Table turning 2
誰かが言う、山が怒っていると。
誰かが言う、人の身ではどうにもならないと。
誰かが言う、かわいそうな子だと。
『海に浮かぶ月って、とても綺麗なんだって』
「……っ!!」
少女は目を覚ました。また違う場所だ。見慣れた自分の家でも、学校でもない。
視線だけを動かして気づいたが、今の自分の体は全身包帯だらけである。
血が滲み黒く変色している場所もかすかに見えるけれど、少女には一切の痛みが感じられず、動かすのもままならず、また夢だと悟った。
思えば、これまで生きてきて悪夢以外の幸せな夢をあまり見たことがない。
人間関係、高校受験、世間の冷ややかな目、家族の喧騒。有名なドラマなどで見るあらゆる精神的負担も、高校二年生で気楽な生活を送れていた少女には無縁だった。
(ならなぜ、変な夢ばかりを見ているのだろう)
ピ、ピ、と聞こえてくるのは一定のリズムを刻む無感情な動作音で、することもなく彼女は再びまぶたを下ろす。
黒い手を振って、薄暗い夢がこちらを呼んでいる。落ちたくない意識はやがて薄れていった。
(次から次に何なの……?)
眠りへ落ちてすぐに、少女は見慣れた扉の前にいた。
古びた木と鉄で作られた、例の扉の前だ。
「こんにちはー…」
今度は臆せず扉を開け中に入ると、高峰が何やら床に這いつくばって商品棚の下に手を差し入れていたところだった。
「ああ、すみません。いまお茶の用意をしますの、で!」
棚下から抜き出された高峰の手に握られていたのは、小さな鍵だった。
まるで子どもが使う、おもちゃに付いてくるような曲げれば折れそうな鍵。
「それも売り物ですか?」
「以前は、そうです。わけあって、こうして手元に戻ってきてしまいましたけどね」
やや寂しそうな表情を浮かべてから高峰は少女をテーブル席へと案内してくれた。
準備されたのは飲み物だけでなく、前回と同じ契約書と思われる一枚の紙とペンだ。
「無理強いはしません。ですが」
「この店に来れるのは願いがある者だけ、ですよね」
「そうです」
「それって、願いを消したいと思っているからここに来ているんでしょうか」
「……はい」
高峰はただ静かに、少女の言葉へ優しい声色で相槌を打つ。
「私の願い、消したいほどの願い。全くわからないんです」
「……。」
「最近、ちょっとうなされて目が覚めるので、夢見が悪いっていうのは悩んでますけど」
「なるほど」
「でもそれくらいしか無くて、どうしてこのお店に来れているのか本当に不思議なんです」
話していれば消したい願いが分かると思い、少女は高峰にひたすら話しかけた。
これまでの人生や、最近の出来事、得意なことや苦手なこと。けれどいくら話しても少女の“願い”とやらは分からず、時間は来てしまった。
「今日はそろそろのようですね」
「あ……、すみません。時間ばかり使ってしまって」
「いいえ。ゆっくりと見つけましょう、お客様の願いを」
今度はしっかりと「お邪魔しました」と挨拶を交わしてから、少女は眠りの中へと微睡んでいった。
緞帳がおりるように視界は黒く消失し、次に目を覚ます時には違う景色が見えるはずだ。少女は鈍っていく意識をひたすら待ち続けた。
「あれ?」
どれほど待ってもその時は訪れず、少女は瞼を持ち上げる。店は消えているし、細い石畳も道を照らす明かりもひとつ残らず消えている。
なのに意識は手放さず、少女は暗闇の中へと放り出されたのだ。
「なに、なにこれ……きゃっ!?」
足場も消えたのか少女は上も下も分からない状態で、体が浮いた。足のある方向に感じる重力と空気の流れ、自分が落下していると気づくのにそう時間はかからなかった。
いつ来るとも分からない地面に恐怖しながら、身を丸くして衝撃に備える。
「熱ッ!?」
いま何かが腕に撫で触れた。急いで振りほどいて触られた部分を確かめるが、感触だけなら特に異常は感じられない。
(こわい、こわい、こわい!)
時間にしてどれくらい経ったのか、黒い空間での落下は止まらない。なのに時折忘れた頃に触れてくる、熱い布の感触をした物体がとても怖かった。
何も見えない聞こえない、そんなことがこんなに怖いと思ったのは。
(はじめて、じゃない……?)
と、落ちていく感覚が不意に鈍る。
背後に淡い光を感じて振り向けば、そこにいたのは弱々しい光を灯すクラゲだった。
『……』
「あ、あなたは高峰さんのところにいた……!」
そこで少女の意識はようやく途切れた。