弟子
天井の至る所に蜘蛛の巣が張られ、ネズミが我が物顔で徘徊する地下牢獄。
薄暗く、異臭漂う鉄格子の奥で、俺は鎖に繋がれていた。
「やあ、待たせたね。元気にしてたかい? ちょっと痩せた?」
顔を見ずともこの世界で日本語を話せるのは彼女だけなので、声だけで誰かわかる。
「……イリスフィアさん。投獄されてから一週間経ったあたりで、あなたに騙されたと思ってました」
地下の最奥に投獄されている俺の前に、イリスフィアさんがひょっこりと姿を現した。
現状、彼女が唯一の命綱であることは理解しつつも、こちらの気も知らない彼女のお気楽さに、思わず恨み節を吐いてしまう。
「たはは、ごめんごめん。本当はもっと早く君の様子を見に来たかったんだけどさ、今日の評議会で判断が下されるまで接近禁止命令を受けちゃってね。変にトラブルを起こして印象を悪くしたくなかったんだ」
ぺろっと舌を出して謝る姿からは反省の色は窺えなかった。
「『超速再生能力』と言っても、流石に足りない栄養素までは補ってくれないみたいだね。後で美味しいものをご馳走してあげるから、許しておくれ。君の口にも合うはずだよ」
牢の施錠を解いて、中に入ったイリスフィアさんは、まともな食事を与えられず痩せこけた俺を見て分析をする。
彼女の分析の通り、俺の身体は灼熱の炎を受けても肉体は即時再生したが、栄養不足を回復できるほど便利な能力ではないようだ。
自分に関する記憶がないので、能力の詳細や能力を得た経緯は全くわからない。この世界で生きていく上で、できることとできないことを把握する必要があるだろう。
「結局、俺の処遇はどうなったんですか?」
正直、今は能力の解析よりも、自身の今後の方が重要だった。
俺の問いに、イリスフィアさんはにんまりとした笑みを作る。
「君はわたしの弟子になることが正式に決まった。これから君は剣師となり、わたしの右腕として活躍してもらう」
「はあ、まあよくわかりませんが、外に出られるのであれば良かったです」
大仰に語るイリスフィアさんだが、この世界のことを何も知らないので反応に困る。
「言語も合わせて学ぼうか。わたしとしか話せないのは何かと不便だし、情報収集にも支障が出る。わたしも補助するし、話さざる得ない環境になれば、嫌でもすぐ覚えるさ」
「それは素直にありがたいです。記憶のない俺はこの世界に順応するしか生きる道はありませんから」
何もかもが未知の土地で、コミュニケーションが取れないのはあまりにも致命的である。彼女の申し出はとてもありがたい。
「良い心掛けだね。異文化交流のつもりで、いろんな人と仲良くなるといい」
俺はこれまでずっと疑問に思っていたことを思い出す。この世界についてはおいおい学ぶとして、どうしても最初に確認しておきたいことがあった。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
俺の手足の枷を外しながら、イリスフィアさんは応じる。
「何故、この世界の人々は異世界人を敵視するんですか? 言語が通じない別世界の人間だからといって、いきなり殺そうとするのはあんまりだと思います」
いくら文化や慣習が異なるとはいえ、出会って早々に命を奪おうとするのは普通ではない。
「ネムリア皇女のことだね。彼女のことをあまり悪く思わないでおくれ。わたしたちにとっては仕方のないことなんだよ。むしろそれはわたしたちから君たち異世界人に聞きたい質問なんだ」
「どういうことですか?」
イリスフィアさんは意味深に微笑む。
「有無を言わさず襲い掛かってくるのは異世界人の方なんだ。突然現れては殺戮の限りを尽くす。そこに交渉や命乞いの余地はなく、女子供関係なしに襲い掛かって来る理不尽な災厄。それがわたしたちにとっての異世界人なんだ」
俄かには信じられない。だがネムリア皇女やここへ来るまでの周囲の反応が何よりも物語っていた。彼ら彼女らが俺に向ける瞳には敵意以上に恐怖が含まれていた。
「だからわたしたちは異世界人を見つけ次第、殺さないといけない。そうでないと、殺されるのはわたしたちの方なんだ」
「物騒な話ですね」
殺すか、殺されるかの関係。
実際に殺されかけたからこそわかる。この世界の住人の異世界人に対する恐怖と敵意は本物だ。有無を言わさず大火力を浴びせる。普通であれば即死だ。裏を返せば、隙を見せれば殺されるという恐怖の表れでもあった。
「――『魔女の災禍』」
イリスフィアさんが徐に告げる。
「八年ほど前に異世界人によって引き起こされた前代未聞の惨劇のことさ」
不吉な名前がつけられた事件のあらましを彼女は語り始めた。
ネムリアの故国、クルシュキガル赫灼帝国で開催された各国要人が集まるパーティーで、突然護衛の一人が発狂し、周囲の人間を殺害。他の兵士がその護衛を殺害することで一時は収まったかに思えたが、今度はとどめを刺した兵士が発狂。
