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クライミングローズ #魔女集会で会いましょう

作者: 鴎野水平線

あの頃、妹は一日中でも平気で泣いていた。

ベビーベッドから発信される、母親を求める気も狂わんばかりの救難信号は広い屋敷中にくまなく行き渡ったが、正しく受信されることはなかった。母は、妹を生んだその日に死んでしまったのだ。

祖父が遺した財産で働かずにすんでいる父は、元来、一日の大半を書斎で過ごすようなたちで、母の死後は更に拍車がかかり、若いメイドに幼い僕と赤ん坊の世話を一任して本の世界に逃げてしまった。

慣れない育児に早々に音をあげたメイドは職を辞し、困りはてていた僕らのもとにやってきた救世主こそが、彼女だった。

春の陽を背に戸口に立った彼女の輝きを僕は決して忘れられないだろう。

波打つ黒髪。灰色の瞳。

豊かな胸と白く細い手首の対比が美しく、かすかな微笑みを浮かべたばら色の唇にその指先を滑らせる仕草は、神話の世界の乙女のようだった。

「赤ちゃんのお世話をいたしますわ」

母の遠い遠い親戚だという彼女は、自分のことはつる薔薇とお呼びください、と言った。


つる薔薇が来てからしばらくは、屋敷は母がいた頃の穏やかな時間を取り戻していた。

妹はつる薔薇に抱かれると救難信号の発信をぴたりと止めたし、父は、書斎から出て僕らと一緒に過ごす時間が増えた。

僕はといえば、銀の針で器用に繕い物をするつる薔薇にまとわりついて、その花のような匂いを飽きることなく味わっていた。

「つる薔薇の髪はきれいな黒だねえ。母さまは金髪だったから、親戚だけど、似ていないんだね」

僕がそう言ってつる薔薇の髪を撫でると、

「それはそうですわ、坊っちゃま。だって本当に遠い遠い親戚なんですもの」

つる薔薇は笑って僕の頭に優しく手を置いた。

つる薔薇に触られると、僕は背中がむずむずして、じっとしていられなくなった。

妙に浮き足立って、やたらと大きな足音を立てて歩き回ったり、カーテンにぶら下がってみたり、四つん這いになって犬や虎の真似をしたり。そういう、父に叱られるような馬鹿な振る舞いばかりしてしまうのだった。

ただし、父に厳しく叱りつけられると必ずつる薔薇が庇ってくれるので、そう悪いことばかりでもないのだった。

後から考えると、あの時期は嵐の前の浮かれ騒ぎのような毎日だった。

平和な春が過ぎ、爽やかな夏のはじまりが朝方や宵口の空気に混じりだす頃、二人一緒につる薔薇に夢中になっていた父と僕は、やはり二人一緒に、彼女に対する違和感を覚え始めた。

口に出して確かめ合うことはなかったものの、ふいに合わさる互いの視線の中で、言いようのない気味悪さを彼女に感じているのがわかった。

夕食の途中や、暖炉のまわりで他愛ないお喋りに興じているとき。どんな時だろうとおかまいなしに、もちろん赤ん坊の当然の権利として妹は唐突に泣き叫ぶ。そうするとつる薔薇は、いかなる場合も嫌な顔ひとつせずいそいそと子ども部屋へ向かい、泣くのをやめさせる。

泣きやますことが、絶対に、できるのだ。

初めは、有能なのだと思っていた。子どもがいない若い娘なのに、赤ん坊の扱いが上手いのは素晴らしいと父もご満悦だった。つる薔薇が、妹をあやして泣きやませているのではないと気がつくまでは。


「あの女は魔女だ」

低い声で父は言った。

黄昏時、めったに入れてもらえない書斎で、大きな机に広げられた父の難解な書物が、カーテンからもれる濃い夕焼けに染まるのを僕は呆然と見ていた。

「調べたのだ。お前の母親の縁戚にあんな年齢の女はいない」

つる薔薇は、買い物からまだ戻っていなかった。屋敷には、いま、父と僕と妹だけで、それでも父はできる限り声をひそめて、僕に語りかけた。

「ある種の魔女は、赤ん坊を黙らせる魔法に長けているという。黙らせて、食らうためだ。赤ん坊の泣き声がなかなかやまない家を見つけると、使用人として入り込んでくるのだ。もっと早く気づくべきだった」

父は、壁にかけてある立派な銀細工の十字架を外して、震える僕に渡した。

「今夜はこれを部屋に隠しておきなさい。何があっても、部屋から出てきてはいけない。わかったな」





雪解けにきらめく小川の水面が、春の訪れにはしゃぐ子どもたちの歓声を反射して、ことさらに輝いているように僕の目に映る。

清らかではあるが刺すように冷たい水に足を浸して思わず目を瞑ると、水面のきらめきが、まぶたの裏で弾けた。

「つる薔薇もどう? 気持ちいいよ」

木陰に座って微笑んでいるつる薔薇に声をかけると、静かに首を振ったので、僕は素足で柔らかな土を踏み彼女の所へ戻った。

「もう。子どもじゃないんですから、坊っちゃま」

呆れたようにハンカチを取り出して僕の足を拭こうとするつる薔薇に、

「子どもじゃないから、自分でできるよ」

と、僕も言ってやる。

足も手もすっかりつる薔薇より大きくなって、今ではつる薔薇の可愛いつむじだって見下ろせる。でも、つる薔薇の方はなにも変わっていない。艶めく黒髪も、神秘的な灰色の瞳も、ほっそりした白い手も、なにもかも。

