ゆずり葉物語 2 かげろう
「ねえねえ、聞いてよ。このクラスに転校生が入るんですって」
2学期の始業式を前にした清涼学園中等部1年E組の教室に駆け込んでくるなり、鈴木美恵が、同じバレーボール部の北原真理子に声を掛けた。
「へえ、2学期になってからの転校生なんて珍しいわね。もしかして帰国子女?それとも父親の転勤?」
美恵の期待した通りの反応をみせて、北原真理子が話に飛びついてきた。
「残念でした。帰国子女でも、父親の転勤で転校してきた訳でもありません」
「帰国子女でも、転勤でもなかったら、どんな事情がある訳。もったいぶっていないで早く教えてよ」
久松幸枝が、口を挟んだ。
「その転校生の事なら、私も知っているわよ」
と、坂口優子も、話に加わってきた。
「すぐそこの滝ノ上中学から転校してくるんでしょ?私の幼馴染がその子と同じクラスにいてね。『どうして今頃、清涼の編入試験を受けるのかしら。清涼に入るなら最初から中学受験すればよかったのに』って、不思議がっていたわ」
久松幸枝も坂口優子も、同じバレーボール部に所蔵している。
気の置けない仲間とあって、話しはそのまま盛り上がって行くかにみえたが、四人の会話は、そこで途切れた。
「皆さん、静かにしてください」
と、言いながら、クラス担任の堀口悦子が教室に入ってきてからである。
堀口悦子は、幸枝たちが、そけぞれの席に着くのを確認してから、
「さあ、こちらへいらっしゃい」
と、廊下に立っていた少女を手招きした.。
堀口悦子に促され、転校生と思しき少女は、おずおずと教室に入ってきた。
少女が傍らに辿り着いたのを待ってから、堀口悦子は、黒板に、『岩崎綾乃』と、少女の名前を書いた。
「今日からクラスメートになる岩崎綾乃さんです。仲良くして下さね。岩崎さん、あなたからも皆さんにご挨拶して」
岩際綾乃は、困ったように小首を傾げ、小さくため息をついてから、
「岩崎綾乃です。よろしくお願いします」
と、言って頭を下げた,
「それだけ?」
と、堀口悦子が尋ねたが、その転校生は、よほど無口なのか、それとも、度を越した恥ずかしがり屋なのか、そのまま俯いたきり、なにも言わない。
堀口悦子は、やれやれというように小さくため息をついたが、
「まあ、いいわね。始業式まで時間もないし、岩崎さん。あなたの席は北原さんの隣、一番後ろの窓際の席よ」
と、努めて明るい声で言った。
「さあ、みなさん。体育館に向かいましょう。背の順に二列に並んで下さい。北原さん、岩崎さんは、あなたと背丈も同じくらいだし、席も隣だから、何かと面倒を見てあげてね」
その日の午後の事である。
「妙さん、後は宜しくね」
岩崎高子は、タクシーに乗る前に家政婦の杉本妙に念を押した。
「はい。承知しております。先生がお見えになる前に予習をするようにお伝えすれば宜しいのでしょう」
笑いたいのを堪え、神妙な面持ちで杉本妙は請け負った。
「ええ、きつく言って下さいね。あの子ったら、隙があれば勉強もせずにペペの散歩に行こうとするんですもの。きついくらい言ってちょうどいいくらいだわ。妙さん。くれぐれも宜しくね」
高子は、よほど孫娘の事が気がかりなのか、もう一度念を押してからタクシーに乗り込んだ。
妙の口元に笑みが浮かんだのは、高子を乗せたタクシーが角を曲がって見えなくなってからだった。
『そんなに綾乃さんの事が心配なら、今日くらい家にいてあげればいいのに。だって、.たった一人の孫が、新しい学校に転校した初日なんですからね。どんなに大切な会合なのかは知りませんが、少しくらい遅れたって誰も文句は言わないと思いますけどね』
等と、つい思ってしまうのだ。
杉本妙と高子との出会いは、戦後間もなく、妙が開業医の元で看護婦として働いていた頃であったから、かれこれ40年にはなるだろうか。
その医師が高子の長男の守の掛かりつけ医ということもあって、往診した際に同行して岩崎家を訪れたのが、高子との出会いであった。
運悪く、守は流行り病に倒れ息を引き取ってしまったが、その後に生まれた長女の沙也加が病弱だった事もあって、高子と妙との縁は途絶える事はなかった。
妙の夫がマラリアで亡くなり、乳飲み子の浩一を抱えて、これからどうしたら良いかと困っていた時、「看護婦を兼ねて家政婦として住み込みで働いてくれないか」と、高子が申し出てくれたのだ。
願ってもない話であった。
横浜の空襲で父母と妹を亡くしていた妙には、他に頼る身内はいなかった。
