20.仮想倫理学
「妖獣?」
と、一言呟いてから、魔法少女キリは続ける。
「何を馬鹿な事を言っているんですか? あなたはどう見ても人間じゃないですか」
「おや?」とそれに中年男性。
「ただの人間に、さっきのような事ができると思うのですか?」
「あなたのような姿の妖獣なんて聞いた事がありません」
中年男性はにやりと笑った。
「それはあなた方が気付いていないだけですよ。人間の姿をした妖獣がいる事に。あなたが今疑っているように、我々は妖獣には見えませんから無理もありませんがね」
紐野繋はその自分は妖獣だと主張する中年男性をじっくりと観察していた。そして不意に「あんたが妖獣だとして……」と口を開くと中年男性は「失礼。根津と言います」と名乗った。紐野は続ける。
「……妖獣だとして、ここに結界を張ったのはあんたなのか?」
「結界?」
「音を遮断する結界だよ。多分、この廃ビルを囲んであった。キリは結界内にいたから聞こえていたようだが、爆弾を何個か爆発させたのに騒ぎになっていないだろう? 結界が張ってあって音が外に漏れていないからだよ」
「ほー」とそれに根津。
「それは気付きませんでした。先ほどの黒いゴムのような妖獣が張っていたのですかね?」
友好的な微笑みを見せている。惚けているのか、本気で言っているのか、紐野には判別が付かなかった。
またキリが口を開いた。
「わたしは納得できません。あなたが妖獣だとするのなら、何故さっきの妖獣をやっつけたのですか? 吸い込んだように見えましたが、退治したのですよね?」
アハハハとそれに根津は笑う。
何もない暗闇のビルの部屋の中、妙に軽くその声は響いた。
「別に妖獣だからといって仲間同士という訳ではないですよ。熊と犬は同じ哺乳類ですが、仲間じゃないでしょう? それと同じです」
それを聞いてキリは困惑した表情を浮かべる。杖を握りしめた。葛藤している。と、それを見て紐野は察した。根津も気付ているのかこう続ける。
「だからね。妖獣だからといって、人間の敵とは限らないのですよ?」
そもそも妖獣の定義すら曖昧だ。妖獣ならば人間社会の敵で必ず倒さなくてはならないんてルールはない。しかし、
「敵じゃないとしても……」
本当に害がないかどうかは分からない。
彼女が何を思っているのか、根津は再び察したようだった。
「私に害がないかどうか分からないと悩んでいますか? もしかしたら、殺しておくべき存在かもしれない。
……そうですね。そういう時は、友好的に振舞っている私を見て、あなたが殺したいと思ったのなら殺そうとすれば良いし、そうじゃないのなら見逃せば良いのですよ」
キリにとって彼のその言葉は予想外だったのだろう。
「何を言っているのですか? そんなのわたしが決めて良い話じゃありませんよ」
と、驚いた声を上げる。
「そうですか?」とそれに根津。
「例えば先日の“おいしか棒小僧”ですが、あなた達はほぼ何の躊躇もなく大量虐殺していたじゃありませんか。あれは、あなた達が殺したいと思ったからそうしたのではないですか?」
「違います。おいしか棒小僧は、社会に危害を加えていたから……」
「本当に? では、もし仮においしか棒小僧の姿が見えていて、とても可愛かったなら、あなた達は殺せていましたか? おいしか棒小僧は悲鳴を発しませんでしたが、もし悲鳴を発していたら、果たしてあなた達は簡単に殺せていましたか?」
「それは……」と、キリはその問いかけに言い淀む。
「まあ。安心してください。おいしか棒小僧は、シンプルにプログラミングされた行動を執るだけの意識を持たない存在だと思いますよ。痛みすら感じていない。
でも、ちょっと外見が可愛くてコミュニケーション可能で、共感できてしまえるだけで随分と人間側の罪悪感は変わってしまうというのは分かるでしょう?
これ、他の妖獣でも同じなんですよ。いえ、妖獣じゃなくても同じだ。ゴキブリを殺すのは社会的に批判されない。けど、犬を殺すのは問題になる。
つまり人間側がどう感じるのかが重要なんですよ。もちろん、これには個人差があります。だから、無数の人間達が合わさって曖昧模糊とした認識の上でなんとなく基準っぽいものが作られて殺すべき害獣か否かがなんとなく決定されている」
「話は分かるよ」と、それに返したのは紐野だった。
「だが、それの何が悪い? 責められたって、どーにもならないじゃないか」
反論したつもりだった。しかし、彼はあっさりと「私は悪いなんて言っていませんよ?」と応えるのだった。
「それで良いと思います。いえ、良いとか悪いとかの問題じゃない。そーいうものだと受け入れるしかないのじゃいですかね? 他にやりようがありますか?」
それからキリを見ると彼は続ける。
「だから、私についてもあなたの感じるままに決めてしまって良いと思うのです。妖獣だというだけで殺そうとするのか、それとも見逃すのか」
笑っている。
まるでキリを試して弄んでいるかのようだった。彼女は苦悩しているようだったが、それでも口を開いた。
「少なくとも、今のあなたには殺すだけの理由がありません。助けてももらいましたし」
「そうですか。それは良かった。それが正しい判断である事を願いましょう」と彼はニッコリと笑う。まるで他人事のような口調。そしてそれから「因みに、私、人間に見えるだけじゃなく、人間として生活してもいます」と言って名刺を取り出し、二人に渡して来た。そこには情報技術企業大手“ハイ・ネクストアプローチ”の名前が書かれており、肩書きは“最高運営責任者”となっていた。
資産家で、社会的地位も高い。
「ですから、もし私を殺していたら殺人罪になっているところでした。良かったですね。正しい判断で」
二人の驚いている顔に向けて、彼は楽しそうに笑っていた。完全にからかわれている。紐野はちょっとだけ悔しかった。
「私の他にも人間に見える妖獣はもちろんたくさんいますよ。普通に人間社会に適合して暮らしています」
歩きながら、根津がそう説明して来た。普段の紐野なら俄かには信じないが、彼には思い当たる点があった。
“不可視の少女に首輪を付けて連れていたおっさん。あいつは、もしかしたら妖獣だったのじゃないか?”
