19.結界の中にいた妖獣
紐野繋は廃ビルの前で悩んでいた。
絶対に自分一人で結界の中に踏む込むのは危険だ。だが、二見愛に連絡を取ろうと電話をかけても通じなかった。それで彼は恐怖に近い不安を覚えたのだった。
“既に二見は、魔法少女になってこの中に入っていて、妖獣に襲われているのかも……”
もしそうなら、キリはピンチに陥っているかもしれない。以前の、結界を張る妖獣の時のように。
彼はその時、キリが醜い妖獣に呑み込まれようとしているシーンを想像してしまっていた。
……迷っている時間はない。
彼は一応二見に『廃ビルに結界が張ってある。今から入る』と簡素なメッセージを送ると、不安を抱えながらも廃ビルの中……、結界の中へと入っていった。
廃ビル内。まずは一階を紐野は軽く探索してみたが特に変わった点は見当たらなかった。妖獣の気配もしなければ、痕跡も見つけられない。ただ、既に暗くなっているので見逃してしまっているだけかもしれなかったが。
“ま、ここが不可視の少女が消えたビルだって点を考えると、一番怪しいのは上の階だろうがな”
まさか不可視の少女が復活しているとは思っていなかったが、彼は何かしら関連性があるのではないかと疑っていた。不可視の少女が消えたのは上の方の階。彼はいつでも投げられるように爆弾を握ると、ゆっくりと慎重に階段を昇っていった。相変わらず、何の気配もない。が、問題の階に辿り着いた時だった。
「なんだ、あいつ?」
白を黒に被せたような変わった洒落たスーツを身に纏った中年男性が、ビルの奥の方にいるのが見えたのだ。その男性は彼をちらりと見たようだった。窓から入る灯りで辛うじて顔が見えた程度だが、見間違いでなければ彼を見てその男性は笑ったように思えた。
いかにも金を持っていそうな風貌で、爽やかな印象。紐野とは相容れない別世界の住人に思えた。少なくとも廃ビルにいるようなタイプには思えない。今の時間なら何処かの高級ラウンジで美女と酒でも飲んでいそうだ。もっともそれは彼の貧弱で俗なイメージに過ぎないのかもしれないが。
その男性は直ぐに奥に引き込んでしまった。あまりに場違いだったので彼は思わず幻ではないかと疑った。追おうかと少し迷ったが、万が一仕事でビルの下見に来ているといったような事情があるのなら気まずいと思って止めておいた。
それよりも、今は不可視の少女が消えた場所を調べたい。すぐそこの廊下が現場なのだ。
その男性を見て、彼は幾分か安心して歩を進めた。人間の男がいたという事は、少なくともいきなり襲いかかって来る妖獣はいないだろう。そう判断したのである。
がしかし、それは油断だった。
窓から差し込んでくる光。死角になって暗がりになっている部分。黒い何かが蠢いていた。
“何かいる!”
それに彼が気が付いた時には既に遅かった。まるでゴムのような触手が鋭くしなって彼を打ち据えていたのだ。相撲取りにビンタでもされたかのような衝撃を受け、彼は床に転がった。
「なっ?!」
慌てて体勢を立て直そうとしたが、立ち上がる間もなく再びゴムの鞭打が彼を襲った。また床を転がる。
彼は立ち上がろうとしては駄目だと判断するとそのまま転がって逃げ、身を床に伏せたまま辺りを観察した。
コールタールかゴムのような質感。ところどころに目玉のような物が浮いている。恐らくは妖獣だろうその化け物は、天井や部屋の隅、ビル内の光の入らない場所に広がって張り付いていた。液体ゴムなんて物質がもしあったら、イメージはピッタリかもしれない。
彼は爆弾を握るとスイッチを押して暗がりに向かって投げた。とにかく、今は逃げなければいけない。屋内用に威力を抑えた爆弾。爆発を受けた液体ゴム妖獣は弾け飛んだが、大きなダメージになっているようには思えなかった。精々威嚇できた程度だ。
その隙に彼は急いで起き上がると、奥の部屋に向かって走った。軽く振り返ると、液体ゴム妖獣がうねって集まり、まるで小川のようになって彼を追って来ているのが見えた。逃げ切れるとは思えない。
“このままじゃ、まずい!”
