第三話:午前七時の部活前
清々しい、あまりにも清々し過ぎる静謐な空気の中、全身が軋みを上げる。冷涼な空気は絞り上げるかのように触れられぬはずの個所へと素手で触れ、侵食する病の如く進行する呪縛の如く身体を侵す。
それは、空気が冷涼であるが故に、ではない。
ただ単純に、その空気が自らを拒絶しているのを痛感するが故に、だ。
全身を苛むのはただただ胸部から這い登る絶無という名の確かな痛み。元来では存在しないはずの痛みはここに確たる存在を持って全身を締め上げ、まともな呼吸を阻害する。
しびれた脳内、否応がなしに思い返すのは拒絶の確かな感覚。『いなくなれ』と、全身全霊で命じられるわけのわからない拒絶は『自分(俺)』という存在をいともたやすく蒙昧にさせ、今すぐにここから溶けていってしまうそうな、あるいは地上からこの体が浮き上がってしまいそうな奇々怪々な感触を生み出す。
全身をすり潰されるような圧迫感、この場から消えてしまいそうな、浮遊感。頭の中には霞がかかり、まともな思考をよしとせず――――結果、自らの存在を自らの内側にのみ括りつける。
世界が内側のみになったかのような、錯覚。
感覚が存在しなくなったかのような、実感。
自分が喪失してしまったかのような、蒙昧さ。
感覚は言葉、言葉は命令。命令は単純な強迫観念となって自らへと襲い掛かる。『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』『いなくなれ』――――――
吐き気がした。
いや、吐き気はとうに感じている。ただこれは自分がその吐き気を自分の感覚として受け取れるようになった証左でしかない。
感覚すら存在しないはずの拒絶の中、元来では感覚できないはずのものが感覚できているという事実、それはつまり自らの肉体がまだ壊れていないことを、過剰になった呼吸を意識の力で抑え込むことも可能であることを示す。
無意識において行われてしかるべき感覚を、自らの絶対足る意識の元において行う。
ゆっくりと、極端に時間をかけて呼吸を一つ――二つ――三つ、四つ。
無意識下において過剰である呼吸は意識化によって不測、すなわち正常へと接近させる速度において行われる。
一息ごとに全身の感覚が戻り、一吐きごとに世界が現実化する実感。血液中の不足した二酸化炭素が増加し、神経の起こした誤認を正常化させていく――。
「―――い! も―うち先輩!」
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。
そばに……誰かいるらしい。が、今の状態でまともに応対することなど不可能に等しい。現実へと帰還するために、ゆっくりとした呼吸を続ける。一回、二回、三回、四回――――
視界が明瞭になる。痺れが全身に満ちる。感覚が帰ってくる。
世界が、戻ってくる。
「もり―ち先ぱい! 森内先輩!」
「――――っは」
呼気が漏れる感触が、確かにある。
自分は、生きている。
生きて、ここに存在している。
その実感が世界を認識させた。
「………綾美祢…か?」
「先輩!」
耳元で響く天真爛漫な後輩の声。背中に感じる小さな温かみある手のひらの感触、首元をくすぐるのは髪の毛の感触だろうか。どうやら屈み込んで背中に触れられているらしい。
紛れもない現実、紛れもない生命の感覚に、全身へと意識がいきわたった。
「先輩、大丈夫ですか……?」
心配そうな声音をよそに、森内瑠璃人は軽く手を振ってそれ以上の挙動を制する。ゆっくりとした動作で倒れていた絨毯の上から身を起こし、
「大丈夫、だと思う………。悪いね、心配かけた」
いまだしびれ残る全身を休めるために、背後に存在する安楽椅子へとその身を乗せる。アンティークな意匠の安楽椅子のもたらす心地のよい振動が、さらに自らを安定させた。
「いつも通り朝が早くて何よりだよ、悠弓遊。大事になってたとも限らないからな」
完全にいつもと変わらない瑠璃人の様子を見て、その少女――綾美祢悠弓遊は表情を和ませた。
「もう……朝着たらいきなり倒れてて、心臓止まるかと思いましたよ。事情は知ってますけど、気をつけてくださいね? 今の時間の朝の空気は冷えるんですから」
「ああ、そのあたりは承知してる。由良にも……怒られちゃったしね」