そう疑っていたのである。
「もっとも、さっき言いましたが、彼らに悪意があるとは限りません。なので、気にしないでいてもらえると助かります」
紐野が言う。
「その言い方だと、悪意がある連中もいるみたいに聞こえるな」
それに根津は困った笑顔を見せる。
「いえ、まあ、アハハハ。人間にも様々な人がいるように、妖獣も様々なのですよ」
その後で爆発で焼けた跡を見つけたのか、突然屈みこんでリノリウムの床を調べた。
「この辺りなのですよね? 不可視の少女が消えたのは」
その爆発の跡は、不可視の少女が消える前に紐野が投げた爆弾によるものだ。
紐野が根津がこの廃ビルに来た理由を尋ねると、彼は「普通の人には見えない女の子がこのビルで消えたと聞きましてね」と答えたので、二人はその場所まで案内したのだ。理由は分からないが、不可視の少女が消えた場所を調べたいのだそうだ。
ペンライトを当てて調べていたが、何も見つけられなかったのか「やはり彼女の痕跡は何もありませんか」と諦めたようだった。キリが尋ねる。
「どうしてあの女の子がここで消えたと分かったのですか?」
「その女の子は、“こちら側”の存在なのですよ。妖獣の一種と思ってくれて構いません。だから感じられる仲間もいましてね」
それを聞いて“嘘っぽいな”と紐野は疑っていた。本当はK太郎達に聞いたのではないかと思っていたのである。
“この男はK太郎のバックにいる組織と繋がりがあるのじゃないか?”
「さて。出ますか。ここにはもう用はありません」
そう言うと根津は階段に向かって歩き始めた。
紐野には色々と不可解だった。何故、液体ゴム妖獣がこのタイミングでここに現れたのか、根津と同じ理由なのか、それともまったく違うのか。何故、不可視の少女に拘るのか。本当に不可視の少女を調べに来たのか。
ただ、いずれにせよ、これ以上の深入りはできそうにもなかった。根津は喋らないだろうし、力づく聞き出すのも無理そうだ。彼に人間としての地位があるばかりが理由ではなく、恐らくは強いからだ。妖獣と自ら名乗ったのはそれなりに自信があったからだろう。キリや自分に襲われても対処できると。
廃ビルを出ると結界は消えていた。やはり液体ゴム妖獣が張っていたのかもしれない。
「それじゃ、また」
と言って根津はそこで別れた。
キリと二人きりになる。彼女の横顔は美しかった。ビルの中での続きを…… と、ほんの少しだけ紐野は期待したのだが、もちろん、そんなムードでない事は分かっていた。
「――仮想倫理学だね」
と、幸村が言った。
妖獣死体処理のアルバイト。川から引き揚げられた魚型の妖獣の死体処理作業が淡々と進んでいた。紐野は切り取った死体の一部をリアカーで運んでいる。
今回の妖獣は口吻が円筒状になった赤みがかった魚のような姿をしていて巨大だった。川を泳いでおり、害はそれほどなさそうだが非常に臭く、またその特徴的な口吻で身体の中に水を流し込むように進んで大量の生物を捕食しているようだったので、生態系への悪影響が懸念されていた。
だから、退治が望まれたのだ。
もっとも、悪臭を放つというのは、完全に人間社会の都合だし、生態系への悪影響というのは何を基準にするのかという問題がある。だからそれは善だの悪だのという話ではない…… と、少なくとも紐野は思っていた。
結局は“人間社会にとって邪魔だから殺処分が望まれた”というだけの話でしかないのかもしれない。
もし仮にK太郎達が妖獣を準備しているのだとして、彼にはK太郎達がこの妖獣を持って来た理由がなんとなく想像ついた。今、近くの別エリアから魔法少女パワフルンという人気のある魔法少女が来ているらしいのだが、恐らくは彼女の活躍の場を用意してやりたかったのだろう。
ロリータ趣味の可愛らしいピンクの衣装を身に纏い、外見もそれに相応しい幼い姿をしている。が、それに反して凄まじいパワーを彼女は持っており、決め台詞は「力こそ、パワー」である。
魔法少女達は巨大な銛を円筒魚妖獣に打ち込んでパワフルンに引き上げてもらい、口が上に向いたところに紐野の爆弾を放り込んでその妖獣を退治した。爆弾が必要あったかと言われると疑問だが、「できる限り苦しまずに殺してあげたい」というキリの要望を受けてその方法で決まったのだ。K太郎達側の技術者らしい、例の“文字化けメールの主”が文句を言ってきそうだったが、その時の彼はキリの気持ちを優先させてやりたかったのだ。