そこで彼は目の前の小部屋のドア開いている事に気が付いた。通り抜けができるらしく、反対側のドアも開いている。
持っている爆弾の残りは屋内用が3つに屋外用が4つ。屋内用では恐らく妖獣に大したダメージは与えられないだろう。そう判断すると彼はリスクを承知で威力の高い屋外用爆弾を握った。
小部屋の中に駆け込む。
爆弾のスイッチを押すと、床に転がし、そのまま反対側のドアから部屋の外へ駆け抜ける。床に伏せた。
――その瞬間、爆発が起こった。
ドンッ
衝撃波が彼を襲った。
かなりの威力で、ガラスやコンクリートの破片が彼の背中に強く当たった。痛かった。振り返る。何も動きはない。彼の予想が正しければ、彼を追って来たあの液体ゴム妖獣は爆発を受けて四散してしまっているはずだった。
“倒せたか?”
期待を込めてしばらく凝視する。やはり何も追って来ない。彼は安堵して立ち上がる。
“……なんとか倒せた”。しかし、そう思った瞬間だった。何本もの黒い液体ゴムの鞭打が小部屋から彼を襲ったのだ。
「な!?」
彼は数多のゴムの鞭で全身を打ち据えられた。顔、腹、胸、腕、足。転がった。
物凄く痛かった。激しい痛み。しかも、黒いゴムの鞭の乱打はまだ続いていた。身体が上手く動かせなくなっていく。
“やべぇ…… これ、死ぬんじゃないか?”
意識が朦朧とし始めた。もう諦めてしまおうか? 痛みすら徐々に感じなくなっていく。しかしそこで彼は二見愛…… 魔法少女キリを思い出したのだった。笑った彼女を。
“僕が死んだら、あいつは絶対に悲しむ”
気合いを入れると、窓の方を見た。隙さえあれば逃げられない距離ではない。爆弾はまだある。屋内用を握った。
“これをぶつけて隙をつくる!”
その隙に窓に向かって飛び降りる。かなりの高さだが、死ぬとは限らない。後でキリかナースコールに治癒してもらえば直ぐに治る可能性だってある。
が、爆弾のスイッチを押したところで手を妖獣の鞭打で激しくぶたれてしまった。爆弾は転がって近くで爆発する。その爆発で彼は吹き飛ばされてしまった。屋内用だから威力は低く、そこまで至近距離ではなかった為に致命傷にはなっていないが、既に満身創痍状態の彼には深刻なダメージだった。
ただし、幸いそのお陰で窓の近くに転がる事はできた。後もうひと踏ん張りで、窓の外から脱出できる。
力を絞り出して立ち上がった。
しかし、そこで先に目玉のついたゴムの触手が彼に向かって来た。目玉のついた触手には、繊細な動きが可能であるらしく足に絡みつく。
“まさか!”
液体ゴム妖獣は引っ張って彼を窓から遠ざけようとしているのだ。
“ここで部屋の奥の方に引っ張られたら、本当に終わる!”
彼は窓の縁を掴んで必死に抵抗した。だが、妖獣の力はあまりに強かった。無情にも窓から引き剥がされてしまう。
“あ!”