住み込みであれば浩一を手元に置いて働ける。
おそらく、高子は、そんな妙の窮状を見かねて家政婦として働かないかと申し出てくれたのだろう。
妙は、有難く、高子の申し出を受け入れた。
今では、浩一も独立し、東京の郊外に一家を構えている。妙も、60になったのを区切りとして、中古ではあるが岩崎家の近くにマンションを買い求め、そこから岩崎家に通っている。
浩一は「一緒に住まないか」と、言ってくれてはいるが、当分の間は今の生活を変えるつもりはない。
何より、妙も綾乃の事が気がかりだったのだ。
妙にとっても綾乃は、孫も同じである。いや、孫以上かもしれない。沙也加が綾乃を身ごも前から何かと相談を受け傍らに付き添っていたのだから。たまにしか顔を合わせない実の孫より妙には綾乃の方が、より身近に感じられた。
母親の沙也加と、父親の貴之とを相次いで失い、深く傷付いたたまま立ち直れないでいる綾乃をおいて、どうして、この家から離れられるだろうか。離れる訳にはいかないではないか。
同じころ、タクシーの後部座席に座った高子は、その日の会合の資料を膝の上に置いたまま物思いに沈んでいた。
高子だって綾乃はかわいい。
たった一人の娘、沙也加の忘れ形見なのだ。
無事に生まれたと、母子ともに無事であったと、助産婦として立ち会っていた勢津子から井上勢津子から聞いた時には、勢津子と手を取り合い、夫の薫と抱き合って喜んだものだ。
勢津子は、高子が生まれた時にも、助産婦をしていた勢津子の母と一緒に立ち会ってくれた。勢津子も助産婦の資格をとってからは沙也加の事も取り上げてくれている。勢津子は、高子、沙也加、綾乃と三代に渡って出産に立ち会ってくれたことになる。
幼い頃の綾乃は、それは朗らかで、闊達な子供だった。
ちょっとばかり、無鉄砲なところがあって、時おりまわりをハラハラさせる事もあったが、「君に似たんじゃないのかい」等と薫にからかわれると、少しばかり腹は立ったが悪い気がしなった。
ただでさえ難しい年ごろである。
母親と父親を相ついて亡くしたのだ。
綾乃が、どれほど深く傷つき、悲しんでいるかくらい、いくら察しの悪いた高子にだって容易に想像は出来る。
なのに綾乃は、何も話してはくれない。
時おり苦し気に唇を噛みしめ、俯いているばかりで、まともに目を合わせようともしない。綾乃が何を感じ、何に苦しんでいるのか、高子にはさっぱりわからなかった。
いっそ、沙也加を亡くした時のように泣きじゃくってくれたなら、と、高子は思う。そうすれば、胸元に抱き寄せて慰める事も出来たのだから。
今の綾乃を見ていると、高子は居たたまれない気持ちになる。
かげろうのように儚げで、見ていると、こちらまでくるしくなる。綾乃まで消えてしまうのではないかと不安になってしまうのだ。
思いあぐねて、高子は女学校からの親友の峰岸政子に相談した。
政子は清涼学園の教頭をしている。
「思い切って、うちの学園に転校してみてはいかがかしら」
と、政子は助言してくれた。
「この際、環境を変えてみるのも一つの手かもしれませんよ」
と。
その申し出に高子はすがる思いで飛びついた。
本来なら高子は、貴之と綾乃が奥沢から横浜に越してくると決まった段階で綾乃を清涼に入学させたかったのだ。
しかし、貴之は、『滝ノ上中学があるじゃないですか。滝ノ上中学はバレーボール界では公立の星と呼ばれているんですよ。あそこなら綾乃も、のびのびとバレーボールができるはずですよ』の一点張りで、高子の話に、耳を傾けようともしなかった。
おまけに夫の薫までが『貴之君が、それで良いのなら』と、貴之に加勢する始末であった。
今度ばかりは薫も反対はしなかった。
しかし、高子は知らなかった。
清涼学園の理事長が変わった事も、その新理事長が文武両道を目標に掲げ、バレーボールの顧問として男子部には山岡を、女子部には堀口悦子という若い教師を招き入れた事も。
政子は、敢えて、その事を高子にじは告げなかった。
政子には、別の思惑があったからである。
政子には子供はいなかったが、教師としての実績と子供を見る目とがある。
綾乃が、本当はバレー部に戻りたがっているのではないか。バレーをやめた事を後悔しているのではないか。と政子は思ったのである。
政子は堀口悦子とは初対面であったが、山岡とは面識があった。沙也加と貴之の葬儀の際、言葉か言葉を交わしている。