そんな要望をするあたり、根津との問答が彼女に効いているのかもしれなかった。
問題なく退治が終わると、紐野は妖獣死体処理のアルバイトに参加した。アルバイトには幸村も顔を見せており、なんとなく紐野は先日の根津から問いかけられた話題を振った。もっともそのまま話した訳ではなく、
「もし妖獣に意識があって、痛みを感じるとしたら、今のような殺処分は許されるべきだと思いますか?」
などと話しかけたのだが。
すると彼は何故か、
「仮想倫理学だね」
と、謎の返答をして来たのだった。
彼は魚妖獣の死体を切る係で、紐野は運び係だった。彼は死体を切断しながら紐野の相手をしてくれていた。
“仮想倫理学”
その単語は彼には初耳だった。ちょっと困っていると、幸村は「やあ。ごめん。根幹部分は一致していると思ったから言ったのだけどね」などと言い訳をするように続けた。
「似たような議論は、古くは“魚の活け造り”なんかでもされているね。魚が苦しいだろうから、活け造りは止めるべきか否か。魚には痛覚がないから平気だという意見もあるみたいだけど、仮に痛覚がなくても何かしらの苦しみは味わっているだろうから、その主張には無理があると僕は思う。
そして、論点はもう一つあってね。魚自体が苦しみを感じていようがいまいが関係ない。僕ら人間がどう感じるのかが重要で、仮に活け造りされている魚を見て共感してしまい、痛ましい気持ちになるのであれば、やはり控えるべきじゃないか? なんて問いかけもできるんだよ。
もちろん結論は簡単には出ない。出ないけど、これは無視して良いような問題でもないと思うんだ。何故なら、この考えは、近年になって益々増えている仮想空間のキャラクターにも当て嵌まるからだ」
そこで一度区切ると、幸村さんは魚妖獣の死体を大きく切って紐野に渡した。
「紐野君はゲーム上のキャラクターを傷つける事は禁止にするべきだと思うかい?」
紐野は切り取った肉片をリアカーに乗せる。
「流石に馬鹿馬鹿しいと思いますが」
「うん。だね。でも、もし仮にどんどんとテクノロジーが進歩して、キャラクターに意識が芽生えていたとしたらどうだろう? そして苦しみを感じるとしたら?」
「いや、それでも……」
「反対かな? でも、それを倫理上問題があると考える人が現れるのは理解できるよね?
更に言及すると、仮に意識もなく、苦しみを感じないのだとしても、人間側がそう思ってしまうのだとすれば、やはりある程度の規制は必要になるという議論も可能だ。
ある格闘ゲームの話だ。キャラクターをあまりにリアルにしてしまった事が原因だと思うのだけど、“殴られているキャラクターが可哀想だ”なんて意見が出たんだ。もし、それだけなら大した問題じゃないけど、人間心理にも影響を与える点を考慮するのなら、あまりにキャラクターをリアルにし過ぎるのは控えた方が良いのかもしれない。リアルで本物の人間にしか見えないキャラクターを殴ったり殺したりし続けるのは、流石に人間心理に悪影響を与えそうだ。しかも、場合によっては大量に殺したりもするだろう?」
そこで幸村はまた魚妖獣の死体を切って紐野に渡した。
「完全に仮想世界の存在。でも、人間にとって人格がちゃんとあるようにしか思えない存在。そんな存在を自由にして良い状態。傷つけても、奴隷にしても、虐待しても、殺しても構わない…… そんな状態で、果たして人間は健全な精神を育めるのだろうか?」
紐野は渡された肉片を持ったまま思わず立ち尽くしてしまっていた。幸村の問いかけを考えていた事ばかりが原因ではない。何かが分かりかけていたのだ。K太郎達について。
「そもそも人間は、簡単に他の人間を道具として扱ってしまう生き物だからね。昔から奴隷制は人間社会に普遍的に観られた。現代だってブラック企業の社長とか、部下の手柄を全て横取りして何にも思わない人とか、普通にいるからね。“権力の腐敗”と言うのだけど、そういう心理は誰にでも起こり得るんだよ」
紐野の手に持っている肉片の上に、更に幸村は肉片を乗せた。重みでバランスを崩しかけ、彼は我に返る。そんな彼を幸村は軽く叱った。
「……なんて話のタイミングで申し訳ないが、仕事はちゃんとやろう」
「あ、すいません」とそれに彼は謝罪する。そして、リアカーに乗せた魚妖獣の死体を運び始めた。