絶望。
だが、そのタイミングだった。
「紐野君!」
そう言って窓の外から魔法少女キリが飛び込んで来たのだ。彼女は杖を振り、風の刃で妖獣の触手を切断すると彼を抱きかかえ、窓から飛び込んで来た勢いをそのまま利用し、低空飛行で廊下へと逃げた。液体ゴム妖獣が追って来ていたが、風の魔法で応戦すると奥の方へ退避した。
彼女はそれを見て、急いで近くの部屋に入って身を隠す。しばらく息を殺して様子を窺う。妖獣が追って来る気配はない。二人は同時に安堵の息を漏らした。部屋の中は暗く、月明かりが窓から入って来ている。勇ましいキリの姿が照らされていた。
シン
先ほどまでの激しい戦闘とは対照的なあまりにも静か過ぎる闇。
弱々しく紐野が尋ねる。
「キリ…… どうして?」
「何言ってるの?」とそれに彼女。
「廃ビルに入るってメッセージを送って来たのは紐野君でしょう?」
「でもっ……」と彼は言いかけたが、叱るように「少し黙って」と彼女は止めると、そのまま全身を愛撫するように彼を抱きしめた。魔法を放つ。彼と彼女の身体が美しい寂光に包まれた。直ぐに理解した。これは治癒の魔法だ。彼はみるみると全身の痛みが引いていくのを感じていた。
とても心地が良かった。
温かい。
思わず、彼はうっとりとしてしまう。
やがて寂光が治まる。治癒が終わったのだ。
フーッと息を吐き出しながら、彼を抱きしめていた手を放して彼女は言った。
「治癒の魔法、こんな事もあるかもしれないと思って、K太郎に頼んで強力にしておいてもらっていたの。見えない女の子と闘った時も簡単にわたしの傷が治ったでしょう? 頼んでおいて良かったわ。紐野君、偶に危険な事をするからね」
それから彼女は彼をジッと睨みつけてから叱った。
「爆発で直ぐに位置が分かったお陰で助かったけど、後少し遅れていたら死んじゃっていたかもしれない。
紐野君! あなた、どうしてこんな無茶をしたの?!」
それに思わず反射的に彼は返してしまう。
「お前! 僕が誰の為にこんなリスクを冒したと……」
が、それを聞くなり、キリの表情は豹変したのだった。悲しそうな辛そうな顔になり、彼を再び抱きしめる。
「やっぱり、わたしを助ける為だったの?」
“しまった”と彼は思う。彼女は続けた。
「いつかみたいにわたしが妖獣に呑まれかかっていると心配したのでしょう? そうじゃなかったら慎重なあなたがこんな明らかに怪しい場所に簡単に入るはずがない。入るにしても中の様子を確認してからにするはず」
彼女は涙ぐんでいた。
心の底から彼を心配していたようだ。
「もう」と言う。手を放した。
見つめ合う。
紐野繋は男女の関係には疎い…… 否、怖がって避けている。そんな彼でも今がどういう雰囲気で、どういう状況なのかは簡単に察することができた。
彼女が顔を寄せて来る。辛うじて窓の外から灯りが入っているだけの暗い部屋の中なのに、彼女の唇が妙に印象的に彼の眼には映っていた。
唇が迫って来る。
しかし、そのタイミングだった。いきなり、部屋の中に多くの黒いゴムの鞭が乱入して来たのだ。反射的に彼女は風の魔法を放った。彼女を中心にして風の渦ができて周りに広がっていき、黒いゴムの鞭を弾き飛ばした。
「風の渦の障壁」
どうやら新技のようだ。威力は小さいが防御には向いている。
それから直ぐにキリは、液体ゴム妖獣に向かって構えを取った。
が、そこで驚くべき異変が起こった。
触手のような液体ゴム妖獣が、何故か吸い込まれるようにして消えて行ったのだ。そして吸い込まれたその先、ドアの辺りには、液体ゴム妖獣を吸い込んだ主がいた。
手をかざしている。掌の黒の中にまるで銀河のような薄い光を放つ、渦のようなものが見える。そこに液体ゴム妖獣は消えていったのだ。
それは白を黒に被せたような変わったスーツを身に纏ったスタイリッシュな中年男性だった。
爽やかな顔をしていた。
この階に紐野が来た時に見たあの男だ。
「やあ、悪い。ちょっとお邪魔だったかな?」
と、その中年男性は言った。
紐野とキリは目を大きくして、その中年男性を凝視した。
「――あなた、何ですか?」
警戒した表情でキリがそう言った。妖獣を吸い込んだ…… ように思えた。普通の人間にそんな事ができるはずがない。
すると中年男性はこう答えた。
「うーん。敢えて説明するのなら妖獣…… ですかね? あなた方の言うところの」
とてもあっさりとした口調で。