その後、発狂した者を止めては、止めた者が発狂するという終わりの見えない発狂と殺戮の連鎖を繰り返した。結果、その場にいた多くの人間が犠牲となった。その中にはイリスフィアの両親も含まれていた。
惨劇を止めたのは当時十代前半だった幼いイリスフィアだった。当時から卓越した能力を持っていた彼女は発狂した兵士を殺害。次はイリスフィアが発狂するかと思われたが、彼女は発狂することなく、惨劇は唐突に終わりを迎えた。
最初に発狂した護衛は腕の立つ兵士で、事件の一週間前に軍事施設に侵入した不審な女を討伐した記録が残っていた。そのことから、彼が殺害した女が異世界人であり、その女の能力によって事件が引き起こされたと結論づけられた。女の能力は幻覚作用のある感染性の毒ではないかと考えられている。
事件による最終的な死者は五十名を超え、その中には各国要人が多く含まれ、世界に大きな損害をもたらした。ここ数十年では最悪の異世界人による死傷者数となった。
その後、事件は畏怖を込めて『魔女の災禍』と名付けられ、異世界人への恐怖を更に強く植えつけた出来事となった。
「随分と恐ろしい話ですね。異世界人があなたたちを襲ってくる理由はわかっているんですか?」
俺には記憶がないので、この世界の住人に対して殺意以前に何も感慨はない。だから異世界人と呼ばれる同族がそのように野蛮な事件を引き起こす理由は検討もつかなかった。
イリスフィアさんは肩を竦める。
「さてね。何せ遭遇したら即殺し合いだ。理由は未だに定かではない。最も有力な説として囁かれているのは、彼ら彼女らは尖兵という説だね。異世界から侵略の足掛かりにするために、送り込まれているというものさ」
「しかし、状況を察するに、異世界人の侵略は上手くいってはいないようですね」
俺が牢屋へ護送される最中に見た街の様子は平穏そのもので、戦争とは無縁の生活を送っているように映った。
「それはわたしたち剣師団を中心として、異世界人が出現したら即討伐しているからね。そうして二千年もの長い間、侵略の芽が芽吹く前に阻止しているのさ。さ、立てるかい?」
二千年……。想像以上に壮大な規模の争いだ。それだけの期間を争っていれば、異世界人に対するネガティブな感情が根付いて当然だ。
枷を外し終えたイリスフィアさんは、監禁で足腰の弱った俺に肩を貸し、立ち上がらせる。足元の覚束ない俺に合わせるようにゆっくりと歩を進めながら牢を出た。
「何故、異世界人は二千年も侵略を阻止され続けているにも関わらず、軍勢を送らずに尖兵だけを送り続けているのでしょうか。各個撃破され続けるのは火を見るより明らかです」
異世界人側からすれば、どう考えても悪手でしかない。無駄に兵力を損耗させているだけだ。二千年間状況に進展がないのがその証左だ。
俺の食いつきにイリスフィアさんは苦笑する。
「話すのも辛いだろうに、君はなかなかに好奇心が旺盛だね。そうやって疑問に思ったこと突き詰めていくことは極めて大切なことだよ」
「俺にとってここは未知の世界です。今後の生死が関わっているのですから、必死にだってなります」
記憶を失った状態で、右も左もわからない環境に放り込まれた俺にとって、世界情勢に関する情報は命綱だ。何せ異世界人というだけで、いきなり殺されそうになる世界である。ちょっとした自分の言動や立ち居振るいが死に直結し兼ねない。
「ふふ、そうだね。異世界人の出現人数に関しては、推測の域を出ないのだけど、異世界側の技術的な制限と考えられている。大規模な軍勢を送り込めるほどの技術を有していない。だから少人数をちまちまと送り込んで来ているとね。或いは罪人の流刑地として利用しているのではないかという説もあるよ。君を除けば異世界人は例外なく凶悪だからね」
「兵士だろうと罪人だろうと、二千年間にも渡って危険因子を送り込まれ続けているにも関わらず、その推測は些か楽観的ですね。異世界側はそれだけの技術を持ち合わせている訳ですから、何か裏の意図があると警戒する方が良いかと。異世界人の俺が言うのもなんですが」
相手の目的だけでなく、異世界からの転送技術すら解明できていない状況で、軍勢を送り込めない『だろう』と考えるのは悠長であると思わざるを得ない。
「あっはは、手厳しいね。全く君の言う通りだよ。だけどね、人間は慣れる生き物だ。何百年、何千年も状況が変わらなければ、深く考えることを放棄し、『そういうもの』であると日常に組み込んでしまうものさ。それが外から見た時にどれほど異常な状態であってもね」
俺が投獄されていた場所はかなり奥だったらしく、出口はまだ先のようだ。通路の突き当りを曲がると、今度はイリスフィアさんが質問を投げ掛けてくる。
「次はわたしからの質問だ。君はどれくらい記憶がある? 日本語が話せるということは知識までは失われていないのかな?」
「どれくらいと言われると、難しいですね。過去の体験などの映像的な記憶は全くありません。一人称視点の記憶がないと言えば良いでしょうか。ただ日本語を話すことができるように、知識としての記憶はある。という表現になるかもしれません」
