく、従業員達の驚いている顔を尻目に構わず中に入っていく。
来客用のソファとテーブルがあり、彼女へそこに腰を掛けるように促すと、彼は机の引き出しから分厚い資料を出して来てテーブルの上に置いた。
「紐野君に合うのじゃないかと私の方で見繕った仕事の種類です。年収から業務内容、凡その勤務地と在宅ワークが可能かどうかまで記載されてあります」
思った以上に本格的な資料だったので、キリは少し驚いてしまった。人付き合いが苦手な彼の性格でも問題なく働け、収入もそこそこで、今の家から通える勤務地が良い。将来の自分にも関係がある話だから、彼女は熱中して資料を読んでしまっていた。それでどんどんと時間が経過し、気が付くといつの間にか彼の個室以外は暗くなっていた。他の社員は退社してしまっているのだ。
不意に根津が言う。
『そろそろ、良い頃合いですかね?』
その声は、いつもの根津の声とは少しばかり違っているような気がした。響き方が違う。空気を震わさずに伝わって来ているとでも言うべきか。
「“良い頃合い”って、何の話ですか?」
その彼女の質問には答えず、彼はゆっくりと立ち上がった。そして掌を彼女に向ける。するとそこに黒い渦のようなものが広がっていく。異空間に通じている。星々のようなものが見えた。そしてその中からいきなり黒いゴムのような触手が物凄い勢いで伸びて来たのだ。咄嗟に彼女は飛んで躱す。彼女の座っていたソファはそれで弾け飛んでしまった。
そのゴムの触手には見覚えがあった。初めて根津と会った時、紐野を襲って打ちのめしていたあの触手だ。
「いきなり、なんですか?」
“――絶対に普通じゃない”
彼女は事態がまだ上手く呑み込めてはいなかった。攻撃された? なんで? 一体、彼は何をしているのだろう?
楽しそうに根津は笑う。
『ダメですよ…… 自らを妖獣と名乗るこんな怪しい男の言葉をあっさり信頼して付いて来たりしたら。特にあなたのような可憐なお嬢さんが』
彼が生じさせた異空間から、ぞろぞろとゴムの触手がしばらく出続けた。しかも、ゴムの触手は明らかに彼女を襲う気でいるようで、臨戦態勢を取っている。
「騙したの?」
『まあ、そうですかね?』
彼女も臨戦態勢を取ったが、中遠距離型の彼女が狭い場所で闘うのは得策ではない。そう判断すると風の刃を放った。「おっと」と言って根津は簡単に躱してしまったが、お陰で隙ができた。それを見て、彼女は慌ててドアから外へ脱出した。
そもそも闘う必要はない。このオフィスから逃げてしまえば済む話だ。彼女はそう考えていた。が、個室の外に出た彼女は愕然となる。ビルのオフィスであるはずのそこは暗くがらんとしていて、何もない。辛うじて窓のようなものは見えたが、その先は真っ白で人の街には思えなかった。
異空間。
“逃げ場がない?”
『アッハッハッハ! 無駄ですよ。既にあなたはこの空間に閉じ込めました』
個室から根津が出て来る。キリはそんな彼に向けて風の刃を放った。それを彼はゴムの触手で簡単に防いでしまう。しかも、それと同時にゴムの触手を暗闇に紛れさせて伸ばす。見えない。気付くと彼女は足を捕まえられてしまっていた。それから触手は物凄い力で彼女を引っ張り、振り回すようにして地面に叩きつけようとする。しかし、空気のクッションに包まれるように失速し、地面ギリギリのところで停まった。
彼女は恐怖から涙を少し浮かべ、足をガクガクと震えさせた。
――まるで敵わない。物凄く強い。
『大人しくしてください。あなたは私の物です。紐野君とはくっつけてあげません』
愉快そうに根津は言った。勇気を振り絞るとキリは言い返す。
「何を言っているの? わたしは誰のものでもないわ!」
『いいえ』とそれに根津。首を横に振っている。
『あなたは私の物です。ずっと前に私が買いましたから。紐野君とセットでね』
“は?”
キリは表情を歪める。
「何を言っているのよ? 繋君とセット?」
『はい。あなた達の愛が充分に育つまで待っていました。そうじゃないと面白くないですから。あなた達は充分に仲良くなられたようで、これ以上は流石に認められないので、この辺りでいただく事にしたのです。あなたは私の物ですから』
「意味が分からない!」
そう言いながら、風の魔法を放つ。彼は掌に生じさせた異空間内にそれを吸収してしまった。
『そう暴れないでください。女性を痛めつけて興奮する趣味はないのですよ。もっとも、他の男を絶望させるのは好きですけどね。優越感に浸りながら、その女性を犯すのです』
そう言うと、彼はゴムの触手を放って、彼女の両腕を拘束する。そして、そのまま釣り上げてしまった。力が異常に強く、抵抗ができない。
「痛いわよ! 痛めつける趣味はなかったのじゃないの?」
『必要最低限の痛みは与えます』
「この変態!」
『安心してください。その程度の痛みなど気にならなくなるくらいの快感をこれからあなたに与えてあげますから』
「うるさい! 気持ち悪いのよ!」
それには根津は応えず、スカートの中に触手をゆっくりと伸ばしていった。スカートの中に触手を侵入させたが、体にはまだ触れていない。その状態で根津は問いかける。
『さて。紐野君がこの光景を見たら、なんと思うでしょうかね?』
「さあね。繋君はいないから分からないわ。なんなら、スマートフォンで訊いてあげるけど?」
そう彼女は強がった。それが嬉しくて堪らないといった様子で彼は返す。
『それには及びません。もう直ぐ彼はここに来ますからね。しかも、嫉妬に狂った状態で。その時に分かりますよ』
「は? どうしてよ?」
『さっき、我々はデートをしていたでしょう? その光景を魔法少女ファンの一人が目撃していましてね。彼にまで連絡がいっているのですよ。
彼はもうビルに入って来ています。そろそろドアが開くのじゃないかな?』
そこで不意に暗闇の中に光が差した。黒い空間を四角く切り取るように。誰かがオフィスのドアを開けたのだ。
そこには光を背にした紐野繋の姿があった。