呟くようにいい、安楽椅子を揺らす瑠璃人。視線はその部屋、落ち着いた印象のある書斎のような場所を移ろい――部屋の中央、そこにすえつけられたグランドピアノに落ち着く。
部屋の風景としての『いつも』……この部屋がこの部屋に与えられた目的を遵守している間、そのピアノの奏者となっている小柄な少女の姿は、そこにはない。
「……その由良は、まだ着てないみたい、か」
荷物を部屋の隅へほうり捨て、巾着のような包みのみを大事そうに小机に置いた後、悠弓遊は憤慨したように両手を腰にやった。
「当然です。伊那乃先輩がこんな早い時間に出てくるわけないじゃないですか」
言われて部屋の隅の時計へと目をやる。
時刻は、七時を少し過ぎたころ。確かに、登校するにはまだまだ早い時間だ。
教室とは到底思えない、洋館の書斎とでも呼んだほうがふさわしい内装の部屋。壁際に本棚、床に絨毯、部屋の中央にグランドピアノ。ティーセットに茶葉、携帯型のカセットコンロまで常備されたこの部屋は、驚くべきことにれっきとした公立中高一貫学校の校舎内に存在している一室である。
教室と呼ぶにも空き部屋と呼ぶにも不釣合いな、ベッドまでが完備された奇妙な洋室。
なにやらお偉方の部屋のようにも思えるような様相をなして入るが、驚くべきことにこの部屋の用途は『部室』なのだ。
部員数総勢三人、部というよりはただの寄り集まりのように思える小さな、しかし異様なまでの存在感を持つ部の拠点としての役割が、この部屋の存在意義である。
「と、言うか森内先輩よく学校まで辿り付けましたねー。あんなに露骨な発作、久しぶりに見ましたよ」
言いながら常備品のカセットコンロへ向かう悠弓遊。足元の棚からやかんを取り出し、小脇の水差しから水を満たした。
「うん、俺もびっくり。いけるかなー、とか思って登校してみたらここまで到着するまではどうにかなったけど、ここ着た瞬間アレ。正直死ぬかと思った」
「まったくもう!」
憤慨した様子のまま、カセットコンロに常備品のやかんを乗せる悠弓遊。日本犬の尻尾を思わせる茶色のポニーテールが感情を表すように激しく揺れ、
「過呼吸舐めちゃ駄目です! 症状自体はただの過剰呼吸と酸欠症状ですけど、心臓発作とか誘発して死んじゃうこともあるんですから」
「でもそういうのって滅多にあることじゃないし」
「自傷行為で心臓弱らせて狭心症まで患ってる身で言いますか」
言いかけた言葉を完全に遮り悠弓遊が断言する。
「いいですか? 過呼吸って言うのはただの呼吸過剰でも、心拍数とか血液成分とか、結構変わっちゃうものなんです。今はただの狭心症でも、その狭心症も症状放置したら心筋梗塞になったりもするんですよ? ただでさえ心臓弱いほうなんですから、気をつけてください」
「でもね……」
「いいですね?」
「だから………」
「い、い、で、す、ね?」
「…………はい」
「ならいいです」
にこやかな笑顔、見るものに好感を抱かせる語調。しかしそれも、一文字一文字区切って告げれば、立派に脅迫になる。
その事実、その証明を眼前で行われてしまえば、さすがにうなずくしかない。半ば強制される形で肯定した瑠璃人に、悠弓遊はくるりと背を向け再びやかんに向かう。
「え……っと。ところで、伊那乃先輩も、今日来るんですよね?」
「ああ。来ないって話は聞いてないから、いつも通りちょっと遅めに来ると思う」
「だったら、アールグレイ淹れちゃっていいですか? ほら、伊那乃先輩苦手ですし」
「ファーストフラッシュで?」
「そうそう、ファーストフラッシュで。結構残ってますし、いいですよね?」
言いながらやかん脇の木製小棚に悠弓遊が手を伸ばす。
棚の中身は、種々多様な紅茶缶だ。
「先輩、どうです? たまにはダストじゃないの淹れても罰は当たらないと思うんですけど……」
「別にいいけど、それだと由良来たときに文句言われない?」
この場にいない子猫のような少女を思い出す。いつもはどうでもいい、みたいな顔してるくせに案外さびしがりやな彼女のことだ。仲間はずれにされたと知れば、間違いなく表情を変えずにすねるだろう。
その点に思い至ったのか、悠弓遊がはっとした表情を浮かべる。
「あ、そうですね。だったら、そのときに別なの淹れられるように量調整しましょうか。二杯分ぐらいなら、大丈夫ですよね?」
いいながら手元の缶を開き、壁に据え付けられたアンティークな戸棚から小さなポットを取り出す。