一人称視点の映像的な記憶は、俺がこの世界で目覚めて以降の映像しかない。
「なるほど、興味深いね。異世界――君の故郷に関する知識はどれくらいある?」
投獄されている間、俺も冷静になって頭を整理していた。自分が何を持ち合わせているのかを確認することは大事な作業だ。
「正直、結構曖昧です。一般教養的な知識は残っているようなのですが、時事や高度な情報は残っていないようです。言語と同じように幼少期に脳に刻まれた一般的な知識だけが残っている感覚です」
異世界と呼ばれる場所は地球で、出身国は日本で、世界の大国はアメリカ合衆国と中国で、小学校、中学校、高校、大学があって、1+1=2で、二つの世界大戦があって――等々、単純な基礎知識はあった。しかし、それらの知識も学んだ記憶がある訳ではなく、初期設定として脳に登録されているような実感のないものだった。
だが改めて知識を掘り起こしてみると、疑問が生じる。
先ほどイリスフィアさんは二千年間、異世界人が送り込まれてきては退けていると言っていた。しかし、俺の知識において地球の歴史は西暦で言えば二千年と少しだ。二千年前の地球人に異世界へ転送する技術があるとは考えづらい。
この世界と地球では時間の流れが異なるのか、転送される際に時間軸がズレるのか、それとも『神』に相当する超越的存在が紀元前後から地球人を送り込んでいるのか、仮説は山ほど浮かぶが、どれも確証に至る根拠は何もない。
「だから俺にも異世界人がこの世界に送られてくる理由はわかりません。お役に立てず、すみません」
「気にしないでおくれ。むしろ詳細な知識や記憶まで残っていたら、わたしたちは今頃殺し合っていたよ。今はこの奇妙な出会いに感謝しようじゃないか」
牢から歩くこと十数分、ようやく出口に繋がっている階段に差し掛かる。
「それにね、物事を理解し、追究しようとする君の姿勢、わたしはとても気に入ったよ。わたしの弟子に相応しいと確信した。これからビシバシ鍛えていくからそのつもりでね」
微笑む彼女に息がかかりそうなほど間近で見つめられ、その美貌に緊張する。
透き通るような白い肌に、心まで見透かされそうな紫水晶の瞳、淡く発光しているかと錯覚するほど輝きのある白銀の長髪。容姿全体が現実感のない美で構成されていた。
地下牢の階段を上がりきり、イリスフィアさんが看守に目で合図すると、固く閉ざされていた重厚な扉が金属音を響かせながら開いた。その瞬間、陽の光が差し込み、一陣の風が吹き抜ける。
扉の先は外に直結していて、日差しの眩しさに思わず目を細める。しかし鼻を通して体内に入る新鮮な外の空気に、俺は久しぶりに生を実感した。これまで気にしていなかったが、異世界から来た俺が違和感なく過ごせることから、この世界の環境は地球と酷似しているようだ。
「改めてようこそ、ティアナ白煌剣師団の本拠地マグナ・ティリスへ。歓迎するよ」
イリスフィアさんは空いている方の手を大仰に広げる。
「そうは見えませんけど」
外には数十名の剣師が俺に向けて抜き身の直刀を構えていた。皆一様に警戒心を露にした険しい表情をしている。
「こんな大人数で出迎えてくれるなんて、ありがたいことじゃないか」
剣師たちとは対照的にふざけた様子で余裕の表情を浮かべるイリスフィアさん。
「(誰か、わたしの執務室に彼を運ぶのを手伝ってくれないかい?)」
俺に肩を貸したままのイリスフィアさんは、現地の言葉で何かを告げる。恐らく手伝いを要請したんだろうが、皆距離を保ったまま動かない。
「(やれやれ、心の狭い連中でうんざりするねえ。これでもわたしは剣師長なのだけれど)」
わざとらしく大きな溜息を吐きながら、剣師たちに構わず歩を進める。
「(姉さん、僕が手伝うよ)」
剣師の集団の中から進み出てきたのは、イリスフィアさんと同じ白銀の髪を靡かせる青年だった。
「弟のユスフウォラ・マハだよ。長いからユスフと呼べばいいよ。あ、そうそう、わたしのこともイリスと略していいよ」
イリスさんの紹介に、俺はお辞儀をするが、彼はやや乱暴に俺を姉から引き剥がし、自分の肩と入れ替えた。
「(勘違いするなよ、異世界人。薄汚いお前なんかが姉さんに触れているのが我慢ならなかっただけだ)」
ユスフが何を言っているのか理解できなかったが、声音や表情から少なくとも好かれていないことは理解できた。今更ながらお辞儀はこの世界の文化で通用するのかわからなかった。その辺りのマナーも学んでいく必要がありそうだ。
「(助かるよ、ユスフ。後で彼の剣師団の制服も用意しておくれ。背格好は君と同じくらいだから、サイズは君と同じものでいいよ)」
「(わかったよ、姉さん)」
歯ぎしりをしながら頷くユスフ。よほど俺の存在が我慢ならないらしい。
こうして俺は剣師団の敵意ある視線に見送られながら、その場を後にした。