もしかしたら、山岡との再会と堀口悦子との新しい出会いが、固く閉ざしてしまった綾乃の心を開く糸口になってくれるのではないかという期待にも似た予感が、政子にはあった。
だが、懸命にも政子は、その事を口にはしなかった。
口にしたところで高子の反感を買うだけだという事を、女学校からの長い付き合いで政子は知っていたからだ。
そんな事とはつゆ知らず、高子はタクシーの中でほくそ笑んでいた。
今日くらいは綾乃の帰りを待っていた法が良かったかしら。でも、家に帰ってから政子さんに電話してみても遅くはないわ。それに、何かあれば、政子さんの法から連絡してくれるはずだわ。
自分の都合の良いように解釈するのが高子の悪いところでもあり、憎めないところでもあった。
膝の上に広げた資料の上に視線を戻した時には、高子の眼裏から、かげろうのように儚げな綾乃の面影は消えていた。
「あまり遅くならないで下さいね」
ペペの散歩に行こうとする綾乃に妙が声を掛けた。
「はい」
綾乃は素直に頷いたが、そんなに早くは帰って来まい。
大人しそうには見えるが、自分の意思を曲げないところは高子によく似ている。
それでも家の中に閉じこもっているよりは、むしろ外の空気を吸っていたち方がよい。
妙は、そう自分に言い聞かせながら、ペペのリードを引いて歩いてゆく綾乃の背中を見送った。
地蔵坂を下り、綾乃とペペが向かったのは大通り公園の水の広場であった。
公園とはいっても、山下公園とは違って人の数は少ない。地元の人が通り抜けの道として使っている事が多く、その行き交う人も、あまりほかの人に目を向ける事は少ない。
綾乃は、いかにも観光地といった風情の山下公園より、落ち着いた雰囲気の大通り公園の方がすきだった。
ベンチ代わりの石の置物に座って流れ落ちる水の流れいると、心の中に固まった悲しみや苦しさが、少しずつ洗い流してくれるように綾乃には感じられた。
ぺぺはその膝元に大人しく座って、綾乃の気が済むまで待ってくれた。
ペペは綾乃の飼い犬ではなかった。
勢津子の孫の井上卓也が飼っていた犬である。
綾乃と貴之が引っ越す時、
『この頃では僕も忙しくてペペの世話は出来ないし、おばあちゃんも腰を痛めてぺぺの面倒をみるのは大変そうだから、綾乃がぺぺをみてくれないかな』
と、頼まれて卓也からペペを譲り受けたのだ。
綾乃の後から車を降りたペペを見て、高子は目を白黒させた。
『どうして、この犬がここにいるの?』
『お兄ちゃんから預かったの。僕の代わりにペペの面倒を見てくれって』
『面倒を見るって誰が?あなたはバレー部に入るのでしょう。この犬の面倒をみている時間なんてないではありませんか』
その場に居合わせた岩崎薫と貴之は、困ったように顔を見合わせた。
高子の了解を得るのが至難の業である事を二人とも知っていたからである。
助け舟を出してくれたのは、杉本妙だった。
『ペペの散歩でしたら私がいたしますわ。この頃太り気味ですし、医者からも歩くようにと言われておりますので』
ぺぺも、その場の空気を察したのか、最初は座り込んで居心地悪そうに上目遣いで代わる代わる高子や薫をを見ていたが、意を決したように立ち上がると、高子の元に歩み寄った。
『な、何なの。この犬』
高子は怯えたように後ずさりしたが、そのくらいの事でひるむペペではなかった。
『そんな事、おっしゃらないで下さいよ。僕は、こんなに穏やかで毛並みだっていいんですよ。遠慮せずに撫でてみて下さいな』
と、でも言わんばかりに、高子に擦り寄って行く。
つぶらな瞳で見上げられると、高子も悪い気はしない。
『仕方ありませんね。その代わり、私は一切手を出しませんからね』
高子にしては、精一杯の譲歩であった。
そんな訳で、ペペは岩崎家の犬になったのである。
ペペが傍に居てくれなかったら、あの辛い時期をどうやって乗り越えられただろうと綾乃は思う。
今だって、ふとした瞬間に涙が込み上げてくる事がある。それでも、こうしてペペの柔らかな毛並みを撫でていると、心が落ち着いてくる。
一人ではないと思えてくる。
祖父の薫や、祖母の高子ばかりではなく、妙や、ぺぺの元の飼い主の卓也や、卓也の祖母の勢津子たちに見守られているのだと感じる事ができる。
早く立ち直らなければと、綾乃は思う。このまま悲しんでいてはいけないのだという事は、綾乃だってわかっているのだ。
だけど、どうすればよいのか、いまの綾乃はわからなかった。
自分の思いの中に沈んでいる綾乃とペペの傍らを、一匹のかげろうが、ゆらゆらと頼りなげに飛んで行った。