「おっけ。それなら文句言われようもない。いっちゃってー」
びしっ、と悠弓遊が両手を塞いだまま敬礼する。
「はいっ! 了解しました!」
「ただし茶葉はBOPFね。どさくさに紛れてゴールデン淹れないように」
「あ、ばれてましたか……」
てへへ、とはにかむように笑いながら缶の蓋を閉め、缶棚から別の缶を取り出し、開封して小さじ半分ほどをポットの中へ。丁度いい具合に沸騰した湯を流し込み、蓋をして小脇のテーブルへ。
「………さて、あとは待つだけですね」
「出しすぎて手のつけられないようなの淹れないように」
「もう、わかってますよ」
すねたように頬を膨らませながら、ポット脇の小さな砂時計をひっくり返す悠弓遊。テーブルにつぶれるようにしてもたれかかり、何をするでもなくピアノに目をやったまま固まる。
「……そういえば先輩、朝ごはん食べました?」
「どうして?」
「いえー、いつも低血圧っぽい顔してるんで、てっきり食べてないものかと。違いました?」
どんな顔だ、低血圧っぽい顔って。内心で呟きながら瑠璃人は、「血圧はいたって良好、朝食は一日の要石だ。トースト二枚と白米四半合、それと少しの果物をちゃんと頂いてきた」
「むぅ……、オンナノコ的にはちょっと多いですし取り合わせも奇々怪々ですけど立派な朝食ですね……。でしたら伊那乃先輩と頂きましょうか」
「うん? 何々、また作ってきた?」
「ええ。フィルドスタイルのサンドイッチなどを少々。イレブンシスにどうかと思いまして」
ちらり、と悠弓遊が椅子の上の巾着へと目をやる。
「他にも朝ごはんにいいかなーって思っていろいろ作ってきてあるんでけど、朝ごはん済んでるなら――――」
「いや、別に入るけど」
「アレだけ食べて入るんですか?」
「うん」
愕然、といった面持ちで悠弓遊が瑠璃人の顔を見つめる。
「信じられません………伊那乃先輩あんなに小食なのに…森内先輩がこんな大食漢だったなんて………。このアメリカンクラブハウスサンドでも足りるかどうか………」
「あのなぁ、悠弓遊。俺別にそこまで大食でもないって。それに由良をセットで考えるほうがどうかしてるの。あいつほっといたら平気で二三日絶食するし、それでもけろっとしてるほどの低燃費だから」
「ふぇ? そうなんですか?」
「ああ。それもそれに気付いたのも家寄って台所があまりにも綺麗過ぎたからって言うオマケ付き」
ホント、あの時は冷蔵庫に卵ひとつもなかったからな。アレ以来一週間に一度は朝以外もお邪魔することにしている。
「うっわー……伊那乃先輩よくそれで生きてますね」
「俺もびっくり。小学生から一緒にいるけど、あそこまで酷くはなかったからな」
「うんうん、さすがは婚約者さんです。よくご存知ですねー」
ぴくっ。瑠璃人の安楽椅子を揺らす動きが停止した。砂時計の砂が落ちきり、悠弓遊が席を立つ。
「………ちょっと待て悠弓遊。誰が、誰の、婚約者だって?」
「え? 森内先輩が、伊那乃先輩の、ですけど?」
落ち着いた緑色のティーカップを取り出し、やや高めの位置から濃い赤茶色の液体を注ぐ。毅然とした態度のまま、手馴れた仕草でカップを差し出し、巾着を開封する。
「いやぁ、珍しいけどいいものですよね婚約って。婚約。読んで字の如く『結婚』を『約束』する……。素敵な言葉です。しかも高校生からなんて、大正時代みたいでロマンありますよね、相思相愛ですし」
「待て悠弓遊。脳内に存在するお花畑を歩き回るな。その先に存在するのは桃源郷ではなくお花畑の下に存在する毒沼、踏み込めば最後、その身を嘘という名の致死毒に侵されてしまう」
「え? 違うんですか?」
もうひとつのカップに紅茶を注ぎ、自分の席へと戻る。巾着の中身の小さな編み籠をテーブルの中央へと滑らせ、開封。中身は小さなサンドイッチだった。
「違うも何も………」
安楽椅子を前方に傾け、サンドイッチと紅茶に手を伸ばし、
「親同士の繋がりも企業的なつながりもない単なる幼馴染同士で婚約なんか普通しないって。……確かに婚約上の最大の障害であるところの両親が排斥されてる分、他よりかは有利だけど、それでも学生で婚約はまだ早い」
「まだってことはいずれはするんですねぇ……」
むふふ、と口元に手をやり犬のような顔で笑う悠弓遊。
僅かに眉をしかめ、安楽椅子にもたれかかり、瑠璃人が言う。