「もうすぐ来るよ」

冷たい水をかけあって大笑いしている、十歳くらいの男の子たちを眺めながら僕は言った。

「どの子? 」

つる薔薇も彼らに目を向けたまま尋ねる。

「明るい茶色の髪の……今、両手を水に入れてる、あの子」

「ああ、あの真ん中の」

子どもらの溌剌とした姿をまぶしそうに見守る僕たちは、周囲から見れば完璧に、木漏れ日の下で肩寄せ合うひと組の恋人同士。あるいは若夫婦だ。

川べりの木陰でこうして休んでいるほんとうの目的を見破れる人間など、いるわけがない。

手足が真っ赤になっても水から上がらず駆け回る男の子たちを、いかにも懐かしそうな目で追っているふうを装っているけれど、春の光に祝福されている彼らが、自分の子ども時代と重なることは決してなかった。

「さあ、さあ、坊や! それ以上は風邪をひくわ。上がってらっしゃい! 」

春風のような勢いのある女の声が朗らかに響き渡った。

───来た。

僕は隣のつる薔薇に目で合図する。

つる薔薇は、あくまでも穏やかな視線を男の子たちへ投げかけている。

彼女は小さく、本当にごく僅かに頷いてみせ、それを見た僕は自然な速さで立ち上がり、あとはゆっくりと、橋の方から川を見下ろしている女のもとへと近づいた。

「奥さま、ごきげんよう。坊ちゃんのお迎えですか?」

「あら。ごきげんよう。何日か前にもお会いしましたわね?」

「覚えていてくださいましたか。春の小川の輝きは、どれだけ見ても飽きることがありませんね」

「まったくそのとおりですわね。うちの坊やも、何回注意してもあのとおりですもの」

ひっつめ髪の朗らかな女は、おどけたように肩をちょっと竦めて、川の方を顎でしゃくった。

明るい茶色の髪をした男の子が、川の中からこちらへ大きく手を振って、笑っている。

「おかあさーん」

「もうおうちに帰るわよ! ──ほんと、困ったお兄ちゃんだわねえ」

女はそう言って体をゆする。

僕は、女が胸のあたりに大事そうに抱えているものを横目で見る。

───女の腕の中で、丸々とした赤ん坊がむずがるような声をあげた。






銀の十字架は、子どもの力にしては驚くほど深いところまで突き刺さり、父は音もなくその場に頽れた。

壁際に追い詰められていたつる薔薇が、信じられないものを見るように僕を凝視している。子ども部屋のカーテンは開いていて、月の光がベビーベッドをすっぽり包み込んでいた。妹は、異様な雰囲気を察してか、ふにゃふにゃと弱い声で泣いている。

書斎で十字架を受け取ってからずっと続いていた僕の手の震えは、それを父の喉に突き立ててからぴたりと落ち着いた。まるで初めからこうする為にこの十字架は存在したのだというように、喉から生えた十字架は妙に神々しかった。

「ああ……坊っちゃま」

物体となった父を押しのけてつる薔薇は跪き、僕を抱きしめた。

僕は言った。

「つる薔薇、僕を抱いて逃げて」

「坊っちゃま、私なんかのために、なんてこと。……私は、魔女なんです。魔女なんですよ」

「知ってる」

つる薔薇のあまい香りを胸いっぱいに吸い込む。僕が欲しかったもの。僕の方が、父より、そして妹より、母を求めて気も狂いそうな救難信号を発し続けていたことを、つる薔薇だけが、気づいてくれた。

つる薔薇が人間じゃないかもしれないと疑いはじめたとき、同時に僕は自分の真の気持ちをはっきり理解したのだ。

愛している。

今や母すらも超えて彼女を愛していると。

「僕はつる薔薇と行く。つれてって。どこへでも。どこまでも」

「坊っちゃま、私なんかを選んでくだすってありがとうございます。坊っちゃまと一緒なら、どこまででも行けますわ」

胸がいっぱいだというようにつる薔薇は両手を組んだ。灰色の目には涙が滲んでいる。

僕たちは、十字架が刺さった父の遺体を振り返った。幸い、月の明るい夜だ。発つなら今夜。それも今すぐだ。

「行こう、つる薔薇」

「ええ。参りましょう。心配いりません。魔女はそのへんの男よりよほど体力がありますし、馬に魔法をかけて疲れないようにすることもできますから、逃げるのはたやすいことです。ただ……」

視界の隅で、何かが、さわさわと動く気配がした。

つる薔薇の唇だけを見ていた僕は、少し視線をずらして彼女の後ろの方に注意を向ける。

暗い床の上を、確かに何かが這っていく。

じっと目を凝らすと、月光に包まれたベビーベッドの脚もとにそれは姿を現し、螺旋状に絡みついたかと思うと上へ向かってスルスル伸び上がっていった。

闇の糸のようなそれは、つる薔薇の髪の先だった。

「坊っちゃま、魔法は、お腹が空いていては、できません」

僕は、ベッド全体に絡んでゆく、月光に映える美しい黒髪をただ、見つめた。

「今夜が、ちょうど食べごろなんです────いただいてもよろしいですか?」

妹は相変わらず情けない泣き声をあげていたが、つる薔薇が歩み寄り軽く手をかざすといつもと同じにおとなしくなった。

それが、僕が耳にした妹の最後の泣き声となった。




ふっくらした頬。汚れのない瞳。

ばたばた動く短い手足。

小さな爪。

他人の赤ん坊を抱くたび、僕は、あの夜つる薔薇に捧げた妹を抱いている錯覚に陥る。

いや、つる薔薇のために僕が用意する赤ん坊はみんな、僕の妹なのだ。

世界中の罪なき哀れな妹たち。

永遠の春を謳歌する至上の薔薇が、いま、川辺の木陰で、僕が次の妹を連れてくるのを待っている。




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