プロローグ
「――施術は君の人生を引き換えにするものだ。加えてまだまだ未知のリスクがある。君が君でなくなる可能性もね。君は既に同意書にサインをしているけれど、今ならまだ引き返せるよ」
研究室の一室、机を挟んで対面に座る白衣を着た妙齢の女性は穏やかに、しかし真剣な目で問いかけて来る。
「構いません。俺に失うものは何もない。あるのはただ奴らへの復讐心だけです」
家族も、友人も、恋人も、全てを失った。帰るべき場所はもうない。誰かにとっての帰らぬ人になる心配もない。
「この施術に志願する者は皆、半ば自暴自棄にそう言う。実際、わたしたちはそういった者たちを対象に募集をかけている。だけどね、わたしの信条は『生きていればなんとかなる』なんだ。例え全てを失い、帰る場所がないのだとしても、生きていればきっと良いことはある。自分の拠り所を見つけられると考えているんだ。それでも君は施術を受けるのかい?」
艶やかに波打つブロンドの長髪。全てを見通すような灰色の瞳を持つ彼女から語られる言葉は慈愛に満ちていて、本気で思い留めようとしていることが伝わって来る。
「意外ですね、ベアトリーチェ・アルバ博士。アインシュタインの再来とまで謳われたあなたが、人の道を説くなんて。天才とは得てしてサイコパスしかいないと思っていました」
途端、目の前の彼女は噴き出した。
「あっはは、それは酷い偏見だね。それに称賛するならアインシュタインではなく、同郷のレオナルド・ダ・ヴィンチにして欲しかったのが本音だ。わたしは万能の天才だからね」
さも当然のように笑う彼女だが、その自信を裏付ける根拠は彼女の経歴が十二分に物語っていた。現に彼女はイタリア人だが、俺とは流暢な日本語で会話していた。
数多くの分野における天才科学者でありながら、複数の言語も操る彼女はまさしく万能の天才と呼ぶに相応しい。
サヴァン症候群の人間ですら到達し得ない領域に至っている彼女が、極めて理性的に常識を語ることが逆に彼女の異質さを表しているように思えた。
「お気遣い感謝します。まさかここでそんな優しい言葉をかけられるとは思ってもいませんでした。ですが、安心してください。さっきは格好つけて威勢の良いことを言いましたが、俺は何も自暴自棄になっている訳ではありません。気恥ずかしくて言えませんでしたが、あなたのような優しい人たちがいるこの世界を守りたい。そう思って志願したのです。よく考えて下した決断です」
「ふふ、男の子だものね。美人の前では格好つけたいのはよくわかるよ。それに今の君はとっても格好いい。素敵だよ」
いちいち人間味のある気障な台詞を口にする彼女だが、魔性とも称される美貌を持つ彼女から言われると頬が熱くなってしまう。
ベアトリーチェ博士は頬を緩める。
「君の決意は理解したよ。ならば予定通り、施術を始めよう」
博士に勧められるまま、俺は部屋の中央に鎮座する棺桶のようなカプセルの中に仰向けになる。呼吸器を口に嵌め、博士がカプセルのスイッチを押すと透明な窓に覆われる。
「施術が完了する期間は個人差がある。数週間、数か月で済む場合もあるし、何年もかかることもね。これまで君は散々な目に遭ってきたんだ。せめて施術が終わるまでの間、良い夢を見られることを願っているよ。希望とロマンに溢れた異世界転生の夢なんて見られるといいね」
日本の漫画・アニメ文化まで精通しているとは、つくづく人間味のある天才科学者で恐れ入る。
「――おやすみ、秋月解世。君と人類の未来に幸あらんことを」
ベアトリーチェ博士の優しげな眼差しに見守られながら、俺の意識は深い暗闇へと沈んでいった。
◆◆◆
「痛い、痛い、イタイ、いたい、いたぃいいいい――」
肘が切り落とされる、肩が切り落とされる。
膝が切り落とされる、股下が切り落とされる。
機械的に効率的に業務的に、俺は台の上で切り刻まれる。
あまりの激痛に意識がブラックアウトする。それは束の間の安息。
しかしすぐに意識は覚醒してしまう。それと同時に手足の感覚が蘇る。
恐る恐る視線を下に向けると、そこには先ほど全て切り落とされたはずの身体が何事もなかったかのように、傷一つない生まれたままの姿で横たわっていた。
それは絶望でしかなかった。再開される行為を想像し、枯れたはずの涙が再び溢れ出す。
傍に佇む彼女の手には鈍く光る直刀が握られている。その刀身は俺の血に塗れていた。
「ごめんね、秋月解世。これも人類のためなんだ」
幾度となく聞かされた謝罪の言葉。その言葉は何の気休めにもならない。
彼女は目元に涙を湛えながら再び刀を振り上げ、振り下ろす。
「ぎぃぃゃやああああああああ」
肘が切り落とされる、肩が切り落とされる。
膝が切り落とされる、股下が切り落とされる――。
「痛い、痛い、イタイ、いたい、いたぃいいいい――」
人並みの感情があるにも関わらず凶器を振るう彼女の姿は、逆にこの地獄に終わりはないことを告げていた。
ただのサイコパスであれば、気まぐれで終わらせてくれることもあっただろう。
しかし、常人の心を持っている彼女がここまで非情なことをするのは、決意の固さの表れでもあった。
俺はそんな彼女に対し、怒りを通り越して憐みを覚えていた。
自身の感情を押し殺して、人類のために責務を全うする。
万能の天才であるが故に、途方もない目標が実現可能なものであると感じているのだろう。
彼女はきっと人類の救世主になり得る逸材だ。
ベアトリーチェ・アルバ。
あなたはとても可哀想な人だ。
「ぎぃぃゃやああああああああ」
肘が切り落とされる、肩が切り落とされる。
膝が切り落とされる、股下が切り落とされる――。
「痛い、痛い、イタイ、いたい、いたぃいいいい――」
繰り返される終わりのない絶望の中、俺は自分の境遇を呪い、ベアトリーチェ・アルバを憐れんだ。
◆◆◆