「いつかも何も、婚約その他の予定一切なし。あいつとはただの友達、友人、学友。どう表現してもいいけど、つまりそういう浮つかない関係なの」
「え~、でも毎日朝起こしに行ってますし、」
「そうでもしないとあいつ出てこないからな」
「こんな感じに毎日一緒に半分ぐらい授業サボってますし、」
「それは俺のほうの都合。出たら出たでクラスが凍りつく」
「夕ご飯だって毎日作りっこしてますし、」
「二人掛の方が楽だし、光熱費安く上がる」
「連弾だって息ぴったりじゃないですか」
「そりゃ幼稚園児から一緒にピアノやってりゃ、ああもなる」
「伊那乃先輩だってまんざらでもなさそうですし」
「俺は友人って見てるの」
「二人仲良く婚約指輪までしちゃって………」
「…………」
その一言に、瑠璃人は自らの左手薬指を見下ろした。
普通の友人、そう評しながらもそう評せない理由。
それが、これ。
瑠璃人の左手薬指に輝く小さな銀色、それはすなわち、銀にサファイアのあしらいを施した指輪。
簡素な作りながらも気品に溢れ、雌雄一体を思わせるような不完全さを称えたそれは、紛れもないペアリングである。
ペアリング、そうであるからにはその対となる指輪が誰かの指に存在するはずであり、
そしてその存在する先こそ、今ここに存在していないこの部の三人目の部員の、左手薬指である。
年若い男女、左手薬指に輝く指輪――ペアリング。
そうとなれば、連想されるのは婚約以外に存在しない。
しかし、
「……これは、違う」
口内に溜まった血をこっそり吐き出すように、瑠璃人は言った。
眼前で湯気を燻らせる紅茶を口に運び、立ち上るファーストフラッシュ特有の香りを楽しみながら、否定を重ねる。
「確かに約束には違わないけど、婚約とかそういうのとは別次元。まあ、婚約じゃないにしても『婚約程度に大事な約束』って言うのは間違いないんだけどね」
遊ぶように言いながら、サンドイッチを一口。マスタードの風味と卵に忍ばせられた胡椒の加減が絶妙だった。
その味覚は、今の瑠璃人にとって都合がいい。
痛みを紛らわせるのに、辛味は丁度いい。
「むぅ……そういわれると言い返せないじゃないですねー」
「そう?」
そうですよー、と若干頬を膨らませ抗議する悠弓遊。
「それって夫婦になる予定はなくとも奥さんぐらいには大事ってことでしょう?」
「ま、そうだな」
「そんなに真面目な事言われたら不真面目にからかうわけにも行かないじゃないですか」
つまらなさそうな、それでいて嬉しそうな表情で、悠弓遊があらぬ方向へと目線を動かした。
「……なんだか婚約者じゃないって台詞、ちょっと考えたら説得力ありそうな感じですね」
「そう言ってくれるとありがたい。霹靂するから」
瑠璃人もこの場にいないもう一人も集団から浮いているとは言っても高校生なのだ。青春を謳歌する青少年達にとって、婚約などの浮ついた話は刺激がありすぎる。
ええ、と悠弓遊は意味ありげにうなずき、
「どっちかといえば、もうお二人は婚約者じゃなくて、ご夫婦です」
お幸せにー、などとのたまう。
「なってたまるか。あいつとはただの幼馴染、以上会話おしまい!」
「むぅ。面白くないですね……。――――で、今日は森内先輩お一人ですけど、伊那乃先輩はどうしたんですか?」
「ああ、たまには放置してくれって頼まれたから、放置。でも多分くるだろ」
「うっわーアバウトな考え方ですねー」
「別に、大丈夫だろ。―――っと、うわさをすれば、かな」
ちらり。瑠璃人がドアを一瞥する。
金属製のノッカーまで取り付けらている重厚な木製のドア、一般教室とは一線を隔する完全洋館使用のドアが、かちゃりと金属質な音を立てた。
常時施錠のドア、その鍵を持っているのはこの部に所属する部員のみである。今ここに三人の部員がいる以上、そこに不在なのは当然残るひとりということになり………
「………ん」
「よう」
「あ! おはようございます!」
ドアを開けた向こう、一般高校の廊下に立っていたのは一人の少女。低身長、肩口までの茶髪、この世を見限ったような雰囲気と、人形を思わせる美貌。
その人形じみた顔の中に、僅かな安堵をにじませその少女、伊那乃由良は部室内へと足を踏み入れ、
「……瑠璃、早い…………」
ポツリいい、ドアを閉ざし後ろ手に施錠した。
メンバーがそろった以上、やることはひとつ。
部活動の、開始である。




